第14話

「藤媛だよ。一つ家を開いた犯人は、藤媛の行いをなぞってる」

「目的はなんだ。どんな男でも良かったって、ただ殺すためかよ? それこそ何のために」

「藤媛の伝説をなぞっているとするなら、目的は男と交わって子をもうけて、その男を殺すためだ。けど一さんも言うように、そんなことをする意味は分からない。ただここで問題なのが、もしかしたら四年前にそれが行われたかも知れないって事だよ」


 礼人は、蒼士の言わんとすることを察するほど心の余裕がなかった。ぽかんとした。


「四年前、藤やに宿を取った登山者、鈴木俊之が行方知れずになってる。もしその登山者と誰かが交わり、妊娠期間を経て子どもを産んだら子どもは三歳のはず。そして鈴木さんは死体で見つかり、村には三歳の子どもが一人だけいる」

「姫奈ちゃんのことを言ってるのか? まさか藤媛をなぞっているのが、姫沙紀さんだとでも言うのかよ。四年前鈴木さんと契って殺して、姫奈ちゃんを生んで。四年後の今、また藤やを開いたって? それならどうして藤やを廃業したんだ。今更こんな手の込んだことをするくらいなら、営業を続けてれば良いじゃないか」

「同じ宿から二人目の行方不明者が出たら、確実に怪しまれる。それを避けるために廃業して、今回は客が宿泊したことそのものをうやむやにしようとしたか。もしくは別の理由があるのか。いずれにしても、姫沙紀さんなら藤やの鍵を自由に使える。村の事情に精通しているし、藤やの運営方法も、地域の組織も正確に把握してる。さっきの人に藤やを開けさせようと画策するのだって、彼が地域の人との交流に積極的じゃなくて村の行事に関しては情報弱者であったこと、なおかつ集会に顔を出さないのを知っているからこそ、彼を選ぶ事が出来たんじゃない? しかも四年前の鈴木さんの件も、姫沙紀さんなら鈴木さんが宿帳に書いた本名や住所を書き換えることが出来る。身元不明にするには都合がいい。ただ、あくまで可能性の問題として、あり得ると言ってるだけだよ。そもそも、あの人が姫奈ちゃんを生んだとも限らない。藤蔭屋敷には六人目の誰かがいる気配もある」

「失礼だ。姫沙紀さんにそんな疑いをかけるのは」


 蒼士の推論を聞いているうちに強い反発を覚えた。礼人の怒りを感じたのか、彼は疲れたように深い息をつく。


「疑いじゃない。ただの可能性だ」

「碌でもないこと考えるな」


 藤やに戻ったが、一つ家の意味を聞いてしまったためにどうも落ち着かない。今まで何も思わなかったのに、床下に何かが埋まっているような湿った気配があるような気もした。礼人を落ち着かなくさせた本人は、藤やに帰るとごろりと畳に横になって、丸くなってぐうぐう寝だしたのが腹立たしかった。

 その日は一日中、警察官が右往左往していた。日が高くなってから、麻美が遅い朝食を運んできてくれた。彼女も動揺しているらしく口数が少なかった。松影を嫌っていたとはいえ、血縁者が異常な死に方をしたのだから当然だろう。

 せっかく食事を運んでもらったが、礼人も麻美と同じで動揺していたらしく食欲はほとんどなかった。蒼士だけは、いつもと変わらず三杯も飯を食った。彼は礼人に対して「長生きするよ」と言ったが、礼人に言わせれば彼の方が絶対に長生きする。

 飯をもりもり食う蒼士を横目に見ながら、麻美に姫沙紀の様子を訊いた。姫沙紀も動揺しているが家長として気丈に警察に対応しているらしい。松影良治の母貴代が動転しすぎて役に立たないため、近しい血縁である姫沙紀が、良治の身元確認も引き受けねばならないらしい。そのため彼女は今日警察とともに市内の病院へ行き、遺体の確認をするという。

 必要な事とはいえ大丈夫だろうかと心配になる。野犬が食った後となると、首はひどい状態に違いない。


「来週は藤祭なのに組長さん達が、良治さんの件があった翌週に祭なんかしてもいいのかって騒いでるらしいです。正治さんも行方不明のままだし。明日、藤蔭屋敷に組長さん達が三人集まって、姫沙紀さんと相談するって。お祭り中止になったら、一さんも終夜さんも来週まで逗留している意味がなくなりますよね。姫沙紀さん、大変そう」


 麻美が朝食の食器を盆に片づけながら愚痴をこぼす。礼人は麻美を手伝い食器を重ねる。蒼士は飯を食い終わってはいたが、礼人が食べなかった分の白米に目をつけ、藤やの台所に残されていた古いラップと塩を持ち出し、せっせと塩にぎりを作っていた。

 麻美は、皿を重ねていた手を止めて溜息をつく。


「姫沙紀さんが可哀相で見てられないです。半年前お母さんが亡くなったときに、わたし東京に帰って仕事を探そうかと思った時期もあったんです。いつも文句一つ言わずに頑張ってる姫沙紀さんを見てたら、仕事を辞めた自分が情けなくて、自分もやり直したいと思って。でも姫沙紀さんと姫奈ちゃんを置いて行くのが心配で、姫沙紀さんを誘ったんです。小姫子伯母さんと桜子お婆ちゃんを病院に入れて、姫奈ちゃんを連れて私と一緒に東京に出て仕事探して、楽しく生きる方法を考えようって。いくら財産があっても、あんなお母さんやお婆ちゃんと暮らして辛いばかりじゃないかって。でも姫沙紀さんは行かないって」

「何でですか? 麻美さんの言うとおりだと思うけど」


 礼人が賛同すると、麻美は「そうですよね」と身を乗り出す。しかしすぐに勢いをなくし座布団に腰を落とす。


「藤蔭屋敷を守るのが役目だからって、姫沙紀さんは。いくらご先祖様が立派でも、代々ここまで続いていたとしても、もう桜子おばあちゃんと小姫子さんと姫沙紀さんと、姫奈ちゃんしかいない家ですよ。遅かれ早かれ消えちゃうのは目に見えてます。この村だって、そのうち高齢化で消えるのに。市役所が人口減少のスピードを計算したら、二十年後には成葉里村は無人になるらしいって聞きました。そんなもの守っても意味ないのに」


 愚痴のような麻美の言葉に微笑ましいものを感じた。この人が姫沙紀を心から心配しているのが、感じ取れるからだろう。麻美と会話していると、今朝早朝に蒼士が口にしたとんでもない可能性とやらは、まるきり的外れな妄想だと思えた。


「愚痴一つこぼさずに頑張ってる人が、あんなに苦労するのは不公平な気がして。せめて良い旦那さんがいればいいけど、まだ」


 麻美は、はっと口を閉じる。礼人はどきりとした。「あの人が姫奈ちゃんを生んだとも限らない」という、蒼士の言葉が記憶に残っていたのだ。姫奈の父親について不自然なほど話題に出ないのに違和感があるからこそ、余計に引っかかったのだろう。

 姫沙紀が可哀相とぐすぐず言いながら、麻美は食器を持って帰って行った。


(麻美さんは、「まだ」の続きを、なんて言おうとしてたんだ?)


 麻美が帰るのを見送った蒼士が、大事そうに塩にぎりを座卓に並べながら「一さん」と、いつになく真剣な声で呼びかけてきた。


「なんだ? 大丈夫だよ。お前の大事なにぎり飯を、盗み食いしたりしないから」

「そんなことしたら張り倒す。そうじゃなくて明日のこと。藤蔭屋敷に組長達が三人集まるんでしょう。一さんも同席したら?」

「お前昨夜は、出しゃばりすぎるなって言ってなかったか?」

「昨夜とは事情が変わった。本気で気をつけていなくちゃ危ない」


 誰かが藤媛をなぞっていると蒼士は言ったが、そんなことをして何の意味があるというのだろうか。零細写真屋や、白米に異様な執着を見せる貧乏学生を殺して喜ぶのは、シリアルキラーだけだろう。姫沙紀がシリアルキラーだというのは馬鹿馬鹿しすぎる妄想だ。よしんば、この村の誰かがシリアルキラーだったとしても、廃業している宿を開くような手の込んだ準備をして自分の生活圏に獲物を誘い込むよりは、都会で獲物を物色し、村人に気づかれないように自宅へ連れ込む方がリスクが少ない。


「姫沙紀さんが俺達を殺すから監視しろって?」


 嫌みたらしく言うと、彼はじろりと睨みつけてきた。


「それは、一つの可能性だって言ってるじゃないか。松影良治が何者かに殺されてるんだ。誰にだって危害がおよぶ可能性がある。危害を加えられるのは、僕達かもしれないし藤蔭屋敷の人達かも知れない。それを危ないって言ってんだ。藤媛気取りの誰かさんは邪魔されるのが嫌いみたいだからね。僕達は言わずもがな、藤蔭屋敷の人達だって色々な騒動が起きてる現状で、うっかり誰かさんの邪魔をしないとも限らない」

「松影さんが殺されたと決まったわけじゃないだろ。警察は事故だと」

「殺されたんだ。しかも昨夜、藤やに誰かが侵入しようとした。僕達の寝込みを襲うつもりで侵入を試みたのか、もしくは僕達がいるのを知らずに、無人だと思い込んで侵入しようとしたか。もし僕達が寝起きしているのを知らない誰かとなると、それは村人じゃない」


 得体の知れないよそ者がうろついている可能性があると言いたいのだろう。そしてその夜に良治の死。この二つに関連があるかも知れない。そうなると女ばかりの藤蔭屋敷は、不用心この上ない。


「そうだな。姫沙紀さんに話してみよう」


 さすがにその日は写真を撮り歩くのは不謹慎だろうと、一日中藤やの中にいた。

 蒼士は朝食後数時間また畳の上に丸まって寝ていたが、突然起き上がると「調べものをしてくる」と、にぎり飯を両手に一個ずつ持って宣言した。「昨夜ほぼ徹夜をしたくせに、外をほっつき歩いて大丈夫なのか」と声をかけると、彼は「慣れてる」と言ってふらふらと出て行った。幸いにも今日は村中を警察官もうろついているから、道ばたで彼が転がっていたら誰か助けてくれるだろう。

 礼人も同様に徹夜だったが、眠くならなかった。カメラの手入れをして時間を潰した。

 早朝から県警からのパトカーが来て鑑識が来て騒がしかったが、夕暮れ時には警察車両は引きあげていた。松影屋敷の門には黄色いテープがはられていたが、見張りの警察官も残されなかった。警察は事件性がないと考えているのが、その対応でもよく分かった。

 被害者は没落した旧家の主で、たいした財産もない。普段から愛用している、安全性の低い自作の工具で死亡。納屋の中に争った跡はない。もちろん屋敷内も荒らされた形跡はない。モーターと丸鋸の音がうるさいと近所の老人達が苦情を言いに来たのは、モーターの音が聞こえ始めて一時間ほど経ってからだ。殺人を犯すにしても、わざわざ近所を呼び寄せそうな丸鋸を夜中に使う必要はない。

 これで密室にでもなっていれば殺人が疑われただろうが、状況的には事故の線が濃厚だという警察の判断は妥当と言えた。よしんば数日後、殺人の証拠が鑑識の捜査結果から出たとしても、ここは人間関係が密な山間の村だ。良治にトラブルがなかったか、恨みを買っていなかったかは、すぐに調べが付く。

 蒼士は殺人と断言していたが、何を根拠にしているのだろう。

 薄暗くなり始めた頃に礼人は外へ出た。蒼士が帰って来ないので気になったのもあったし、一日藤やの中にいたので少し頭痛がしたのだ。涼しい風に吹かれて藤やの庭先で伸びをしていると、気分は良くなった。


(松影良治の死は単純な事故。それが妥当な判断だよな)


 黄色いテープが門に張られた松影屋敷を見おろしていると、一台のパトカーが峠へ続く杉林の中の一本道から現れ、坂の下で停車した。そこから出てきのは姫沙紀で、彼女はパトカーの中の警察官に頭を下げてこちらに上ってきた。パトカーはそのまま走り去る。

 今日一日かけて、彼女は松影良治の身元確認に行っていたのだ。こんな時間になったのは、おそらく事情をあれこれ訊かれていたに違いない。坂を上ってきた彼女は、礼人がそこにいるのを認めて微笑んだ。


「一さん。昨夜、大変だったようですね。すみません、叔父の事に巻きこんで」


 彼女は状況を慮って、喪服のような黒のワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。


「姫沙紀さんこそ大変でしたね。身元確認に行くと麻美さんからは聞いたんですが。首が」


 言いかけて口を噤んだ。配慮に欠けていた。姫沙紀が気分悪そうに俯くので焦った。


「すみません。変な事思い出させて。大丈夫ですか? 屋敷まで送りましょうか」


 彼女が青い顔で頷くので、並んでゆっくり坂を上り始めた。屋敷の敷地にさしかかると、姫沙紀は小さく「あの」と声をかけてきた。


「気分が良くなるまで外にいたいんです。一緒に、千年藤まで行ってもらえませんか」

「いいですよ、行きましょう」


 よろめきがちな彼女に手を貸しながら、屋敷裏を通り抜けて千年藤へと向かった。薄闇の中で音もなく揺れている紫の花の下で、姫沙紀は暫く無言だった。薄闇に揺れる藤は、昼間よりもさらに紫が濃く見える。とろりと濃い紫の色が、宙に染み出しそうなほどだ。


「叔父は事故だろうと、警察の方は仰いました。現場の納屋からは犬の毛も出たから、間違いなく首は犬が運んだものだろうと。でも」


 ようやく口を開いた姫沙紀はぽつりと言うと、視線を足元へ落とす。


「私、叔父を確認したんです。ひどい有様でした。とてもあれが事故だなんて」

「警察が事故だというなら、事故ですよ」


 神経に大きな負担をかけられ女性を、これ以上に怯えさせる必要はない。礼人は務めて、何気なく聞こえるような軽い調子で答えた。彼女は拒絶するように首を横に振る。


「おかしな事が、続けて起こってるのが・・・・・・怖いんです」


 「怖い」の一言は、彼女が隠し続けている本心が零れたかのようだった。


(白くて細い首だ。肩も、腕も。強く抱きしめたら、折れそうだ。頼りない)


 藤蔭屋敷の家長と名乗っても若い女性だ。家長を名乗り、日頃はそれなりに落ち着いているように振る舞っているが、意識してそうしているだけなのだろう。本当はいつも不安で怖くて、辛くて哀しくて、心の中では震えているのかも知れない。それが良治の悲惨な姿を確認し耐えきれなくなったかのようだった。

 どうにかして彼女の恐怖を受け止めたかった。顔をあげた姫沙紀の目が潤んでいた。


「怖くて悲鳴をあげたければ悲鳴をあげればいいですし、泣きたければ泣けばいいですし、助けが欲しければ助けを求めていいんです。幸いというか、偶然にもというか、今は俺が居ます。仕事をもらった、ただの写真屋ですが。姫沙紀さんが助けて欲しいと言ってくれれば、全力で助けます。泊めてもらってるご恩もありますし。別に恩がなくても・・・・・・」


 風に背を押されたような頼りなさで、姫沙紀が礼人の胸に寄りかかった。


「ありがとうございます、一さん」

「別に、お礼を言われるようなことじゃなくて。ただ助けたいと思っただけです」


 自分の心臓の音が姫沙紀に聞こえやしないかと心配だった。心臓がいつもの倍の速さで鼓動している気がする。


(麻美さんが言うとおり、姫沙紀さんは藤蔭屋敷なんか捨てればいい。そうすれば幸せになれる。若くて綺麗なんだから何でも出来る)


 そう考えたとき、蒼士が礼人をからかった声を思い出す。


 ———屋敷も財産も捨てて、俺と一緒に来てくれなんて言ったら、格好いいかも知れないよ。


 不安定な商売だが、礼人だって妻と子ども一人養うくらいなら稼げる自信はある。守るべき者が去り、置き去りにされたような虚しさに支配されていた心が、期待に震えている。また自分を満たしてくれるものを、手に入れられるのかもしれないと。


(この仕事が終わっても、その気になれば俺は何度でもここへ来られる。何度も何度も姫沙紀さんを訪ねて、もっと親しくなれる。そしたら)


 出会って数日で何を考えているんだと我ながら呆れる。姫沙紀だって気が弱っているときに、たまたま近くにいる男に寄りかかっただけだ。これが礼人でも電柱でも構わないはずだ。だが胸がひどく熱く、どうしようもないのは事実。これが運命の出会いだったらと。まるで夢見る女子高校生みたいな考えが、沸騰する泡のように浮かんでは消えていく。

 姫沙紀の肩を抱いて慰めるように撫でながら、礼人の手は少し震えていたかも知れない。



 姫沙紀を藤蔭屋敷に送り届けて藤やに帰ったが、蒼士はまだ帰っていなかった。夕飯の時間になっても帰って来ない。あれほど飯に執着する蒼士が夕飯時に姿を見せないことに不安を覚えた。夕食を運んでくれた麻美も、ひどく心配した。

 木戸樹里が何者かに襲われ、昨夜は何者かが藤やに侵入を試みているし、松影良治も死んでいる。そんな日の翌日しかも不慣れな土地で、暗くなっても出歩いているというのは、どういう神経だろうか。

 何回も電話を入れてみたが、「電波が届かない」とアナウンスが流れるばかりだ。麻美の話によると、鉢の底のようになっている成葉里村の携帯電話の電波状態は不安定らしく中心部から少しでも山に入ると電波が入りにくくなるという。かつて携帯電話会社が電波塔を建てる計画をしたが、結局資材運搬が難しいという理由から流れてしまったという。そのため悪天候の時は、村全域で電波が入らないらしい。舌打ちしたくなった。

 何十回と電話していると、ようやくコール音が聞こえて電話が繋がった。「何処を、ほっつき歩いてるんだ」と怒ると、村の爺さん婆さんの家を渡り歩いているから帰りは遅くなると蒼士は答えた。こんなに帰りが遅くなるなら、遅くなると一言言って外出しろと説教すると、「弁当を持って出てんだから、遅くなるのは分かるでしょう」と逆に怒られ、電話は一方的に切られた。

 あいつは弁当なんか持って行かなかっただろうと憤慨しかけたが、彼が、ラップに包んだにぎり飯を二つわし掴みにして出て行ったことを思い出した。しかしあれは礼人の常識の範囲では弁当にあたらない。それなのに、「何が問題だ。気がつかなかったお前が間抜けだ」と言いたげだった電話での蒼士に、心配している自分が馬鹿みたいで腹が立って、先に布団に入って寝た。


 翌朝。朝陽の眩しさで目を覚ました。隣の部屋との境の襖を開けてみると、いつ帰ってきたのか蒼士は布団の中で眠っている。昨夜は心配のあまり腹が立ったが、眠っている様子を見ると安堵するし、嫌味を言わない分だけ寝ている方がまだ未熟な若者という感じかして可愛い。彼は、寝ているか飯を食っているかしていれば、可愛いのかもしれない。

 ただ昨夜は散々心配させられた腹いせに、ぐっすり眠っているのを起こしてやろうと決意した。「おいおい」と何度も肩を揺すると、ようやく目を覚ました。

「・・・・・・何?」と、心の底から迷惑そうな掠れ声に、わざと明るく元気に答える。


「朝だ!」

「そんなの、教えてもらわなくても分かるよ。それに・・・・・・六時半か・・・・・・。一さんが嫌がらせをしたのも分かるよ」


 もぞもぞと蒼士は布団の中で蠢いて、枕元のスマートフォンに腕を伸ばすと時間を確認して、ぐったりと答えた。わずかに仕返しが出来たようで礼人は溜飲を下げる。


「お前、昨日は何をしてたんだよ」


 布団から這い出ると、蒼士は眼鏡をかけてデニムに足を通す。


「色々集めてた。必要なものを。それで一さんは今日、藤蔭屋敷へ行って藤祭の話し合いに顔を出すの? 姫沙紀さんと話した?」


 欠伸混じりに問われると、昨日の千年藤での触れあいを思い出して恥ずかしくなり、蒼士の視線を避けるように縁側の方へ向かって外を眺めた。

 千年藤の下で長い時間姫沙紀と二人でいたが、結局何事もなかった。ただ別れ際に、今日の話し合いに参加した方が良いかと問うと、彼女は嬉しげに頷いてくれたのだ。

 何もなかった。何もないが、二人の間には似かよった思いが通じている。昨日の夕暮れは、それを確信させてくれる時間だった。


「同席する事になった」

「じゃあ、僕も一緒に行っていい? 気になるんだ」

「まあ、かまわないだろう。行ってまずけりゃ、追い返されるだけだろうし」


 組長達が来る予定の時間にあわせて藤蔭屋敷へ赴いた。礼人は姫沙紀とともに客間で組長達と対面するが、蒼士は姫奈の遊び場で遊び相手をする事になった。姫奈が蒼士の顔を見た途端に、膝にしがみついて離れなくなったのだから仕方ない。


「僕は今日もまた、パンのヒーローの拷問を受けるんだ」


 ぼやき、げっそりしながら蒼士は歩いて行く。

 大組長である松丸と他二人の組長がやって来ると、姫沙紀は礼人と共に彼らと向かい合った。八畳二間続きの広い客間を開け放ち、縁側の掃き出し窓も開かれていたので風がよく抜ける。老人達と座って対峙すると、何かの勝負が始まるような緊張感が漂った。

 松丸が代表して「良治さんの件もあるから藤祭は見送ってはどうだろう」と提案すると、姫沙紀は即座に「いいえ、やりましょう」と答えた。こんな時にと渋る老人達に、姫沙紀はこんな時だからこそだ、と譲らない。

 背筋を伸ばし一歩も譲らぬ構えの姫沙紀を立派だと思いつつも、一方で、そこまで藤蔭屋敷の威厳や風習を守り抜いてなんになるのかと切なくもなる。こんな事ですり減るよりも、もっと自分の幸福に目を向けるべきではないだろうか、と。


(麻美さんが言うように、この地域も藤蔭屋敷も遠からず消える運命なのに)


 そんな意地悪な事も思った。

 結局老人達が折れ、藤祭は予定通り六日後に行われると決まった。そうと決まれば、そのまま祭の段取りを話し合うことになり、麻美も呼ばれた。礼人はよそ者だったので、祭の実務で役に立たない。用語一つとっても、まずその意味を訊かねばならないのだから話しにならない。それが分かりきっていたから姫沙紀は気を遣ったらしい。もうここは良いのでと言うので、蒼士が姫奈と遊んでいる和室へ向かった。

 姫奈は和室の真ん中で、背中を丸めてうつ伏せに蹲っていた。その背中に毛布が掛けてある。傍らに蒼士がぼんやり座っているので、どうしたのか問うと「寝た」と呆れたように答えた。しかし姫奈に向ける彼の視線は優しい。おかしな寝方に吹き出しそうだった。


「これじゃ、猫みたいだな」

「うちの妹も遊びの途中で疲れて寝るとき、こうしてた」

「お前、妹を可愛がってたんだな」


 蒼士は、痛みを感じたような顔をした。気まずい沈黙が落ちたので別の話題を口にした。


「藤祭はやる事になったぞ。姫沙紀さんと麻美さんが、松丸さん達と打ち合わせしてる」

「殺人があったのに、お祭するんだね」

「松影さんの件を、お前ずっと殺人だと言ってるよな。根拠を教えてくれよ」

「言ったじゃない?」

「言ったか? 無駄吠えとか、飼い犬とか言ってたあれか? 俺に分かるように説明しろ」

「野犬があの夜沢山出てた。そのうちの一頭が血の臭いを嗅ぎつけて松影屋敷へ入り込み、首を持ち去った。それは可能性として、なくはない。野犬は夜中、頻繁に民家の周囲をうろつくんだ。ごみもあされるし、鶏小屋や兎小屋もある。特に山に逃げ込んでいるような野犬は、山で食料を調達するより民家の周囲で人間の隙を狙っていた方が楽なのを知ってるから。あんな大物を発見したら、喜んで咥えて一目散に持ち去るよ」

「じゃあやっぱり事故の可能性が」

「けれどあの夜野犬に注目が集まったのは、犬の吠え声がやかましかったからだよ。だから犬に注意が向いた。野犬が出てると住民達は認識して、飼い犬が二、三匹逃げ出したのも野犬に結びつけた。でも犬の声がうるさくなかったら、誰も野犬に注目しなかった可能性もある。野犬は普通あんなに吠えない。とても静かなんだ。獲物を襲うときも常に周囲に目を配って、素早く動く。朝起きてみたら庭の兎小屋の兎が一匹もいなくなってた、なんてざらにある。何をするにしても彼らは静かだ。無駄吠えをしない。もしあの吠え声がなかったら、どうなってたと思う?」


 問われて礼人は考え込んだ。


 まず良治の首がその場からなくなっていたら大騒ぎになる。誰も犬が持ち去ったとは咄嗟に思いつかないから、殺人だと騒ぐ。警察も真っ先それを疑う。血痕を追って首を発見したとき野犬がそれに食いついていたら、殺人事件の前提で捜査をしていた警察官達は、「犯人はこんなところへ首を捨てた。気の毒に野犬に食われている」と考えるはず。この野犬達が村の中をうろついているから、首は犬が咥えていった可能性があることは、その後に浮上するかも知れない。だが真っ先にその考えに飛びつきはしない。最初に殺人の可能性を排除しなかったおかげで、事故と他殺の両面で捜査する方針が固まるだろう。


「誰かが野犬がいると知らしめて、あの夜の出来事の印象を操作した可能性がある。野犬は吠えないから、わざと犯人自身が飼い犬の近くを通って飼い犬を吠えさせたら? 血の滴る首なんか持ってたら異様だ。飼い犬たちは狂ったように吠えるだろうね。その上で犬を逃がす。それを二、三匹やれば効果的だ。夜、犬の吠え声はよく響くから」


 丸鋸で斬り落としたばかりの首を手にして、悠然と夜道を歩む血まみれの誰か。その姿は昼間であれば、藤やから松影屋敷へ向かう礼人と蒼士の目にも見えていたかも知れない。田圃一つ隔てて歩いていたかも知れないのだ。


「犬が吠えなければ、僕は事故の可能性も捨てなかった。けど飼い犬がその夜に限ってうるさく吠えて逃げてる事実で、逆に意図的なものが見えてくる。野犬があの夜に限って出てきたと思えない。野犬だって毎日お腹がすく。たまたま、あの日だけ成葉里村に来たわけじゃない。昨日の夜僕は村の中を歩いてみたけど、昨夜だって野犬は村の中をうろついてた。けど飼い犬達は吠えてなかった。犯人は事前に野犬を餌付けしてたかも知れない。首の見つかった場所に毎晩同じ時刻に肉でも投げこんで、その時間に野犬が確実に村に出てくるように仕込むんだ。そしたら首をそこへ持って行って、いつものように野犬が待ち構えている所へ投げこめばいい」


 この山の鉢の底に集まった人々の耳に、犯人が囁いたのだ。野犬がいるぞ、と。声なき囁きが闇に響いたのだ。暗闇で囁く声は大胆すぎて繊細さの欠片もない。雑でさえある。


 だが同時に周到。


 事前に野犬が村に出てくるように餌付けしていたとしたら、かなり計画的だ。


「松影さんが死んだ納屋には野犬の毛が落ちてるかもね。僕が犯人なら、事前に集めておいた野犬の抜け毛を現場にばらまいて帰る。そしたら完璧だ。鑑識結果で納屋から犬の毛が出たら、逆に殺人の可能性が強くなると思う。野犬の自然な抜け毛なんて、現場を隈無く探しても見つかる可能性は低いものだから、逆に見つかれば不自然だよ」

「納屋から犬の毛が出てる。姫沙紀さんが警察から聞いた」


 蒼士は「やっぱりね」と小さく頷いた。


「殺人だとしたら誰が、何の目的で。しかもなんで、わざわざ首を」

「成葉里村にいる誰かなのは間違いない。動機も首を落とした理由も分からない。良治さんを嫌っているって意味では、姫沙紀さん、麻美さんだけど。殺したいほど実害があるように見えなかった。彼女達の方が財力も家の格も上だから、もし藤蔭と松影の間に殺人が起こるとした、松影が加害者で藤蔭が被害者の方がしっくり来る」

「松影正治も行方知れずのままだしな・・・・・・。俺は、もし松影正治が木戸さんを襲った犯人だとしたら、共犯は松影良治だろうと思ってんだ。人を襲うような人間がこんな村に何人も居るとは思えない。だとしたら正治が、共犯の良治を殺した可能性もあるのか」

「かもね。けれどまだ、正治が木戸さんを襲ったとも断定できないし、良治を殺したとも言えない。わかっているのは、殺人者がうろついているってことだけ。そこで藤祭をすることになる。無事に終わればいいけど」


 蒼士は憂鬱げに呟き、眠っている姫奈の毛布を掛け直した。


「姫沙紀さんが心配だ。お前は、姫沙紀さんが藤媛をなぞってる可能性があるとか言ってたけど、俺はそうは思えないんだ」

「一さんは、姫沙紀さんを好きになっちゃった?」


 真っ直ぐに訊かれ、どう答えたものかと自分の胸に問う。ほんの数日接触しただけの女性のことを、どう思っているのか。ただ蒼士が「好き」という言葉を使ってくれたおかげで、己の中にある気持ちに形を与えられたような気がした。愛していると言えるほど深くはない。けれど何とも思っていないと言うのは嘘だ。確かに礼人は姫沙紀が好きなのだ。


「そうだな。我ながら、簡単に惚れたもんだとは思うけど」

「どうするつもり?」

「今は、どうするつもりもないさ。けどこの先何回もここに来て、何回も姫沙紀さんに会って、それから勧めてみようとは思う。ここを出て、幸せを掴む方法を模索する事を」

「麻美さんは断られたみたいだけど」

「何回でも勧める。俺は辛抱強い。仕事の依頼者を好きになるなんて、馬鹿っぽいな」


 蒼士が礼人の目をじっと見ているのに気がつき、苦笑する。蒼士は首を横に振った。


「仕方ないよ。一さんがこの前に僕に話してくれたように、誰かを守ることを生きがいにしているならね。あの人は清楚な美人で、しかも一人で藤蔭屋敷を守ろうとしている。保護欲お化けの一さんに、好きになるなと言う方が無理だ」


 その横顔には、諦めに似た、哀しげな色さえ見えた気がした。


「お前が言う何かが、殺人者か化物か分からないけど、姫沙紀さんを守るために力を貸してくれないか?」


 嫌味が多く、妙なことを口走る変わり者で人間としては問題の多そうな青年だが、彼は礼人よりも一歩早く物事を察し、その一歩先の視点でかき集めたものを並べ替え筋道にする能力に長けているようだ。彼が礼人よりも一歩先に何かに気づいてくれれば、その一歩の差で姫沙紀を守れる。真剣に乞う礼人に、蒼士は姫奈を見つめながら言った。


「守れる場合と、守れない場合があるよ」


 襖が開く。蒼士と礼人は同時にそちらに顔を向け、襖に手をかけた麻美の姿を認めた。彼女は強張った表情をしていた。


「麻美さん。話し合いは終わったんですか?」

「いえ・・・・・・まだなんです。けど私、庭に上着を置きっぱなしにしているの思い出して取りに出たんです。そしたら今、小姫子伯母さんの離れの二階の窓に女の人が・・・・・・」


 即座に蒼士は立ち上がった。


「麻美さん。小姫子さんには僕が怒られます。だから今から離れへ行ってもいいですか。幽霊の正体を確かめます」


 蒼士の迫力に押されるように、麻美は「分かりました」と頷く。「姫奈ちゃんを、お願いします」と言うと、蒼士が和室を出たので礼人も焦って彼を追う。


「どうするつもりだ」

「丁度いい。昨日一日かけて調べた事を、証明できるかも知れない」


 蒼士はずんずん歩いて行く。前回と違い、離れの一階に小姫子の部屋があり、彼女は何人もこの離れに入るのを許さないことを知らされていたので、緊張感はいや増す。小姫子に見つかればただでは済まない。姫沙紀に対して狂乱した小姫子を思い出し、心から小姫子に見つからなければ良いと願った。


「一さん、嫌なら和室で待てばいい」

「お前だけ行かせて待ってられるか」


 声ひそめて互いの意思を確認し、渡り廊下を進んで離れに入る。階段を上ると、前とは違って廊下が薄暗かった。突き当たりの部屋の扉が閉まっていているので、廊下に光が射してない。足音を消して奥の部屋へと進む。進むにつれ前回と同じく煙草の匂いが強くなる。誰かが煙草を吸っている。扉の向こうに、蒼士は何があると期待しているのか。


「兄さん」


 扉の前まで来たとき、中から甘えるような小姫子の声が聞こえた。顔を見合わせた。


(中にいるのは、二十年以上前に死んだはずの藤蔭宗一郎なのか!?)


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