第9話

 藤蔭屋敷母屋の東に建つ平屋は、桜子が隠居している棟なのだ。常にカーテンが引かれていたのは、桜子の様子を隠すためだろう。吊り下げられたカーテンの朽ちた様子から察するに、十年、二十年どころか、半世紀以上も前からそうやって隠されていたのだ。


余姫よきという人は、いったいどんな人だったんだ)


 姫沙紀の曾祖母の余姫は、病弱だった我が子、桜子を閉じこめるようにして育て、その病弱な娘に子どもを産ませた。病弱な桜子が子どもを産むことには危険も伴っただろう。それを顧みず、本人の意思などおそらく無視し、三人も子どもを産ませたのだ。

 心が壊れてしまっても当然の仕打ちだ。

 余姫は、桜子もその夫とされた人も人間としてあつかっていない。霊感があったとか最後の大媛様だったとか耳にしたが、その人物像は冷酷で、人として礼人が許せる範囲を超えているような気もした。

 人の手に穢されていない美しい里山は、住む人々も素朴で温かいと幻想を抱きがちだ。

 しかしそれはただの幻想で、幻想を抱かせるのは美しい里山の景色と同様に、人の上辺の純朴さなのかもしれない。遠目で見る分にはほっとする里山の深い森の中に踏みこめば、湿った腐葉土の中から得体のしれない毒虫が這い出し、獣の骸が不意に現れる。それと同じく、純朴そうな人々の生活する足元を覗いたら、偏見や恥や、軽蔑や、憎悪や嫉妬や欲。そんなものがねっとりと重なり合って足首まで埋めているのではないか。そこから足を引き抜いて、都会へ抜け出す者はいるかもしれない。けれどこの土地に生きている限り、何処まで行っても似たようなずぶずぶの土壌があり、足を取られ続けるかもしれない。

 そんなことを考えながら、藤蔭屋敷から坂の下へ向けて歩いていると、背後から突然肩を掴まれた。ぎゃっと悲鳴をあげて振り返ると、蒼士だった。


「な、なんだ? 急に、びっくりした」


 何処から現れたのかと、驚いた。彼が藤蔭屋敷にいた気配はなかったから、礼人よりも先に千年藤の辺りにでもいたのだろうか。それにしても、千年藤に辺りにも人影は見えなかったような気がする。


「探してたんだ。例の涸れ井戸の件、調べてみるって言ったじゃない。ちょっとしたものを見つけたから、井戸まで一緒に来て」


 誘われると、どことなく緊張した。樹里の指摘を聞いたせいで身構えてしまう。彼が人目のないところで刃物を振りかざして襲いかかることはないと思うが、それでも薄気味悪いような気もする。ただ涸れ井戸の件と言われると興味を引かれた。

 一日経っても、礼人は涸れ井戸の底で自分が見たものに対する自信は揺らいでいない。

 蒼士と一緒に廃屋の井戸の所に来ると、彼は井戸を横目に通り過ぎ、雑木の枝をかき分けながら、廃屋の脇を回り込んで裏手の方へと向かう。


「おい、何処へ行くんだ」

「もっと先だよ」


 廃屋は森に浸食されかかっているので、雑木の枝をかき分け、下生えをまたぎ越していかなければならない。困難な道を蒼士は、躊躇いなく進んでいく。ついていくと、さらに屋敷の裏手の雑木林の中へ入っていく。道なき道をかき分けているように思えたが、彼が進んでいる方向には、少しだけ木々の隙間がある。獣道のようだ。奥へ奥へと雑木林を進んでいき、廃屋も見えなくなると、迷いはしないかと不安になってきた。

 黙々と進む彼の背中に「おい」と声をかけた時、蒼士が足を止めた。藪の中を指さす。


「見て、一さん」


 彼に追いついて指さされた方向を見ると、そこに銀色のアルミ製の梯子が無造作に投げ出されていた。長さは三メートルほど。かなりの大きさで、重量は十キロはありそうだ。スライド式で、五、六メートルは延びるだろう。


「四メートル以上の梯子は藤蔭屋敷にしかないだろうって、大組長さんは言ってたよね。これ、藤蔭屋敷のものじゃないの? 姫沙紀さんに訊いてみたほうがいいよ。梯子がちゃんと屋敷にあるかどうか」

「持ち出されたとしても、なんでこんな場所に」

「この道を進むと藤蔭屋敷の裏手の藤棚へ出るんだ。僕はさっきこの道を通って藤蔭屋敷に出て、そこから坂を下っていたら、一さんが先に坂を下りているのが見えたってわけ」


 それで突然、背後から蒼士が現れたのかと納得する。


「でも、誰が梯子を」


 涸れ井戸の底に倒れていたのは、良治か正治かはっきりしない。さらにたかが二十五分間で井戸の底から姿が消えた、その原因も理由もわからない。ただここに、井戸の底に到達できる梯子があるのは、涸れ井戸と関係があるに違いない。

 試しに、礼人は梯子を抱えてみた。思った通りかなりの重量で、引きずったとしても、涸れ井戸からここまで運ぶだけでも十分はかかりそうだ。梯子を草の上に放り出す。


「この梯子を使って、なにかおこなわれたのか? それにしても、二十五分で井戸の底にいる男を担ぎ上げるのは無理だがな」

 蒼士は梯子を睨みながら、ぽつりと口にした。

「井戸の底にいた男が、死んでたり怪我をしてたら二十五分で姿を消すのは無理だけど」

「なんだ、それ。あの状態で怪我もしてなけりゃ、死んでもないってのは、ありえないぞ」

「わざと、死んでるように見せることは考えられる」

「死んでるように見せる?」

「とにかく、この梯子が藤蔭屋敷のものかどうかを、確認した方がいいよ」


 蒼士は険しい表情で、雑木林を見回した。


「なにも、これから起こらなければ良いけど」


 強い風が吹き抜け、雑木が激しくたわんでざわざわと鳴った。


     ○○○


 そこから数日、礼人はもやもやと疑いばかりを抱いて写真を撮り歩いていた。

 不吉な現象も事件も起こりはしなかったが、涸れ井戸と藤蔭屋敷を繋ぐ獣道にあった梯子は、確認してみると確かに藤蔭屋敷の納屋に保管されていたものだった。それがなくなっていることは、指摘されて初めて姫沙紀もわかったらしい。そんな状態だから、梯子がいつ持ち去られたのかも、わからなかった。

 わからないと言えば、松影正治の行方があの日以来わからなくなっていた。

 さすがに良治も、母の貴代も心配になっているらしく、村のあちこちで正治を見なかったかと訊いて回ったらしいが、誰も彼を見た者はいない。

 そうなってくると、涸れ井戸の底で礼人と姫沙紀が目撃したのは、松影正治だったという疑いが濃くなった。彼は何かの事故で井戸に落ちたかもしれない。そして消えた。


 ——なにも、これから起こらなければ良いけど。


 蒼士が口にした言葉が、まるで不吉な予言のような気がして、落ち着かなかった。


 

 礼人の落ちつかなさや不安をよそに、藤祭の準備は着々と進んでいるらしい。

 村の各家庭から一つずつ、高さが百センチほどもある藤を描いた大提灯が藤蔭屋敷に持ち込まれていた。村の家は必ず一張り提灯を作り保持するのが習わしで、それを四年に一度の藤祭の時に参道に掲げるのだという。提灯は一張り数万円するというから、なかなかの出費だ。それを各家庭が当然のごとく受け入れて準備しているところに、祭に対する村人達の畏怖を感じる。

 祭の当日の様子を組長達に聞き取りし、礼人は様々な場所から祭の様子を撮影することを想定して試し撮りしていた。

 その日も朝から、藤蔭屋敷の外観を丹念に撮った。旧家の佇まいも、祭の宵闇の中で神秘的に見えるかもしれないからだ。何枚か良いアングルを探して試し撮りした。さらに参道になる坂道を撮り下ろすために最適な場所を探し、藤蔭屋敷の裏手の背ノ山に上った。

 すると蒼士が千年藤から少し離れた草の上に座って、摺鉢のような村の全景を見つめているのに出くわした。


「よお、散歩か?」


 声をかけると、蒼士はこちらを見もしない。しかし、


「あの探偵のお姉さんから連絡あった?」


 と、唐突に訊いてきた。数日前に声をかけてきた木戸樹里からは、あれ以来連絡がない。毎日水色のコンパクトカーが村のあちこちに停車しているのを見てはいるので、調査は続けているのだろうと思う。


「いや、ないけど」

「あれじゃ無理だ。何も訊けないよ。一さん、人の良さを発揮して『もう無駄だから大人しく大阪に帰れ』と忠告してあげたら? あのお姉さんは、僕の忠告はさっぱり聞く気がないみたいだから」


 蒼士が指さした先には、遠く鉢の底辺りに水色のコンパクトカーがあった。小さく木戸樹里らしい人影もあり、それが農家の軒先に立ち何度もぺこぺこと頭を下げている。縁側にでも人がいるのだろう。


「なんで無駄なんだ?」


 探られては迷惑な事情でもあるのかと、礼人は蒼士の横顔を見つめた。すると突然、くるりと振り返った。眼鏡の奥の瞳が鋭い。


「あのお姉さんに何を吹きこまれたか知らないけど、僕のことを疑ってるよね。その恐る恐る覗くような恐がり方は鬱陶しいから止めて欲しい。僕は五万円も払って、零細写真屋をからかうほどお金も暇もないし、ましてや自分が一食抜く羽目になるような、間抜けな民宿ごっこもしないよ。僕は一さんに言ったように、探してる奴の手がかりが欲しくて、それらしい伝承を調べ歩いてるだけなんだ」


 心底うんざりしているような声音だ。


「探してる奴って、鵺か?」


 いささか冷笑的に答えてしまったのは、鵺なんぞと言ってることが怪しすぎるだろうと皮肉に感じたからだ。しかし蒼士は真顔で答えた。


「そうだよ。僕は十四歳の時にそいつに会って呪いをかけられた」

「なんの喩えだ」

「喩えじゃない」


 蒼士は礼人の背後に揺れる、千年藤の紫のうねりへと目を向ける。


「例えば藤蔭家だ。藤蔭家が現在まで没落せず存続できたのは、藤媛の子孫であり千年藤を守護する一族であるという認識が村内に根強くあったからだろうね。栄枯盛衰は世の常で、長い歴史があればあるほど土地の分限者は入れ替わるはずなのに藤蔭家は繁栄を続けてた。家は傾く時代だってあるはずなのに、それを傾かないように支える機能が地域にあったに違いないよ。ただやっぱり時代が変わりすぎたんだろうね。村も家も、没落はしないけど先細りみたいだ。平成の初めまで大媛様なんてのが生きていて、それに村人が頼っていたのは、千年藤が土地の神であり、おそらく唯一の信仰の対象だったからだ。きっと畏れさえ伴った絶対に的な神として」


 巨大な幹に巻かれた注連縄を注視し、蒼士は問う。


「注連縄が普通じゃないことに気がついた?」

「逆だな。普通の注連縄とは」

「そうだよ。注連縄は普通、聖域を外部から守るためにある。その逆は中のものを外へ出さないためだ。ここに祭られているものは、敬われ慕われ、同時に恐れられるもの。そういった人に影響を及ぼす尋常ならざるものを、なんて言うと思う?」

「さあ」

「怪異って呼ぶんだ。奇っ怪な出来事、奇っ怪な人物、奇っ怪な生き物。それらが現れ伝承になって人の心に根づいて影響を及ぼす。それは、ただ人間の仕業であることもあるし、本物の掛け値なし、科学でも常識でも説明できない妖の可能性もあるんだ」


 要する蒼士は、人が作り出す意図的な、あるいは思いがけない怪異と、妖と呼ばれるような胡乱な存在が作り出す、本物の怪異があると言いたいのだろうか。


「本物の怪異? それが存在するって信じてるのか?」

「信じる信じないの問題じゃない。僕はそれが、あると知ってるってだけ」

「それがお前が十四歳のとき会った鵺だって? 本当に呪いだって?」


 藤の木を見つめる蒼士の口元に笑みが浮かぶ。


「藤媛という媛神は呪いをふりまく存在なのかもしれない」

「どうしてそんなこと言える」

「藤蔭屋敷の男たちが早死にする理由を、村人たちが藤媛に求めているからだよ。長年この土地に住む者達から、度重なる不幸や偶然の不幸の理由にされるというのは、彼らが意識的にしろ無意識にしろ藤媛は呪い祟るものと感じているからだ。そういった存在が憑き物筋と言われる家系が生まれる原因になる。藤蔭家は憑き物筋と似た存在だよ。ただし忌み嫌われるのではなく、畏れ敬われる方向でね。しかもさっきも言ったじゃない。この注連縄は逆だって」


 蒼士が流し目をくれる。


「これは藤媛を守るためじゃなく、藤媛を外へ出さないためのものだ。封じてあるんだよ、藤媛を。ただ、注連縄一本でどこまで封じきれるものかは、知らないけど」


 ぞっとした。なぜなら礼人は、似たような台詞を姫沙紀の口から聞いたからだ。


 ——こんなことで、封じ込められはしなかったのに。


 強い風が吹き藤がおおきくたわむように揺れ、突然首筋が寒くなった。身震いした。


「僕は、僕にかけられた呪いを解きたい。そのために鵺を探してる。ここにも呪いがあるなら、あいつがいるかもしれないし、いないにしても手がかりがあるかもしれない。呪いを解くためのね」

「お前の呪いって何だ?」


 立ちあがった蒼士は、コートについた草の葉を払い落としながら、さらりと答えた。


「僕の大切な人は死ぬ」

「馬鹿な、そんな。偶然だろう」

「僕は偶然を信用しない。偶然なんて都合のいい物を信じないから、因果関係を調べ尽くす。そうすると怪異を容易に信じられなくなるよ、一度やってみるといい。世の中の大半の怪異だ不思議だっていうのは、たいてい説明がつく。説明がつかないまでも、なんらかの知られていない法則や現象が関与しているだけってことがほとんどだ。北大西洋のバミューダ諸島の周辺はかつて、忽然と飛行機や船が消える魔の海域だ、バミューダトライアングルだと騒がれていた。けど最新の海底調査の技術で調べてみたら、周辺の海底から大量のメタンガスが発生しているのが確認されたんだ。飛行機や船が忽然と消失する原因は、海底からのメタンガスが爆発的に放出される現象に巻きこまれただけだったんだ。魔の海域の謎の正体はメタンガスだ。おならと一緒だ。そんなふうに僕は因果関係を調べ尽くして、・・・・・・説明がつかなくないものを探してる」


 鵺だの呪いだの荒唐無稽なことを言っているに、信用できると思ってしまうのが妙な感じだ。言葉が巧みなだけだろうかとも思う。しかし言葉巧みに人を操るなら、鵺だの呪いだの持ち出さず、もっともらしい理由を並べ立てる方が相手を丸め込めるだろう。


「で、話を最初に戻す。あのお姉さんに忠告したらいいよ。『すみません、ちょっと良いですか』と村の人に声をかけても大した情報は聞き出せないから無駄だって」

「でも、お前もそうやって村の人に話を聞いてるんだろう。ここに来てずっと、村の人達を捕まえて話をしている様子を見てるぞ」

「僕は『すみません、ちょっと良いですか』なんて訊かない。『今日は暑いね』とか『この畑に植えてるのは何なの』とか、どうでもいい事を質問する」

「それじゃ何も訊けないだろう」

「明確な答えを探すための質問をするなら、お姉さんのやり方はありだ。けれど、相手の正体も、調べるべき事もぼんやりしているときには、大きな網ですくい取るように話を訊かなきゃ大切な話は拾えない。一つ大切な話を聞くためには、膨大な無駄話をしなけりゃ。それにしてもあの人、藤やに電話して宿泊を頼まなかったのかな? 僕が見つけた民宿情報のサイトなんて、検索すれば一発で出て来るのに。村の外から通ってるよね」

「電話したら断られたらしい。だからお前が宿泊を受けてもらえたのが、不思議だって」


 かまをかけるつもりで告げた。樹里は、偶然宿泊を希望した蒼士だけが予約を受け付けてもらえたというのが不自然だと言っていたからだ。彼の目が細まる。


「それは僕が怪しいんじゃない。彼女が拒絶されただけなんだ。一連のことを仕組んだ誰かさんにね」

「どういう意味だ?」

「一さんに偽の仕事を依頼して藤やを勝手に再開した奴は、招く者を選りわけてるって事。その基準が何なのか、まだわからない。僕と一さんの共通点なんて、人間であることと男であること、住所が東京だってことくらいだ」


 すごすごと民家の庭から退散する樹里を目で追い、蒼士は小馬鹿にしたように言う。


「きっとあの人、人一倍やる気と能力はあるのに、事務所の中では困ったちゃんで通ってるよ。ボールを真っ直ぐにしか投げられないタイプだ。しかも剛速球だから始末が悪い。浮気調査をしていたら浮気している調査対象に腹が立って、つい正体がばれるようなミスをやらかしたりするんじゃない? イノシシだね」


 それで話は終わりとばかりに、ふいと蒼士が歩き出す。


「どうせ村をふらつくなら、あの木戸さんって探偵に、自分で言いたいことを伝えろ」

「嫌だね。僕のことを怪しいと一さんに吹きこんでるって事は、本人はかなり僕のことを胡散臭く思ってる。そんなことを思い込んでるイノシシに、なにを言っても聞きやしないさ。しかも僕はこれからデートの約束がある」

「デート?」


 村をふらつく間に、若い女の子と遭遇して意気投合でもしたのだろうか。ふわふわと手を振って蒼士は崖下へ姿を消した。

 礼人は当初の目的通り、斜面を登って千年藤からさらに山を上り、山道が消えかかる辺りまで行った。そこで祭の参道を見下ろせる場所を探すと獣道があった。坂の下と呼ばれる十字路から藤蔭屋敷までの坂道が、綺麗にフレームの中に入る。獣道は山肌を迂回し、藤蔭屋敷の敷地の外の東側を回り込み、藤やの辺りへ続いているようだった。

 祭の当日、暗闇の中でアングルを決めるときに迷わないように、何枚か試し撮りをした。


(あいつと会話すると疑う気が失せる)


 シヤッターを切りながら不思議に思う。蒼士の声は妙に耳馴染みが良い。彼にすっかり警戒心を解かされてしまった状態だ。


(まあ、あいつが一連のこと関わっていようといまいと、姫沙紀さん達に妙なことが

起こらないように注意を怠ってはまずい)


 姫沙紀の叔父、松影良治は要注意人物だ。蒼士が良治に会ったらその人間性をどう判断するだろうか。彼は、木戸樹里が村を聞き込みして回る様子を見てイノシシと評した。初対面でぐいぐい礼人に話しかけてきた樹里の様子からすると、その評価は的を射ているような気もする。となると良治の評価も、蒼士ならば正しく下しそうだ。


(あいつ、ひょっとすると。一連の出来事を誰が仕組んだのか、どういう目的で仕組んだのか、わかってたりしないのか?)


 そんなことを考えながらも無意識に良いアングルを探して移動していた。そうして撮りながらふと気がついたのは、村全体を見回しても、寺らしき建物も神社らしき建物もないことだ。そのような神さびた場所があれば画になるだろうと思ったが残念だ。

 それからまた千年藤へと移動すると、紫のうねりを撮りたくなりシヤッターを切る。

 最初目にしたときはその巨大さに圧倒され、恐ろしさすら感じたが、見慣れてくると、不気味なほどの藤の巨大さに魅入られる。うねる異界への隙間———その不気味さが魅力に変じる生々しさを、写真に写し取れないかと夢中だった。

 夢中になっていると、「一さん」と声がした。姫沙紀が小さく手を振りながら、ゆるい斜面をこちらに向かって歩いて来た。白いシャツと紺のスカートで、なんという事はないあっさりした身なりだが、飾り気なさが、彼女の清潔さと控えめな美しさを際立たせている。裸足に、赤い鼻緒の下駄を突っかけていた。その裸足の足首や爪先に、どきりとする。彼女の無防備さが艶めかしく思えてしまう。


「何か困った事でもありましたか」


 礼人を探しにきた様子だったので心配になった。彼女は明るい顔で首を横に振る。


「いいえ、お昼ご飯です。藤やにお持ちするのも面倒ですし、うちの屋敷へどうぞ」

「いや、そんな。そちらに上がりこむなんて。食事は俺が、自分で藤やまで運びます」

「いいんです。終夜さんも、さっきからいらしてるんで。一さんも遠慮なく来て下さい」

「彼が上がりこんでるんですか? 何をしてるんですか、あいつ」

「昨日の夕方、姫奈と麻美ちゃんがお散歩の途中で終夜さんに会ったそうなんです。そしたら姫奈が終夜さんから離れないので、ちょっと遊んでもらったんですけど。姫奈が満足しないで、今日も遊んでくれとただをこねて、遊ぶ約束を取りつけていたみたいなんです」

「そうなんですか。あいつ、デートなんて言うから」


 蒼士が言ったデートはこのことか。気が抜けて笑ってしまう。


「デートですか? おかしなこと言うんですね、終夜さん」


 釣られるように姫沙紀も笑った。その笑顔が綺麗で、礼人は思わず、


「写真を良いですか?」


 と訊いた。彼女は「別に構いませんけど、恥ずかしいですね」とはにかんだ。その表情が少女めいて愛らしくて、胸の高鳴りを感じながら数枚写真を撮った。彼女に不思議な透明感があるのは、年齢のわりに俗世の穢れを見たことがないかのような綺麗な瞳のせいだと、ファインダー越しに見つめた。


「プリントしてお渡ししますよ」

「プロの方に撮ってもらった写真なんて、嬉しいですね」と、姫沙紀はころころと笑う。彼女に連れられ礼人は歩き出す。

「終夜は無礼を働いてませんか」

「無礼どころか、辛抱強く姫奈の相手をして下さって。助かってます」


 初対面のときから、姫沙紀は常に不安げだった。その印象が強いので、わずかな陰りを帯びるのが普通の表情のような気がしていたが、今日の姫沙紀の笑顔は明るい。陽ざしの下にいるせいか、よけいに朗らかな印象だ。並んで緩やかな斜面を下りていると、姫沙紀が雑草に足を取られて悲鳴をあげた。転びそうになった彼女の腰を咄嗟に抱き留めた。


「すみません。うっかり下駄で来てしまって」


 「どういたしまして」と笑顔を返したが、どぎまぎしていた。腕には抱いた腰の細さが感触として残り、彼女が、脱げた下駄を履き直そうとして屈み込んだときに見えた項の白さと、ブラウスの隙間から覗いた、白くまろやかな胸の谷間を目にしたこととあいまって、どうにも落ち着かない。

 微かな動揺を気取られないように会話しながら、礼人は藤蔭屋敷へ向かった。

 姫沙紀と一緒に藤蔭屋敷の玄関を入るなり、「あなた!」と鋭い声が飛んだ。玄関が開く音を聞きつけたのか、廊下の奥から、待ち構えていたように一人の女が早足で出てきた。

 五十に手が届くか届かないかの中年女性だ。老けてはいたが、若かりし頃はそれなりの美人だったと思われる。だが表情があまりに険しいので威圧感しかない。しかも身につけたブラウスは皺だらけで染みがてんてんとついていて、胸元も大きく開いている。姫沙紀と見比べるせいか、だらしなくて、人として草臥れきっているように見えた。


「お母さん。どうしたんですか」


 姫沙紀は微笑みかける。


(この人が、姫沙紀さんのお母さんか)


 名前は小姫子だと記憶している。麻美から、姫沙紀に家督を譲ったと聞いていたので老婆を想像していたが思っていたよりも若い。隠居するには早すぎる。二十代の姫沙紀に家督を譲るよりも、女家長としてこの人が藤蔭家の一切に責任を持つべきだと思える年だ。


「姫奈を私達の部屋に入れないでと言ってあるでしょう!」


 小姫子が喚いた。笑顔の姫沙紀に向かって小姫子は眉を吊り上げる。


「姫奈がお部屋に入っていましたか?」

「入ってたに違いないわよ。母屋と離れの境の扉が開いてい」

「姫奈は午前中から、藤やに滞在中のお客様と一緒に、遊んでもらっているんですけど」


 藤やと聞くと、小姫子が急にぎくりとしたように礼人に目を向けた。


「藤や? 藤や・・・・・・。その人が、そうなの?」

「お二人いらっしゃっているんです。お一方が今も姫奈と遊んでるはずです。この方は一さんと仰って、藤祭の写真をお願いしているんです」


 急に小姫子が表情を消す。冷え冷えした目で礼人を見て、それから姫沙紀を見た。


「・・・・・・そう・・・・・ああ、そうなの・・・・・・また・・・・・・あなた」


 虚ろな返事すると、小姫子は姫沙紀に近寄った。そしていきなりだった。目を見開いたかと思うと姫沙紀の束ねた髪を力任せに掴み、彼女をその場に引き倒した。


「この化物!」


 姫沙紀の悲鳴と小姫子の金切り声が重なり、さらに姫沙紀が横倒しに廊下に転倒する振動に、礼人は硬直した。しかしそれは一瞬の事で、すぐに小姫子の腕を押さえた。


「やめて下さい」

「化物、化物、化物!」


 掴んだ髪を左右に力任せに振り回すので、姫沙紀は悲鳴をあげ、必死に小姫子の手を掴もうとする。礼人も小姫子の手を止めようとするが、相手は初対面の女性だ。力任せにぶん殴る事も出来ず、「止めて下さい」と叫びながら腕を押さえるのが精一杯だ。


「何をしてるんです!?」


 右手へ伸びる廊下から麻美の声がした。廊下を駆けて来る。


「伯母さん、止めて下さい!」


 怒鳴ると、小姫子の体を横から力一杯突き飛ばした。これには小姫子も耐えられなかったらしく、掴んでいた姫沙紀の髪から手を放し廊下の壁に激突した。麻美は、その場にぐったりして伏せる姫沙紀の肩を抱き小姫子を睨みつける。


「こんな酷い事止めて下さいと何回も言っているでしょう! 伯母さん!」


 姫沙紀がようやく顔をあげ、麻美の肩に手をかける。


「いいの、麻美ちゃん。大丈夫だから」

「大丈夫じゃないよ! 伯母さん、今度こんな事したら、私が許しません!」


 壁に激突した後、壁にすがりつくようにしていた小姫子は、憎悪と怯えが混じる目で姫沙紀と麻美を睨みつける。


「やっぱり・・・・・・慶子だ。あんた達は慶子の手先じゃないか。慶子は全部私から奪ったのに、今度は藤蔭屋敷まで乗っ取ろうとしてんだ。そんな事させるもんか、畜生」

「伯母さん。何度も言ってるでしょ、お母さんは死んだんですよ。半年も前に」

「あいつは死んだって、私から全部取っていくんだよ! あんた達は慶子の手先だ!」


 喚き声に圧倒されて礼人は立ちつくすしかない。小姫子の声は、怒りと憎悪と恐れがない交ぜになっている。尻尾を巻きながらも、我が身を守ろうと吠えかかる野犬のようだ。


「あんた達を殺してやる! 取られる前に、今度こそ殺してやるんだ!」


 血走った目でそう叫んだ小姫子は、そのまま口を大きく開けて動きを止めた。そして直後、すっと目を細め、口を開いたまま、ぼうっとした表情になる。その急激な変化は、まるで彼女に取り憑いていた何かが抜け出したような気味悪さだった。

 小姫子はそのまま、ふらふらと廊下の奥へと歩いて行く。

 暫く、麻美と姫沙紀は抱き合うようにしていたが、じわりと麻美の目に涙が浮かぶ。


「酷い、本当に」

「いいの、麻美ちゃん。私は気にしないから。一さん、すみません。お見苦しいところを」


 呆然としていた礼人は正気づき、姫沙紀を抱き起こそうとする麻美を手伝った。姫沙紀は立ち上がると乱れた髪を整え微苦笑する。麻美は涙を溜めた目で足元を見ている。


「あの方は、姫沙紀さんのお母さんの小姫子さんですよね」


 念のため確かめると、「はい」と彼女は頷く。


「こんな事が、日常的にあるんですか」

「時々です。母はここ数年、精神的に不安定で。私や姫奈、麻美ちゃんに対しても、ああやって攻撃的な態度を取るんです。気にしないで下さい」


 あれは攻撃的なんてものではなかった、という言葉を、礼人は寸前で呑みこむ。見ていられない有様だったと言うのは、嬲られた姫沙紀の傷をも深くしそうな気がしたのだ。


「けれど、あんな事が頻繁では」

「大丈夫です。あんなに酷い事はあまりないんです。それよりも、もうすぐご飯が炊けますから。すぐにお昼、お呼びします」


 姫沙紀は麻美の肩に手を置き「麻美ちゃん、お昼の準備手伝って。先に台所に行ってくれる?」と問う。麻美が涙ぐみながら頷くと、姫沙紀は、「お願いね」と朗らかに頼み、今度は礼人に向かって「こちらへどうぞ」と先に立って歩き出す。


(小姫子さんがああだから、姫沙紀さんが家督を継いだのか。麻美さんのお母さんの慶子さんが心配したのも、この辺の事情があったからか)


 若すぎる家督相続の真相が、わかったと思った。小姫子の様子は尋常ではない。


(母親があの様子で、そして祖母が)


 女だけになった屋敷に、よりによってなぜ、そういった障りが連続して起こるのだろう。


 呪い。


 その言葉が脳裏をよぎる。松影良治は藤蔭家の女達が藤媛に呪われていると言った。

 しかしそれは妙だ。藤蔭家か藤媛の末裔なら、なぜ村の守護者たる媛神の藤媛が、よりによって自分の子孫を呪う必要があるのだろう。それとも藤媛を祀るうちに、なにかのきっかけで藤媛の怒りが発生したのか。となとると———呪いの原因とはなんだろうか。

 蒼士に訊いてみようかと思う。自らの呪いを解くために調べ歩いていると口にするくらいだから、藤蔭家にのしかかる不吉なものの原因も、案外すんなり看破するかもしれない。

 ただ呪いにしろ、なんにしろ、現実に的には姫沙紀があまりにも気の毒だった。

 屋敷内へ上がると、庭の荒廃ぶりとは違い、どこも綺麗に掃除されている。しかし古い屋敷特有の冷えて湿った空気が、息が詰まるほど重苦しい。先細りしていく旧家の侘しさが充満している。財産があるとはいえ、若い女性がこんな侘しさを背負わされているのだ。彼女が背負わされているものの空気を肌で感じると、笑顔も痛々しい。


(ここにいる間だけでも、この人の力になれれば)


 母と妹という守るべき者が自分の元から去った今、空になった両腕の隙間に何かを抱えたくて、礼人の心はそわそわしているのだ。誰か助けたい、守りたい、と。

 姫沙紀は礼人を、縁側に面した母屋西側の和室へ通した。

 そこは姫奈の遊び場になっているらしく、畳の上にブロックやお人形、落書き帳やクレヨンが転がっていた。畳に腹ばいになって落書き帳にお絵かきしている姫奈の傍らで、蒼士が片膝を立てて座り、くつろいだ様子で姫奈の手元を見ていた。

 狂乱現場を目の当たりにした直後だったので、心の底からほっとする光景だった。絵になる光景なので、一枚撮ろうとカメラを構えた。しかし気配を察した蒼士に睨まれ、「止めて。撮るならお金をもらうよ」と鋭く言われ、仕方なく「はいはい」とカメラを下ろす。


「お前、保育士免許を取ったら? 子守、上手いじゃないか。たいしたデートの相手だな」


 隣に腰を下ろした礼人の顔を見て、蒼士は眉をひそめる。


「どうしたの青い顔して」


 受けた衝撃がそれほどあからさまに出ていたかと、両手で顔を強く擦った。無意識に強張っていた顔面の筋肉がほぐれるのを感じた。そうしてさっき目の当たりにした光景を、蒼士に話して聞かせた。


「まあ、そういうことで。姫沙紀さんのお母さんの小姫子さんは、大変な状態みたいだ。しかもお婆さんも、あんな調子だし」


 思わず口のように零れた言葉に、蒼士が「どういう事?」と食いついた。仕方ないので数日前に出くわした松影良治のことを含め、桜子のことも告げた。蒼士は畳の目地を見つめ、右手の親指と人さし指をすりあわせながら考え込んだ。


「仏間が見たい。もしくは家系図。名前を確認しないと」


 なぜかそう呟き、再び顔をあげる。


「まあ、いいや。それよりも一さんの話を聞くと、小姫子さんは妹の慶子さんを、憎んでいるみたいだよね。何でなの?」

「え、さあ? 姫沙紀さんにも麻美さんにも訊かなかったな」

「仲が悪かった姉妹なのに、なぜ慶子さんは、麻美さんに成葉里へ行けって言ったのかな」


 言われてみれば不思議だ。「そうだよなぁ」と礼人が首をひねっていると、姫奈が蒼士の手を引いて、「アンパンマンかいて」と言う。


(仲の悪い姉の元へ行ってくれと、何故娘に頼む? 麻美さんは女ばかりの屋敷を心配したのではと言っていたが、娘を送り込むまでするか? 仲の悪い姉家族を、それほど心配するもんか? まあ、母の桜子さんがこの屋敷に居るんだしな)


 蒼士は器用にアンパンマンを描いてやっていた。描くのは好きではないと言いながら、腐っても美大生。描いたものはかなり実物に近いアンパンマンだ。姫奈は「わぁ」と喜んで、その見事なアンパンマンの上を、水色のクレヨンで塗りつぶしはじめた。それを指さして蒼士は切なげな声を出す。


「見てよ一さん。昨日からずっと、合計五十回以上パンのヒーローを描かされ、それを無残に塗りつぶされる行為が繰り返されてるんだ。穴掘りの拷問みたいだ。描けども描けども、消されていく」

「美大生だろう。課題の練習だと思えよ」

「僕はそもそも課題を提出するのが嫌だし、しかも前期の課題から逃れられなかったとしても、アンパンマンを題材に選ぶつもりはない。パンより飯のほうが好きだし」

「アンパンマンには、おにぎりマンってのも出てくるけどな」


 蒼士が目を輝かせる。


「そっちなら検討してもいい」


 おにぎりのヒーローを描いた日本画を提出したら、老教授は引きつった笑顔で課題を受け取り、「これは彼なりの反抗なのか、それとも彼なりの本気なのか」と悩むだろう。そんなことを思いながら、今日撮影した写真をカメラの液晶画面に表示する。

 液晶画面に表示した写真に意識を集中する。藤蔭屋敷を撮った最初の数枚を順送りして、五、六枚目の写真が液晶に表示されたとき、思わず「わっ!」と声を出してしまった。


「どうしたの」

「いや、また。撮っちゃったみたいだ。変なやつ。いわゆる心霊写真」


 液晶画面を蒼士の方へ差し出す。蒼士が覗き込むと、姫奈も真似するように覗き込む。

 それは背後の千年藤を一部に入れつつも、藤蔭屋敷を西側から撮った写真だった。西側にある二階建ての離れは、赤い瓦屋根の和洋折衷の文化住宅風の建物。その二階部分の縦長の窓の奥に女が立っていた。顔半分がカーテンに隠れているが、姫沙紀でも麻美でも、小姫子でもない。虚ろな、あるいは疲れた表情。


「似てるな、あの写真に」

「あの写真って?」

「ここに来た初日、蔵と藤の写真を撮ったんだけどな。その蔵の小窓の部分に写り込んだ女幽霊と似てるんだよな」

「『お け』これね、『お け』なの」


 突然、姫奈の小さな指が液晶画面を指さした。彼女は「お け」と繰り返した。何の事かと思ったが、三度目に姫奈が「お け」と言った時に、「お」と「け」の間に小さな「ば」が発音されているのに礼人は気がつく。


(おばけ? お化けと言ってるのか姫奈ちゃん)


 蒼士も気づいたらしく、訝しげに姫奈に問う。


「これ、お化けなの?」


 姫奈は、うんと頷く。


「ひなねぇ、みるの。うんとねぇ、いっぱい。でもねぇ、よるはね。ひなは、かあさんと、ねんねだからね。こわくないよ。お けね、こないの」


 礼人と蒼士は顔を見合わせた。蒼士が眉をひそめる。


「信じる? 幽霊なんて」

「怪異があると知ってると豪語した奴が、言うか?」

「化物も幽霊も、滅多に本物なんかいないよ。だからこそ僕は簡単に信じられない。ただ興味深いよね。藤媛の末裔の屋敷に女幽霊だから。正体を探る価値はあるかも」


 蒼士は立ち上がり、姫奈に向かって手を差し出す。


「姫奈ちゃん。お化けを何処で見たか教えてくれる?」


 姫奈は怯えたような目をして首を振る。「教えるの嫌? どうして?」と蒼士が問うと、姫奈は「こ い」と小さく答えた。「こわい」と言ったらしい。姫奈は特定の三語言葉を言うとき、真ん中の音が小さくなる癖があるようだ。


「僕が退治するから怖くないよ。退治したら、怖いものはいなくなる。怖いものがいなくなる方がいいだろう? だから教えて。大丈夫、僕がいるから」


 姫奈は迷う素振りだったが、蒼士が辛抱強く屈み込んで手を差し出していると、そろそろとその手を掴んで立ち上がる。手を引いて和室を出て、母屋の西にある渡り廊下へと向かう。渡り廊下の先は赤い屋根の和洋折衷の離れ。渡り廊下の先には引き戸があり、入ると板敷きの小さなホールになっていた。ホール奥には、唐草の意匠が彫られた手すりつきの階段がある。階段は樫材らしく黒光りしていた。

 この建物の二階の窓に、女が写り込んでいたのだ。

 蒼士は、姫奈に手を引かれるままに階段を上っていく。礼人も恐る恐る二人のあとをついていく。階段を上っていると煙草の臭いがした。

 階段を上りきると、真っ直ぐ廊下が続いてた。左右に一つずつ扉があり、突き当たりにも扉がある。左右の扉は閉まっていたが突き当たりの扉は開いており、扉の正面にある窓から太陽の光が入っていた。その窓こそ、礼人が撮った写真の中で女が立っていた場所だ。

 姫奈が嫌々するように首を振り蒼士の手を離し、両手で彼の腰を押し、奥へ行けという素振りをした。姫奈自身は怖くて、これ以上進みたくないようだ。


「あの一番奥の部屋にお化けがいるの?」


 蒼士が問うと頷いた。そして身をひるがえすと礼人の脇をすり抜けて、幼児なりに一生懸命に素早く階段を下りると、離れから駆け出て行った。


「どうする。姫奈ちゃんが」

「怖くなって、和室に帰ったんだよ。僕は先へ進む。お化け退治を約束したから」


 蒼士が奥へと歩き始めたので、慌て彼を追う。


「人様のお屋敷の中を、勝手にほっつき歩いちゃ拙いだろ」

「勝手じゃないよ。姫奈ちゃんに頼まれたんだから」


 声を落としながらも蒼士は堂々と答えたが、それは立派な屁理屈だ。彼が礼人の意見や忠告を聞くつもりがないのは明かなので、仕方なく従う。彼がこれ以上常識外れの行動をしそうだったら、止める義務があるだろう。

 開いている扉に近づいた。煙草の臭いはそこから漂い出ている。誰かいるのだろうか。

 蒼士と礼人は、静かに部屋の中を覗き見た。誰もいない。あるのは木製のベッドと勉強用の机と、本棚。勉強机の上には本が広げられており、硝子の灰皿と煙草の箱かあった。

 灰皿には吸いさしの煙草があり、細い煙が立ちのぼっている。


「誰もいないのか? 誰の部屋だ」


 煙草を吸いながら読書していた人が、何かの用事で席を立ったような室内の様子だった。

 この屋敷に住むのは、姫沙紀と姫奈、小姫子と桜子。あとは居候の麻美だけ。その誰の部屋とも思えない。何故なら部屋の壁には男物のスーツがかけられていたし、カーテンもベッドカバーの色も青を基調とした男性的なものだったからだ。室内には、男物らしい香水が微か漂う。蒼士は書棚に近づき、並べられた写真立ての一つを手に取る。礼人も一緒に覗き込む。そこに写っているのは、二十代の若者三人。学生服を着て微笑んでいる。その中にとりわけ顔立ちの整った青年がいて、他の写真立ての中にある写真の全部に彼が写っていた。全ての写真に写っているのは彼だけだ。


「どう思う一さん。この人の部屋かな」


 整った顔立ちの青年を指さして、蒼士が訊く。


「自分の楽しい思い出を飾るもんだから、この人が部屋の主だろうけど。古い写真だな」

「どのくらい古いか分かる?」

「焼け具合からすると、二十五年、いや三十年は経ってるかもな。これ、誰だ?」


 すると蒼士は書棚に並ぶ本を手早く抜き差しし、裏表紙を確認しはじめる。


「何をしてんだ」

「『上級マクロ経済学』とか『マクロエコノミクス』とか、並んでるのは経済学の教科書みたいだ。教科書には大概名前を書くでしょ。部屋の主の名前が、書いてあるかと思って」


 言いながらも手を動かしていた蒼士の動きが、ぴたりと止まる。彼の視線が注がれている本の裏表紙に、達筆な文字で名が記してあった。藤蔭宗一郎と。


「宗一郎ってのは、二十年以上前に亡くなった姫沙紀さんの伯父だろう。じゃあ、ここは宗一郎さんの部屋だったのか。姫沙紀さんと麻美さんの話じゃ、屋敷には女ばかり五人しか住んでないんだよな。でもこの部屋は今も使われてる。まさか、宗一郎さんが生きてるわけもないだろうし」

「二人が口裏を合わせて嘘をついているか。もしくは、彼女達が知らない誰かがいるのか。その彼女達が知らない誰かは、未知の人物か、あるいは宗一郎氏本人か」

「宗一郎氏は亡くなってる。それはないだろう」

「どうして? この部屋を別人が利用してるとしたら、もっと使い心地良くするんじゃない? 自分の映っていない写真を後生大事に飾ってたりしないでしょう」


 言われればそうなのだろうが、それでは本当に宗一郎のお化けでも住んでいるというのか。目の前でたゆたう煙草の煙も、亡霊の吸いさしか。そう思うと薄ら寒いものを感じる。


「でも俺が撮った写真に写ってたのは女の幽霊だ。宗一郎氏じゃない」


 蒼士は写真立てを元の位置に戻す。


「出よう。部屋の主が帰ってくる前に」


 急いで離れを出たが、少なからず礼人は混乱していた。二度も写真に写り込んだ女の姿を指して、姫奈は「おばけ」と言ったのだ。そして彼女が案内したのが、あの部屋。

 誰かが今も使っている気配に満ちた、亡き宗一郎の部屋。それを使っている誰か。


(藤蔭家にはまさか、六人目の人間がいるのか?)


 蒼士の表情は険しかった。当てが外れ、引き当てたくもない面倒事を押しつけられたような顔をしていた。

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