第7話
(この土蔵か)
成葉里村に到着した日に撮った写真には、土蔵の窓からこちらを睨む女の顔が写っていた。見開かれた目を思い出すと気味悪くなり、土蔵の方を見ないようにして裏庭を抜ける。
その先には湯殿らしき小さな建て屋があり、これも渡り廊下で母屋と繋がっていた。
母屋の真裏辺りの崖には、石を削り出して作った階段がある。荒削りで所々崩れかけており、蹴込み部分に厚く苔が繁殖している。手すりもない急な石段を上りきり背後を振り返ると、真下に土蔵の屋根と藤蔭屋敷の屋根。視線をあげれば成葉里村の全容が見渡せた。
「すごいな。本当に鉢の底だ」
眼下に見えるのは、緑の巨大な摺鉢だ。昨日タクシーで通った道も杉木立に隠れているので、まるで外の世界と隔絶した場所に思える。見渡せば摺鉢の北側と西側、東側、南側と、おおよそ三箇所に家が固まって、三つの部落を形成している。それら部落から曲がりくねった道が鉢の底へと下りていき、鉢の底の中央辺りで交わっている。
摺鉢の北側にあるのは、藤蔭屋敷だけだ。すり鉢の底ありたにも数軒の民家が点在していたが、その中に他の民家の倍ほどある、大きめの屋敷があった。鉢の底の東だ。
「あそこに見える屋敷を、
並んで景色を見おろしていた姫沙紀が、鉢の底の東にある屋敷を指さす。
「成葉里村周囲の山林の三分の二は、藤蔭家の所有です。村が開拓されたのは室町時代以前という説もあって、藤蔭家は村が拓かれた当初から地主だったそうです。そして山林の残りの三分の一は、松影家という一族が所有しています。あのお屋敷の人たちです」
姫沙紀は松影屋敷を見つめていた。警戒しているような引き締まった表情だ。
「松影も歴史の古い家系で藤蔭家の分家筋です。藤蔭家に次ぐ家格ではあるんですが、勢力が違いすぎるので、代々藤蔭家の付属品のような扱いを受けています。あそこの当主は現在は、
双子の叔父と聞いて、ぴんときた。昨日の夕方、藤蔭屋敷から出てきた二人の男は、その松影良治と正治に違いない。
「今朝。藤やの一件や、私の名を騙って一さんに偽の仕事を依頼するような人物の心当たりがないかと、問われましたが・・・・・・」
躊躇うように一旦言葉を切った姫沙紀だったが、意を決したらしくすぐに続けた。
「私も麻美ちゃんも叔父達、松影良治と正治が、犯人ではないかと疑ってます。嫌がらせをされる覚えがあると言えば、叔父達しか思い当たらないんです」
「叔父さん達がですか?」
「身内の恥を申し上げるようで躊躇ってしまったんですが。一さんは被害に遭われているので、お伝えしなければ誠実さに欠けると思って」
恥ずかしそうにうつむく彼女は、かいつまんで事情を話してくれた。
姫沙紀の父の武雄は、松影家から婿入りした人物だ。
ここに藤蔭と松影の差が如実に表れているという。松影家の跡取りたる長男武雄を、藤蔭家が婿としてもらい受けたのだ。跡取りを他家に取られるのは家の恥。だが藤蔭家の希望とあれば断り切れなかったらしい。
そして兄の武雄の代わりに松影家の当主となった良治と正治にとっては、兄の娘である姫沙紀は姪である。良治と正治は、親戚なのだから姪を助け、藤蔭家の事情に口を出すのは当然と公言しているそうだ。ただ藤蔭家としては、血が繋がっていようが叔父だろうが、松影は松影。藤蔭の事情に口を出されるのを快く思わない。それは藤蔭家と松影家の格差を意識したのではなく、藤蔭家が所有する財産が莫大なための警戒心からだった。
「松影家は今、ほとんど財産がないらしいです。叔父達が仕事もせずに、木工細工なんかを作って遊び歩いてるものですから財産を食いつぶして。財産は山林しか残ってない様子ですが、こんな山奥の山林なんて売れないでしょう? でも岡山の産廃業者が、この辺りで最終処分場にする土地を探してるみたいで。叔父達はその業者に山林を売って手っ取り早く現金を手に入れようとしているらしいです。ただ山林は藤蔭家の山林と入り交じってるので、まとまった広さに出来なくて売れない。だから彼らは私達を丸め込んだり、脅したりして、藤蔭の山林の一部と一緒に、松影の土地を売ろうとしてるようです」
「今まで、具体的に何かされたことがあるんですか?」
「しつこく屋敷にやってきて、勝手に上がりこんだりします。そしてことあるごとに山林の話を。一度、私達の寝ているところへ、二人で忍びこんできたことがあります。恐くなって、それ以来戸締まりは厳重にしています。あと・・・・・・お風呂場を覗かれたことも」
嫌悪が抑えきれず、礼人は思わず顔を歪めてしまう。
「叔父達がこの度のことを仕組んだという確証はありません。けれど可能性として」
話を聞くだけでも、山林欲しさに姪に擦り寄ってくる叔父達には、美しい姪に対しての嫌らしさのようなものすら透けて見えた。それを感じると無性に腹が立つ。
母と妹を守ることが自分の幸福の全てだと無意識に思い込んでいた礼人は、彼女達が穢されること、傷つけられることを、常に何よりも恐れていた。その意識は女性全般に対しても反映され、女性を傷つけたり穢したりする者には条件反射的に怒りが湧いてくるのだ。
「すみません、本当に」
姫沙紀が礼人に新たな仕事の依頼をしたのは、こういった裏の事情があったのかと納得した。もし礼人に偽の依頼を出したのが松影の叔父達であるなら、身内として不始末を償いたいと考えたからに違いない。
麻美も言っていたが、藤蔭家の中心は姫沙紀であり、彼女以外は老人と子どもだけだ。旧家だからこそ起こる面倒事に、彼女一人で立ち向かわねばならないらしい。
姫沙紀は若いわりには驚くほど、いっそ芝居じみて見える程に落ち着いた雰囲気がある。同年代の平均的な女性に比べると奇跡にも思える。若く美しい上に落ち着いているからこそ、姫沙紀にはしっとりした艶がある。ともすれば彼女の若々しさを忘れそうなほど艶めいているのたが、張りのある肌やほっそりした体つきを見ると、間違いなく若さを感じる。
彼女の夫は何をしているのだと、腹立たしくなった。死別したなら同情するが、もし生きているならば無責任この上ない。離婚したにしろ、未婚だったにしても、子まで成した女性をよく放っておけるものだ。
「謝ることはないです。姫沙紀さんは被害者ですから。しかも俺に仕事を依頼してくれたじゃないですか。それだけでも有り難すぎるくらい有り難いです、俺は。ご厚意に甘えて仕事を受けてしまったのが申し訳ないくらいです。だからせめて仕事をする間だけでも、嫌がらせを企んでいる人間が誰にせよ、何もさせないように気をつけておきますから」
姫沙紀の瞳が濡れているように見えた。頬の白い美しさが艶めいている。まるで陽の光にさらされることなく育ったかのように、驚くほど肌がなめらかだ。薄く口紅を引いているだけで、化粧気はない。それなのに肌質の美しさだけで、魅了される。
「ありがとうございます」
姫沙紀を見つめることが不意に恥ずかしくなり、焦り、礼人は「千年藤を見ましょう」と歩き出す。二人は成葉里村の景色に背を向け、緩やかに広がる斜面を上った。
階段を上がりきった場所からも藤の花が延々と広がっている様子は見えていたが、近づくに連れて迫力に圧倒される。
山肌のその場所は、天然の広々とした棚になっていた。トレッキングシューズが埋まる程に雑草が生い茂る開けた場所に、巨大な藤の木があった。
藤の幹は一抱えもある。太い蔓が絡み合って巨大な幹を形成しているように見える独特の姿は、地面から霊気を吸いあげる動脈のようでもあり、根は広範囲に広がり、地面から所々隆起していた。
左右前後に張り出す蔓が、竹で組まれた藤棚に支えられて延々と広がっている。紫の広がりは北側の斜面や、東西の斜面にまでおよび、可能な限り棚を組んでいるその先にまで蔓が伸び、地面に垂れてる。圧倒的に巨大な藤棚は、藤棚というよりも異界へ続く巨大な隙間にすら見える。何しろ藤棚の先には、さらに続く藤棚しか見えない。ずっと先に進んでいくと、藤棚と地面の隙間が徐々に狭まり、何処かへ吸い込まれていくのではないかという恐怖すら感じた。紫の隙間には美しさと不気味さが共存している。
わずかに吹く風にも、一斉に揺れる藤の花房。それは異界への隙間が、迷いこむ者を咀嚼しようとするかのように、うねっている。藤に引き寄せられるように近づいた。
藤の幹には左始まりで右終わりの細い注連縄が巻かれていた。注連縄に下がる紙垂と〆の子が微かに揺れていた。それに違和感を覚えて暫し考え込んだが、ようやく気がつく。
「注連縄の方向が逆か? なにか理由があるんですか」
注連縄は通常、右から始まり左終わりに編まれているのだが、これは逆に編まれている。
隣に立つ姫沙紀が、ふっと表情を消して呟く。
「こんなことで、封じ込められはしなかったのに」
「え? なんですか?」
問い返すと、彼女は小さく首を振る。
「なんでもありません。注連縄のことでしたら、曾祖母の余姫なら知っていたかもしれませんが。もう、亡くなりましたから。私には詳しいことはわかりません」
礼人は、紫色のうねりを見あげる。隣に立つこの美しい人には隠し事があるのではないかと、ふと感じた。
千年藤の周囲の足場や地形などを確認した後、礼人は姫沙紀とともに藤蔭屋敷に戻った。すると麻美が、すこし前に組長達が来たので客間に案内してあると教えてくれた。
藤郷の組長は
姫沙紀は、礼人に依頼することになった経緯を、三人の組長に伝えなかった。
組長達が帰った後に理由を問うと、「この一件に叔父達が絡んでいたら、身内の恥になるかもしれないので」と申し訳なさそうに答えたのだった。
来週日曜日から千年藤の周囲に燃やす篝火や、参道に提灯を立てる準備がされ、その週の金曜日の夕方から
明日から藤祭までの期間、礼人は村の中を自由に歩き、祭の準備をする村人達を撮影する許可ももらった。無論、藤蔭屋敷に出入りし、祈りを捧げる役目を負う藤蔭家の準備なども撮影する。
誰がなんのために藤やを勝手に開いたのか、姫沙紀の名を騙って仕事の依頼をしたのか未だ不明だ。そんな状況でも、やり甲斐のありそうな仕事に礼人の心は浮きたった。
○○○
翌日から早速、撮影の下調べを始めた。村の中を一通り見て歩き、また藤蔭屋敷と千年藤の周囲も詳細に歩いて地形を把握した。
成葉里村は
村の全景を撮ろうとして千年藤のある山を登ってみたが、途中で山道が雑木に埋もれて道を見失いそうになったので引き返した。
藤蔭屋敷と千年藤を中腹に抱くその山は、背ノ
あと、ひやりとしたのは、東側の道を辿り条奥部落のさらに奥へと延びる道があったので、それを辿ってみた時だ。
道はくねくねと手入れされていない雑木林の中を上っており、見上げれば左右から覗きこむようにして雑木の枝葉が伸びている。かなり上って行くと、左手に一軒、雑草や木々に浸食されて、崩れかかった屋敷跡があった。屋根の一部が落ち、土塀が剥がれていた。庭先には釣瓶が揺れる井戸があった。ゴツゴツした石で組みあげられた井戸は苔むし、いかにも何かがそこから這いだしてきそうだ。
それを横目に見ながらさらに上ると、道の先は雑木林に囲まれた薄暗い雑草だらけの広い草地になっていた。そこだけぽっかりと開けているので、広場だろうかと思い足を踏み入れたら、踏み出した足が突然、膝までの水に突っこんだ。
そこは広場ではなく、護岸もされていない柵もない池だったのだ。表面が水草で覆われている上に、周囲に丈の高い雑草が繁茂しているので草地と勘違いしたのだ。うっかりすると池にはまりかねないと思い、すぐに引き返した。
昼食は藤やに戻って食べたので、池のことを蒼士に注意した。すると彼は「知ってるよ」と、余裕の薄ら笑いで答え、「あの池は奥の池と呼ばれていて、何人もはまって亡くなってるらしい。姫沙紀さんのお父さんの武雄さんも、あそこで亡くなってるらしい。結構、深いんだって」と、逆に教えられた。
藤祭に興味をもって来たという蒼士は、礼人と同じように村の中をほっつき歩いていた。彼は村内で誰かに行き逢うと近寄って声をかけ、積極的に立ち話をしている。時には一人暮らしの老人の家に上がりこんでいるようだった。
日が傾くまで村を歩き回り、そろそろ藤やに帰ろうかと考えはじめたときだった。
礼人は、松影屋敷と、奥の池へと続く登り口の、中間辺りを歩いていた。
松影屋敷の方向へ向かっていたのだが、ふと背後に人の気配を感じてふり返った。すると奥の池への登り口から、呆然とした表情で、姫沙紀が出てくるのが見えた。
「姫沙紀さん?」
あの道の先には、廃屋と奥の池しかない。そんな所に何をしに行っていたのだろうかと不思議に思い、立ち止まって声をかけた。
姫沙紀は強張った表情でこちらを見た。青ざめ、尋常ではない怯えがその目にある。
「どうしました、姫沙紀さん」
彼女は呆然と立ちつくして動く気配がない。異常を感じた礼人は方向転換して彼女のもとへ駆け寄った。
「・・・・・・一さん。叔父が・・・・・・」
姫沙紀は胸の前で両掌を握りあわせていたが、そこにメモ用紙を握っていた。
「叔父? 松影良治さんか、正治さんのことですよね? 何かありましたか」
「どちらかは、分かりません。・・・・・・深くて・・・・・・」
要領を得ないこの様子はただ事ではないと感じる。姫沙紀は握っていたメモを礼人に差し出した。受け取り、そこに『夕方五時、奥の池の屋敷へ来い』と、走り書きされているのを確認した。奥の池の屋敷とは、池へ続く途中にある廃屋のことだろう。そこへの呼び出しのようであるが、これがなんだろうと思い姫沙紀の見返すと、彼女は震え声を出す。
「さっきそれが、私の部屋の窓から放りこまれているのに気がついて。それ、叔父の字です。叔父達は、二人ともよく似た字を書くのですが、間違いなくどちらかだと思って。無視すると後がうるさいので、来てみたんです。そしたら・・・・・・井戸に・・・・・・井戸の周囲が踏み荒らされていて・・・・・・井戸の中に・・・・・・叔父が」
「井戸に松影さんが落ちたんですか!?」
「多分」
「それは助けないと!」
礼人はメモ用紙を無意識にパーカーのポケットに入れ、奥の池へ向かう道を駆けあがった。姫沙紀はぼうっとしていたが、礼人が駆け出すと慌てたように彼の後を追ってきた。
走りながら腕時計を確認すると、午後五時二十分。空はみるみる色をなくしている。井戸に落ちた人を助けるなら急がなければならない。暗くなってからでは手こずってしまう。
廃屋の庭にある井戸が見えた。井戸の周囲が踏み荒らされていたと姫沙紀は言ったが、午前中に礼人が見た時と変化はないように思う。ただ注意してみれば、井戸の周囲の草が一部なぎ倒されているし、井戸の縁に密集する苔の一部が剥がれ落ちている。
「松影さん・・・・・・!」
呼びながら井戸を覗きこんで、礼人は息を呑んだ。
井戸はかなり深い。目測で四メートルはあろうかという深さで、内部は不揃いな石を組みあげて補強してある。水はなかった。涸れ井戸だ。しかし湿気は充分らしく、羊歯が石壁のあちこちから生えている。羊歯の合間に、細い光の筋がきらりと幾筋か見えたが、それがなんなのかはわからない。井戸の底はかなり暗い。だが、そこに窮屈そうに仰向けの状態ではまりこんでいる、松影の良治、もしくは正治の姿は見えた。
両腕、両足が、真上から投げ落とされたかのように、石壁に沿うように上を向いている。窮屈そうに、万歳して、足をあげているような状態だ。こちらを見上げる顔は、硬直していた。目を見開き、口を開き、動かない。ひとめで死んでいると確信した。
ふり返ると、姫沙紀が怯えた表情で、背後数メートルの所に立ち止まっていた。
「姫沙紀さん、これは」
「落ちていたんです・・・・・・。わたしが来たときには、もう」
もう一度井戸の中を覗きこむ。死んでいるとは思うが、断定はできない。すぐに救助して処置をすれば、助かるかもしれない。救急車を呼ぼうとしてスマートフォンを取り出したが、電波圏外になっていた。
「ああ、くそ!」
礼人は姫沙紀に「ここに居てください、消防に連絡します」と言って坂を駆けおりる。
坂を下りてスマートフォンを確認したが、まだ圏外だ。固定電話を何処かの民家で借りた方が早いと思い、周囲を見回す。松影屋敷の周辺には、ぽつぽつと民家が建っている。どれも山肌に添った坂の上にあるので、道沿いにある松影屋敷が最も近そうだった。松影屋敷に向かって走り出すと、「一さん?」と呼ばれた。立ち止まって声の方向を見ると、民家へと続く坂道のひとつから、蒼士が下りてくるところだった。
「どうしたの血相変えて」
「井戸に。奥の池へ続く道に、廃屋があったろ。そこの井戸に姫沙紀さんの叔父のどちらかが、落っこちてんだよ。消防に連絡して助けを呼ぶんだ」
蒼士も顔色を変え、今しがた自分が下りてきた坂の上へ目を向けた。
「この地区は携帯の電波圏外だ。今、僕が話を聞いていたお爺ちゃんの家で、電話を借りる。一さんは井戸に戻って、転落した人に声をかけてて」
「わかった」
転落者は死んでいる可能性が高かったが、それでも一縷の望みをかけて、声をかけ続けるのが常道だろう。蒼士が坂を駆けあがって行くのと同時に、礼人はまた、同じ道を引き返す。奥の池へ続く坂の下まで来て、さすがに息があがり、ちょっと立ち止まって休む。腕時計を見ると、午後五時四十五分。いくらか速度は落ちたが再び走り出してすぐ、暗くなりかけた坂道の途中に、姫沙紀が立ちつくしている姿が見えた。
「姫沙紀さん。井戸は」
近づいて、息を切らしながら問う。姫沙紀は首を横に振る。
「すみません。恐くて。とても一人であの場所にいられなくて。ここで待っていました」
「いや、すみません。俺の方こそ一人にして。消防へは終夜が連絡しています。とにかく井戸へ行きましょう」
姫沙紀を伴って早足で廃屋へ向かう。おそらく助からないとは思ったが、それでもと、礼人は井戸の縁に手をかけて中を覗いた。
「・・・・・・え・・・・・・」
思わず、声が出た。背後で立ち止まった姫沙紀が「一さん?」と心配そうに問う。
その姿勢のまま、礼人は呆然としていた。
(いない)
井戸の底には人の姿がなかった。さっきまで確かに、目を見開き口を開け、井戸にはまりこんでいた男の姿が消えている。あるのは真っ暗で湿った底土だけ。陽の光が弱まり見えていないだけかと思い、さらに覗きこむ。しかし間違いなく井戸の底には何もない。
「嘘だろ」
「どうしたんですか」
恐る恐る、姫沙紀が近づいてきた。礼人が呆然としている隣りに並び、恐そうに井戸を覗きこむと「あっ」と小さく声をあげた。二人は顔を見合わせた。
「叔父が・・・・・・意識を取り戻したんでしょうか。そして外へ」
自信なさそうに姫沙紀は言うが、そんな馬鹿なことはないだろう。あれは明らかに死んでいた。よしんば死んでなかったとしても、四メートルの井戸に転落したのだから、かなり肉体的にダメージを受けているはず。意識を取り戻しても、壁伝いに四メートルの距離をよじ登り、立ち去ることはまず不可能だ。
しかも姫沙紀は坂の途中にいた。意識を取り戻したら帰宅しようとして坂を下りるはずだ。暗くなりかけている奥の池へ行くとは考えにくいし、彼女をさけるようにして山中へ分け入っていくのはさらに考えにくい。
礼人と姫沙紀の二人して、なにか錯覚しているのかと混乱した。
二人が立ちつくしていると、坂の下からこちらへ駆けてくる足音がした。振り返って見ると、蒼士を先頭にして、見たことのない老人が一人と、昨日藤蔭屋敷で会った大組長の松丸が向かって来る。松丸は姫沙紀の顔を見ると、大きく手を振った。
「姫沙紀ちゃん! 良治か正治が、井戸に落ちたって!? 救急車は呼んだぞ」
「大組長さん。それが・・・・・・」
困惑した表情で、姫沙紀は彼らを迎える。礼人にしても、ただ戸惑うしかない。蒼士は若いだけあり、老人達に先んじて駆けつけると、真っ直ぐ井戸に到着し、礼人のとなりから中を覗く。そして不審げに眉をひそめ礼人を振り仰ぐ。
「誰もいないじゃない」
「そうなんだよ」
間抜けな返事をした礼人に、蒼士はさらに眉根を寄せる。
「どういうことなの?」
松丸と老人も井戸に到着すると、中を覗きこんで唖然とした。
「おい、こりゃ。誰も落ちとりゃせんじゃないか」
松丸が言うと、一緒に来た老人は目を剥いて、「どうする。救急車を呼んじまったぞ」と慌てる。松丸は慌てる老人に、もう一度消防署に連絡し、転落事故は間違いだったと知らせろと指示した。老人はひぃひぃと息を切らしながらも、またすぐに引き返していく。
見る間に周囲が暗くなっていくなかで、松丸と蒼士は、不審も顕わな表情で礼人と姫沙紀に向き合う。松丸が困ったような顔をする。
「どうしんだい、姫沙紀ちゃん。なんの間違いだ、こりゃ」
「確かに叔父が。良治さんか正治さんのどちらかが、井戸の底に倒れていたんです。意識もないようでした。それは一さんも見てます。けど一さんが助けを呼びに行って、わたしもこの場所を離れている間に、井戸の底に誰もいなくなっていて」
「見間違いということはないのかい」
松丸の問いに、礼人も答えた。
「それはありません。俺も確かに見ています」
「じゃあ、なんでいなくなっとるんだ。井戸に落ちたんなら、そこにいるはずだろう」
蒼士は自分のスマートフォンを取り出し、時間を確認して礼人に問う。
「今、六時三分だ。二人が井戸の見えない場所にいたのは、何分くらい?」
「井戸の底に人が倒れているのを確認したのが、五時二十分だ。助けを呼びに行って、帰ってきたときに姫沙紀さんに会ったのが四十五分くらいだから、そこから坂を上って行くと五分として。五時五十分くらい。俺が井戸を見ていなかったのは、約三十分間だ」
礼人が答えると、姫沙紀も首を傾げながら答える。
「わたしも、そのくらいです。一さんが行って五分くらいはその場に居ましたが、段々恐くなって坂の途中まで下りたので。長くて二十五分間くらい井戸を見ていません」
「まあ、二十五分あれば、なんとか井戸をよじ登れるのかも」
蒼士が口にしたので、思わず礼人は反論した。
「元気な状態なら登れるだろうが、あのとき井戸の底に倒れていた松影さんは、目を見開いて口を開いて。こちらの声に、なんの反応も示さなかったんだぞ。俺は確実に死んでると思ったくらいだ。けど万が一息があったらと思って、救急車を呼んだんで」
「じゃあ、誰かが助け出したとでも? 四メートル超の梯子を準備して、井戸の底に下りて、男一人を担いで上り、さらに梯子と男をかついで山の中へでも姿を消したとか?」
冷静に言われると、そんな馬鹿馬鹿しいことはないだろうと思う。そもそも二十五分程度で、そんな荒技は不可能だ。四メートルを超す梯子となれば、伸縮性にしろ重量は十キロ以上だ。梯子を運ぶだけでかなりの腕力と時間が必要なはず。それを井戸内部に設置し、人一人担ぎ出す時間も必要だし、一人でできるとも思えない。松丸がつけ足す。
「井戸の底に下りるためには、四メートル以上の梯子が必要だがな。そんな長い梯子をもっているのは、藤蔭屋敷くらいだろう。なぁ、姫沙紀ちゃん」
「ええ。でも。梯子なんて父が亡くなってから使ったことはないので。ずっと納屋に入れっぱなしだと思うんですけど」
「じゃあ、二人の勘違いだったのじゃないかい」
やんわりと優しく松丸が言ってくれると、姫沙紀は自信なさそうな表情になる。しかし礼人は納得しかねていた。狭い井戸の底に押しこめられたような男の、見開いた目と開いた口は、見間違いや錯覚で見えるような代物ではない。不満な表情に気づいたのか、
「じゃあ、これから松影屋敷へ行って、松影さんが無事でいるかどうか、確かめれば良いんじゃない? 二人揃っていれば大丈夫なんでしょう」
と、蒼士が提案した。不可解なことではあったが、二人が無事ならばとりあえず問題はない。そこで四人連れだってその場を離れ、松影屋敷に向かった。
松影屋敷は広々とした田圃が左右に広がる中に建っている。屋敷の門前は村を東に貫く主要道で、車が通れる程の道幅。その道は東へ進むと先細りになり、その途中に、奥の池へと続く枝道があるのだ。他にも道は所々で枝分かれして、数軒の農家が密集した部落があり、枝の先にぽつぽつと実った果実のように点在している。
低い土壁に囲われた松影屋敷は他の農家よりは敷地も広く、母屋からコの字に別棟が連なる作りになっており、お屋敷と呼ぶのに相応しい感じはあった。しかし藤蔭屋敷に比べると、塀の低さや外から見える梁や柱の細さが、家格の違いを示しているようではあった。
松影屋敷に到着すると、姫沙紀が先頭に立ち屋敷の中へ入った。
明かりが灯っていなかったので留守かと思ったが、姫沙紀が玄関を開けて中に声をかけると、薄暗い廊下の奥から老婆が出てきた。
おおよそ七十代で、白髪染めをしていない髪は灰をまぶされたように斑だった。身につけているのは外出着のような派手な柄のブラウスと細身のズボンだったが、色褪せている。かつては派手で贅沢な暮らしをしていたが、零落し、侘しい日々を今は送っているような気配が漂うのは、ひどく悪い姿勢と、こちらを睨みつける、ひねくれた目つきのせいかもしれない。年頃からして、良治と正治の母親だろう。
姫沙紀の顔を見ると、老婆は薄暗がりの中でもそれと分かるほど目をつり上げ、憎々しげに口を開いた。
「なんの用だ、姫沙紀」
「
姫沙紀が「貴代お婆さん」と呼んだことで気づいたが、この老婆は姫沙紀の父、武雄の母でもある。ということは、姫沙紀にとっては祖母だ。しかし孫娘への接し方とは思えない。まるで仇敵に会ったかのような目つきだ。
「なんで、良治と正治のことなんか、あんたが訊くんだ。大組長まで来て、なんだい」
「いや、貴さん。ただ確認なんだ。二人が居るのか居ないのかだけでも教えてもらえれば」
雰囲気が良くないのを察したらしく、松丸が前に出ると、廊下の奥から「なんだい、お袋」と、大儀そうな声がした。老婆が「あんたたちが、家にいるかって松丸さんと姫沙紀が来てるんだよ」と大声を返した。するとげらげらっと笑う声がして、「俺はいるぞ。姫沙紀だけならあげてやれや。酌をさせる」と返事が返ってきた。姫沙紀が嫌そうに身を縮めると、松丸がむっした顔をして大声を問う。
「そこにいるのは、良治か、正治か」
「良治だ。正治は、知らねぇよ」と声が返ってくる。酒でも飲んでいるのか、呂律がまわっていない。玄関先に出てくる気はないらしい。老婆は、面倒そうに手を振った。
「わかったろ。良治は昨日から三村町に用事があって、さっき帰ってきたばかりだ。正治は朝から姿が見えん。良治が三村町に出たから、あれも町に出る気になって、ふらふらしとるんだ。たいがいそうだ。それでうちの子に、なにか文句でもあるのかい。なんにも迷惑かけちゃおらんでしょうが、あんた方に。さっさと帰って欲しいね」
帰れと言われれば、引き下がるしかなかった。玄関を後にした松丸は不機嫌そうな顔で、「ありゃ、困った兄弟だ」と、苦々しく言う。
正治は不在ではあったし不可解な出来事ではあったが、結局は何も起こっていないと言えば、何も起こっていないのだ。首をひねりながらも、松丸も姫沙紀も帰宅した。礼人も蒼士と一緒に、藤やに帰った。玄関を入りながら、思わず礼人が「妙だなぁ」と口にすると、蒼士がくすっと笑った。
「また、狐かな」
「もし狐なら、えらくリアリティのある幻を見せるもんだな。俺は、写真屋だ。目の前の対象物の質感や距離感なんかは、他の連中よりしっかり認識できると思ってるんだが」
「見間違えじゃないって自信があるなら、僕が調べてあげる。一さんが体験したことが、思い違いや見間違いではなく、真実不可思議な現象であったなら、調べてみる価値はある」
「そりゃ、このままじゃ俺も気持ち悪いから、調べてくれるってのは有り難いけど。なんでおまえに調べる価値があるんだ」
「言ったじゃない。見つけたい奴がいるんだって」
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