第13話
坂道を駈け下り、東西南北の道が交差する坂の下の十字路を東へ折れ、左右に田圃の湿っぽい土の臭いをかぎながら走った。
鉢の底の東側に点在する家の一軒、松影屋敷の影が懐中電灯の丸い明かりの中に現れた。門前に見慣れない男数人と大組長の松丸の姿があった。彼らの前に立ちはだかっているのは貴代だ。貴代は草臥れたネグリジェを身につけて、灰色の頭髪がぼさぼさに逆立っていた。山姥のように見えるのは、彼女が男たちに喚き散らしているからだ。
「うちが何をしようが勝手じゃないか!」
怒鳴る貴代に男達が言い返している。
「真夜中にモーターの音なんかさせたら迷惑だろう。しかも何時間続けていると思うんだ。二時間以上続けるなんぞ非常識だろうが、こんな真夜中に」
「だからどうした。帰れ!」
「良治を出せ!」
「作業中は納屋を覗くなと言われてるんでな、呼べないよ!」
彼らの近くに寄っていくと、腕組みして渋い顔をしていた松丸が礼人を見つけて小さく手をあげた。男達と貴代が言い合うのを数歩離れた場所で静観する構えだが、表情は苦り切っている。何がありましたと訊くまでもなく、松影良治が非常識にも真夜中に木工作業をはじめたのだろう。それがうるさいと近所の者が怒鳴り込んだのだ。
屋敷の裏手からは闇を振動させるようなモーター音が響き続けている。
村のあちこちで、うるさく犬が吠え続けていた。
「大変ですね。こんなこと、度々あるんですか」
声を落として礼人が松丸に問うと、彼は首を振る。
「たまにな。いつもは部落の皆は我慢するんだ。長くても一時間くらいで止めちまうからな。けど今日は延々二時間以上続けているもんで、皆の我慢が切れたんだ」
蒼士は犬があちこちで吠える闇をぐるりと見回し、喚きあう貴代と男たちの方へ向き直った。そして低い声で囁く。
「いくら非常識な奴でも二時間以上は妙だ。怒鳴り込まれるのはわかっているのに、あえて続けるなんて、おかしい。行ってみよう」
礼人の返事を待つことなく、蒼士は門へと向かって行く。慌てて追ったが、彼はかまわず、ずんずんと歩いて行き、喚きあう連中のところまで到達すると彼らには目もくれずその脇を通り抜けようとした。貴代が目をむく。
「なんだ、あんた! 勝手に」
声を無視した蒼士は庭に入ると、早足で母屋の脇を回り込み、モーター音がする裏手へと向かって行く。貴代が泡を食って追いかけはじめると、なし崩しに喚きあっていた男達も庭に雪崩れこんだ。礼人も戸惑ったが、松丸までもが駆けだしたので一緒に走った。
母屋を回り込むと、モーター音と、きゅるきゅる鳴る金属音が裏庭を圧するほどに響いていた。裏庭には母屋よりも一回り小さな納屋があり、中に明かりが灯り、モーター音と機械音はそこから響いている。
蒼士が納屋の入り口に到着していた。彼は一歩中へ踏みこもうとしたが、その場で動きが止まった。目を見開き中を見つめた。貴代が追いつき、
「あんた、何をして・・・・・・!」
と怒鳴りながら蒼士の二の腕を掴んだが、無反応なのを不審に感じたのか彼の視線を追って納屋の中に目を向け、ひっと悲鳴をあげた。掴んでいた腕を離すと、よろけて二、三歩後ずさり、土の上に腰を抜かしてへたり込んだ。男達と松丸が異常を察して我先に納屋の戸口に押し寄せたが、皆小さく呻き声をあげ、じりじりと後退する。
蒼士はその場を動かない。礼人は皆に遅れて裏庭に入り、松丸達や貴代が遠巻きにしている納屋の出入り口へと近づく。蒼士の隣り来ると、彼が礼人の肘を強く掴む。
「見て」
緊張した声と動かない視線。視線を追って納屋の出入り口から中を見た。
木工細工の作業場らしく、天井には裸電球が灯っていた。土間には木屑が積もり、壁際には材木が山積みだ。作業場の中心には腰の高さの作業台があるが、それは自作だろう。台の端には丸鋸台のように、材木をカットする巨大な丸鋸が取りつけられて勢いよく回転している。その丸鋸の傍らに誰かが突っ伏していた。あれでは頭が丸鋸に触れてしまう。
危ない、と言おうとしたが、言葉が途切れて喉の奥で引き攣った音になる。
丸鋸は、突っ伏した人の首の位置で既に回転している。鋸の刃がぬめぬめとタールのようなもので光り、突っ伏した人の足下に積もる木屑にも、ぬめった液体が大量に溜まっていた。既に首がない。丸鋸の金属音とモーター音が、急にうるさいほど耳の中で反響する。
(死んでる)
後退った礼人とは反対に、蒼士が動き出す。一歩納屋に踏みこんで中を見回す。
「ない。落ちた首が・・・・・・」
礼人は恐怖と驚きで気づかなかったが、蒼士の言うとおり、切り落とされたはずの頭部が納屋の何処にも転がっていない。そのかわり納屋の床から出入り口、裏庭から塀の裏口へと、点々と血の跡が続いていた。辺りに漂う生臭さが血の臭いだと、ようやく認識した。
何頭もの犬が遠い場所で吠え続けている。
「救急車。救急車を呼べ」
背後で松丸が叫んでいるのを、礼人は呆然と遠くに聞いていた。衝撃の余りに、救急車は無駄だな、きっと、と。そんなどうでも良いことをぼんやり考えていた。
一時間以上経って、やっと救急車のサイレンが近づいてきた。昨夜に引き続き、濃い闇に沈む村が回転する赤色灯に斬り裂かれる。
○○○
大組長の松丸は救急車を呼んだらしいが、それと一緒にパトカーもやって来た。
礼人と蒼士は現場にいたので、藤やの六畳で警察官から事情を訊かれた。
警察官は落ち着いた様子で、淡々としていた。東の山の端が薄紫に染まる頃、事情を聞き取った警察官は「念のため、村からは出ないで下さい。また明日以降、木戸さんの件と一緒に詳しく事情を伺いますので」と言って立ち上がった。昨夜の木戸樹里襲撃事件の時にも来ていた警察官だった。
「亡くなったのは松影良治さんですよね」
会釈して去ろうとする警察官に、礼人は確認した。すると彼は、「そうだと思いますが、まだ首が出てないんでね」と、困ったような顔をした。
「殺人ですか?」
蒼士が率直に問うと警察官は、「殺人、まさか!」と、軽く笑い声をあげた。しかし不謹慎だと思ったのか、すぐに表情を引き締め咳払いした。
「失礼しました。まだ鑑識が来てないからなんとも言えませんが、事故じゃないですかね。死体が首から掛けていたらしいタオルの先端が、丸鋸の芯に巻きついてました。作業中にタオルが巻きこまれて、首を持ってかれたんじゃないかと。都会の人は知らないでしょうが、農機具や工具の事故は、よくあるんです。二ヶ月ほど前にも三村町で、作業中に耕耘機に巻きこまれて人が亡くなった事故がありましたしね。しかも松影さんのあれは、自作の丸鋸台でしょう。あれは、いけませんな。ちゃんとしたメーカー商品なら、刃の上に安全カバーが付いてたり、回転軸が台の下に入ってたり、巻き込みもない作りですがね」
「でも、あの現場には首がなかった」
蒼士が言うと警察官はさも気の毒そうな表情になる。
「犬が、咥えてった可能性があるんですわ。引きずった跡が納屋から外へ続いていて、今、何名かが跡を追ってます。昨夜は野犬がかなり出たようで。飼い犬が興奮して首輪から抜けて、何頭も村中走り回っていたような有様で。今も、あちこち犬がうろついてます」
警察官はいかにも疲れた様子で溜息交じりに答えた。
「一昨日の夜は木戸さんが何者かに襲われて、昨夜にこれですよ? 関連性はないですか」
食い下がる蒼士に、警察官は「うんうん」と頷く。
「木戸さんの件は事件性があるでしょうが、今夜のこれは事件という感じはねぇ、しませんね。お屋敷には松影さんのお母さんもいたし、夜中にあんな音を立てていたら人が来ちゃうの当然ですからね。二夜連続と言いますが、不思議とこういう事故や事件は、連続して起こったりするんで。なにしろ発生した事象の様態が違いすぎますから。偶然ですよ」
蒼士が胡散臭げな表情を崩さないので、礼人は彼の耳に囁く。
「そんな顔をするな。どうしたんだよ」
「偶然は信じない。無駄吠えするのは飼い犬だ。印象操作だ。操作する必要があるって事は、殺されたんだ」
「どういう意味だ」
二人の会話は警察官に聞こえなかったらしく、「じゃあ、念のため勝手に村からは出ないように」と再び言い置き、出て行こうとすると遠く声が聞こえた。「首が出た! 首が出た!」と叫んでいるようだった。警察官は「お、こりゃ」と言って慌てて駆け出し、礼人と蒼士も顔を見合わせて外へ出た。
真夜中、警察車両と救急車両がサイレンととも村に入ると、鉢の中の民家ほとんど全てに明かりが灯った。家から人々が出てきて近所同士が寄り集まり、何だ、どうしたと言いながら、松影屋敷の周囲に集まったり、部落の一角で固まって遠くから眺めたりしていた。明け方になっても村の興奮状態は続いているらしく、道のあちこちに、パジャマやジャージ姿の人々がうろついている。
薄らと明るくなる鉢の底を、藤やの庭から見おろすと、三村町と成葉里村をつなぐ西側の路の方へ向けて警察官が何人も走って行く姿が見えた。村人たちも走って行く。
「どうする。行ってみるか」
問うと蒼士は「そうだね」と頷いたので、二人して早足で坂を下りた。坂を下り、東西南北の道が交差する十字路で西へと折れる。小川にかかったコンクリート製の橋、門橋があり、橋を渡ったその先の田圃の脇に長い棒を手にした警察官が六人いた。
三人の警察官は野次馬に「下がってください」と命じて現場周囲を固め、残り三人は田圃の側溝を覗きこんで何やら話し合っている。礼人達は群がる野次馬の背後に立ち、そこに何が見えるのか背伸びして確認しようとしたが何も見えなかった。
「どうなってんだ」
呟くと、前に立っていた老婆が振り返って親切に教えてくれた。
「松影の良治の首が側溝に転げ落ちてるらしいよ。犬が群がってたのを、お巡りさんが見つけたみたいだね」
「側溝に? そんなとこに首が」
「犬が咥えてきて取りあったんじゃないかって組長が・・・・・あれ。あんたは何処の人かね」
老婆がきょとんとするので、藤やに泊まっている写真屋だと名乗った。老婆は「ああ、あんたが村の中を撮って回ってる写真屋か」と言った。
老婆の隣りに立っていた中年の男二人が会話しているのが耳に入る。
「良治の奴は、あれだ。藤蔭屋敷に手を出そうとしてたから呪われたんだ」
「あいつ、藤蔭屋敷の風呂を覗いてたらしいぞ。あそこは女ばかりだからな」
「良治も正治も覗いてたらしいぞ」
「だから正治も行方不明になってるじゃないか。生きてないぞ、あれも」
「馬鹿が。そんなことするから。藤蔭に関わった男は死ぬのに」
悪し様に噂する村人の様子には、松影良治の死を悼む気配は感じられない。集まった者たちの言葉には、良治の死を当然の報いのように思っている響きがある。
「止めとけって言ってたのに。あいつらは聞かない奴だったし。俺は昔、藤蔭屋敷で女の子の幽霊見た事があるんだ。あれに目をつけられたら死ぬかもな」
「俺も去年見たぞ。あれも女だった。良治は、いくら言ってもやっても信じないから」
「藤媛は怖いって昔から言うのに。それを聞かん奴は、やっぱりおかしな事になるな。最後の大媛様だって藤媛にはかなわなかったのに」
藤蔭屋敷には幽霊話まで囁かれている。男達が早死にするのも、幽霊が目撃されるのも事実だ。だがその事実に、こじつけでも理由を求めようとすれば、藤媛になるのだろう。
不可解な事、理不尽な事、不安な事。あるいは突然の途方もない幸福が起こるとき。人はこじつけでも良いから、それらの現象に理由を求めようとする。それが民間伝承の中に現れる憑き物筋と呼ばれる家系を作る遠因になっていると、以前蒼士から聞いた。
今回もそうだ。突然の良治の死も、状況が異常である事に怯え不安を感じるからこそ、人はこうやって理由をつけて囁く。
ずっと黙って立っていた蒼士が眉をひそめ、礼人に話しかけた老婆に問う。
「ねぇ、お母さんも、藤蔭屋敷の幽霊を見たことある?」
「ああ、あるよ」
するりと、ごく自然に、蒼士が老婆に話しかけたタイミングの良さと慣れた口調に驚く。老婆も自然に蒼士に応えているのは、彼の会話の呼吸の取り方のうまさからだろうか。こんな特技があるから、ちゃっかり土地の人の家に上がり込み話を聞き出せているのだろう。
「いつ頃見たの? やっぱり女?」
「父ちゃんが生きてた頃に、畑からの帰りに、父ちゃんと一緒に見たよ。女の子だったよ。あと、今年に入ってからも見たよ。三月頃かね。蔵の辺りで女を見たよ」
「それは藤媛に関わりある幽霊なの?」
「さあねぇ、どうだが。靖友さん、孝さんよ。藤蔭屋敷の女幽霊は藤媛の関係かね」
老婆が隣の中年二人に問いかけると、彼らは「さあな」「そうじゃないか?」と、曖昧に返事した。何か気にかかる事でもあるのか、蒼士の表情はさらに険しくしなる。
蒼士は考え深げに「変だ」と呟く。
突然わっと、前方にいた野次馬が動揺した声を上げる。警察官が「こら!」という鋭い声を発すると、野次馬の人垣の一角が崩れた。崩れた空間を、痩せてはいるが肩や胸の筋肉が逞しい、短毛の中型犬が突っ切った。そのまま野次馬の間を縫って、こちらへ走って来る。野次馬は犬を恐れるように避けた。礼人も反射的に身をかわした。
真横を駆け抜けた犬の口の周囲が、赤黒く汚れていた。それが何の汚れが推測できたので、全身に嫌な震えが走る。犬は畦道へ入り、山の方へ駆けて行き姿が見えなくなる。
首に群がっていた野犬は警察官が追い散らしたが、未練がましく人間の隙を狙っていた一頭だろう。犬に咥えられた首が引きずられるのを想像すると、今、自分が立っている場所が気持ち悪くなる。この場所も、生首が引きずられた道だ。薄暗くて足下がはっきりしないだけに、血の染みや肉片が、アスファルトの隙間にこびりついてるような気がする。
野次馬も、礼人が感じたのと同様の気味悪さを感じた連中がいるらしく、数人がぱらぱら人だかりを離れ、自宅へ戻ろうと歩き出す。
俺達も帰るか? と訊こうとしたとき、蒼士が一点を見据えているのに気がつく。彼の視線を追うと、人だかりに背を向けて村の中心へと歩き出す一人の男の背中があった。
「見つけた。あいつだよ一さん」
背中を見せてゆっくりと歩く男が、ふと何か気になったのか背後を一度振り返る。その顔を見て息を呑む。その男は、礼人達が成葉里村に到着したその日、藤やで彼らを迎え入れながら、翌日に姿を消した三人のうちの一人だった。蒼士は男の背から目を離さない。
「一さん、つけよう」
徐々に夜は明けて山際辺りの空は薄青い明るさが滲み始めるが、鉢の底にある成葉里村にはまだ光が射さない。
男は迷いのない足取りで村の中心から南へ続く道を辿る。道はその先で蛇行しながら山の斜面へと向かい、その道に添うように家が密集し、一つの部落を形成している。下条だ。
「この様子じゃ、間違いなく村の人間だよな。このまま追って家を突き止めるか?」
男を追跡しながら、隣を歩く蒼士に問う。男は小さく欠伸しながら、急ぐでもなく坂を上っている。徐々に明るくなって分かったのだが、服装もパジャマの上に薄手のウインドブレーカーを引っかけて足元は草履履きという、いかにも野次馬として、のこのこ出てきたといったような格好だ。どう見ても村の人間だし、今から自宅へ戻るという雰囲気だ。
「この村の規模なら、顔が分かれば名前も住所も必然的に分かる。無理に家まで行く必要はない。まどろっこしいから、直接問い詰める」
「直接か? じゃあ、なんでさっき、すぐに声をかけて引き留めないんだ」
「あんな場所で変な騒ぎになったら、まずいでしょう」
蒼士は早足で、前方の男に近づいていく。礼人も慌て彼を追う。
足音に気がついたのか前を行く男が振り返った。男はすぐに彼らの顔が分かったようで、一瞬驚いたような表情をしたが、その後すぐに———人なつこい笑顔になった。
蒼士も礼人も逆にぎょっとした。男には悪びれる様子がなく、二人が目の前まで来ると「ああ、あんた達。祭に呼ばれた写真屋だったんだってな」と親しげに言ったのだ。
「訊きたい事があります。何故、あんな真似をしたんですか」
単刀直入に蒼士が切り出すと、男は目を丸くした。
「え、なんだ? どうした藪から棒に。なんのことだ。あんな真似?」
「藤やを開けて僕達を迎え入れた。何故ですか」
棘のある問いかけに、男は戸惑ったように答える。
「何故って言われても、当番だから俺が居ただけで」
意外な単語に、礼人は何度か目をぱちぱちさせて、おうむ返しに訊いていた。
「当番? 当番って、なんの当番ですか」
「あそこを開けた時の、当番だ。今年は下条が当たる年だ」
礼人と蒼士は顔を見合わせた。何がなんだか分からなくなったので、まず冷静に明を求めようという事になり、男に話を聞いた。
男はこの南の部落、下条の小組長だという。小組長というのは組長の下で雑用を仰せつかる人間らしく、各部落に数人居るらしい。各家の持ち回りの役だ。
彼が言うには、藤やは戦後は旅館として営業していたのだが、その歴史はさらに古く、村の開拓当初から存続していたらしい。もともとは村外から藤祭にやってくる客(主に村民の知人)を寝泊まりさせるために、村の共同運営で存続していた宿泊施設だったという。
各々の家に宿泊しきれない客は共同の宿に泊め、村全体でもてなしたのだ。
その名残で、戦後、藤やが旅館として営業を始める時も村人が当番制で客をもてなした。
戦後の貧しいときだ。村の収入源にする目論見もあったらしい。
木戸樹里が聞いてきた藤やが共同運営だったという話は、こういう意味だったらしい。
藤やは四年前、藤蔭家が藤やを廃止すると決定するまで続いており、村人は観覧版とともに回される藤やの当番表に従って三つの部落で、年ごとに藤やの客に応対していた。
宿泊予約の電話は藤蔭家が受けることになっていた。藤蔭家が宿泊予約を受けると、それは大組長に知らされ、そこからまた当番の部落の組長へと情報が下り、組長は日時と宿泊人数を記した紙と鍵をファイルフォルダーに入れ小組長へと渡す。
小組長はそれに従って、当日の客の迎えと夕食、風呂の準備をして客をもてなしていた。
「土地も建物も所有権は藤蔭にあるんだが、収入は全部村の共同収入になって、集会所の整備や道普請に使われてたんだ。けど四年前の藤祭のあとに、客もほとんどいないしというんで藤蔭家が廃業するって決めた。村の収入源で共同で運営してたとはいえ、所有者が止めると言えばもう止めるかって話になって。実際、俺達も当番は大変だから」
藤やの閉鎖が決定した後、鍵は藤蔭家に返され保管されている。
男は寒そうに腕組みして二の腕をさすりながら、教えてくれた。
「今回藤やが客を入れた事は、藤蔭家も、大組長達も知らなかったんです」
「知らないって、なんでだ」
男が驚いたらしいのが分かった。蒼士は淡々と続ける。
「勝手に誰かが予約を受けて、勝手に宿を開ける画策をしたんです。それなのに何故、あなたが当番をする事になったんですか」
責められていると感じたのか、相手は眉をひそめる。
「先月の回覧と一緒に、藤やのファイルケースが玄関に置いてあったもんだから再開したのかと思って。俺は村の総会にあんまり顔を出さないから、先月の総会で決定したんだとばかり。近頃、俺たちの年代じゃ年寄りみたいに地域にべったりじゃない奴らも多いし、俺だけが地域活動に非協力的っわけでもないし、村八分にされているわけでもないし」
言い訳がましいことを言うのは、地域の交流や行事に積極的でないことを後ろめたく思っているからだろう。昔ながらの風習も交流もうざったいが、最低限のつきあいや義務はこなしているのだと言わんばかり。陸の孤島のような村にもそういった現代的な風潮が徐々に入り込んでるのだ。男は続ける。
「しかも、ちゃんとファイルが回ってきてる。そこに何月何日、これこれという客が来るから、俺の小組三軒でもてなすようにって名簿が入ってた。組長に確認すりゃ良かったんだろうが、大概こういうのは突然来る。今年は祭の年だから例年にない事は結構ある。ケースには鍵も入ってたし疑わなかった。だから亮さんとこは嫁さんが出て、イッチャンちはその日忙しいからって、中学生の娘が来て。当番はその日の夕飯までだったから、あんた達の飯が終わって俺達は帰ったんだ」
「そのファイルケースは何処にありますか? 中に入っていた名簿や指示書は」
礼人の質問に「藤やに置いて帰ったよ。宿を開けたら、そこに鍵を含めた全部置いとく決まりだから」と、男は答えた。
そんなファイルケースが藤やにあっただろうか。思い返してみるが記憶にない。
もし男が正直に話しているとすると事態は一層不可解だ。勝手に藤やを営業するという妙な嫌がらせをするために、それを仕掛けた犯人は赤の他人を利用した事になる。ここまで手の込んだ仕掛けをするとは、どういうつもりだろうか。
語った男の態度にも説明にも不審なところはない。しかも「何なら、亮さんとこの嫁とイッチャンちの娘に訊いてくれ。俺がこれから呼んでやる」とまで言うので、まず彼の言葉は事実らしく思えた。蒼士もそう感じたらしく、きちんと男に向かって頭を下げた。
「確認する必要はないですから、ありがとうございました。お引き留めして、すみません。ありがとうございました」
疑問はさらに深まりつつも、礼人も頭を下げ蒼士とともに歩き出した。
「まったくなぁ、一つ家(や)は、昔から面倒くさい事ばっかりだ」
男がぼやいた声が背中越しに聞こえた瞬間、蒼士が足を止め振り返った。
「待って下さい! 今、なんて言いましたか?」
坂を上りかけていた男に、蒼士は急き込んで問う。
「一つ家は昔から、面倒な事ばっかりだと言ったが」
「一つ家・・・・・・藤やの事ですよね。昔からそう呼ばれてるんですか」
訊いた蒼士の声が上ずっている。何がそんなに彼の興味を引いたのか、分からない。
「藤やは、戦後につけた宿名だ。昔の人は皆あそこを一つ家って呼ぶんだ。俺は婆さんっ子だったから、婆さんを倣ってそう呼んでるが」
蒼士は「ありがとうございます」と今一度頭を下げ、黙々と坂を下り始めた。
「おい。今のはなんだよ。そもそもあの人は誰かに利用されただけみたいだったし。藤やの事を仕掛けたのは誰なんだよ。なんでこれほど手が込んだ事するんだ」
「藤やの件を仕掛けた犯人は、村の事情に精通している誰か。藤やの運営方法も、地域の組織も正確に把握して、なおかつ藤蔭屋敷に保管してある鍵を何度も持ち出せる人間」
「藤蔭屋敷に何度もこっそり出入り出来るとしたら、誰だ?」
「あの広い屋敷には五人しか住んでないし、昼間は屋敷の鍵は開きっぱなしだから、村の人間なら誰でもこっそり出入り出来るんじゃない? ただ藤やの鍵の位置を正確に知っていた者となると、限られるだろうけど」
「藤蔭屋敷に何度も出入りしているような奴か? となると松影さん達、やっぱり。姫沙紀さん達への嫌がらせで」
「もしくは、屋敷の中に居る誰かがやったか」
「姫沙紀さんか、麻美さんか、小姫子さんてことか? 桜子さんは無理そうだが」
「もう一人、あの屋敷には住んでる可能性もある」
藤蔭宗一郎の部屋を思い出す。あそこには姫沙紀でも麻美でも小姫子でも桜子でもない、もう一人の気配があった。
「どうなってんだ」
「分からない。ただ藤やは、単純な悪戯や嫌がらせで開かれたんじゃない。開かれた事に意味があるんだ。藤やは過去、一つ家と呼ばれてた・・・・・・というか、藤やは本当は一つ家だった。僕たちは一つ家に誘い込まれた獲物だ。となると木戸さんが探している四年前の登山者、鈴木俊之も僕たちと同じなのか」
「誘い込まれた獲物?」
響きの忌まわしさに思わず立ち止まった。すると蒼士も立ち止まり振り返る。
「一つ家っていうのはね、女が男を誘い込んで交わって最後に石で打ち殺す場所なんだ」
「なんだよ、それ」
蒼士が口にしているのは礼人も逗留している家のことなのだ。あの場所に誘い込まれたというのが、あまりにも気味悪い。
「三村町の図書館にお願いしていたデータが、昨日届いてた。それでわかったんだ。やっぱりここは、明治になるまで徹底的な隠里だったんだ」
薄紫の夜明けが、里山の上を覆っていた。一日の始まる清々しいはずの明るさが、蒼士の語る言葉とちぐはぐで、現実感が遠のく。
「三村町の図書館に収蔵されてた江戸時代の人別帳の写しをデータファイルにして送ってもらったんだけど、そこに成葉里の地名が出て来ない。江戸時代、現代の戸籍と同等の役割で人別帳が作られた。人別帳は地域の檀那寺が自寺の檀家と認めて宗門人別帳となって、藩政の管理に使われたんだよ。それほど寺は、全国津々浦々にあった。この規模の村で寺がないのは不自然なんだ。けれど何かの理由で・・・・・・例えば、村が貧しすぎるとかの理由で、勧進できないことはある」
確かに、藤蔭屋敷の裏手の山から見おろした村の中には、寺らしきものが見あたらなかった。蒼士は礼人の答えを待たずに続ける。
「成葉里には寺がないから、檀家になるなら三村町の何処かの寺に入るはず。でも、それが見たあたらない。で、明治時代の戸籍にはじめて成葉里の文字が出てくる。おそらく明治になってはじめて、そこに村があると行政組織が認識したんだ。新潟県や京都府北部にも、そういった例があったらしいよ。そこまで人知れず存在するには色々な理由があるけど、成葉里は村の成り立ちが原因じゃないかと思う」
彼が語り出した内容は、礼人の質問の答えには全くかすりもしないように思えた。
「村の成り立ちと、一つ家と関係あるのか」
「あるよ。ここは藤媛が拓いた場所だから、村が隠され続けていた理由が藤媛の性質と強く結びついてる。ここを拓いた藤媛が外との接触を極端に拒んで、隠れ続けるのを望んだんだ。隠れる理由は、執政者に見つかれば誅される可能性があるからでしょ」
「落ち武者とか、そういったもんか」
「もしそうなら、某の媛とか某の家臣とか、来歴にまつわる伝説が残って良いはずだ。けど藤媛には、藤媛そのものの伝説しかない。村は中世には拓かれていた可能性がある。中世は女性が自由に旅したし、南北朝までの時代であれば女性でも荘官や御家人、名主にまでなれる時代だ。強い女のリーダーが存在できる空気があった。ただ藤媛は公の権力は持たず、あまつさえ人目を忍んで隠れ、それでもなお村人を富ませた。何をやったんだと思う? こんな山奥で。中国山地に点在する、たたら場の痕跡もない。田畑を作るには、平地が少なすぎて収穫量はあまり見込めない。山里に多い狩猟や炭焼きを生業にしてたなら外部との交流は必須だから、それもしていなかった」
見当もつかない。礼人の真っ白な脳内を察したらしく、蒼士はすぐに答えをくれる。
「盗賊団だ」
「盗賊? 女が?」
「三重県鈴鹿山脈はかつて京都との交通の要所だったけど、そこには女盗賊の伝説が残ってる。鈴鹿御前、別名は立烏帽子として室町時代以降、広く認識されてる」
「なんとなく聞いた事あるけど。俺が聞いたのは、鈴鹿御前ってのは武人を助けた女神だったとか、なんとか」
「だから似てない? 藤媛も神として崇められていると同時に、呪うとも恐れられている。盗賊であったら、外のに人間にとっては恐怖の対象だけど、中の人間にとっては自分達を守り富ませてくれる女神だ。従順な者は守り、逆らう者は祟る。双方の性質を合わせ持つのは何かを守る存在だ。例えば境界の内側と外側を守る橋姫みたいに。鈴鹿御前の伝承が確立したのは室町時代。それ以前の平安末期の『今昔物語』にも『古今著聞集』にも女盗賊の話がある。珍しくなかったんだよ女盗賊は。彼女達は、群盗として組織を維持していた。藤媛だってこれだけ長い年月村として形を残せたんだから、かなり厳格な組織を確立していたはずだよ。だからこそ一つ家、———藤やが必要だったんだ。浅草の石枕伝説。聞いた事ない?」
「知らないよ。なんだそれ」
「『廻国雑記』とか、江戸時代の黄表紙にも脚色激しいものが載ってるけど、要するに旅人を若い女が誘い込み、寝入ったところを石枕で頭を砕いて殺し金品を奪うんだ。でも成葉里村の一つ家の場合は金品が目的じゃ無い。おそらく、藤媛が交わる相手を物色するために始まったんだ」
「交わるって。男は盗賊団の中に大勢いるだろう」
「藤媛が男なら、仲間の女に次々子どもを産ませても良かったろうね。けど藤媛の場合は、彼女が子を産むしかない」
強い風が吹き蒼士の前髪が揺れる。
「藤媛が生んだ子が、絶対的な力を引き継ぐのは明白だ。配下の誰かの子を産んだら、その男が父親として特別な地位を手に入れる。そうなれば組織の均衡が崩れる。それを嫌って藤媛は、子を授かるためだけの相手を探した可能性がある。子を授かった後には、男は殺さなきゃならない。生きていたら組織の均衡を崩す要因になるからね。毎年子どもを産むなんて、できないから、四年に一度男を物色した。その日、男達を誘い込む算段をしたのが祭の始まりかも。千年藤の根元に童人形を備えるのが象徴的だ。麻美さんが教えてくれた祭の囃子詞も、そう考えれば意味が明確になる。『こなせ』は『子を成せ』に通じる」
呆然と彼の言葉を聞いていたが、今立っている成葉里という地から、忌まわしい穢れがゆっくりと足の甲に這い上り足首を掴んでいるような気持ち悪さを礼人は感じていた。なんの変哲もないと思っていた里山の住人たちの祖先は隠れ住んだ盗賊団で、なおかつ外部から男を誘い込み契り殺すような風習があった人々だったというのだ。
「村を拓いた藤媛は、かなりの手腕の持ち主だったんだろうね。彼女の存在を強烈に慕った村人達はその後も女の首領を望み続け、女が代々首領となり村を統治したんだ。そこで必要であり続けたのが彼女たちが子孫を残す一つ家で、藤祭だ。それが藤媛信仰の始まりだったんだ、きっと。大媛様というのは要するに、盗賊の首領を意味したんだ。それが時とともに盗賊団としての性質が薄れ、巫女的な存在として神格化していったものなんだ」
徐々に明るくなる空の一点を見つめながら喋る蒼士は無表情だが、自分の発見に興奮しているような目をしていた。
(ここが盗賊達の隠里だったのか)
藤蔭屋敷が藤媛の子孫だとすると、もし姫沙紀が数百年前に生まれていたら、彼女は盗賊の首領となる定めだったということ。大媛様と呼ばれ、村人を統率し、夜陰に紛れ、山深い中国山地を旅する者や、無防備な村を見つけて襲いかかったのだろうか。
寝静まった山里を望む高台に、ぽつん、ぽつん、と小さな松明の明かりが灯る。村人達は昼間の野良仕事で疲れ切って眠りこみ、誰も高台の灯りを見とがめる者がいない。山肌を、草臥れた着物を荒縄で腰にくくりつけた、荒々しい顔つきの男たちが足音を殺して下りてくる。何十人もの男達は、手に錆の浮いた刀や棍棒を持ち目をぎらぎらさせている。
その先頭には、美しい女が一人。ただ彼女の表情は冷酷そのもの。薄ら笑うと、男たちに鋭く命じる。「行け」と。
男たちが駆け出す。次々に農家の戸を蹴破り押し入り、飛び起きる男達を棍棒で殴り殺し、あるいは刀で斬り伏せる。逃げ惑う女子どもを笑いながら追いかけ、捕まえ、引きずり出す。家に火を放つ。庄屋の家に踏みこんだ連中は、殺戮と同時に蔵に取りつき、米や布、金目の物をあさる。
大媛様はずっと薄ら笑いをしながら、配下の非道ぶりを見つめている。
人など住まぬと思っていた山中からやって来て殺戮と盗みを繰り返す盗賊団は、近隣の者たちにとっては鬼に等しかっただろう。そんな映像が幻視のように目に浮かぶ。
「中世、男を誘い込む場所が成立した当初は、一つ家なんて名前じゃなかったはずだ。石枕伝説の流布よりも年代はずっと前だから。けど後の時代に、石枕の連想から一つ家と呼ばれ出したんだと思う。昔の人のブラックジョークだよ。近代化して村が盗賊を生業にしなくなってから、一つ家の役目はただ外部の客をもてなす場所になったんだろうね」
「藤やが昔そんな役目を持っていたとしても、なんで俺達が誘い込まれたことになるんだ」
「だって実際、開くはずのない場所を何者かが開いたんじゃないか。しかも祭の時期に合わせて。その人は待ち構えていたんだよ、誘い込まれる僕のような間抜けをね。そしてただ待っているだけじゃ飽き足らず、一さんのような商売をしている人を物色して偽の仕事を依頼して誘い込んだ。一さんに来た偽の仕事の依頼も、藤やが勝手に営業されたことも、目的は同じなんだ。誰でもいいから男を誘い込みたかったんだ。だから僕の宿泊は受けても、木戸さんの宿泊は拒否した。しかも拒否したのに村に乗りこんで来てあれこれ嗅ぎまわる木戸さんに腹を立てて、苛立って襲いかかったんだ」
「だからそいつは誰だよ!」
気味悪さが昂じて苛立ちになり、声を荒らげた。
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