第10話 姫沙紀の夢(二)

 姫沙紀は、そいつが泥棒だと知っていた。


 ある日とふと気がつくと、姫沙紀の部屋から、ひらがな・カタカナ表や、鉛筆や、ノートや、絵本がなくなっている。姫沙紀がそのことを母親に訴えると、母親はさも厭わしそうに眉をひそめる。そして暫くしてから、それら消えていた品を姫沙紀の元へ戻してくれる。しかし品が手元に戻っても、姫沙紀はそれらをすぐに捨ててしまった。それらの品にはなんだか湿ったいやな臭いがこびりついていて、どうしても使う気になれなかった。


 油断ならない。

 あいつは油断ならない奴だと、姫沙紀は用心していた。


 あいつは、どうやってそれらを盗むのだろうか。それが不思議でたまらなかったが、ある夜、姫沙紀は真夜中に目覚めてお手洗いに立った。広い屋敷の中はしんとして、どこもかしこも真っ暗で、恐ろしくて、姫沙紀は走ってお手洗いまで行き急いで用をたし、自分の部屋に駆け戻ろうとした。しかしその時、台所のほうから廊下へ、うっすら灯りが漏れているのを見つけた。

 喉が渇いた母親か父親が、水でも飲みたくて起きてきたのだろうか。真夜中に自分以外の人間が起きていることが嬉しくなって、姫沙紀は台所へ向けて廊下を進んだ。しかし、途中で足が止まった。

 台所から、ぺらりと、新聞をめくるような紙の音が聞こえたのだ。そして、低く、ぶつぶつと何かを読んでいるような声。その声は母親でも父親でもない。祖母の桜子でもない。桜子は字が読めないし隠居から出てくることはない。曾祖母の余姫は半年前に亡くなった。


 姫沙紀は後退った。


 あいつは、自由に屋敷の中をうろついている。余姫お婆ちゃんが死んだから、きっと恐い者がいなくなったんだ。それを悟った恐怖に、姫沙紀は自室へ向かって駆け出す。するとその気配に気がついたのか、がたんと台所から物音がした。追って来る!

 姫沙紀は部屋に飛びこんでベッドに潜りこんだ。

 ひたひたと足音がする。その足音は姫沙紀を追うように近づいていたが、姫沙紀の部屋から離れた場所でぴたりと音が消えた。しばらく緊張していたがそれから足音がしない。近づいてこない。ただ、しゅるり、しゅるりと、耳慣れないおかしな物音はする。布を廊下に押しつけて引きずるような音だ。姫沙紀は恐る恐る布団から顔を出した。すると襖が数センチ開いていた。床すれすれの所から何かが覗いている。


「お母さん!」


 たまらずに、姫沙紀は悲鳴をあげて助けを呼んだ。あいつは廊下を這いずって姫沙紀の部屋までやって来て、こっそりこちらを覗いたのだ。



 「お母さん!」と声を出して叫んで、姫沙紀は目が覚めた。


 また夢を見ていたのだ。

 このところずっと、昔の怖い夢ばかり見る。その夢の最後に必ず姫沙紀は母親に助けを求める。母親も昔は、呼べば駆けつけて姫沙紀を助けてくれた。

 でも今は違う。母親は変わってしまった。おかしな理屈を口にして、おかしなことをして、この屋敷はおかしくなっている。けれど姫沙紀は、ただ見守っているしかできない。無力感とも疲労感ともつかないものがのしかかってきて、強く目を閉じる。

 仕方がないのだ。自分にはどうにも出来ないことなのだから。逃げ出したい。けれど、まだだ。まだなのだろうか? いつになったら自分はここから逃げ出せるのか。

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