第15話

 緊張で掌が汗ばむ。蒼士も硬い表情で聞き耳を立てた。


「兄さん、ねぇ、兄さん」


 中年の女性が、少女のように鼻にかかった甘えた声を出している。

 蒼士は表情を引き締めると扉のノブに手をかけ、ゆっくり慎重に回す。ほとんど音もなく扉が二センチほど開く。中の様子が見えた。前回同様、机の上には灰皿があり火のついた煙草が置かれていた。紫煙が細く、くねりながら立ちのぼっている。

 前回と違うのは壁に掛かっていたスーツがなくなっている事、そしてベッドの上に小姫子がいる事だ。小姫子はベッドカバーの上にうつ伏せに横たわっている。彼女が頬を寄せるベッドカバーの上に、壁に掛かっていたスーツがあった。小姫子の右手指がくねくねと、スーツの上着の生地を撫でている。ブラウスのボタンが外され、くしゃくしゃに乱れて肩からずり落ち、肉付きの良い中年女の丸い背中があらわになっていた。たくし上げたスカートの中に、自分の左手を突っこんで嫌らしく微妙に動かし続けている。

 喘ぎ声が漏れる。腰を高くして、うねるように揺らす。


「兄さん、・・・・・・兄さん・・・・・・」


 喘ぎ声とともに、感極まったように呼ぶ。自慰行為だと悟った途端に、言いようもない不快感に襲われて怖気が立つ。


(この部屋はやはり死者の部屋だ)


 宗一郎が生きているなんて、あるはずはなかった。こうやって小姫子が、あたかも宗一郎が生きているかのように振る舞い整えていたから、礼人も蒼士も彼が生きていると勘違いしたにすぎないのだ。現実には宗一郎は死んでいて小姫子は死者と交わっているつもりなのだ。礼人が怖気を感じたのは、小姫子が兄である宗一郎と交わろうとしているのが厭わしいからだ。自分にも妹がいるからこそ一層吐き気がする。


(兄妹だ。それなのにあの人は)


 小姫子は仰向けになると、スカートの突っこんだ左手はそのまま、右手で顕わになった胸を揉む。汗ばむ胸の形が無様に歪む。


「兄さん」


 喘ぎ声が高まる。醜悪そのものだ。忌まわしい光景から目が離せない礼人のシャツの袖を蒼士が引く。帰ろうと目顔で示すので、頷こうとしたそのときだった。


「一さん、終夜さん!」


 静寂を破る麻美の声が二階廊下に響く。麻美が階段を駆けあがってきた。二人は狼狽え、その拍子に扉に体が触れ勢いよく扉が開く。小姫子がベッドの上に跳ね起き、二人の姿を認めて目を見開き、口を大きく開いて歯をむき出して悲鳴をあげた。礼人は焦って叫んだ。


「麻美さん、何でここに」

「だって、一さんと終夜さんだけに任せるのは、やっぱり・・・・・・」


 扉まで来た麻美は、開いた扉から部屋の中を見て唖然と言う。


「何をしてるんですか、小姫子伯母さん。そんな恥ずかしい格好」


 小姫子が獣のような声をあげた。血走った目でベッドから飛び下り、半裸で躍りかかってくる。咄嗟に恐怖を感じ戸を閉めた。蒼士かすかさず礼人とともに扉を押さえる。

 扉に体当たりした小姫子が、部屋の中から半狂乱で叫ぶ。


「開けろ! 開けろ、開けろ、開けろ!」


 間断なく衝撃が来る扉を押さえつける。どうすれば良いのか分からない。これを開けたら小姫子は襲いかかって来る。室内には凶器になるものが山とある。


「開けろ、殺してやる!」

「麻美さん、鍵がありませんか!? ここの鍵。外から、かけられませんか」


 必死に問うと麻美は飛びあがるようにして階段を駈け下り、すぐに戻ってきた。


「これだと思います。小姫子伯母さんの部屋に、大事そうに置いてあったから」

「蒼士! 頼む」


 麻美から鍵を受け取った蒼士が鍵をかけ、やっと礼人は力を抜く。扉はまだ激しく打ち鳴らされ金切り声が響く。中から小姫子が、がりがりと扉を引っ掻く。


「開けろ、開けろ、開けろ! お前達皆、殺してやる!」


 壁に背をつけて礼人は座りこんでしまった。麻美は数歩後ずさった後、顔を伏せた。強張った表情で扉を見つめていた蒼士がふと振り返り無感動な目で麻美を見た。なぜ来たのだと非難する目にも思えたし、同情する目にも思えた。



 騒ぎを聞きつけてすぐに姫沙紀が飛んできた。扉の向こうで喚き続ける母の声に彼女は驚き、俯く麻美に何があったのかと優しく訊いた。麻美は「ごめんなさい」と小さな声で言い、経緯を語った。


「いいのよ、麻美ちゃん。お母さんは落ち着くまで、こうしておくしかないけど」

「姫沙紀さん。小姫子伯母さんは、病院に入れた方がいいわよ」


 顔をあげた麻美は、意を決したように告げた。


「伯母さんは変よ。こんな状態の人を姫沙紀さんが一人で面倒を見るのは大変すぎるよ。小姫子伯母さんだけじゃなくて、桜子お婆ちゃんもいるんだから。藤蔭屋敷には財産があるし、二人分の入院費くらい出るよね」

「そうはいかないわ。お母さんだもの。桜子お婆ちゃんも病院なんて可哀相」

「桜子お婆ちゃんは何の助けもしてくれないし、小姫子伯母さんなんて姫沙紀さんに、あんなに酷く当たるのに」

「それでも、お母さんに違いないもの。桜子お婆ちゃんも、そう。助けてくれなくても、お婆ちゃんはお婆ちゃんだもの」


 麻美は顔を背け「そんなの納得がいかない」と呟く。姫沙紀は困ったような顔をした。麻美が拗ねて口を開かなくなったので、姫沙紀は礼人達に頭を下げる。


「すみません、一さんも終夜さんも。度々お見苦しいところを。こんな様子ですし」


 と、姫沙紀は扉へ視線を向ける。「殺してやる、八つ裂きにしてやる」という狂乱した金切り声と扉を引っ掻く音が続いている。


「藤やに、お帰り下さい」


 当然だったが、家族の問題に深く関わる事態には赤の他人は口を出せないのだ。それが寂しい気もした。こんな大変なときにこそ姫沙紀を支えられれば、自分の存在に大きな価値が見いだせるだろうに。

 後ろ髪を引かれながらも藤蔭屋敷を出た。玄関を出るとすぐ後から、松丸を先頭にして組長たちも玄関から出てきた。彼らは二人に小走りに駆け寄ってきて、「何があった」と訊いてきた。具体的に喋るべきではないと思い、「小姫子さんが、具合が悪かったようです」と、おおざっぱに伝えた。しかし組長達は訳知り顔で、やっぱりなぁと頷きあう。


「小姫子さんは、随分前から具合が悪いんですか?」


 蒼士が自然に老人達の呼吸を読んで問いを発したので、松丸が気安く答えた。


「四年前からだな。姫沙紀ちゃんが大学卒業して屋敷に戻って来てから、徐々に目立つようになった。考えてみりゃ、大学まで出たのに就職もせずに帰ってきたのは、小姫子さんの具合が悪かったからかも知れん」

「姉が大変なのに妹の慶子さんは、お嫁に出てから一度も里帰りしてないと聞きました」

「慶子が顔を出したら、小姫子の具合はもっと悪くなるわな」


 三人の中で一番年が若い、五十代の組長が冗談のように口にした。彼は下条の組長だ。するともう一人、松丸と同年代の組長、こちらは条奥組長が不審そうに問う。


「小姫子さんと慶子さんは、仲が悪かったのか」

「悪いってもんじゃない。小姫子は俺の三級下だけど、あそこの姉妹の仲の悪さは俺らの年代じゃ有名だ。あんなんで、よく一緒に住めるもんだと皆言ってたよ。屋敷が広いから平気なんじゃないかとかな。宗一郎がよく妹達の仲が悪いと愚痴ってた。宗一郎にとっては、どちらも平等に可愛い妹なのにってな」

「宗一郎さんと親しかったんですか?」


 蒼士が水を向けると下条組長は破顔した。


「同級だ。同級生の男が俺たち二人しかいなかったし。俺は不細工の悪たれで、あいつは優等生でハンサムだったけど、妙に気があったんでね」

「宗一郎さんは亡くなったんですよね。病気ですか?」


「それは」と、言い淀む年若の組長の代わりに、「自殺だ。二七年前だな。もうちょっとで三十年だ」と、条奥組長があっさり告げた。


「自殺? どうしてですか」

「原因は分からん。遺書もなかったし突然だった。大学卒業して希望してた銀行に勤めはじめて、仕事が楽しいと言ってたのにな。財産があるから働かなくても食えるのに、宗一郎は働くのが楽しいから働くんだと言ってて、羨ましい奴だなと思ってたくらいで」


 下条組長は、しんみりと視線を足元に落とした。


「宗一郎が死んでから急に藤蔭屋敷が寂しくなったな。半年後には慶子が嫁に出て。その三年後に松影の武雄が小姫子の婿に入って、ちっとは賑やかになったかと思ったが。それも長く続かなかったな。姫沙紀ちゃんが小学生の頃に最後の大媛様の余姫婆さんが亡くなって、あの広い屋敷に親子三人と病弱で顔もろくに見ないような桜子婆さんだ。しかも武雄も、姫沙紀ちゃんが中学に入る直前に亡くなるし。どんどん悪い事が続いてる」


 松丸が溜息まじりに締めくくる。

 黙って聞いていた蒼士が、誰にも聞きとがめられないような小さな声で何か呟いた。礼人の耳には聞こえた。「わざとだ」と、彼は言ったようだった。

 藤やに帰った礼人は疲れを覚えて畳に座りこんだ。蒼士は壁を睨んで考え込んでいる。


「藤蔭屋敷の六人目の誰かなんて存在しなかったんだな。宗一郎氏は二十七年も前に自殺してる。あそこにあったのは小姫子さんの妄想だ」


 兄宗一郎の部屋を生前と同じに保存し、時々宗一郎が吸っていた煙草に火をつけ、彼が生きているかのような気配を作り出していたのだろう。兄が生きている妄想の中で、小姫子は死者と交わろうとしていた。ぞっとする。


「小姫子さんは、実の兄の宗一郎氏に恋愛感情があったのかな」


 壁ばかり睨んでいた蒼士が、反応してこちらに顔を向けた。


「さっきの様子からすると間違いなくそうだね。妹の慶子さんと仲が悪かったのは兄を巡ってかも知れない。小姫子さん自身が兄に恋情を抱いているんだから、同じ屋根の下に住む女である妹の慶子さんを、女として敵視するのは当然だ。兄として宗一郎さんは慶子さんにも優しく接する。それだけて小姫子さんは嫉妬に狂っただろう」


 死後二十七年経ってなお、あそこまで執着するのは尋常ではない。兄の死後養子を迎え姫沙紀を生んでもなお、その妄執が消えないのは凄まじい。小姫子が姫沙紀に酷い仕打ちをするのは、姫沙紀が愛してもいない武雄との間に出来た子どもだからか。


「気味が悪い」


 つい口に出たのは正直な気持ちだった。すると蒼士が意地の悪い笑みを浮かべる。


「気味悪いのは、小姫子さんだけじゃないかも知れない。一さんが最初に小姫子さんに会ったとき『慶子は全部私から奪ったのに、今度は藤蔭屋敷まで乗っ取ろうとしてんだ』と、小姫子さんが叫んでたって教えてくれたよね」

「ああ、確か。そんな事言ってたな。化物だとか手先だとか」

「小姫子さんは慶子さんに、何を全部奪われたと思い込んでるんだろう? 小姫子さんが必死にならざるをえないようなことは、なんだと思う」

「そりゃ小姫子さんが必死になるのは、あの様子じゃ宗一郎以外は・・・・・・おい」

「姉妹で兄を取りあった可能性もあるよね。慶子さんも小姫子さんに対抗して、兄を得ようとしていたかも。もっと言えば小姫子さんが『奪われた』と認識するほどだから、慶子さんと宗一郎さんは本当に」

「よせ! 慶子さんは麻美さんのお母さんだぞ!」


 蒼士は黙った。しかし礼人の胸には、質量を持つかと思われるほど忌まわしく重苦しい、悪意を伴った誰かの情念が入り込み溜まり、とぐろを巻くようにゆっくりと蠢く。


(もしかして・・・・・・慶子さんが自分の娘の麻美さんを藤蔭屋敷へ送り込んだのは小姫子さんを苦しめるためか? 兄を巡って争い憎み合った姉を許せず。年経てなお完膚なきまでに叩きのめそうと、麻美さんに何か言い含めて送り込んだとしたら)


 はっとした。さっき藤蔭屋敷からの帰り道、蒼士はなんと呟いたか。


「わざとなのか? 麻美さんが俺達に幽霊を見たと告げに来たのは、俺達があの離れに興味を持っているのを知っていたからか。知らせれば絶対に確かめに行くと踏んで、見てもいない幽霊を見たと言ったのか? そして俺達にあの現場を目撃させて」

「小姫子さんを辱めた」


 鳥肌が立つ。都会育ちで朗らかで、従姉妹思いの女性。その虚像が崩れる。明るい笑顔を作りながら、そんな事を母から言い含められ、藤蔭屋敷に乗りこんできた可能性があるというのか。そうだとしたら麻美が姫沙紀へ向ける気遣いも親しさも、鵜呑みにしてはならないのだろうか。麻美は今度は姫沙紀に、何らかの危害を加えないだろうか。


「麻美さんは、姫沙紀さんにも何かするつもりか?」

「今まで何もしてこなかったんだ。しかも今回の事にしても、麻美さんは小姫子さんを辱めただけだ。姫沙紀さんを殺すような真似はしないよ、たぶんだけど」

「でも辱めるかも知れない」

「それはあるかも」


 頭を抱えた。どうすればいいのだろうか。


 その日の昼食から、麻美に代わって姫沙紀が藤やに食事を運んで来るようになった。理由を問うと、「お二人に迷惑かけたから会わす顔がないって」と苦笑した。そして「二、三日経ったら、またけろりとして、お食事を運んで来ると思います」と付け加えた。


 翌日からは、五日後の藤祭に向けて準備が始まった。


 村の男達が千年藤と藤蔭屋敷の周囲を掃除し、藤蔭屋敷へ続く坂道の両脇に、等間隔に杭を立てた。杭には横木が二つ取りつけられており、そこに提灯を下げるらしい。杭の数は、麓から藤蔭屋敷の裏まで、左右であわせて百本はある。

 姫沙紀は組長達と朝から作業に参加し、藤蔭屋敷の敷地内に杭を立てる位置などを指示していた。殺人者がうろついている可能性もあるし、麻美が何かするかも知れない不安もあったので、準備風景を写真に収めると称して姫沙紀の近くにいた。ついでに杭を運んだり掃除をしたり簡単な手伝いも買って出た。

 蒼士の方は、またふらりと出て行った。見ず知らずの老人達の家に今日も上がり込むつもりだろう。殺人犯がうろついているとか、麻美が小姫子を辱めた可能性があるとか散々礼人を脅かした本人は、いたっていつも通りに淡々としているのが忌々しい。

 杭を立てる作業が終わったのは日が暮れる直前だった。

 それと同時に雨が降り出し、男達は逃げるように機材を撤収して帰って行った。

 暗くなるのと比例して雨は激しくなった。夕食時になると藤やの電話が鳴り、出てみると姫沙紀だった。雨がひどくて食事を運びづらいので、藤蔭屋敷に食べに来て来てくれないかと言う。傘がなかったので、礼人と蒼士は雨の中を走って藤蔭屋敷へ向かった。

 夕食は客間で饗された。食事をする間も、姫奈は期待顔で蒼士の傍らに陣取っていた。食事が済んだら速やかに蒼士を自分の遊び場へ連行しようという魂胆が、見え見えだった。そして案の定、蒼士は食後に姫奈に拉致された。

 麻美は今まで二人の食事の世話をしていたにもかかわらず、客間に一度も顔を出さない。昨日の事で彼女を警戒していたので、麻美が顔を見せないのはなぜかと膳を下げにやって来た姫沙紀に訊いた。


「まだ、落ちこんでいるようなんです。何しろ母が未だに落ち着いてくれないので」


 言いながら姫沙紀は、食後の茶を座卓に置く。


「麻美さんの事、気をつけて下さい」

「ええ勿論。麻美ちゃんがこれ以上落ちこまないように、時々姫奈を麻美ちゃんの部屋に行かせてるんです。ありがとうございます一さん。お優しいですね」

「違います。俺はあなたが心配で」

 思わず口をついて出た言葉だった。無言で暫し見つめ合ってしまう。

「今のは・・・・・・、いや、俺は・・・・・・」


 ここで、あなたを好きになったと告白したら姫沙紀はどう思うだろう。会って数日でそんな事を口走る男を軽薄な奴だと軽蔑するか。あるいは、下心があるのかと嫌悪感を抱かれ、怖がられ、避けられるか。あるいは———好意的な言葉を返してくれるか。姫沙紀は好意的な返事をくれそうな気もしたが、性急すぎる自分が恥ずかしくなり口ごもる。

 突然窓の外が紫色に染まった。電気が消え屋敷を揺るがすような雷鳴が響いた。姫沙紀が悲鳴をあげ礼人にしがみつく。あまりの音に礼人も思わず力を込めて姫沙紀を抱く。真っ暗闇は一瞬のことで、電気がまた息を吹き返すように灯った。姫沙紀と礼人は天井から吊り下がっている電灯を見上げ、その後互いの顔を見た。姫沙紀が正気づいたように急いで離れ、恥じらうように手ぐしで後れ毛を整える。その仕草の艶めかしさに、息を呑む。


「すみません、私。びっくりして」

「いえ。構いません」


 窓の外は断続的に紫に輝き雷鳴が轟く。縁側の窓を激しい雨粒が叩く。二人は暫く沈黙していたが、姫沙紀は窓に視線を向け思いついたように口を開く。


「雨がひどいわ。これじゃ、一さんも終夜さんも、藤やにお帰りになる間にずぶ濡れになってしまいますから、良ければ今夜は泊まって下さい」


 明るく告げると姫沙紀は立ち上がり出て行った。

 目の前に残された湯気が立つ湯呑みを見つめ、胸がどきどきし始めた。


(泊まれというのは、まさか・・・・・・いや違う。雨がひどいから気を遣ってくれただけで、おかしな意味なんかないはずだ)


 ただ、うろつく殺人犯や麻美の行動を気にしていた礼人にとっては、姫沙紀の側にいられるのは幸いだ。何かがあればすぐに駆けつけられる。

 ぺたり、ぺたり。雷鳴の合間に裸足の足音が聞こえた。ゆっくりした足音は無気力そうで、かえって耳につく。近づいてくる。廊下に面した襖を見やると、すっと細く開く。開いた隙間、暗闇の中に真っ白い顔が浮かぶ。ぎくりとしたが、すぐに桜子だとわかった。


「こんばんは。お邪魔しています」


 挨拶すると、桜子は笑顔で襖を大きく開く。乱れたパジャマの胸元から、木乃伊のように痩せ細った胸の骨がごつごつと飛び出しているのが見えた。彼女は正座して頭を下げた。


「末永く、よろしくお願いいたします。姫沙紀ちゃんは、本当に可哀相な子ですもので」


 桜子は何か勘違いしているらしいが、礼人は慌てて居住まいを正した。


「え、いえ。俺は姫沙紀さんにとって別に、そういった者ではないのですが」

「藤蔭屋敷は、まともじゃありません。まともなことは一つもないです。申し訳ありません。桜子はこんな様子でございます。それもこれも余姫のせいでございまして」

「顔をあげてください」

「本当にあの余姫が余計な事ばかりするもので。余姫が、あの愚か者が、鬼が、馬鹿なことをしますので。姫沙紀ちゃんが可哀相なことで。あの鬼が」


 段々と声が興奮してくる。興奮させては駄目だと察し、できるだけ優しく声をかけた。


「姫沙紀さんは気立てが良くて、しかも大変な苦労をされているのは知ってます。俺で良ければ力になりますから」

「本当でございますか」

「ええ、俺は姫沙紀さんが好きですし、守ってあげたいと思います」


 顔をあげた桜子が、ふうっと幸せそうに笑った。その笑顔がなんとも言えず柔らかく嬉しそうなので、胸をつかれるほどだった。


「ああ・・・・・・有り難い。良かったぁ。有り難い」

「ええ。俺で良ければ姫沙紀さんを守ります。俺は姫沙紀さんが好きです」

「・・・・・・桜子お婆ちゃん」


 恥ずかしそうな細い声が廊下から聞こえ、心臓が止まりそうになった。姫沙紀が頬を染めて恥ずかしそうにしながら桜子の傍らに現れた。 


(聞かれた! 姫沙紀さん。いつからそこにいたんだ)


 耳が熱くなった。姫沙紀は桜子の傍らに腰をかがめ、桜子の背を撫でる。


「ありがとうね桜子お婆ちゃん。お婆ちゃんだけが、ずっと私の味方だわ。ありがとう。今日はもういいから、お布団に帰ってね」


 桜子は立ちあがり、ぺたり、ぺたりとと暗い廊下を去って行く。姫沙紀はその場に留まり、礼人は恥ずかしさのあまり片手で口元を覆い、言葉が出なかった。雷鳴が轟いている。

 姫沙紀は立ちあがると、ゆっくりと近づいてきた。礼人の前に正座して、微笑しているのに切なそうな目で彼を見つめる。


「姫沙紀さん。今のは・・・・・・」

「桜子お婆ちゃんを宥めるために、ああ言って下さったんですね。ありがとうございます」


 ここで「そうです」と言うのは、ばつの悪さを誤魔化すためだけで卑怯なことだ。覚悟して、口を覆っていた手をどけて姫沙紀の視線に真っ向から向き合う。


「姫沙紀さん。あなたは俺の仕事の依頼主で、しかも出会って数日しか経っていない。そんなあなたにこんなことを言うと、軽薄な男と思われるかもしれません。でも事実なんです。あなたを好きになったようだ。あなたを守りたいと思うのは嘘じゃありません」


 綺麗な姫沙紀の瞳が潤む。彼女は畳に両手をつくと前屈みになり、礼人の唇をついばむように軽く口づけた。吐息が触れる近さで「嬉しいです。一さん」と、囁く。

 礼人は姫沙紀の肩を抱き寄せ、腰を抱いて口づけた。深く口づけながら畳に倒れこみ彼女の体を強くを抱きしめ、さらに深く長く口づける。

 唇を離して姫沙紀を見おろす。彼女は礼人の肩に手を添え微笑む。「すみません」と謝ると、彼女は首を横に振る。興奮した自分が恥ずかしくなり、彼女を助け起こす。

 姫沙紀は「お布団を準備します」と、また、さっきと同じ事を言って立ちあがると部屋を出ていった。その後、布団が客間に運び、何事もなかったかのように広い八畳の真ん中に二組の布団を敷いてくれた。

 ひらりと、ひらりと目の前で揺れるスカートを目で追いながら夢見心地だった。姫沙紀が去っても夢見心地は続いていた。暫くして姫奈から解放され蒼士が客間に戻って来たので、泊まる事になったと告げた。彼は「別に良いよ」とさらりと受けとめ、意外にも文句一つ言わなかった。寝間着がわりに男物の浴衣を借りた。姫沙紀の父武雄のものだったというそれは、丈が短い。武雄は小柄な男だったらしい。蒼士も礼人も、つんつるてんの無様な浴衣姿ではあったが、下着で寝るよりはましだった。

 布団に入るまで、終始ぼうっとしている礼人に蒼士が不審げに問う。


「どうしたの。まるで魂を吸われたみたいだ」


 礼人は姫沙紀とのことが彼に知られるのが気恥ずかしくて、なんでもないと答えて急いで布団に潜りこんだ。

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