第11話

 スマートフォンが鳴り、礼人は飛び起きた。ディスプレイ表示された見慣れない電話番号に不審を感じるほど目覚めていなかったので、何も考えずに「はい。一」と電話に出た。


「一さん! 今から、そちらに行って良いですか!?」


 と興奮した女の声が響く。東大阪みどり探偵事務所の調査員、木戸樹里だ。


「あ、えっと、木戸さんですよね」


 確かめると、彼女は興奮した様子で、協力して欲しいことがあると言う。

 布団の傍らに置いて寝た、長年愛用して傷だらけの防水防圧腕時計を手にとった。朝の六時だ。随分な時間に電話をかけてきたものだと思ったが、電話の向こうの興奮した声音から彼女の正義感を感じた。行方不明———しかも失踪には何らかの事件性が疑われる事案を、任されているのだという自負と熱意があるのだろう。

 できる範囲でのことなら協力すると答えると、嬉しそうに何度も「ありがとうございます」と言って、彼女は電話を切った。

 のそのそと起き出して顔を洗い着替えを済ませる頃に、麻美が藤蔭屋敷から朝食を運んできた。味噌汁も飯も温かかったので、すぐに食うべきだと判断した礼人は、隣室で寝ている蒼士を起こした。彼は寝癖のついた頭にスウェット姿で、ぼうっとして座卓の前に座った。麻美が「大丈夫ですか? 寝起きで食べられますか?」と問うと、彼は飯を取りあげられるとでも思ったのか、「食います」と妙に勢いこんで答え、飯の大盛りを要求した。

 配膳を終えた麻美に、礼人は念のため木戸樹里のことを伝えた。姫沙紀にも伝えようと思っていたのにうっかり忘れていたので、彼女にも「また大阪の探偵がなにか訊きに来るかも知れませんよ」と伝えてくれと頼んだ。すると麻美は嫌な顔をした。


「あの人ですね。先月から、何回も電話してくるんです。宿帳を見せてくれとか、四年前の話を聞かせてくれとか。一さん達が来た日も、行方不明者の写真を姫沙紀さんに見せて、宿に泊まっていたのはこの人かって、しつこく訊いていたみたい。四年も前のことで、ちょっとしか顔を合わせてないって何度も姫沙紀さんは言ってるのに。しつこいんですよね」


 味噌汁の湯気で眼鏡を曇らせながら、蒼士が何気なく言う。


「藤蔭家以外にも村中の家を回って、『四年前にこの人が村に来たか』って訊いて回ってるみたいですよ」

「もしその写真の人が成葉里村に来てたからって、何だって言うんですか」


 麻美が不満そうな顔をするので、礼人は説明した。


「あの木戸さんという探偵さんが探している人は、鈴木俊之という人です。彼女の調べでは成葉里村に来たのは間違いないようで、四年前の行方不明者は彼だと確信してるみたいで。けれど藤やから警察に届けられた行方不明者の名前が井上武という名前だったから、彼女はそこが附に落ちなくて追求しているんですよ。村に来たのが鈴木さんなら、なぜ宿帳の名前が別人なのかと」

「偽名を名乗ったんでしょう?」

「彼女いわく、偽名を名乗る必要はないと。だから誰かが何かの目的で、宿帳の名前を書き換えたのじゃないかと」

「書き換えたって、藤やを所有してる藤蔭家や村の人が、悪さしたみたいじゃないですか」


 心外だと麻美の表情は語っていた。蒼士は彼女の表情を横目で観察しながらも白飯をぱくぱく食べていたが、礼人と麻美の会話が途切れると、また口を開く。


「ところで、藤蔭屋敷で煙草を吸う人はいますか?」


 唐突な質問に麻美は不思議そうな顔で答えた。


「いいえ。誰も吸いませんけど」

「屋敷には、姫沙紀さんと姫奈ちゃんと、麻美さん、小姫子さん、桜子さんの五人が住んでるだけですよね」

「そうですよ? 広いお屋敷だから、五人いても怖いくらい寂しいですけど」

「本当に五人だけなんですか?」

「どういう意味ですか」

「意味も何も。言葉通りの意味で。誰かもう一人いるのかと」

「何か見たんですか? そうなんですか?」


 詰問だった。強い怯えが彼女の表情には浮かんでた。彼女は、誰かが周りで聞き耳を立てているのを警戒するように周にちらっと視線を向けてから声を落とす。


「私が藤蔭屋敷に来た時から姫奈ちゃんが、お化けがいるって言ってるんです。最初は単純に、広いお屋敷だから小さな子には気味悪いんだろうなと思ってて。でも暫く暮らしてたら、時々誰もいないはずの部屋から物音を聞いたり、私しか母屋にいないはずの時でも、誰かが歩いてるみたいに廊下が鳴ったりが頻繁にあって。何かがいる気配を感じるんです。お風呂に入ってるときも誰かに見られてる気がして、お風呂場から飛び出した事もあって」

「姫沙紀さんは、なんと言ってるんですか?」

「気のせいだって。古い木造家屋だから家鳴りもするし、隙間風も多いから。吹き込んでくる風のせいで、人が動いているような物音がするんじゃないかって」


 そこで麻美は迷う素振りの後、小さな声で言う。


「でも見たんです、私。蔵の窓に女の人の姿。恨めしそうに、こっちを見てたと思ったら一瞬で消えたんですけど」


(あの幽霊か!)


 最初に礼人の写真にあの幽霊が写ったのも、蔵の二階の小窓だった。二度目に写り込んだのは、赤い屋根の離れ。


「赤い屋根の離れがありますよね。あそこでは見た事はありませんか?」


 蒼士がすかさず問う。


「あそこの一階は小姫子伯母さんの部屋で、二階は昔、小姫子叔母さんと私のお母さんと、宗一郎伯父さんが使ってた子ども部屋だったらしいです。私も姫沙紀さんも姫奈ちゃんも離れには入るなと言われてるし、近寄らないんですが。何かあるんですか? あそこに。二人とも、もしかしてあそこで何か見たんですか」


 逆に問い返されて、礼人は偶然撮った心霊写真を見せるべきかと迷ったが、麻美を脅すような行為かもしれないと躊躇われた。麻美が、秘密を打ちあけるかのように小声で言う。


「実はあの離れも変なんです。私の聞き間違えかも知れないんですけど。以前離れの窓の下にいたら、小姫子伯母さんが『兄さん』って呼ぶのが聞こえたような気が。小姫子伯母さんのお兄さんって、私の伯父に当たる宗一郎伯父さんの事だから・・・・・・変だなって」


(小姫子さんが、宗一郎氏を呼んでた?)


 ぎくりとしたのが、礼人は顔に出そうになった。しかし蒼士の「黙っていた方がいい」というような目配せで、なんとか表情を取り繕った。宗一郎の部屋の事を話せば余計に麻美を怯えさせるだけだし、礼人達が無断で離れに入ったのを告白しなければならない。

 蒼士は、「姫奈ちゃんと遊んでいたときに、お化けがどうとか言って離れを気にしている風だったので訊いてみただけです」と誤魔化した。麻美は不審そうだったが、「嘘でしょう」と突っこんでこなかった。礼人達が隠している事実を知るのが怖いようにも見えた。

 麻美は「食器は取りに来ます」と言って帰って行った。彼女が去ると、礼人は蒼士に訊いた。


「藤蔭宗一郎の部屋は誰が使っているんだろうな。あの女幽霊か? まさかなぁ」

「間違いなく幽霊じゃないだろうね。幽霊は煙草を吸えない」


 藤蔭屋敷で煙草を吸う人間はいないという事だった。幽霊でなければ人間だ。


(まさか宗一郎が生きているとか)


 一瞬浮かんだ馬鹿な考えを打ち消す。そのとき玄関戸が開く音がして、「おはようございます」と元気の良い声が響く。木戸樹里だ。蒼士が眉をひそめた。


「一さん、あのイノシシに、調査は無駄だって言ってないの?」

「言えるか、そんなこと。あの時も言ったけどな、言いたいことがあるなら自分で言えよ。あの人は行方不明者を熱心に探してんだから、冷淡にはあしらえないだろう」


 応対に出ようと立ちあがった礼人に、蒼士は心の底から馬鹿にするような目を向けた。


「へぇ、で? 協力する約束でもしちゃった?」

「簡単な協力しかする気はない。人が行方知れずで、探しているんだと訴えられたら、誰でもする程度の協力だ」

「どっちにしろ、協力するって言っちゃったんだね。どこまでもカモ体質だね、一さん。わかった。僕が言いたいことは直接あの人に言うよ」


 箸を置くと蒼士も立ちあがった。彼が樹里に失礼なことを言わないかと危ぶみながらも、一緒に玄関へ向かった。玄関戸を開いてちゃっかり靴脱ぎに入り込んでいた樹里は、礼人の顔を見ると笑顔になりかけたが、その背後に蒼士がいるのを認めて真顔に戻る。


「おはようございます、一さん。すぐそこなんですけど、一緒に来て欲しい場所があるんです。今から出られますか? 詳しいことは、ここを出てから」


 蒼士を気にする様子で樹里は言った。


「大丈夫ですよ、歯を磨いたらすぐに出られますから。少し待っててください」


 答える礼人を押しのけ、蒼士が前に出た。こころなし樹里が身構える。


「僕の忠告を聞く気がないみたいだね、お姉さん」

「忠告なんてされたかな? 聞いた覚えがないわ」


 意地悪い笑顔で樹里が答えると、蒼士はうんざりしたというように、礼人に向き直った。


「あなたの今のやり方じゃ、どんなに頑張っても重要な情報を得られないから無駄。しかもあまり嗅ぎまわっていると、目障りになった誰かさんが、あなたに手を出さないとも限らない。危ないよ・・・・・・って、そこのイノシシに通訳しくれない? 一さん。言葉が通じないみたいだから」

「誰がイノシシよ」


 樹里が目をつり上げたが、蒼士は樹里に流し目をくれ、


「僕はイノシシ語を話せないからね」


 と言うと奥へ引っ込んだ。樹里は怒りのためか顔を真っ赤にした。礼人は朝っぱらから疲労感を感じつつも彼女を宥め、歯を磨いてから藤やを出た。


「終夜って人は何なんでしょうか。怪しげです。一さんも気をつけた方がいいですよ」


 怒りが治まらないらしい樹里は、礼人と一緒に坂を下りながらぶつぶつと文句を言う。


「彼は俺にもかなり無礼ですけど。一連のことに関与しているとは思えません」


 信じられないというように、樹里は礼人の顔を見やった。


「どうしてです?」

「もし俺を騙しているとしたら、もっと上手い言い訳や方法を考えると思うんです」

 この人、人の良さにつけこまれて丸め込まれたんじゃないの? という、樹里の呆れたような視線を感じつつ、礼人は話題を変えた。

「それより、協力して欲しい事ってなんですか。俺にできる範囲のことしか、しませんが」

「あ、すみません。そうでしたね。実は一さんにお願いするのもどうかと思ったんですが、大阪から同僚を呼び寄せる時間が惜しかったんで。これから一緒に、村内のお宅に行って欲しいんです。そこのお宅のご主人が、四年前藤やに宿泊した客のことを話してくださるって、今朝連絡をくれたんです。一さんには、なにかして欲しいというのじゃなくて一緒に行ってもらえたら良いんです。用心棒というか。そこのご主人、癖があって。スカートはいて来いよとか、冗談ぽく言われたりして。女一人だと危ない気がしたんで」


 それは行方不明者の捜索の一貫で、礼人には関係ない案件らしい。樹里の仕事の範疇だ。礼人は彼女のもたらす情報が自分の関わる一連の出来事を解明するきっかけになればと思って協力を申し出たが、結局彼女の仕事に駆り出されたということだ。蒼士にカモ体質だと言われるのは、あながち間違いでないかもしれない。

 しかしここまで来ては、それなら関係ないですと言って帰れない。女一人では危ないという場所に、一人で行かせることになる。


「その癖のある主人ってのは、何処の誰です」

「松影さんというお宅のご主人です」

「まさか松影良治さん?」

「そうです。お知り合いですか?」


 礼人は空を仰ぐ。朝八時の五月の空は、気持ちよく晴れ渡っている。


「知ってますよ。藤蔭姫沙紀さんの叔父で、数日前にその人を怒鳴りつけました」

「ええ!? 一さんが一緒に行ったら、松影さんがへそを曲げるかもしれないですね」

「かも、しれませんね。でも一緒に行きますよ。俺は屋敷の外で待ってますから、変なことがあれば大声を出して下さい」

「怒鳴りつけたって、どんな経緯でそんなことになったんですか」

「松影さんは、藤蔭姫沙紀さんの叔父なんですが。彼女に無礼を働いていたので、つい。木戸さんこそ、どうやって松影さんと知り合ったんですか」

「一軒一軒、村の家を訪ね歩いて松影さんのお屋敷にも行ったんです。その時は訊いたことに何も答えてくれなくて、『どこから来た』とか『何歳か』とか個人的なことばかり訊かれたんです。嫌らしい感じもしたので早々に引きあげたんですが、名刺を渡していたんで、今朝LINEに『藤やのことを教えてやるから来い』と連絡が入って。何か訊き出せる可能性はありますが、女一人は恐い気もしたんで一さんに同行をお願いをしたんです」


 蒼士は樹里のことをイノシシと言っていたが、調査員と肩書きを持つだけに、そこまで間抜けではなさそうだった。


「無礼って、松影さんはどんなことをしたんですか?」

「姫沙紀さん酷いことを言ってました。木戸さんも気をつけて下さい」


 「わかりました」と力強く頷く樹里は、頼もしい感じがした。スカートをはいてこいと良治に言われたらしいが、樹里はしっかりと活動的なパンツを身につけていたし、ブラウスから出ている上腕には筋肉がしっかりついていてスポーツをやっているのは明らかだ。彼女ならば何か起こっても相手をかわし、大声で助けを呼ぶくらい出来るだろう。

 樹里が屋敷の中へ入ると、礼人は土塀の周囲を暇に任せて歩いた。土塀の周囲は田圃の畦道だ。屋敷の北側が正面の出入り口だが、屋敷の裏手にあたる南側の土塀には裏口らしき通用門があり、そこから畦道が南へ延びて村の南の下条地区方面へと続いている。

 一周して正面まで戻ってくると、屋敷の敷地から出てきた良治と正治の母、貴代と出くわした。礼人が黙礼すると、老女は足を止めた。眉をつりあげ早足に近寄ってきた。目の下に青黒い隈が浮いている。


「あんた、姫沙紀と一緒にここに来たね。正治がいなくなった夜の翌日、夕方に。あんた、何者だ。正治のことを知っとるのか」


 松影正治がまだ帰宅していない———実質、行方不明になっていることは、礼人も不穏に思っている。母親ならなおのこと、心配で夜も寝付けないのかもしれない。


「俺は藤蔭さんに頼まれて、藤祭を記録に残す仕事を頂いただけなんで。残念ながら松影さんのことは何も知りません」

「藤蔭が。藤祭だと偉そうにして。藤蔭は最後の大媛様で家が終わってるようなものなのに、いつまでも村の主気取りだ」


 顔をしかめて吐き出すように言う。


「ご親戚ですよね。姫沙紀さんはお孫さんですよね」


 親戚を悪し様に言うものではないと、暗に諫めるように言ってみるが効果はなかった。


「藤蔭屋敷には、息子を取られて殺されただけだ」

「事故で亡くなったと聞きましたが。釣りに行かれて、誤って池に転落したと」

「酒に酔って釣りに行って、池に落ちたんだ。あの子があんなに酒を飲むようになったのは藤蔭に養子に入ってからだ。いつも酔っ払っていたのは、あいつらのせいだ。桜子さんの旦那も酒で体壊して死んでるよ。呪われるんだよ、あの家の女と関わりを持つ男は。姫沙紀も恐いよ。あんなのが孫とは思えない。あんたも男だから藤蔭の女と関わると、藤媛の呪いで死ぬことになるよ。最後の大媛様に封じきれなかったんだ」


 声をひそめ、掠れた声で言う。嬉しそうな目つきが気味悪くてぞっとした。


「藤媛は村を拓き富み潤した媛神で、なおかつ藤蔭家はその子孫でしょう? 神様が、よりによって自分の子孫を呪ったりするものですか」

「神さんってのは恐いもんだ。正しく祀ってれば良いが、おろそかにすると怒りをかって祟られるのは当然じゃないか」

「藤蔭家は祭にも深く関わって、藤媛を祀ってるんじゃないですか」

「ああ、そうだね。余姫さんさえ余計なことしなけりゃ、良かったかもな。藤媛は強いんだ。簡単に封じられやしないよ」


 まただと、礼人は心の中で呟く。姫沙紀も蒼士も、藤媛を封じる云々と似たようなことを口にした。なぜ村の守護神として祀られている媛神を封じなければならないのか、礼人にはぴんとこない。この老婆の言うように、何かのきっかけで神の怒りに触れた結果として呪いが発動したなら、何があってそう噂されるようになってしまったのか。姫沙紀の曾祖母の余姫が余計な事をしたと、今この老婆は口にしたが、どういう意味だろうか。


「余姫さんがいったい・・・・・・」


 口を開きながら何気なくパーカーのポケットに手を突っこむと、紙の感触が指に触れた。取り出してみると、それは涸れ井戸の騒動の直前、姫沙紀がもっていたメモ帳だった。彼女は、このメモを見て松影のどちらかの叔父に呼ばれたのだと思い、廃屋を訪ねたのだ。


「この字は、良治さんか正治さんの字ですか?」


 メモを見せると、貴代はメモを睨むと、ふんと鼻を鳴らす。


「そうだね。あの子らの書く字だ。これがなんだい」

「いえ、別に」


 下手なことを言えば貴代が、こじつけで言いがかりをつけそうな気がして言葉を濁した。そのとき「一さん!」と、松影屋敷の庭から樹里の声がした。

 振り返ると樹里が怒った顔で、早足にこちらにやって来た。


「帰りましょう! ろくでもないおっさんです、あの人」


 甲高い声で告げた樹里に、礼人は慌てた。


「木戸さん! こちら松影良治さんのお母さんですよ」

「じゃあ、ちょうど良いです」


 遠慮するどころか、樹里はきっと貴代に向き直った。


「息子さんの躾をやりなおした方がいいと思います。いい年して分別もなく、あんなにセクハラ行為ばかりするようでは、いずれ誰かに訴えられますよ」


 なんだこの娘はと言いたげな相手の視線に全く怯まない樹里の腕を取り、目の前でどんどん顔を曇らせる貴代に頭下げその場を離れた。


「木戸さん。松影さんのお母さんに、なんて失礼なことを言うんですか」

「失礼なのは松影のおっさんです! 触ろうとしたんです、胸を!」

「触られたんですか?」

「触らせるもんですか。突き飛ばして出てきました」


 そしてその母親に苦情まで言ったのだから、あっぱれだ。これが子ウサギみたいにか弱い女性だったら、こうはいかなかっただろう。イノシシで良かったじゃないかと、心の中で安堵した。坂の下と呼ばれる十字路へ向かいながら、樹里は「最低」とか「最悪」とか悪態をつき続けている。


「それで、結局何も訊けなかったんですか?」

「ええ、なーんにも! あのおっさん、最初から何も話す気なんかなくて、女引っ張りこんだくらいにしか思ってないんですもん。藤やの話を聞かせてくれるってことでしたけど、藤やは中世からあったんだとか、藤蔭家の所有だけど村全体で運営してて、売り上げは村の公共費用に充てられたんだとか、鈴木さんとは一切関係ない話ばっかり!」

「残念でしたね」


 慰めつつ坂の下まで来る。すこし幅が広くなった場所に、樹里が乗ってきた水色のコンパクトカーが駐車してあった。彼女は車に飛び乗って村から出て行きそうな勢いで車に近づく。しかし車の正面で足を止めた。車のワイパーに白い紙か挟まっている。「なにこれ」と、八つ当たり気味にメモを引っこ抜き、文字に目を走らせると表情が固まった。


「どうしたんです」

「これ、見てください」


 差し出されたメモには子供っぽい丸い文字で『四年前のことで参考になることをお話しできるかもしれません。お屋敷では話しづらいです。今日の二〇時、地図の場所に来てください』と書いてあり、村内の簡単な手書きの地図が添えられ一カ所に丸がつけてある。あの涸れ井戸のある廃屋だった。その下に中邑麻美と署名がある。


「中邑麻美さんって、藤蔭屋敷の居候ですよね。藤蔭姫沙紀さんの従姉妹の」


 樹里は声を弾ませるが、礼人はメモに違和感を覚える。


「麻美さんが、木戸さんに伝えることがあると思えませんけど」


 麻美は四年前の藤祭を見ていないと話していたから、その当時のことを語れるわけはない。藤蔭屋敷内で四年前に関わる何かを見つけたとも考えられるが、そもそも麻美は樹里のことを「しつこい」と快く思っていない様子だ。そんな彼女が積極的に情報提供するとは思えない。しかも樹里は、名刺を藤蔭屋敷に置いてきたはずだ。電話くらいかければ良いのに、わざわざメモを置くのは不自然。それを告げると樹里は、


「このメモを書いたのが松影良治さんの可能性は、ないですよね。さっきまで会ってたんで、私達より先回りはできないでしょうし」


 と考え込む。


「これは中邑麻美さんの名前を騙って、誰かが私を呼び出そうとしているのは間違いないと思うんです。だからこそ行ってみます。悪戯であれば、それまでですけど。密かに誰かが、私に情報提供をしてくれる可能性も捨てきれませんから」


 樹里は、不敵な笑みを浮かべる。


「危なくないですか?」

「大丈夫です。指定された場所は車で行けそうですから、車に乗ったまま窓を細く開けて応対すれば、相手は手出しもできません。逃げることも出来ますし。さっきの松影さんのように屋敷に行くなんてのよりは、よっぽど安全です」


 相手が拳銃を所持していて窓越しに撃たれる・・・・・・というような場合でなければ、車に乗って見知らぬ人間と応対するのは安全な方法だろう。いくらなんでも日本で、そう簡単に拳銃が手に入るわけはない。


「この村で私に接触してくる人間なんて、松影のおっさんみたいな人か、苦情を言いたいヒステリーの人間か、もしくは本当にこっそり情報提供したい人しかいないはずです。この村内で、刺されたり殴られたりするような恨みを買った覚えもないですし。興味があります。こんなことをする人が、誰なのか。目的がなんなのか。会ってみる価値はあります」


 樹里は挑戦的な目をしていた。一旦宿泊しているホテルに戻り、事務所に送る報告書を書くと言って、樹里は車で成葉里村を後にした。

 また夜には戻ってくると言うので、心配なら一緒に行こうかと礼人は申し出た。だが彼女は、指定の時間はさして夜遅い時間でもなく、なおかつ車であれば一人で平気だと自信たっぷりに笑った。実績があるというのだ。街中で尾行をするとき車を利用することも多いそうだが、対象者に尾行がばれて詰め寄られたことがあるらしい。相手はかなりの大男だったが、難なく逃げられたという。

 樹里と別れた後、礼人は夕食まで一日中村内の写真撮って歩いた。日が暮れて夕食を運んできた麻美に「木戸樹里にメモを渡したか」と問うと、案の定身に覚えがないという。

 麻美が出て行くと、もりもりと飯を食いながら蒼士が問う。


「メモって何のこと? 一さん。あのイノシシには、結局僕の言葉は通訳できなかったみたいだけど、今日はなにか成果を上げた?」

「彼女、松影良治さんに呼ばれて松影屋敷へ行ったんだけど、藤やは中世にはあったんだとか、藤蔭家の所有だけど村の共同運営でやってたとか、そんなことを聞かされただけだったみたいだな」

「共同運営? どうして? どういうふうにしてたの?」

「いや、それは詳しく訊いてないけど」

「で、メモっていうのは?」

「松影屋敷から帰ってきたら、車のワイパーにメモが挟んであったんだ。四年前のことについて情報があるから、今夜指定の場所に来いって、麻美さんの名前で」

「そのメモはどこにあるの? 見せてもらえる?」

「俺は持ってない。木戸さんが持っていったよ、場所を確認するために。まあ、わかりやすい場所だから迷うことはないだろうけど」


 突然、がちゃんと音がした。蒼士が茶碗と箸を座卓に放るように置いた音だった。


「まさか呼び出しに応じてその場所に行ったの、あの人は」

「ああ、行くって言ってた。誰がなぜ自分を呼び出したのか、興味があるそうだ」

「それを聞いて『じゃあ、行けば?』て言ったの、一さん。二人とも馬鹿じゃないの。危害を加えられる可能性があるのに」

「大丈夫だよ。呼び出されたのは宵の口だし。彼女は車で行動する予定で、車からは降りない。しかもこの村の中で、木戸さんに対して危害を加えたい奴はいないだろう。縁もゆかりもない、調査に来ただけの人だ。あの人に危害を加えて意味がある人間はいないさ」


 蒼士は立ちあがると、酷く冷めた目で礼人を見おろした。


「忘れてない? 一さん。一さんに依頼された偽の仕事も、この藤やが所有者の知らないところで勝手に営業されたことも、どっちも意味も目的も定かじゃないんだよ」


 確かに、目的も定かではない出来事が起こっているのだが、だからと言って樹里に危害が加えられるというのは飛躍しすぎだ。蒼士は樹里が現れた当初から、彼女に対して脅しめいたことを言っていたが、本気でなにかが起こると思っているのだろうか。


「じゃ、意味も目的もなく木戸さんが襲われる可能性があるってのか。俺たちが目的不明の出来事に巻きこまれているからって、木戸さんにそれが当てはまるか? 根拠は? そうだとしても、彼女は車から出ない。すぐに逃げられるんだ」

「根拠は明白だ。彼女が藤やに呼ばれてないからだ。一連のことを仕掛けた奴は、招く者を選りわけている。選別の基準は不明だけど、招きたくない者がうろついていたら目障りでしょう。嗅ぎまわるなと警告する可能性がある」

「でも彼女は車」


 言いつのろうとする礼人の言葉を蒼士は遮る。


「ここは普段僕たちが生活している場所とは違うんだ。真夜中じゃないから安心だと思うのは、本当の暗闇を知らない人間が言う言葉だ。人工の光がない場所じゃ、お日様が落ちたら宵の口も真夜中も一緒だ。しかも車だから安心というのは、車が安全でいられる環境が整備されているからに過ぎないんだよ。あのイノシシはどこに呼び出されたの?」


 苛立たしげに言う。


「あそこだよ。例の涸れ井戸のある廃屋」


 蒼士は眉をひそめ、壁にかけてある時計を振り返った。


「何時に呼び出されてた?」

「夜の八時だ」


 時計は二十時六分を指していた。


「まずい。時間が」


 蒼士は立ちあがると、自分の部屋に駆け込みリュックを探る。中から小ぶりの懐中電灯を引っ張り出すと、スマートフォンを引っ掴み玄関へ向けて走る。


「おい、行くのか」


 返事はない。かなり慌てているようだ。蒼士の焦りに不安を覚え、彼の後を追った。


(確かに暗い)


 前を行く蒼士が手にする懐中電灯の明かりを追って坂道を下りはじめたが、藤やの灯りが遠のくと足元はほとんど見えない。不安で走れるものじゃない。とりあえず掴んで出てきたスマートフォンを起動し、背面のカメラ用のライトで自分の足元を確認して走る。

 坂の下から四方に伸びる主要道の一本、東へ向かう道を道なりに東へ辿る。左手には山の斜面が続くが、右手は田圃と畑が広がっている。暫く行くと右手に松影屋敷が現れるが、それを横目に通り過ぎると、民家が二、三戸ずつ固まっている小さなまとまりが、右手の畑の中や左手の山肌に見えてくる。それを通り過ぎると、道は二手に分かれる。

 右手の道は細くなり、車が通れるか通れないか危うい未舗装の道になる。これは村の南側の部落、下条へと続いている。

 左手の道は舗装されて車が通れるように整備され、ゆるい山肌を上って行く。奥の池に向かう道だ。この道も、途中で舗装は途切れ道幅が狭くなり、左右から雑木がのしかかるようになってくる。蒼士の背中か見える位置まで追いついたが、追いついたと思うと、彼の姿は奥の池へと向かう登り坂へと曲がっていく。

 ゆるい坂を蒼士は駆けあがっている。少し遅れて礼人も坂に入った。

 雑木が左右に迫ってくると闇が一層濃くなり、闇に圧迫される。前を行く懐中電灯と自分の足元を照らす明かりが、闇に押し潰されて消えてしまうような不安が強くなる。息があがる。前方に、車の赤いテイルランプが見えた。樹里の車だ。微かなエンジン音が聞こえる。ヘッドライトもつけてある。その明かりが頼もしかった。

 前を行く蒼士の後ろ姿がぼんやり確認できた。彼の斜め左前方には、雑林に埋もれるようにして屋根が傾いだ廃屋がぼんやり見えたが、その建物の方から黒い影が飛び出した。

 驚いたように蒼士の足が止まるが、それは一瞬のこと。彼はさらに速度を上げ、飛び出した影へ向かって走る。

 影は自分の背後の蒼士に見向きもせず、一直線に前方の車に向かって走る。

 蒼士の前を走る影はいやに黒い。なぜかその人影は真っ黒だ。影は人の形がぶれている。黒っぽくて形の定かでないのは、マントを着ているようだ。しかも体が左右にゆらゆら揺れている。奇妙な動きが気味悪い。まるで酔っているような芯の定まらない体。

 追う蒼士や礼人をからかうような、あるいはこちらの存在など意に介していないかのような、おかしな動きだ。アンデットを連想させる。

 影と蒼士の距離は百メートルほど。蒼士は全力で影に追いつこうとして距離を詰めていたし、影の動きはどこか鈍い。しかし初めから距離がありすぎた。影は既に車のところまで到達していた。影が手を振りあげる。手に何か握っている。短い棒に見えたが、先端が鈍く光った。小ぶりな手斧だ。車のリアウインドウに斧を振り下ろそうとしている。

 礼人は動転した。危険を察した本能が、回れ右して逃げ出せと命じる。しかし目の前に樹里と蒼士がいる。彼らを置いていけないが、あの影に近づくのは危険だ。歩調がゆるんだそのときに、


「車を出すな!」


 蒼士が叫んだ。何を言っているのだと耳を疑った。手斧を振りあげた何者かが車に襲いかかろうとしているのだ。逃げなければならない。


「木戸さん、逃げろ!」


 聞こえるわけはないと思ったが声を張り、また走り出す。

 斧がリアウインドウに振り下ろされた。鈍い音と車内に籠もった悲鳴がして、リアウインドウに蜘蛛の巣のような細かいひびが入る。蒼士は止まる様子も躊躇う様子もなく、影に向かって走って行く。車が急発進した。スピードを上げて坂の上へと走り出す。


「車を止めろ!」


 蒼士が叫んでいる。彼と影の距離は十メートル程度。影が蒼士の方を確認するように首を回す仕草をすると、その場に斧を放り、闇に沈む廃屋の方へと飛びこんだ。雑木が激しく揺れ、草を踏み分け森の奥へと踏みこむ音が続く。そしていきなり暗闇の中から「ぎぇっ」と、鳥の鳴き声めいた掠れ声がした。


(鵺)


 咄嗟に頭に思い浮かんだのは、暗闇の中で一声鳴き、闇へ羽ばたき消える怪鳥の姿。

 手にある懐中電灯を鳴き声がした廃屋の方へ向けた蒼士だったが、そのまま走る速度を緩めずに車を追っていく。前方から響く車のエンジン音に、異様な水音が被さった。大きな石を水に投げこんだような音は車のエンジン音をかき消し、その音が暗闇に散らばると、聞こえていたエンジン音も消えていた。


 蒼士が礼人に向かって懐中電灯の光りを投げた。

「早く来て、一さん!」


 呼ばれるまま全速力で走った。

 道路の舗装が途切れ、未舗装道路に入ると道幅はさらに狭くなる。左右に迫る木々の影を潜るようにして走ると、ひらけた草地に出た。蒼士は草地の端に立っていた。

 蒼士が照らす草地には、未舗装道路から真っ直ぐ伸びる車の轍が確認できた。草を押し倒しすりつぶしたタイヤの跡が草地を真っ直ぐ五メートルほど貫き、唐突に消えていた。その先に草の間から水色のコンパクトカーが見えるのだが、車体の下から三分の二が地面にめり込んでいた。なぜ車が地面にめり込んだのかと、その光景に呆然としたのは一瞬。


 ぞっとした。


(そうだ。ここは草地じゃない、池だ!)


 数日前に自分もうっかりはまり込みそうになった奥の池だ。車が地面にめり込んでいるように見えるのは、池に突っこんだからだ。その証拠に車は、池を埋めつくす水草と真っ黒い水をヘッドライトで照らしながら、みるみる沈んでいく。車の中で樹里が言葉にならない悲鳴をあげながら、もがいている様子が見える。シートベルトを外し車外へ出ようとしているが、パニック状態で思うようにいかないのだろう。

 蒼士が懐中電灯を手に池の方へと踏みこんでいく。ジャブジャブ水音がして、蒼士の膝下が草の中へと呑みこまれていく。礼人も飛びこんだ。冷たい水がひやっと膝まで濡らし、靴底がぬめぬめと滑った。水を蹴上げるようにして蒼士に追いつき、懐中電灯を持つ彼の腕を掴んで歩みを止めさせた。


「照らしてくれ! 俺が行く」


 細身の蒼士よりも、自分の方が行くべきだと咄嗟に判断した。蒼士は鋭い声をあげた。


「気をつけて、急に深くなる!」


 二メートルほど進むと足の下がすっと冷えた。さらに一歩踏み出すと、腰まで沈んだ。進むにつれ胸まで水に浸かった。さらに進むと、つま先立ちになっても鼻まで水が来た。

 もう駄目だと観念し、浮かんでいる草の浮島を掴み、手繰るようにして進む。真っ黒い水は気味悪く、足が届かない、底が見えない恐怖はかなりのもので、ともすればパニックに陥りそうだ。それでも蒼士が背後から照らす懐中電灯の明かりと、車のヘッドライトの明かりを頼りに車体まで辿り着く。車は屋根まで沈んでいた。水に沈んだ車内から、扉を叩く振動とくぐもった悲鳴が水を通して伝わってくる。水に沈んでも、車内はまだ水没していないのだ。水は激しく流れ込んでいるだろうが、まだ空間がある。

 礼人は車体に取りつき、水面に出ている屋根に顎を乗せるようにして呼吸を確保しながら、腕を伸ばして運転席側の扉の取っ手を探った。なかなか探り当てられない。

 ヘッドライドが消えた。電気系統がショートしたのだろう。水に伝わる悲鳴が大きくなる。取っ手を掴んだ。しかし開かない。思い切り引っ張っても駄目だ。


(開かない!)


 焦りに反して車体はどんどん沈む。顎を乗せていた屋根が水面下に没し、礼人は手をかけた取っ手に引きずられて水中に沈んだ。もがいて水面に顔を出そうとした拍子に、手をかけていた扉が急に動いた。開いた。内側から勢いよく押し開かれる。礼人は取ってから手を離し、もがき、水面に顔を出す。すると少し離れた場所に樹里が勢いよく顔を出し、両腕をばたつかせながら、訳のわからない悲鳴のような呼吸のような声を出し始める。

 礼人は浮き草の島を掴み、礼人の存在など目に入っていないらしい彼女に泳ぎ寄った。


「木戸さん、これにつかまって」


 肩を掴むと、彼女は悲鳴をあげて沈みそうになったので、慌てて彼女の腕を掴んで浮き草につかまらせた。悲鳴をあげていた樹里は、ようやく礼人に目を向けた。口をぱくぱくさせて、何か言おうとしているらしいが言葉になっていない。


「大丈夫だから、ゆっくり岸まで行こう。懐中電灯の明かりがあるから、あれを頼りに」


 樹里はかくかく頷く。蒼士が浅瀬から照らす懐中電灯の明かりが救いの道のように真っ直ぐ延びている。


「一さん! 彼女は」


 蒼士の声が届く。礼人は大声を返した。


「助けた! ここにいる。そっちへ戻る」


 樹里を伴って礼人はゆっくりと泳ぎ、ようやく足が届くところまで辿り着いたときには、膝から崩れ落ちそうなほどほっとした。

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