第8話

 二日目から、礼人はカメラを持って歩いた。昨日の出来事は不可解だが、蒼士が調べると言ってくれたことで気が楽になった。勘違いや錯覚なら、それはそれで安心だ。勘違いの証拠を蒼士が見つけてくれたら、「なんだ」と笑って終わらせられるかもしれない。


 しかし気になるのは、松影正治がまだ帰宅していないということだった。


 今朝、朝食を持って来た麻美の話によれば、正治は昨夜も戻らず、さすがに心配した母親の貴代が、今朝早く「そっちに正治が行っていないか」と、電話をかけてきたという。麻美はさも嫌そうに「あんな人を泊めるわけないのに」と言った。

 ただ、いい年の男が二、三日家を空けたからといって、さほど心配することはない。

 祭の準備は既に村内で始まっているらしく、家々の軒下に新聞紙が敷いてありその上で泥人形を乾燥させていた。泥人形は粘土質の土を練って頭と胴、手足を作ったもので、目鼻もなければ手足の指もない。至って簡素なすべすべしたもので、それがぐっと背中を丸めて縮こまるポーズをとっていた。大きさは、二十センチ程度。これが童人形というらしいが、どこにも子どもらしさがない。ただ———胎児に似ている。

 珍しい習俗は記録に残しておくべきだと思い、それら乾燥を待つ人形も写真に収める。

 村の日常の景色を切り取るように撮影して歩いていると、坂の下にさしかかった。坂の下の十字路に、一昨日目にした大阪ナンバーの水色のコンパクトカーが停車していた。運転席に女の姿があった。傍らを通り過ぎようとしたが、運転席の女は礼人に気がつくと車を降りてきた。


「すみません。ちょっと、いいですか?」


 ブラウスとワイドパンツというラフな格好をしていたが、一昨日藤蔭屋敷の玄関先ですれ違った女に違いない。足を止めた礼人に、彼女は小さく会釈しながら近づいてくる。


「一昨日、藤蔭家の玄関先でお目にかかりましたよね? 藤蔭家のお客様ですよね? 藤やに、逗留されてるんですか?」


 いきなり矢継ぎ早に質問されて面食らう。


「客とは言えないんですが。なんですか、あなた?」


「あ、すみません」と、彼女は車の扉を開きダッシュボードを探り、名刺入れを取り出した。それから改まって「こういう者です」と名刺を差し出す。そこには『東大阪みどり探偵事務所 調査員 木戸樹里』と書かれていた。礼人は呆れたような声を出してしまった。


「探偵事務所って、探偵なんですか? あなた」

「調査員です。探偵と言われてもかまいませんけど。正式には調査員です」


 探偵だか調査員だかわからないが、とにかく木戸樹里という女は、はきはき答えた。


「あれですよね。浮気調査とか素行調査とかする。そんな人が俺になんの用ですか? というか、なんでこんな場所に?」


 頭上をカラスが鳴きながら通過していく。こんな場所に不倫カップルはいないだろうに。


「行方不明者の捜索です。四年前に失踪した人なんですが、この村に向かった痕跡があるんで。しかも四年前に、藤やに逗留した登山者が行方知れずになっていると聞きました。私が探している方とその登山者が、同一人物の可能性があると思って、調査に来たんです」

「タクシーの運転手さんが言ってました。その登山者は探してる方だったんですか?」

「藤やに逗留した登山者と、私が探している失踪者の名前が違うんです。私が探している人は鈴木俊之という方なんですが、四年前に藤やに宿泊した登山者が宿帳に書いた名前は、井上武でした。けれど別人だとも言い切れません。何らかの理由で宿帳の名前が間違っていることもありますから」

「ここに来る途中の峠で白骨死体が見つかって、警察では四年前行方不明になった登山者じゃなかいと推測しているようなことを耳にしましたが」

「そちらも警察に問い合わせました。四年前に確かに、藤蔭家から『登山者が一人、山に入って帰ってこない』と届け出があって。当時警察も捜索をしましたが結局見つからなかったそうです。今年に入って峠で見つかった白骨死体が、その登山者ではないかと推測されたそうです。骨はDNA鑑定が出来る状態らしいですが、鈴木俊之さんのDNAが残っていなくて不可能なんです。親族のDNAと付きあわせようにも、鈴木さんには親族がいなくて。そもそも捜索願を出したのも、勤めていた事務所の所長ですし」


 そこで樹里は苦い顔をした。


「事務所は違うけど同業者だったんです。私は、あまり親しくはありませんでしたが。感じのいい人で。調査員って仕事を選んだ割には、山登りが好きな、おっとりした人でした」


 残念ですとか、お気の毒ですとか口にしようとしたが、そうすると失踪者の死を確定するような気もして、言葉を呑みこむ。


「それで伺いたいんです。あなたは藤蔭家のお客様じゃないと仰いましたが、どんな事情でここへ? 一緒に泊まっている人は助手ですか」

「俺は写真屋で、仕事を依頼されたから来ただけです。藤祭の準備や祭の様子を記録するようにと依頼を受けました。同宿の彼は祭見物に来て、たまたまとった宿が同じで・・・・・・」


 そこまで答えたが、違和感を覚える。


「ちょっと、待ってください。なんで失踪者と俺たちのことが関係あるんですか? 別に隠すような事情はありませんが、俺たちのことを聞いて何がわかるんですか」


 樹里は腕組みして、坂の上に佇む藤やの方を睨む。


「調べた限り、鈴木さんが成葉里村に来たのは間違いないんです。彼が大阪から岡山へ向かう新幹線の中で、高校時代の同級生に遭遇していたらしくて。その人から、鈴木さんは成葉里村へ行くと言っていたと証言がとれたんです。私は行方不明の登山者は鈴木さんで、発見された白骨死体も彼だと考えているんです」

「でも宿帳の名前は違うんですよね。偽名を名乗られてたんですか」

「それが妙なんです。鈴木さんは自殺を考えるような人じゃなかったから、純粋に登山を楽しみに来たはずです。偽名を使う必要はないんです」

「じゃあ、どうして偽名が宿帳に」

「宿帳の偽名を、鈴木さん本人が書いたとは言えません。宿の誰かが勝手に名前を書き換えたのじゃないかと疑ってます。ただの事故なら名前からすぐに登山者の身元がわかって、私達は彼の捜索に尽力したと思います。けれど偽名だったせいで、身元不明の登山者と身元不明の白骨死体になってしまったのじゃないかと。誰かが鈴木さんの行方を意図的に隠したのではないかと思えます」

「誰が書き換えたって、藤やの関係者ですか?」

「宿帳ですから部外者には無理でしょう。できたとしても宿帳に書かれた名前が変われば、いくらなんでも宿の人が気がつきます」

「宿の人が、わざわざ宿帳を書き換えるって。なんのためです」

「鈴木さんの存在を消したかった、としか。けれど鈴木さんと成葉里村には、休暇を利用して登山を計画した場所という以外に、仕事でも私生活でも接点はないので。誰がどういう目的でと問われても推測すら出来ません。藤やの所有者である藤蔭家との関係もありませんし。残るは四年前に藤やの営業に関わっていた、従業員くらいでしようが。藤蔭家に問い合わせたところ従業員名簿はないと言うんです。その時々で村の人が手伝うからと」


 そこはかとない気味悪さを感じる。藤やの件も礼人に依頼された仕事の件も、どちらも目的がわからない。目的がわからないのが不可解なのだ。それはこの四年前に行方知れずになった登山者——鈴木俊之の件についても共通しているらしい。


(奇妙なことが起こるのに、目的がわからない。それが気味悪い)


「とにかく、辛抱強く藤やの関係者を調べているんです。まずは所有者の藤蔭家を調べようと、一昨日、当主の藤蔭姫沙紀という人に会いました。けれど鈴木さんの写真を見せ、四年前の登山者はこの人だったかと訊いても、この人だったかどうかわからないの一点張りで埒があきません。そしたらどうも、藤やに逗留している人がいるらしいので。何か情報を得られないかと思って、声をかけさせてもらったんです」

「あいにく、俺たちも藤やに関しては何も知りません。そういう意味でなら、藤蔭姫沙紀さんも何も知らないでしょう。なにしろ今回、俺たちは姫沙紀さんを含めた全員が、妙な嫌がらせか悪戯かの末に、なし崩しに藤やに逗留することになったんで。ましてや四年前の事なんて、調べようがないと思いますけど」


 礼人は自分が偽の仕事の依頼で来たことや、藤やが廃業していて、姫沙紀の知らないところで客を招き入れられていたことを説明した。樹里は、顎を引いて険しい表情になる。


「おかしいですね。私も今月の頭に藤やに電話したんです。客として宿泊して調査しようと思って。そしたら女性が応対に出たんですが、はっきりと『藤やは廃業しました』と言われたんです。客を選別していたということでしょうか。そうだとすると、あなたが偽の仕事を依頼された件と藤やが勝手に開かれていた件は、同じ人間の仕業の可能性が高いです。あなたが宿を取るとわかっていたから、あなただけ招き入れたとか」

「いや、それなら同宿になった彼、終夜君といいますが。彼も宿泊を受け付けてもらえてるので、俺だけを招き入れようとしたということにはならないですよ」


 樹里が上目遣いに鋭く礼人を見る。黒目が大きい上にマスカラが濃く、力強い目だった。


「その終夜君という同宿になった人は、本当に偶然同宿になったんですか? 本当に藤やに電話をして宿泊を受けてもらったんですか? それは彼の自己申告で、そういうことになっているんでしょう?」


 的確に指摘に、はっとした。


(確かに、あいつがそう言っているだけだ。ここに実際に宿泊を拒否された人がいる。藤やの件も俺への仕事の依頼の件も、あいつが仕組んだと充分に考えられるじゃないか)


 確か蒼士は幾度も礼人のことをカモ呼ばわりして、小馬鹿にしていた。それは自分が騙している相手を嬲るような、悪趣味な発言だったのかもしれない。


「でもあいつが一連のことを仕組んだとしたら、目的は・・・・・・」

「誰がなにを仕組んだの?」


 背後から声がして礼人も樹里も驚いて飛びあがった。蒼士がコンパクトカーの車体を回り込んで、ふいに姿を見せた。「誰が何を仕組んだの」と問いかけたが、その答えを知っているぞと言いたげな顔をしていた。

 目を見開いていた樹里は、さすがだった。瞬時に親しげな笑顔を作り頭を下げる。


「こんにちは。一昨日、お目にかかりましたね」

「そうだっけ? お姉さん、興信所の調査員だね」


 礼人の手にあった名刺を見て、蒼士はすぐに応じた。


「調べものがあって、しばらくこの辺りを歩き回ると思うの。仲良くしてね」


 なるべく警戒心を抱かせまいと屈託ない明るさを演出する彼女に対して、蒼士は無表情だ。そして少し間を置いてから言った。


「招かれざる客っていうのは、鬱陶しいものだ。あんまりうろついていると危ないよ」


 樹里の作り笑顔が消え、挑むように彼を見つめる。そちらがそのつもりならと、覚悟決めたような表情だ。


「それは脅しなの?」

「忠告だよ」


 蒼士はふらっと西側の道へ向かって行った。それを見送った樹里は、礼人に振り返る。


「彼は何者ですか? 祭見物に来たと一さんは仰ってましたけど」

「俺も成葉里村に来て初めて彼とは会ったんで、彼の口から聞いたこと以外は知りませんよ。訊いたところによると、美術大学の日本画学科に通う学生らしいですが」

「眼鏡と前髪で見えにくかったけど。何処かで見覚えがあるなぁ。あの顔」


 眉をひそめて、樹里がぽつりと呟く。それは礼人も感じたことだ。初対面だと確信がある。絶対に身近に見る顔ではない。ただなぜか見覚えがある。その奇妙な感覚を、樹里も覚えているのだろう。暫く考え込んでいたが、結局わからなかったらしい。


「まあ、おいおい調べていきます。私は暫く成葉里村に通って、村の人に聞き込みして回ります。藤やのことや藤蔭家のこと、あの終夜という人のことで、わかったことがあれば教えてもらえませんか? 鈴木さんが亡くなっていても、生きているとしても、何か掴みたいんです。鈴木さんが成葉里村に来たことは確実なんですから」

「わかりました。出来る範囲でなら」


 心許なく返事した。樹里は礼人の携帯電話の番号を訊いてメモすると丁寧に頭を下げて、「これから村の人に聞き込みをします」と、南の部落の方へと向かった。


(不穏なことだらけだな)


 四年前に行方不明になった登山者、鈴木俊之は偽名で藤やに宿泊したことになっている。しかしそんなことはないだろうと、樹里は言っていた。では何者かが宿帳を書き換えたとしたら、目的はなんだろうか。そもそも鈴木俊之が山に入り行方知れずになったというのも、果たして事故だったのか。礼人達が奇妙な出来事に遭遇しているのも藤やなのだから、四年前の一件と今回の一件には、まったく関わりがないとも言い切れない。


 ただ、そんなことまで疑えば切りがない。


 礼人は坂を上って、藤蔭屋敷へと向かった。村の景色を重点的に撮影したので、今度は藤蔭屋敷と千年藤の周囲の景色を撮ろうと考えたのだ。ついでに姫沙紀に会って、樹里のことも知らせておく必要があると思えた。樹里が、また藤蔭屋敷を訪問する可能性がある。

 藤蔭屋敷の玄関戸を開けて奥へ声をかけてみたが、反応はなかった。姫沙紀も麻美も留守らしいと判断し、それなら当初の目的通りに千年藤や藤蔭屋敷の周辺の写真撮影をしようと屋敷の裏手へ向かう。

 母屋の東に繋がる平屋の棟の前を通ると、果物が饐えたような臭いを強く感じた。縁側に面して六枚並ぶ硝子戸には常にカーテンがかかっていた。そのため使われていないように見えていたが、今日は戸の一枚が数センチ開いて隙間が出来ていた。饐えた臭いはそこから漂ってくる。母屋の清潔な玄関や廊下、客間を知っている礼人にしてみれば、離れの色褪せて汚れたカーテンや、漂い出てくる饐えた臭いは、同じ敷地内にある建物には思えないほど忌まわしい感じがした。


(この平屋は何に使われてるんだ?)


 平屋を回り込み蔵のある裏庭に近づくと、ひそめてはいるが鋭い声が聞こえた。


「止めてください、良治さん」


 姫沙紀だ。切羽詰まった声音に、興奮しているらしい男の声が重なる。


「お前を心配してやってるんじゃないか。藤やの、おかしな話も松丸から聞いて」

「藤蔭のことは、藤蔭でします。手を離して下さい」

「何かがあったんなら、俺が力を貸してやると言ってるんだろう。もしかして兄貴が先に来たか? 兄貴が一昨日の夜から帰って来ないのは、お前のとこにいるのか」

「違います。正治さんが何処にいるのかなんて知りません」

「兄貴が来てないなら、俺が先だ。ほら、お前は。こんな可愛いんだし」

「離して!」


 姫沙紀の声音に危険を感じ礼人は走って裏庭に出た。土蔵と東側の平屋の棟の中間にある紅葉の木の下で、姫沙紀と、灰色の作業服を着た松影良治がもみ合っていた。良治は姫沙紀の両の二の腕を掴んで紅葉の木の幹へと押しつけるようにしている。体を姫沙紀の体に押しつけ興奮しているのが傍目にもわかる。必要以上に彼女に顔を近づけ、首筋を舐めるような仕草をしているので、姫沙紀は顔を背けていた。


「離れろ!」


 礼人が怒鳴ると、良治ははっとふり向き腕の力を緩めた。その隙に姫沙紀は良治の体をかわし、紅葉の木の下から礼人に向かって駆けた。背に隠れるように、さっと彼の背後に回った。ひやりとした細い手が背後から礼人の腕に触れる。その手が微かに震えていた。怯えている。それを感じ取った瞬間、礼人の中に使命感が沸き立つ。

 母の葬儀以来、体の芯が引き抜かれたみたいに自分の存在が頼りなく思えていたが、守らなければならないという義務感と高揚感が、空洞になってたものを一気に満たした。


(今、この場で、この人を守れるのは俺しかいない)


 ほっそりと儚げな姫沙紀の存在感が、礼人の保護欲を刺激する。


「あんた一昨日の夕方、藤蔭屋敷の門のとこで会ったなよな。誰だ」


 良治の身長は姫沙紀とほとんど変わらないが、手足が太く、がっちりとした体躯をしていた。赤ら顔だ。足元が覚束ないので酔っているのか。頭髪は薄く額は脂ぎっている。


「あなた、姫沙紀さんの叔父さんの松影良治さんですよね」


 良治は肩を怒らせ、威嚇するようにこちらを睨めつける。しかし目には鋭さも覇気もないので、さして恐くはなかった。


「そうだ。俺は姫沙紀の叔父なんだよ。その俺が、あんたは誰だと聞いてるんだ」

「写真屋です。藤祭を記録するために雇われました」

「はあ、あんたが。姫沙紀がたぶらかしてきた男か」

「おかしな言い方は止めて下さい。説明したでしょう。この人は藤祭を記録するためにお願いした写真屋さんです。一緒に藤やに宿泊しているのは、この写真屋さんの連れの方で」


 気丈に抗議した姫沙紀に、松影良治は嫌らしい笑みを見せた。


「そら、やっぱりたらし込んだんだ。町に出ると女はあばずれになって帰るもんだ。父親が誰かもわからん子を産むような。俺と正治も」

「黙れ!」


 腹から声を出して一喝すると、裏庭に大きく響いた。良治が思わずのように首をすくめたのを見て取った礼人は、この男は小心者だと判断した。高校生の時ですら、立っているだけで充分警備の仕事に役立った礼人だ。意識すればそれなりに押し出しがきく。


「写真屋が偉そうに。そこの女があばずれ」

「それ以上失礼なことを口にするなら、こちらにも考えがある」


 拳を握ると、良治の表情は強張ったが、それでも虚勢を張ってその場に唾を吐き出す。


「たらし込まれやがって、馬鹿め。藤蔭の女に取り殺されないようにしろよ。俺達の兄貴の武雄も、この屋敷の女に殺されたんだ。ここの女たちと関係を持ったら男は死ぬんだぞ、覚えとけよ。余姫婆さんが余計な事をしたからな。ここの女達は藤媛に呪われてるぞ」


 捨て台詞を残し、松影良治は礼人と姫沙紀を横目で睨みながら裏庭から出て行った。彼の姿が表へ消えると、姫沙紀が長い溜息をつく。


「すみません一さん。ありがとうございます。助かりました」


 姫沙紀は痛々しいような笑顔で礼人を見上げていた。二の腕を両手でさすっているのは、そこを強く掴まれたので痛むのだろう。


「昨夜も失礼な口をきく人だとは思いましたが、とんでもない人ですね」

「良治さんと正治さんは、二人そろってないと勢いも半分なので、今日はましな方です」

「あれがましなんですか!? あれ以上は犯罪だ。警察に通報すべきです」


 怒る礼人に対して姫沙紀は困ったような表情になった。身内を犯罪者にしたくないのだ察せられたが、そういう遠慮や情が、近しい間柄での犯罪行為を許してしまうこともある。


「わかっていますが。また、ひどいことがあれば考えます。今日の叔父は特に苛々していたようなので。叔父は今朝、大組長の松丸さんから、私達が藤やに男の人を入れていると聞いて怒鳴り込んできたんです。何のつもりかと」

「松影さんが怒鳴り込める権利はあるんですか」

「ありません。藤やは藤蔭家の所有で松影は関係ありません。けれど叔父達は藤蔭家を自分の意のままに動かせるように、藤蔭家に入り込みたいようです。だから自分の知らない藤蔭家の動きは気に入らないんです。屋敷を守るのには男が必要だろう、私が当主では頼りないので助けてやると、いつも口を出してきます」


 姫沙紀の顔色が余りにも青白く血の気が失せているのに気がつき、彼女を促し、東の離れの軒下に導く。靴脱ぎの石があったので腰かけさせると、傍らで彼女の様子を覗きこむ。


「麻美さんは母屋にいないんですか? 居るのだったら、水でも持って来てもらって」

「麻美ちゃんは、姫奈と一緒に散歩に出てるんです」

「じゃあ、他の方に。姫沙紀さんのお母さんとお婆さんも、お屋敷に住んでいるんでしょう。呼んで、水を」

「無理です」

「無理って、どうしてです。水くらい」


 と言いかけた礼人の首に、ひやりとしたものが巻きついた。自分の肩から真っ白い皺だらけの腕が伸びていて、それが礼人の首の前で両掌を握り合わせている。悲鳴をあげて、礼人はその場に尻餅をついた。白い腕が頭の方へすっぽ抜ける。

 見上げると、自分の頭の上で白い腕が何か探すようにゆるゆると動いていた。

 離れの窓から、誰かが両腕を突き出している。


「だ、誰ですか」


 腕に対してか姫沙紀に対してか、どちらに問うたのか自分でもわからなかったが、思わずそう言っていた。姫沙紀が振り返り、窓から突き出ている腕を認めると眉尻を下げた。


「桜子お婆ちゃん。どうしたの」


 辛そうにしながらも立ちあがり、姫沙紀は窓を覗きこむと優しい声音を出す。


「お婆ちゃん? 姫沙紀さんのお婆さんの、桜子さん?」

「はい。祖母の桜子です」


 へたり込んでいた礼人は驚きすぎたことが無礼だったかと、焦って立ちあがった。姫沙紀が覗いている窓を一緒に覗いて軽く頭を下げた。


「お邪魔しています。姫沙紀さんに仕事を頂きました『にのまえ写真館』の一・・・・・・」


 そこまで名乗ったが、声が途切れてしまった。


 窓は廊下の明かり取り用の窓らしく、胸の辺り高さだった。そこから両腕を突き出している老女は真っ白な髪と真っ白な肌をしていて、まるで白兎のようだ。そう思うのは老女の顔にはあどけない、幼児のような無邪気な微笑みがあったからだ。にこにこ笑い続けている。しかし目の焦点が合っていない。

 礼人の驚きの表情を見てとったらしく、姫沙紀が静かに口を開く。


「ご覧のように祖母の桜子はこんな様子です」

「認知症ですか」

「いいえ。昔からこんな様子です。体が極端に弱くて外へ出ることも出来ず、若い頃から隠居で横になって過ごしていますから。村で、桜子お婆ちゃんの姿を見たことがある者はいないと思います」


 いくら病弱でも、同じ場所に横になっているだけでは精神的に参ってしまう。体は維持できたとしても、精神は何十年もの間にゆっくりと蝕まれそうだ。


「桜子さんは、姫沙紀さんのお母さんの本当にお母さんですよね?」


 家から一歩も出られないような虚弱な体で、よく結婚し子をもうけ、育てられたものだと不思議だった。


「ええ。亡くなった伯父の宗一郎も母の小姫子も、麻美ちゃんのお母さんの慶子さんも、三人とも桜子お婆ちゃんの子どもです。曾祖母の余姫が、東北の方から桜子お婆ちゃんの夫となる人を見つけてきて養子にしたそうです。私の祖父にあたる人ですが、顔を見たことはありません。慶子叔母さんが生まれるのと前後して、飲酒が過ぎて肝硬変で亡くなったそうですから。三人の子どもは余姫が育てました。桜子お婆ちゃんは母親に命じられるがままに、子どもを産まされただけです。若い頃から少々怪しかったようですが、様子がさらにおかしくなったのは、子どもを産んでからだと聞いてます」


 姫沙紀の声には、曾祖母余姫に対する怒りが滲んでいた。


「桜子お婆ちゃんがこうなったのは、余姫のせいです」


 桜子が嬉しげに目を細めた。くふふ、ふふふと含み笑いながら、紫色に変色した口内に残ったまばらな黄色い歯を見せる。


「姫沙紀ちゃんは良い子ねぇ。良い子、良い子、してあげる。大好きよ姫沙紀ちゃん」


 子どもが遊びで仲間を囃す調子で、桜子がぶつぶつと言い始める。姫沙紀は困ったような愛しそうな表情で桜子を見つめると、「そうね」と小さく答えた。そして、


「今日も日課の書き取りしよう、お婆ちゃん」


 と優しく話しかけた。 

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