第6話:優里と屋敷の日常1
「流石優里お嬢様、素晴らしい吸収の早さです」
優里への教育は多岐に渡る。詩織からは主に礼儀作法や身支度などの心得を、奏人からは語学、数学、歴史についてをきっちりと教わった。幼い頃既に文字の読み方を少しだけでも学んでいたためか、一度教わりだすとすぐに吸収することができたのは確かだ。
勿論ずっと缶詰状態で勉強ばかりするわけにはいかない。一人で歩けるほどには体力も回復したため、奏人に屋敷や庭を案内してもらうこともあった。
屋敷は三階建で、両親と彼らに着いている数人の使用人がいなくなった今、使われていない部屋も多い。優里の部屋の隣は両親の寝室らしい。3階の端にあるのは奏人の部屋で、一つ下の階に詩織、絢音、千尋、愛子の部屋が並んでいる。
奏人の部屋が同じ階にあるのは何か会った際にすぐに駆け付けられるように、とのこと。各部屋には内線電話が置かれ、すぐに相手を呼び出せるようになっていた。
それ以外にも奏人や詩織は手で持ち運べる携帯電話というものを持っているが、優里には一体どういう仕組みで電話ができるのか一切分からない。
一階は広々としたエントランスや客室、それに食事をとるためのダイニング、キッチンや倉庫などがある。キッチンの隣には地下へと続く階段があって、その先にはなんと大量の本がぎっしりと詰まった書庫があるのだ。
優里は、文字がだいぶ読めるようになってからは、書庫の本を一冊拝借して部屋で楽しむようになった。歴史書や学術書だけではなく物語の類もあるため読んでいて楽しい。
基本的には奏人が側についているが、昨日こっそり書庫に足を運んで籠もっていたら注意されてしまった。今後は行き場所はちゃんと伝えよう、と優里は思う。
庭では太陽の日差しを浴びて散歩を楽しんだが、レンガで作られた道を辿って門にたどり着く前に息切れしてしまった。この土地があまりに広すぎるのだ。
それだけのことを一週間のうちにやれてしまうほどに、優里には時間の余裕があったともいえた。
朝起きて慌てて掃除をする必要もなければ食事の用意もいらない。その代わり洗面をはじめ朝の身支度の方法を詩織から教わったが、それだけだ。
午前からお昼までじっくりと勉強をして、昼食を食べたら休憩を挟みつつまた勉強。そして夜はみんなで食卓を囲む。
一週間でその流れが身についてしまうのは、奏人や詩織の時間管理のおかげでもあっただろう。優里は自分の数学の回答を確認する奏人を見つめながらほっと一息吐いた。
セントラルランドに向かうにはまだまだ身につけなければいけないこともあるが……おそらく順調なのだろうということは周囲を見ていれば分かる。
発作は今までに三回ほどあったが、奏人のお陰で無事押さえ込むことができていた。未だ、不安ではあるが。
ノートに目を落とした奏人は何故か嬉しそうで、解答を見られることに緊張してしまう。どうして彼がいつも自分を褒めるのか、優里には分からない。
「基本の四則計算は無事身についていますね。明日は少し難易度を上げた問題をご用意します」
「お願いします」
とりあえず頭を下げて、それからベッドサイドに置いていた本を見つめる。実は、昨晩この本を一冊読み終えてしまったのだ。だから今日は書庫に新しい本を取りに行きたい。
「あの……書庫に行ってもいいですか?」
少し迷いつつ本を手に取り、ワガママではないかと心配しながら尋ねると、奏人はキョトンとして、それから吹き出すように微笑んだ。
「ええ、行きましょうか」
どうやら、許可は降りたらしい。
健康状態も良好で、本を探しにいくには丁度いい時間でもある。
「本当に、本がお好きなのですね」
「はい……本は、今まで知らなかった世界をたくさん見せてくれる……だから、面白くて」
今手に持っているものも、遥か遠い国を旅する青年の話だった。登場する物や人がどれも新鮮で一気に読みきってしまった。
「幼い頃も、優里お嬢様は本がお好きだったんですよ」
「……そうなんですか?」
優里がこの家にいたのは五歳の時までだ。たったそれくらいの歳で本を読み漁ることなどあるのだろうか。
やはり記憶にないと思いながら本を手に取って立ち上がる。最初は足で身体を支えることだけで精一杯だったが、もうゆっくり歩くことはできるようになった。
詩織には立ち方の指導もされていたので、背筋をピンと伸ばして、顔を上げるように心がける。それでもまだ自分はお嬢様に程遠いような悲しい気持ちもなる。
「あれ……?」
階段を手すりを持ちながら慎重に一階まで降り、ダイニングを通り過ぎて廊下を進んでいると、地下への階段の隣……キッチンの前でツイーンテールの少女がしゃがみ込んでいた。絢音だ。
彼女の側にはバケツがあり、雑巾で床を拭いている。水を溢してしまったのか……彼女の周囲一体が濡れていた。
「どうしたんだ、絢音」
奏人が呆れたように声をかける。優里の前では終始丁寧な言葉使いの彼だが、姉や他の者に対してはぞんざいな口調で話しかける。優里は自分にもそんな口調でいいと彼に頼んだことがあるが、残念ながら了承はされなかった。
「いや、掃除しようと思ったらバケツ倒しちゃって……すぐ、拭き取るから……えっと夕食の時間までに」
絢音は今更雑巾を後ろに隠すようにして苦笑いを浮かべる。
夕食の時間までというが、これを一人で行うのはかなり手間がかかるだろう。
「手伝います」
バケツには予備なのかもう一つ雑巾がかけてある。優里は一切迷うことなくその雑巾を手にした。
「え、優里お嬢様?」
奏人も、絢音も呆然と優里を見つめる。優里はそれに気を取られることなくテキパキと床の水分を雑巾にしみ込ませ、それをバケツの上で絞っていった。
詩織が選んだ薄緑のワンピースの裾が床についてしまっているのも気にせず、黒くなりかけた雑巾を素手で持って床を拭いていくのだ。隣にいる絢音は呆然とした後、
「や、やめろ、これは使用人の仕事だ……じゃなくて、仕事ですから」
と優里の手を止めようとする。それでも優里は首を傾げ、
「手伝った方が早く終わると思うので」
と、当然のように告げた。
「大丈夫です、慣れていますし。集落にいる時は継母や義姉たちからわざと水を被せられ片付けをしていたほどで……素早く終らせることも得意になりました」
「いや、でも……」
伯爵家の大事なお嬢様が使用人の手伝いをするなど本来はあってはならないことだ。しかし優里は爽やかな笑顔で言い放ってみせる。
絢音が助けを求めるように奏人を見上げれば、
「俺も手伝います」
と言って、すぐにキッチンの方から一枚雑巾を拝借してきた。
「ちょ、奏人さんまで」
「優里お嬢様の意思はできるだけ尊重したい……だったら俺たちにできるのは彼女の労働時間を少しでも減らすこと」
「なるほど……」
奏人の言葉に納得すると、また手を動かすことにする。
しかし、絢音の手つきはやけにぎこちなかった。水を雑巾に染み込ませず床を擦るものだから水分をより遠くに引き伸ばしている。
優里は彼女の不器用な手つきを見ながら、
「絢香さんはどうしてこの仕事を?」
と、ふと思ったことを尋ねてみた。
奏人や詩織は代々イーストプレイン家と関わりがあったからというのは分かるが、絢音や千尋のことは知らない。
また、彼女は喋り方も含め他の使用人とはどこか違う雰囲気も感じていた。
「え……と、アタシの家って母親しかいなくて金もない貧乏な家庭でさ。ちょっと違法なコトしようとしていた時に詩織さんに拾ってもらった……んです。ほんと全然メイドって柄じゃないのは分かってるけど、やるからにはきっちりやりたい」
よく見れば絢音の指には絆創膏を貼った痕が残っている。不器用だが彼女なりに仕事に真面目に向き合っているのだろう。
「そうなんですね。私と同い年なのにおうちのために自分から動けるなんて……絢香さんは勇敢で素敵な人です」
優里はずっと継母に言われるままに家事を行ってきた。逃げるという選択肢など考えたことはなく同じ生活の繰り返しに嫌気がさしてもそれを変える術を知らなかった。
だから、絢音の生き方を心から尊敬する。そんな思いをそのまま口にすると、絢音は何故か固い表情をさらに固めて赤くなっていた。
「絢香さん?」
「いや、そんなこと初めて言われたし……アタシは何やってもだめで……要領悪いし」
「掃除なんて慣れですよ。えっと……水を広げるのではなく、水分を十分に染み込ませてからバケツで絞るんです。そしてまた水を染み込ませる……それの繰り返しです」
「な、なるほど」
優里に教わりながら絢音の手つきも少しずつスムーズになっていく。
「そういえば絢音さんは儀式の時愛子さんと一緒に私のこと助けてくださいましたよね」
愛子はメイドではなく体術で主人を守る用心棒だと聞いたが絢音はそういう訳でもなさそうだ。それでも金属の棒を振り回し、果敢に男たちに立ち向かっていた。
「あー……うーん、そっちの方がある意味アタシらしいというか。家事というよりも結構ヤンチャばっかりしてきたからこういうのよりバール振り回す方が得意なんだ」
「それなら、家事もできるようになればどちらもできるすごい人です。私は体力に関しては全くないので……」
「ほ、褒めるな……褒めないでください」
慣れない敬語を使いながら絢音は顔を真っ赤にして叫ぶが優里には効いていない。
その後、優里の教えのおかげで絢音の動作も改善され、3分足らずで床の水滴を綺麗に拭き取ることができてしまった。
「あの……ありがとう。アタシまだまだこんなんだけど、ちゃんとおま……優里お嬢様の使用人になれるよう頑張るから。これからもよろしくおねがいします」
「はい、こちらこそ」
伸ばされた絢音の手を優里が握る。優里の笑顔を前に絢香が初めて照れ笑いのような笑みを浮かべるがそれも長くは続かない。
「優里お嬢様、早く雑巾を置いて手を洗いましょう。絢音も」
流しで手を洗う奏人が二人を呼ぶ。絢音は仕事中だし、優里は書庫へ行かなければならない。
同い年ということもあって優里は絢音に親近感を抱いていたが、呑気に話してもいられないのは確かなようだ。
そして、奏人も優里の行動を止めはしなかったが、このまま手放しで褒めるわけにもいかない。
「優里お嬢様、本来は大事なスカートを床につけて、自ら手を汚すような作業を行ってはいけません」
「……はい」
優里がキッチンで手を洗い終わると、奏人は当然のようにすかさずハンカチを手渡した。
「ただ、困っている人を助けようとするその意思は……尊敬していますよ」
「え?」
怒られるばかりだと思っていた優里は呆然とする。奏人は優里の頭をそっと撫でた。
「まあ、詩織姉さんや伯爵夫人はお怒りになるかもしれませんので、お気をつけくださいね」
「わ、分かりました」
とりあえずお咎めはなしのようだと安堵する。これで無事に書庫へ向かうことはできそうだ。
「奏人さんが……奏人さんじゃないみたいだ……」
「絢音、お前は別で説教な」
「やっぱりいつもの奏人さんだあ……」
そんな二人のやりとりをよそに、優里は書庫へと続く階段に向かった。
珍しいことに、書庫には先客がいた。優里たちの足音を聞いてひょっこり小さな頭を出したのは千尋だ。
といっても彼は本を探しにきたわけではなく、掃除をしにきているようだが。
「あ、優里お嬢様、こんにちは。すみませんこんな格好で」
彼はスーツの上から可愛らしいチェック柄のエプロンを着ていた。一般男性が着るには向いていないが、彼の幼い容姿ならば不思議と似合ってしまう。
脚立に乗ってハタキで棚を叩いているが、壁に沿って置かれた10個もある棚全てを掃除し終えるのは骨が折れることだろう。
手伝います……と優里は言おうとし、奏人の言葉を思い出した。
詩織が選んでくれた若草色のワンピースや白い薄手のカーディガン、ピカピカに磨かれた靴もまた汚してはいけないものだろう。
しかし、掃除をする千尋をよそに本を漁るというのは気が引ける。
「奏人さん、お願いがあるのですが」
「はい、なんなりと」
優里は先ほどの経験を元によく考えた上で、一つのお願いをすることにした。
「いやあ、優里お嬢様が手伝ってくださると本当に掃除が進みますね」
「力になれているようでよかったです」
黒いワンピースに白いエプロン。優里は絢香や詩織と同じ格好に着替えてハタキを持っていた。
服を汚してはいけないのなら、彼女たちと同じメイド服を着てしまえばいい……その結論に行き着いたのだ。
千尋は最初は戸惑っていたものの優里が楽しそうなのを見て、それでよしと思ったらしい。彼女と並んで同じように作業を続けた。
「メイド服まで似合ってしまう優里お嬢様はやはり素晴らしい……けどそういう問題では……」
予備のメイド服を持ち出した奏人だが、目の前の現場には目をしかめざるをえない。もしこれが姉の目に止まれば……怒られるのはこの服を着せた自分だろう。
そんな執事の心配をよそにお嬢様は楽しげだった。
「千尋さんはどうしてこの仕事を?」
優里は絢音にしたような質問を千尋にも投げかける。十二歳で働きだすというのは、何か事情がありそうでもある。
「父の紹介です。僕、昔から学校で浮いていて集団生活とか合わなくて……小学校卒業して進路に迷っていたとき、父が古い付き合いがある家が使用人を募集しているって教えてくれたんです。あ、だから絢音さんみたいにお金に困って……とかでは全然ないんですよ。行き場を失ってたまたま、みたいな」
千尋は夕食の席でもたまに自分から絢音の名前を出す。それは彼が同期に近い絢香に親近感を持っていたからだと優里は思っていたが、どうも違うらしい。
彼は何かにつけて絢音と自分を比べているのかもしれない。なんとなくだが、そう思った。
「でも千尋さんってとても要領よく仕事をこなされていますよね。料理もお上手ですし。どこかで勉強されたんですか?」
絢音のぎこちない手つきと千尋の手際の良さは段違いだ。長い廊下の窓を拭く時、絢音が半分まで拭いた時には既に千尋は全てを拭き終えているだろう。
料理の腕も千尋の方が上のようで、特に彼が作るシチューやスープは野菜がとろとろに溶けてとても美味しい。身のこなしも奏人ほどではないが様になっていて夕食の席での話も面白い。
齢十二歳とは思えない程、彼はとても要領がいい。
「いえ……なんていうか、僕結構やればなんでもできちゃうタイプなんです。掃除だって料理だって一回教わればできてしまう。だから周囲から浮いてて……」
「それなら……千尋さんにできないことが見つかるといいですね」
「え?」
千尋の手が止まり、優里は何か間違えたことを言ってしまったかと焦る。つい口から出てしまった言葉に優里自身も戸惑っていた。
「いえ……私は十年間ずっと同じ家事の繰り返しで……それが世界なんだって思ってました。でもここへきて、世界はもっと広いことを知った。そして、勉強や貴族としての規則などいろんな壁にぶつかっています。その壁をひとつづつ解いていくのって楽しいんです。だから、千尋さんにもぶつかって、乗り越える価値がある壁に出会えるといいななんて……」
そう言いながら千尋の顔を覗けば、彼は二度瞬きをして、
「優里お嬢様って変わってますよね」
と、言った。
「変わって……ますか?」
「普通の人は『なんでもできてすごいね』とか『それ自慢?』とかそういうことばっかりで……僕自身できるってことに執着していました。でも……できないことを探す、それって面白そうかもしれません」
千尋の顔が、屈託のない年相応の笑みに変わる。
優里の言葉は、どうやらちゃんと届いたらしい。
「あなたから見て僕ってどんな人間ですか?」
「え……千尋さんはまだ幼いのにテキパキ仕事をこなす尊敬できる方です。いつか奏人さんみたいに他のお嬢様に仕えるお仕事もできるかもしれないと思います」
十年後の千尋はきっと奏人のようになるだろう。優里はそんな想像をしながら告げてみる。すると千尋は固まって、
「僕、新しい目標ができました」
と、呟いた。
「奏人さんみたいになることですか?」
「まあ、そんなところです」
そんな話をしていると、掃除は三十分ほどで終了し、千尋は夕食の準備があるからと書庫を後にした。
書庫を出る前千尋は改めて優里の手を力強く握ってお礼を言ってきたが、その手にやけに力が入っていた意味は優里には分からない。
「優里お嬢様、本は決められましたか?」
二人のやりとりをじっと見つめた後、本来の目的を思い出した奏人が尋ねると、優里は迷わず一冊の本を抜き出した。
「掃除中に気になっていたんです。今日はこれにします」
一際分厚い歴史物の本だったが優里が読みたいのであれば反対する理由はない。奏人は珍しく軽い足取りで書庫を後にする優里の後に続いた。
が、ここで今すぐ彼女のメイド服を着替えさせなかったことを後悔することになる。
「優里ちゃん?」
と、階段の向こうから紛れもない自分の姉の声が聞こえたのだ。そもそも、優里のことを「優里ちゃん」と呼ぶのはこの屋敷では一人だけ。
「……どういうことかしら、奏人」
口元は笑っていても厳しい目線を持って奏人を見る詩織の表情は恐ろしい。弁解の言葉を考えていると、
「あの、私が奏人さんにお願いしたんです」
と、本を両手で強く抱えた優里が自白する。
そうして、今までの経緯を全て説明することになった。
「優里ちゃんは優しいのね。でも、今はもうイーストプレイン家のお嬢様であるということも忘れないで欲しいわ」
詩織は優里の衣服を整えながらそっと頭に触れた。その途端、奏人に触れられた時とはまた違うむず痒さのようなものが優里の身体に流れる。
奏人を追い出し詩織と部屋で二人きり。夕日も沈みかけて、オレンジ色に包まれた穏やかな時間が流れる。
「すみません……」
詩織は優里のワンピースにある背中のリボンを結び、着替えで乱れた髪を梳かしてゆく。彼女の手つきはいつも手際が良く、そして優しかった。
「奏人も、優里ちゃんに甘すぎるところがあるから注意しないと」
「あの……奏人さんって昔からああなのですか?」
「ああっていうのは?」
「えっと……私に対してやけに献身的……というか……」
それは詩織にも言えることだが、奏人は素の性格と自分への態度に露骨な違いがあるように見える。
しかもちょっとしたことですぐに「流石優里お嬢様です」「優里お嬢様は素晴らしいです」と、褒めてくる。
つい絆されてしまっているが、普通に考えるとおかしな話だ。
「あの愚弟はね……昔、使用人なんてやりたくないって駄々をこねていたの」
「え?」
そんな素振りは一切見られない。
「まあ、十年前の話だけれど。偉い人の世話係なんて嫌だってあんまりいもダダをこねるものだから、お父さんが修行と称して私たちをこの屋敷に連れてきた。その時に幼い頃のあなたにあったの」
「私に……ですか」
「その時優里ちゃんの優しさに触れてね、この子を守りたいと強く思ったらしいの。でもそんな最中に優里ちゃんは連れ去られ……大きなショックを受けた。誰もが諦める中、実は奏人だけは優里ちゃんのことを生きていると信じ続けていたのよ。そして次にあなたに会うことを待ち望んで、必死に執事としての知識や技術を学んだ。ずっと待ち望んできた主人が戻ってきたからこそ……奏人は完璧な従者であろうとしているのかもね、なんて」
気づけば詩織は優里の髪を編み込んで花の髪飾りまでつけていた。寝る前には風呂に入るのだから外さなければならないのに……彼女は既に優里の髪で遊び始めているのかもしれない。
「私は、何をしたんですか? 奏人さんの気持ちを変えるようなことを……五歳の私にできるのですか?」
「それは……私は詳しく聞いてないの。本人から聞き出してみて?」
鏡に映った詩織がウインクをする。奏人に対しての謎は深まるばかりだ。
「詩織さん……あの、すみませんでした」
「え?」
「お嬢様としての決まりを守れなくて……」
立ち上がって全身を確認してみる。もうすっかり綺麗に磨かれた令嬢の姿になっていた。
「ただ、私はいつも皆さんに助けられているので……みなさんが少しでも困っていたらお手伝いをしたくて。もしかしたらまた、同じことをしてしまうかもしれません」
おそるおそる自分を見つめる優里に対し、詩織は暫く目を丸くし、それから笑みを浮かべた。
「なるほどね、優里ちゃんらしいわ。優里ちゃんがお手伝いをしてくれることは嬉しい。だから、それを咎めたりしないの。ただ……お嬢様としての自覚は持って欲しい、それだけなのだから」
この家の人間は、誰一人として優里を責めない。間違ったことをしても叩いてはこない。それがなんだかむず痒い。
「私も……詩織さんの妹になりたかったです」
「え?」
「い、いえ……詩織さんがお姉さんだったらもっと毎日が楽しかっただろうな、と思っただけです。その、今までいた家の姉は意地悪なことしかしていなくて……だからこうしてお話できる年上の女の人って憧れで」
優里が慌てて説明すると、詩織は何故か頬を赤らめた。
「いいわよ、私はあなたの従者でありお姉さんにもなる。だからお嬢様として困ったことだけじゃなくて個人的な悩みでもなんでも私に言って頂戴」
「あ、ありがとうございます」
ぽんぽんと頭を撫でられ嬉しくなる。
お嬢様としての生活は慣れないけれど詩織がこうして素のままで自分に接してくれることは嬉しかった。
「いいえ、こちらこそ。みんなを助けてくれてありがとう」
お礼を言い合う頃には、もうすっかり日が落ちていた。今からまたみんなで夕食を食べられるのが楽しみだ。
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