第12話

 樹里を連れて藤やに帰ると、彼女に風呂を使ってもらった。警察に通報し、警察が到着するまでの間、礼人は藤蔭屋敷に連絡をした。樹里が何者かに襲われたことを知らせ、警察が到着する間彼女を藤やに滞在させる許可をもらうためだった。もちろんかまわないと姫沙紀から返事をもらったが、その後すぐに姫沙紀は、麻美と姫奈を伴って藤やにやって来た。温かい飲み物と女性ものの着替えを持って来たのだ。その気遣いが細やかで女性らしいと、感心した。礼人は着替えのことなど思い至らなかった。

 麻美は樹里に対して「しつこい」と苦情を言っていたが、彼女が死にかけたことで不満が吹っ飛んだのか、声をかけ気遣っている。姫沙紀と麻美と姫奈は、樹里を囲んで礼人の部屋に入った。姫奈がいることで場が和むのか、二、三度小さな笑いが聞こえた。

 礼人もずぶ濡れだったため風呂を使った。しかし女性ばかりの部屋に入るのは躊躇われ、玄関先に出ていた。蒼士は樹里を藤やに連れてくると、また奥の池の方へと引き返していった。気になることがあると言うのだ。樹里を襲った人物がうろついていたら危険だと注意したが、彼は自信満々に「僕は大丈夫」と請け合った。彼の大丈夫という言葉を信じる気になったのは、彼が樹里の危険を察し、その通りになったからだ。彼が危険と言えば危険で、大丈夫といえば大丈夫なのだろう。


(あいつの言ったとおり、夜の八時も真夜中も暗闇は同じだ。車も、車道が整備され安全を保証されている環境だからこそ、安全なものなんだ。下手に走らせたら命取りだ)


 樹里を呼び出した犯人は、おそらくそれを承知していた。

 夜に一人で呼び出せば、車を乗り回している彼女なら必ず車で来る。一本道に誘い込み襲いかかれば、彼女は逃げようとして車を真っ直ぐ発進させる。樹里は犯人の思惑通りに車でやって来て、犯人に襲われて逃げ出した。道幅が狭いため、何度も切り返してUターンする以外は上へ向かって車を走らせるしかない。その先は開けた草地に見える。昼間ですらそう見えるのだから、ヘッドライトの明かりしかない暗闇の中では、間違いなく草地と認識したはずだ。樹里はそこでUターンしようとして車を直進させた。


「でも、誰なんだ」


 四年前の行方不明者を探しに来た彼女を危険視し、誰かが殺そうとした。それは四年前の登山者の行方不明には何らかの事件性があり、しかもそれに関わる人物が村の中にいるという証明に他ならない。そんなことを考えていると、坂の下辺りで懐中電灯の光りがちらちらと動いた。明かりは坂を上ってくる。


「追い出された?」


 砂利を踏みながら、懐中電灯を手にした蒼士が庭に入ってきた。


「遠慮したんだ。女の園みたいになってたから。遅かったじゃないか。何をしてたんだ」

「あのお姉さんを襲ったのが誰が、手がかりがないかと思って調べてた」

「警察が来る前に、現場を荒らしちゃまずいだろう」

「荒らしてないよ。自分が歩き回った範囲しか歩いてないし、あいつが投げ捨てていった斧にも触ってない。触って指紋が残ったら僕が怪しまれるだけだからね。あの斧には、指紋なんかついてないだろうから」

「なんでそう言えるんだ」

「あいつ、軍手をしてた」

「襲った奴の顔を見たのか」


 息をつきながら、蒼士は玄関脇にしゃがみ込んだ。暗闇しかない遠く山の方を見つめる。


「顔はわからなかった。喪服のような妙な振り袖を羽織ってた。あんなもの特別に作らせなきゃ、あるわけない。この村で特注の振り袖を作らせる財力があるのは、きっと・・・・・・」


 蒼士の前に飛び出した影が着ていたのは振り袖だったらしい。だから礼人の目には輪郭がぼやけ、マントを着ているように見えたのだろう。


「ついでに足跡がないか調べたら見つけたよ。ゴム長靴みたいたな足跡が残っていた。あの影が走った経路に残ってたから、あいつの足跡に違いないと思う。あいつは振り袖着て、ゴム長靴履いて、軍手をはめてたんだよ。しかも足跡の大きさは僕よりも大きい。二十八センチはある。あと、足跡はもう一つあった。こっちはスニーカーの足跡みたいで、二十六センチ程度かな? 中背の男か足の大きめの女、どちらかだ。廃屋の影に潜んでいたみたいだけど、ゴム長の足跡とも交差していた」

「犯人は複数か? 男か?」


 男と口にして、自分でぎくりとしたのは、藤蔭宗一郎のことを思い出したから。しかしそれと同時にもう一人も思い出す。


(松影正治)


 行方知れずになっているが、失踪が発覚すると同時に、礼人はまさにあの襲撃者が現れた現場の涸れ井戸で、奇妙な現象に出くわしているのだ。


「複数犯かどうかは分からない。スニーカーの足跡は以前からあったものかもしれないし。ただゴム長靴の足跡だけは、あいつのものだろうね。振り袖着て、ゴム長靴履いて、軍手した男か。笑えるね」


 全く面白くなさそうに蒼士が言う。礼人は笑えるどころか、気味が悪くて眉をひそめた。


「あの・・・・・・」


 玄関が遠慮がちに内側から開き、姫沙紀が顔を覗かせた。礼人と蒼士が同時に振り返ると、彼女は樹里のいる座敷の方を気にする素振りをしながら、静かに玄関から出てきて後ろ手に戸を閉めた。


「すみません。ご相談が。こんなこと、一さん達にご相談することではないと思うんですが。私だけでは判断がつかなくて。今さっき、木戸さんを呼び出したメモ用紙を見せてもらったんですが。その文字に見覚えがあって」

「誰の字ですか」


 鋭く蒼士が問う。


「祖母の桜子の文字とよく似てます。祖母は、曾祖母の余姫が命じていたので、毎日子供用の手本で、書き取りの練習をするのが日課なんです。毎日私が、ここをこの紙に書き写してねと言うと、ちゃんと書き写しています。毎日のことなので、書いた紙はある程度まとまると捨てるんですけど。毎日見ている文字にそっくりなんで、驚いてしまって」

「まさか桜子さんが、木戸さんを呼び出すわけはないですね」


 礼人の言葉に蒼士が頷く。


「誰かが桜子さんに、あの呼び出しのメモを書けと指示して書かせたかもね。家族以外に、桜子さんにそんな指示が出せる人はいますか?」

「祖母の部屋に入り込めば、誰でも指示できます。祖母は、その・・・・・・誰の言うことでもきいてしまうので。だからそのことを警察に言うべきかと考えたんですが・・・・・・ただ、そうなると祖母に接触できる家族が真っ先に疑われます。疑われるのは正直嫌なんです」


 きっちりと髪を束ねている姫沙紀の項が、オレンジ色の玄関ポーチの明かりに照らされて艶めかしく白い。礼人は姫沙紀が、相談一つする相手を持たないことを憐れに感じた。


「警察には話しましょう。俺たちが犯人を目撃しているんで、藤蔭屋敷の人は関係ないと証言できます」


 励ますように言う礼人を、蒼士が冷たい横目で見やる。


「関係ないとは証言できないよ。僕たちは犯人の顔を見たわけじゃない」

「お前、失礼だろう姫沙紀さんに。藤蔭家に、木戸さんを襲った犯人がいるかもしれないといってるのと同じだぞ」

「そうだよ。事実を言ってるだけだ。藤蔭家の桜子さんが木戸さんを呼び出すメモを書いたとしたら、桜子さんを含めた藤蔭家の全員、犯人の可能性がある。それは姫沙紀さん、麻美さん、姫奈ちゃん、桜子さん、小姫子さんの五人に限ったことじゃない」


 姫沙紀は良くわからないと言いたげに首を傾げたが、礼人ははっとした。


(六人目の人間がいるって言いたいのか)


 宗一郎の部屋のことを、蒼士は気にしているのだ。彼は続けて問う。


「姫沙紀さん。柄も家紋も入っていない、黒一色の振り袖が藤蔭屋敷にありませんか?」

「どうしてご存知なんですか? 曾祖母の余姫が村の者から相談を受けるときに、黒の振り袖を身につけてました。曾祖母が亡くなったのと同時に、土蔵に仕舞いましたが」

「蔵の中にその着物はありますか?」

「わかりません。曾祖母が亡くなった後すぐに蔵の鍵は紛失して。蔵の中には、特に必要なものがあるわけでもないので、誰も開けてみようとしたことがありません」


 人さし指と親指を擦り合わせながら、蒼士は暗闇を見つめて考え込んでいたが、暫くすると立ちあがった。


「メモの件は、警察に言わなくて良いんじゃないですか? 訊かれれば答えればいいけど」

「それじゃあ、姫沙紀さん達が不安だろう」

「不安がる必要ないよ。そいつがもし姫沙紀さん達に危害を加えようとしているなら、とっくの昔に危害を加えてる。犯人はただ、あのイノシシお姉さんが邪魔だっただけ」


 「でも」と戸惑う様子で、姫沙紀は礼人の顔を見た。信頼して意見を訊くような仕草に、礼人は頷き返した。


「姫沙紀さんが決めれば良いんです。俺は警察に知らせるべきだと思いますが」

「姫沙紀さん」


 玄関戸が開いて麻美が顔を出し、姫沙紀にスマートフォンを差し出す。


「鳴ってたよ。電話、良治さんからみたい。切れたけど・・・・・・」

「え? 何かしら」


 迷惑そうな顔をして受け取った途端、スマートフォンが鳴り出す。ティスプレイに表示された松影良治の文字が見えた。姫沙紀は礼人と蒼士に「すみません」と頭を下げ電話に出た。電話の向こうから、もそもそと喋る声が漏れてくる。姫沙紀は眉をひそめ、礼人達から距離をとって庭の方へ出て背を向ける。麻美がその様子を見ながら、「いやらしい」と呟く。そして礼人達に向かって、思い切り顔をしかめた。


「良治さんも正治さんも、ああやって姫沙紀さんに度々電話をかけてくるんです。松影屋敷に遊びに来いとか、遊びに行っていいかとか言うみたいで。二人でつるんでたり、別々だったり。姫沙紀さん、いつも断るのに苦労してるんです」

「そもそも松影良治さんと正治さんっていうのは、どんな人ですか」


 呆れた礼人に、麻美は待ってましたとばかりに口を開く。


「良治さんは、十年前くらい前までは結婚してたらしいんですけど、女癖が悪くて奥さんが逃げちゃったんですって。正治さんは結婚したことなくて、若い頃から女の尻ばっかり追いかけ回してたって。二人して売れもしない木工細工なんかして、ぶらぶらしてるもんだから財産もなくなって。良治さんと正治さんと、お母さん貴代さんの三人暮らしなんですけど。お母さんの貴代さんも、長男を藤蔭家にとられたもんだから、その反動で良治さんと正治さんを、家長だと持ち上げ続けて。なにをやっても文句一つ言わないんですって」


 忌々しげに、麻美は続ける。


「とにかく良治さんと正治さんは嫌らしいんです。私が藤蔭屋敷に来た当初、なにも知らないものだから愛想良く振る舞ってたんです。そしたら徐々に嫌らしいことを言いだして。きっぱり撥ねつけましたけど」


 そういった種類の男が残念ながら存在する。礼人が彼らに嫌悪感を覚えるのは、そういった種類の男たちが、女性を『女』という対象としてしか見ていないからだ。女性に対して、人としての人格を認めてないらしいと察せられるからだ。

 遠くからパトカーのサイレンの音が響いてきた。通報してから一時間以上経っていた。



 警察も救急車も緊急出動したにもかかわらず、到着するのに一時間以上を要したのは、この地域が地理的に孤立しているからだ。単純な速度と距離の計算で、警察や消防はこの地への到着時間は三十分以内と見積もっているかもしれないが大間違いだ。杉木立を抜ける一本道は細く暗く、訓練を受けている警察官でも、不慣れな者は容易にスピードを上げられない。一歩間違えれば沢に転落する恐怖が、アクセルを踏み込ませないはず。

 木戸樹里は念のため救急車で病院まで搬送された。救急車に乗る間際、彼女は礼人と蒼士に向かって頭を下げ、「気をつけてください、二人とも」と神妙な顔をして言った。


「大丈夫ですよ」


 樹里の顔色はまだかなり青白かったので、ショックは残っているらしい。安心させるために礼人が笑顔で答えると、樹里は首を振った。


「私も大丈夫だと思ってたんです。気をつけてください」


 念を押すように視線を向けてくる彼女に礼人は気圧されたが、蒼士は薄く笑顔を見せた。


「大丈夫。僕はイノシシじゃない」


 樹里はむっとして口をへの字に曲げたが、そのせいでいくぶん顔に赤みが差したようだった。「とにかく、気をつけて下さい」と言って救急車に乗りこんだ。

 警察官達は車が水没した現場を確認し、証拠品や足跡の採取を済ませると朝には引きあげた。後日、礼人と蒼士には事情聴取をするので連絡すると伝えられた。

 礼人の感覚からすると、あまりにもあっさりと警察が引きあげたのに拍子抜けした。人一人が死にかけたのに、こんな簡単なことで良いのかと。警察官は、傷害事件か、もしくは殺人未遂事件になるかもしれないとは言っていたが、どこかのんびり構えている感は否めない。その不満を蒼士に漏らすと、


「ナイフを持った人間が駅をうろついてたとか、刃物を持った奴に追いかけられたとか、ニュース沙汰にならない未遂事件はごまんとあるからね。嫌なことだけど」


 と無表情で答えた。姫沙紀が呼び出しのメモ用紙の文字を気にしていたが、そんなことを気にする必要もなかった。いずれ捜査が進み、その途中で問題視されるかもしれないが、とにかく当面は問題にならないようだった。

 昨夜はほとんど眠れなかったために、関係者たちは仮眠を取ることになった。姫沙紀と麻美が姫奈を連れて屋敷に帰ると、礼人も蒼士も布団に潜りこんだ。

 一時間ほどで目が覚めた礼人は、不規則な睡眠のために頭がぼんやりしていた。もう一度寝ようかとも思ったが、さして眠くもなかったので散歩に出た。ついでに思い立ち、昨夜車が水没した場所へ行ってみた。池の周りには黄色い規制線が張り巡らされていたが、その手前に大組長と組長たちの姿が見えた。大組長の松丸に挨拶すると、「災難でしたなぁ」と目尻を下げて挨拶された。


「しかし人命救助したってのは、立派です」

「いや、あれは俺の手柄じゃなくて、どちらかといえば同宿の大学生のお手柄ですけど。皆さんどうされたんですか、こんなところで」

「池に車が沈んだのを、どうやって引きあげるかと相談していてな。もちろん費用は、池に車を落としたナントカって言う探偵事務所に払ってもらわにゃならんが。そもそも引きあげるにしても、村に大型のクレーン車は入れられんからな」


 松丸の表情は険しい。彼が言うとおり、成葉里村へ続く道は杉木立を抜ける一本道しかないため到底大型クレーン車は通れない。


「面倒な事故を起こしてくれたもんだ」


 下条の組長が言うので、礼人は樹里を擁護するつもりで言った。


「ただの事故じゃありません。得体のしれない人間に襲われて、逃げようとして池に落ちたんです。俺はその現場に居合わせたんで犯人も見たいんです」

「本当かね。襲われたって、誰が襲ったんだ。村の者か」


 驚いたように訊いたのは条奥の組長だ。


「それがわからないんです。黒い振り袖を着た人物で」


 大組長の松丸を含めた組長全員の表情が強張った。互いに視線を交わす。


「黒の振り袖は、藤蔭屋敷の余姫という方が着ていたと聞きましたが」


 松丸が腕組みして嘆息し、視線を池の方へと走らせ嘆くように言う。


「最後の大媛様か。よりによって藤祭の年に、妙なことがあるもんだな」


 条奥の組長が呟く。


「あれよな、最後の大媛様はやっぱり藤媛様を封じきれなかったから」

「滅多なこと言わないでください。俺はあそこの宗一郎と同級なんですから。そんな

迷信めいたこと皆が言うから、宗一郎が気にしてたんです」


 下条組長が遮る。そこに、


「雁首揃えて、組長連中が何をやっているんだかな」


 礼人の背後であざける声がした。グレーの作業服らしきつなぎを身につけた松影良治が、にやにやしながら下草を踏み分け、こちらに近づいてくる。


「どうした良治」


 松丸が声をかけると、良治はにやにや笑いのまま礼人の顔を見ながら通り過ぎていく。それが癇に障った。なにがそんなに面白いのか優越感を滲ませる嫌な笑いだ。


「昨夜は変なものが出たと聞いたから、どんな様子になっているか見ておこうかと思って」


 組長達に並ぶと、良治は背伸びして池の方を覗いて声をあげて笑う。


「こりゃ。あの女の車は完全に沈んでるじゃないか。いい気味だな、あの女。あんな女は、ちっと水に浸けて頭を冷やさせればいいんだ。あんな女は二度と村に来ないように言っとけよ、松丸さん。あんな女はやる以外に利用価値はないだろうが、俺はごめんだしな。俺はもっといい女に突っこめるからな」


 はしゃいだように言うと、自分の言葉に受けたらしく大声で笑う。しかし笑ったのは良治だけで、組長達は嫌な顔をした。礼人は心底不愉快だった。しかしもめ事を起こすのも良くないのはわかりきっているので、回れ右して池から離れようとした。すると良治がこちらを見て、「なんだ、帰るのか写真屋」と声をかけてきた。


「今度、お前に仕事を頼んでやるよ。いい写真を撮れよ。俺と美女の濡れ場なんてどうだ」


 笑うのを背中で聞きながら、礼人は吐き気に似た嫌悪を感じながら藤やに帰った。帰り着いてもその日は一日中腹立ちは治まらず、カメラを携えて仕事の写真を撮り歩きながらも時折思い出しては、怒りがぶり返すという始末だった。

 日が落ちる頃に藤やに戻ると、蒼士が布団から這いだしてきた。程なく麻美が運んできた夕食を、ぼうっとしながら食べ終わった彼は、あれだけ寝たにもかかわらずまだ寝たりないのか、食後の歯磨きを終えるとすぐに座卓の傍らの畳の上でごろ寝した。数時間畳の上に丸まって眠ったが、真夜中近くになってようやく目覚めた。しかし体が怠い、痛いと言って、ぐずぐずとその場に寝ころんでいた。蒼士のだらしなさに呆れながらも、礼人は仕方なく自分の布団を敷き、蒼士の布団も彼がごろ寝する近くへと引っ張ってきてやった。

 蒼士が文字通り自分の布団へ転げ込むと、礼人も電気を消して自分の布団に入った。

 豆電球が一つ灯された薄闇の中、布団を並べる格好になった。


(ここも天井が低いな)


 布団の中から天井の板目を眺めながら、谷中の『にのまえ写真館』のクロス張りの天井を思い出すと、自分が今こうやって見慣れない天井を見上げているのが不思議だ。

 営業を始めてから母が亡くなるまで、礼人は一週間以上店を離れることはなかった。出張仕事がメインなので店はほとんど使われず、店舗奥の簡易キッチンとトイレ、二階の二間続きの京間六畳が礼人の生活スペースとして活用されているだけだ。母と優穂は別のアパートに住んでいたので、そこは礼人だけの城だ。大柄な礼人が大の字になって寝ころべばほぼ一杯になるほど、京間の六畳は狭い。流し台も低いし、トイレなど両壁の隙間にねじ込むようにして体を入れる。安っぽい合板の壁も、四隅がめくれた天井クロスも、侘しいことこの上なかったが、それでも彼にとっては安全で落ち着ける我が家だ。

 その場所を離れ、こうやって素性も定かでない青年と布団を並べているのが、我ながらおかしな体験をしていると思う。


(あんな不愉快な奴には初めて会った)


 昼間の松影良治を思い出すと、また腹が立ってきた。

 蒼士が何度も寝返りを打つので、眠っていないのはわかった。相手が寝付けないのをいいことに、問わず語りに今朝の奥の池での顛末を話した。蒼士は布団の中で天井を見上げて聞いていたが、聞き終わると、「最悪のゲスだね」と、身も蓋もない評価を下した。

 外から、ジーと地を這うような虫の声が響いていた。


「それにしても松影良治の動きは妙だ。村組織の頂点である大組長や組長達は、池に車が落ちたっていうことは知っていたけど、木戸さんが襲われたってことは知らなかったみたいだ。事件が起こったのが夜だから、まだ情報が正しく伝わってなかっただけだろうけど。なんで組長達よりも早く松影良治は『昨夜ここに変なものが出た』と知ってたんだろう」


 寝返りを打った蒼士は、礼人の方に顔を向けて問う。


「昨夜姫沙紀さんに電話をかけてきてたから、あのときにでも聞いたんじゃないか?」

「そうか。電話・・・・・・」


 ふっと蒼士は礼人から視線を外して畳の目を見つめ、なにか考え込んでいる。


「妙と言えば、松影正治が行方知れずなのが妙じゃないか。お前、どう思う? 何処にいるんだ、あの人は。俺には井戸の底で倒れていた人間は、死体にしか見えなかったんだ。それなのにあっという間に消えて」

「死体にしか見えなかったのは、死体に見えるように偽装した可能性もある」

「偽装?」

「井戸の深さは四メートル。薄暗い中覗きこんでその距離があれば、目を見開いて反応しないでおけば死体に見える」

「なぜそう思うんだ」

「井戸の底から簡単に死体が消える方法を考えたら、そうじゃないかと思った。井戸の底にあったのは死体でも怪我をして意識を失った正治さんでもなく、生きてぴんぴんしている正治さんだった。彼は梯子を使って井戸の底に下りて、死体のふりをする。梯子は協力者が廃屋の裏の獣道へ隠す。それで、呼び出した姫沙紀さんに死体を見せて、正治は死んだと思わせる。姫沙紀さんは偶然一さんと会ったけど、本来は一人で呼び出されていた。彼女は一人だから、人を呼びに行くためにその場を離れる。その間に、四メートルの井戸の壁を上って井戸から出て雑木林の中へ駆け込むのは、二十五分あれば可能だ。井戸の壁には手がかり足がかりがたくさんある。石積みだから。梯子を持ち運ぶ時間はなくても、自力で登ればいいんだ」

「でも、なんでそんな真似を」

「死んだと思わせておきたいから? たとえば、その後に起こす予定の犯罪の、容疑者から除外されるために」


 闇の中でゆらゆら揺れ、斧を振りかぶった黒い振り袖の後ろ姿を思い出す。


(松影正治が木戸さんを殺すために、自分の死を偽装した? そこまでして木戸さんを殺したい動機はあるのか?)


 もし正治が自分の死を偽装したとするなら、共犯が必要だ。共犯に選ぶとすれば最も身近な双子の兄弟、良治だろうか。


「ところで、確認したいんだけど。大組長も組長達も、姫沙紀さんの曾祖母の余姫って人のことを、最後の大媛様と呼んだんだよね?」

「そうだけど。それがなんだ? 皆そう呼んでるだろう。松影良治の母親の貴代って人も最後の大媛様と言ってたし」

「なぜ『最後の』ってつけるの? 余姫以降は霊感のある者が出ていないって姫沙紀さんは言ったけど、数代を隔てて現れる可能性はあるじゃない。折に触れて頼っていた大媛様という存在に対して、村人達は期待を持ってるはずだ。尊敬もしてたはずだ。なのに『これでお終い』と言わんばかりに『最後の』と冠するのは無礼じゃない?」


 大儀そうに腹ばいになると蒼士は頬杖をつく。


「まるで余姫で最後だと知ってるみたいだ。それ以降は、大媛様が現れないと確信してる」

「言われてみれば確かに・・・・・・」

「藤蔭屋敷はずっと女が家長を務めていたけれど、余姫という人の代から、男を家長としたんだって姫沙紀さんは言ってたよね。大正生まれの余姫は、藤蔭屋敷も近代化に歩調を合わせようとしたんだね、きっと。進歩的な人だったんだろう。そうなると自分や藤蔭家の女が課されている大媛様という勤めも藤媛信仰という特殊な信仰も、前時代的として廃止することを望んだかも。だからこそ村の人間達に、自分が最後だと宣言したのじゃない? だから村の人達は最後の大媛様だと言い出した」

「憶測じゃないか?」

「かもね。だから少しでも確証をえるために、藤蔭家の仏間とか家系図とかを見てみたかったんだ。余姫の以前の、藤蔭家の女性達の名前を知るために」

「名前が何の確証になるんだ」

「今わかっている範囲で、藤蔭家の長女の名を思い出してみて」


 宙に、蒼士は指を走らせる。


「余姫、小姫子、姫沙紀、姫奈。藤蔭家の長女には姫の字を使うことを慣例としているようじゃない? けれど余姫の娘の桜子だけは姫の文字を使ってない。なおかつ藤媛の末裔でありながら、別の花木『桜』の文字を使っている。いやに反抗的だ。余姫は自分の代で、藤蔭屋敷を徹底的に近代化しようと試みたかもしれない」

「いや、それはおかしい。だって桜子さんの産んだ子ども三人は、余姫さんが育てたんだ。彼女が屋敷の中で絶対的な権力を握っていただろうから、その人の意向を無視して、桜子さんが娘に姫の文字を使えるとは思えない」

「小姫子さんの名をつけたのは余姫だろうね。自分の娘には姫の文字を使わなかったけれど、孫娘には姫の文字を使ったんだ。一度は無視した慣例を復活させたんだ」

「どうして?」

「元に戻す理由は決まってるじゃない。近代化を試みて敗北したんだ」

「敗北って誰に」

「藤媛」


 そこで蒼士は薄く笑う。


「わかってきたよ、一さん。藤蔭の女と関係を持つ男が死ぬとか、藤媛の呪いだとか言われるのはこれが原因だ。余姫は藤媛信仰を封じようとしたんだ。家長を男とし、大媛様を終わらせた。逆方向の注連縄を施したのも余姫に違いない。藤媛という存在を封じてしまおうとした。けれど余姫の身の回りで、彼女が予想だにしなかった出来事が起こった。娘の桜子の病弱とか、夫の早世とか重なったのかもね。それで余姫は改めて藤媛を恐れ、孫娘には姫の文字を使った。藤媛のご機嫌を取ろうとしたんだけど、一度怒らせた媛神は容易に怒りを鎮めなかった。桜子の夫も末っ子の誕生と前後して亡くなる。桜子から産まれた長男の宗一郎が早世した。小姫子の夫も亡くなってる。それら一連のことを村人は藤媛の呪いと解釈した。信仰を捨て封じようとしたことで藤媛が呪っているのだと。余姫が慌てて孫娘に姫の文字を使っても、発動した呪いは封じきれない。村を守護する藤媛は、藤蔭家を呪いはじめたんだ」


 ——こんなことで、封じ込められはしなかったのに。


 姫沙紀の声が耳に蘇る。彼女が口にしたのは、こういう意味だったのだろうか。


「本当に呪いはあるのか?」


 礼人の問いに蒼士は言いきった。


「あるよ。掛け値なしの本物の呪いがある。けれど、今ここで囁かれている呪いが魔物が生む本物の呪いか、ただの誤謬か、まだ判断はつきかねる」

「誤謬? なんだそれ」

「そうだね、平たく言えば・・・・・・人間が作る偽物の呪いだ」


 蒼士の説明は、ぜんぜん平たくなかった。ただ礼人は、蒼士が語る呪いだとか信仰だとかがいやに気味悪く感じられたので、さらに説明を求める気は失せていた。


「呪いだか誤謬だか知らないが、そんな屋敷を一人で守る姫沙紀さんが可哀相すぎる。ただでさえそんな状態なのに、誰が彼女の名を騙って俺に仕事を依頼したり、勝手に藤やを開いたりしたんだよ。そもそも最初に、藤やにいた家族の三人。あいつらは何者だよ。あいつらを見つければ、少しは姫沙紀さんも安心できる」


 薄闇の中で常軌を逸したような呪いだの媛神だのの話を聞きながらも、礼人の思いは現実に彼が触れあっている人にばかりおよんでいた。彼女が異様な渦巻きの中に一人立ちつくしているような気がして、手を差しのべ、安全で穏やかな場所まで引っ張っていきたいような衝動がある。


「僕もまだ分からない。それが分かったら、姫沙紀さんに教えて怒鳴り込ませればいいよ」


 これ以上姫沙紀になにかしろというのは酷すぎると、蒼士の言いぐさにむっとした。


「あの人に行かせるくらいなら、俺達が行くべきだろ。俺達も巻きこまれたんだ」

「それは深入りし過ぎだ。姫沙紀さんが僕達を藤やに宿泊させてくれているのは、感謝してるよ。親切に報いるために、自分達が関わって良い部分は関わるべきだ。けれどそれ以上は必要ない。藤やの件は、勝手に宿を使われた藤蔭屋敷の領分で、僕達は部外者だ」

「正しい言い分かも知れないが、それは冷たすぎるぞ。姫沙紀さん一人に対処をしろって言うのか? 妙な嫌がらせした奴は、何をするか分からないじゃないか。そんな奴と対決しろというのは、彼女が気の毒だろう」

「彼女は藤蔭家の当主だ」

「でも、あんなに若い女性なんだぞ」

「なんで、むきになってるの」


 指摘され気がつく。確かにむきになっている。


「え・・・・・・なんでって、そりゃ」


 言い淀むと、くすっと蒼士が笑った。その笑いが何かを見透かしている気がして、礼人は恥ずかしさを感じた。さらにからかうように蒼士が重ねて訊く。


「ねぇ、なんで? 姫沙紀さんが気になる? 清楚な美人だものね」

「俺はそんな下心で言ってるんじゃない」


 恥ずかしさを誤魔化すために口調がきつくなった。


「俺は中学生の頃から、死んだ親父の代わりに妹とお袋を守るのを自分の役目だと思って来たんだ。けどこの春にお袋が死んで妹が結婚したら、俺には守るべき者がなくなった。今の俺は誰の役にも立っていないんだ。役に立っていない俺なら、ここで誰かの助けになるために自分の労力を使った方が世のため人のためだろう。そう思うだけだ。だから俺に仕事をくれた姫沙紀さんが困っていたら、仕事をする間だけでも助けるべきだろう」


 礼人は常に誰かを守っていたいのだ。そうすることで自分の価値を見出し、喜びを見出すのだ。守るべき者がなければ仕事をしても虚しいし、ぼんやり生きていることすら、時々どうでもいいと投げやりな気持ちになってしまう。

 蒼士は、目を丸くして聞いていた。礼人の言葉が終わると何度か瞬きして呟く。


「すごいね。一さんは保護欲の権化みたいな人だな」

「馬鹿にしてんのか」

「感心してるんだ。それならいっそ姫奈ちゃんのお父さんになってあげたら? 姫沙紀さんにプロポーズでして、屋敷も財産も捨てて俺と一緒に来てくれなんて言ったら、格好いいかも知れないよ」


「馬鹿言え」と、なるたけ素っ気なく返したつもりだったが、蒼士は布団に顔を伏せ、くぐもった笑い声を漏らす。礼人がたまりかね「おい、笑うな」と口に出した時、玄関戸をがたがたと揺する音がした。礼人も蒼士も息を詰める。気がつけば虫の音が止んでいる。

 息を殺し、二人は外の気配を探る。

 ざりざり土を踏む足音が、宿の正面から側面へと移動していく。足音は裏手に回り、勝手口の取っ手をがちがち回す音が響く。間違いなく侵入を試みている気配だ。そのとき急に、目の前が明るくなった。

 礼人は、びっくりして瞬きした。蒼士が立ち上がって部屋の電気をつけていた。


「誰だ!」


 蒼士がその場で大声を出すと物音が消えた。彼は躊躇わず玄関へ向かい、鍵を開けて外へ出た。礼人も慌てて追う。縁側から薄らと明かりが漏れているが、戸外は真の暗闇だ。曇っているらしく月も星もなく、まだ冷たい五月の夜気が、闇のそのものの重さのように里山の底にわだかまっている。

 街を離れると夜の闇の深さを改めて知り恐怖を覚える。これほど夜は暗かったのかと、思い知る。成葉里村の鉢の底には数本の街灯が弱々しい光を灯しているが、暗い海に頼りなく浮かぶ夜光虫のようで、それが一層闇の深さを強調し心細さを助長する。


「誰だ、今の。昨夜の奴か?」

「姿は見えなかった。逃げたみたいだけど、この暗さじゃ何処へ逃げたか分からない」


 耳を澄ましていると、村の鉢の底の暗闇から、きゅるきゅると機械音が響いていた。何の音か分からないが、唸るような低いモーター音もしている。

 遠くで犬が吠えた。吠え声は連鎖するようで、一頭の声に、二頭、三頭と重なっていく。

 松影屋敷の辺りで、ちらちらと明かりが動く。懐中電灯の明かりらしく、直線的で自在に動き回る光が三つ入り乱れていると思ったら、その後に男達が興奮して怒鳴りあうような声が聞こえてきた。何かが起こっている。


「行ってみよう、一さん!」


 蒼士は玄関にとって返し、玄関脇に設置されている小さな懐中電灯を持って出てきた。それを持って走り出したので、礼人も彼が照らす明かりを頼りに走った。

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