第6話
「ちょうど四年に一度の祭があるんです。藤祭というお祭りです。せっかくなので祭の準備や当日の様子を撮ってもらえれば、成葉里村にとって良い記録になると思いますから」
五万円の前金が振り込まれていたにしろ、それは往復の交通費で消える。仕事の依頼がなくなれば全くの無駄足になるのだから、姫沙紀の申し出は願ってもない有り難いものだ。
「でも、それはあまりにも厚かましい」
遠慮すると、姫沙紀は首を横に振る。
「そんな事ありません。私達の鍵の管理がおろそかで、こんな悪戯だが嫌がらせだかに巻きこんでしまったみたいですし。一さんの仕事の件も、私達のことに巻きこんでしまった可能性が高いと思います。それにこんな事があったんで、暫くお屋敷の近くに誰かがいてくれるのは心強いです。私達の屋敷は女ばかり五人しかいないので。ね、麻美ちゃん」
麻美も頷く。彼女達が交わす会話と視線の中には不安、もしくは怯えがあるようだった。二人が姉妹でないとすると、女ばかり五人という家族構成は不自然な気もした。
(なんにしても女ばかりという環境は不安だろう。特に、こんな妙なことがあれば)
視線を坂の上へと向ければ見事な藤が揺れている。
迷っていると、麻美が悪戯っぽい笑顔で言う。
「遠慮はいらないですよ。祭の撮影をお願いするのだったら、村で徴収してる祭の費用から撮影費用も幾らか出ますよ、きっと。そうよねぇ、姫沙紀さん」
姫沙紀は苦笑した。
「それを当てにしては悪いけど、組長達にお話をしたら、きっとそうなると思うわ。ただ藤蔭としても、幾らかは負担しないと顔が立たないけど」
これがもし、今まで散々受けた種類の仕事であれば断っていたかもしれない。しかし祭の撮影は初めての仕事だ。祭を撮るということは、人を主役にして撮るわけではない。人は景色の一部として存在するだけで、風景写真と似た感覚で撮れそうなところに心が動く。仕事に対してある種の虚しさを覚えている礼人でも、受けてみたい欲が起こった。
「お言葉に甘えて、仕事を頂戴して良いですか? 食事代と光熱費はお支払いします」
遠慮がちに言う礼人に、姫沙紀の目の表情が和らぐ。
「もちろんです。お支払いは本当に結構ですから。それに、思いつきでお仕事をお願いしましたけど、お祭りを記録に残すのは大切です。ご覧の通りの村なので、祭もいつまで続けられるかわからないと村の皆も口にします。祭を仕切る組長達も、いつか記録に残さないと、と言っていたので良い機会です。祭が途切れても記録くらいは残したいですから」
「僕はその祭に興味があって来たんです。村を拓いて富み潤した藤媛という女神がいて、その藤媛がご神木の千年藤に化身をしたという伝説は知ってます。けれどその藤媛を祀る祭の詳細は、まったく知らないんです。どんな事をするんですか」
藤媛信仰を調べに来たと言っていた蒼士は、俄然興味を示す。
麻美が弾んだ声で教える。
「四年に一度のお祭なんですって。あそこに見える千年藤の周りに篝火を焚いて、坂に提灯を立てて、村の人達が千年藤にお参りするって。坂の両脇に提灯が並ぶと、きっと風情がありますよ。街中じゃ街灯と家の明かりがありますけど、ここは本当に真っ暗闇に提灯の参道が浮かび上がるって聞いてますから、私も楽しみにしているんです」
「あなたは、ご覧になった事ないんですか」
礼人が問うと、麻美は笑った。えくぼが出る。
「私は去年の春から藤蔭屋敷に厄介になってるんで、ここに来てまだ一年ちょっとです。四年に一度の祭だから見た事ないんで、今から楽しみで。でも姫沙紀さんの衣装は見せてもらいました。祭のときに、姫沙紀さんが巫女のお役目をするんですって」
「藤蔭家は神職の家系ですか」
探るように蒼士が訊く。姫沙紀は苦笑する。
「そんな良いものじゃありません。ただの庄屋です。しかもお祭りするとは言ってますが、祠やお社はないですし。あるのはご神木だけで。ご神木を祭るときに、藤媛の子孫である藤蔭の女が、お祈りの真似事みたいなのをするだけです。以前は母がやっていましたが、四年前から私が家督を継いだので、私が」
「その役割が大媛様というんですか? 三村町の郷土史に載ってたんです。成葉里村には大媛様という巫女がいて、占いや呪いをよくしたと。平成の初め頃までいたと」
「その大媛様は私の曾祖母、
姫沙紀は大媛様というものについて、ざっくりとした説明を続けた。
明治までは藤蔭屋敷の家督は女が継いでいたという。女家長は代々藤媛の力を受け継いで霊感が強く、大媛様と呼ばれ、村の者達は何かと頼っていたのだ。
しかし大正生まれの余姫——姫沙紀の曾祖母の代になってから、近代化にあわせて家長は男に取って代わった。それにしたがって霊感も薄れたらしい。姫沙紀が幼い頃は、村人が余姫を頼り、呪いや判じ物をしてもらいに藤蔭屋敷の隠居に来ていたが、彼女が死ぬと大媛様はいなくなった。代々繋がれていた霊感が余姫で途切れたのだ。
余姫の娘の桜子は生まれつき病がちで、ほとんど屋敷から出たことはなく、人にも会えなかった。その次の代にあたる姫沙紀の母、
「だから曾祖母が死んでからは、大媛様はいないんです。曾祖母が亡くなったのは私が七つか八つの時でしたから、平成十二、三年ですね」
姫沙紀の言葉に、麻美が冗談ぽくつけ足す。
「まあねぇ。霊感があったなんて嘘かもしれないし。藤蔭家に箔をつけるために、霊感があることにして大媛様なんて呼ばれて適当に占いとかしてたけど、近代化してそれが通じなくなったとか。ただ大媛様なんていませんけど、お祭りは期待しててください。衣装を試着した姫沙紀さんは様になってて、とても綺麗でしたから。一見の価値ありです。しかもその様子をプロの人に写真に撮ってもらえるなら、すごく綺麗に撮ってもらえるし。私も楽しみ。写真は綺麗に撮ってくださいね。よろしくお願いします一さん」
麻美が愛想良く言うので、礼人も「任せてください」と請け合った。
仕事をもらえるのは有り難いことだった。それが仕事に対して意欲が減退してる礼人の気力を引き出してくれる種類のものであるのだから、なおさら有り難く感じる。
礼人は新たな仕事をもらい滞在することに決めたが、蒼士の方は、単純に祭には興味があると言って滞在を決めた。
食事の時間など、おおざっぱな決め事をその場でして、姫沙紀と麻美は藤蔭屋敷へ帰ろうとした。しかし姫奈が蒼士の首にかじりついて離れない。姫奈は三歳で、我が儘盛りらしい。過疎化が進んでいる成葉里村では、姫奈が十数年ぶりに生まれた子どもだという。村人達は久しぶりに村内で見かける子どもが珍しくて、外を歩けば、誰もが姫奈を可愛がり思うままに振る舞うことを許すので一層我が儘になっているという。
そこまで過疎化が進行しているのかと驚いたが、姫沙紀が子どもの頃には既に、姫沙紀と同年の子どもは村におらず、ばらばらと年の離れた子どもが十人いるかいないかだったと聞いてなお驚いた。だから年の近い幼馴染みとか同級生いうものが、姫沙紀の年代では既に成葉里村では成立しなかったらしい。
ぐずる姫奈をなだめすかして、ようやく蒼士から引き離した姫沙紀は、何度も丁寧に頭を下げて麻美と一緒に屋敷へ向けて歩き出す。その後ろ姿を見送っていると、姫沙紀の首にかじりついていた姫奈が顔をあげ、姫沙紀の肩越しにこちらをじっと見つめる。
礼人は愛想笑いして軽く手を振ってやった。
姫奈が、小さな人さし指をつんと突き出す。何かを指さしてた。指し示すものを視線で追うと、そこにいたのは、礼人から数歩距離をおいて立つ蒼士だ。
「ぬ え」
姫奈が言った。蒼士は、わずかに顔色を変えたようだった。姫奈の小さな人さし指は逃すまいとするかのように、ずっと彼を指さしている。
「ぬ え」
今一度姫奈が言う。姫沙紀と並んで歩く麻美が、「何を言ってるの姫奈ちゃん?」と不思議そうに覗きこんでいる。姫奈は母の肩に顔をこすりつけ、いやいやと首を振る。
(姫奈ちゃんは、なんで終夜を「ぬえ」と?)
礼人は蒼士の横顔を見たが、彼は無表情だ。
(ぬえ———鵺か?)
日常会話で滅多に耳にしない単語を、礼人はつい昨日聞いたのだ。蒼士の口から。
姫沙紀達が屋敷に戻ってからすこし待っていると、朝飯をかねた昼飯が、藤蔭屋敷から藤やに運ばれてきた。
鰆の西京漬を香ばしく焼き上げたのをメインに、小松菜の胡麻和え、きんぴら牛蒡の、小鉢が二つ。ぬか漬けの小皿。味噌汁と、お櫃にたっぷりの炊きたての白飯。
残り物を温め直したと聞いたが、昨夜の飯に比べれば贅沢な食事だった。
食事を運んできたのは麻美だ。彼女は
麻美の母は、姫沙紀の母である藤蔭小姫子の実妹、
成葉里村には小学校すらない。ここで生まれ育った姫沙紀は、小学生の時かなりの距離を歩いて、隣接地区の三村町の学校まで通っていたという。公立中学校が小学校よりもさらに遠方だったこともあり、中学に上がるのを機に寮のある中高一貫校に進学した。その後四年制大学を卒業するまでの十年間は、岡山市の暮らしを経験したという。ただその後すぐに村に戻ったので、人生の半分以上をこの山間で送っていることになる。
対して麻美は、横浜生まれ横浜育ち。彼女の母の慶子が横浜に嫁いだので、麻美は成人するまで成葉里村に足を踏み入れた事もなかったと言う。
姫沙紀と麻美。顔は似ているが雰囲気の違いは、環境に起因するものもあるらしい。
「母は嫁いでから一度も、成葉里村に帰ったことがなかったんです。だから私も去年初めて成葉里村に来たんですけど、びっくりしました。この景色って昔話だぁっ、て」
急須から湯呑みに茶を注ぎながら、麻美は苦笑いした。
「なんで交流がなかったお母さんの実家に? よく受け入れてもらえましたよね」
礼人の問いに麻美は、あははと、明るく笑う。
「私、短大卒業して勤めた会社、一年で辞めちゃったんで。嫌な事が沢山あったんですけど、我ながら根性ないと思って鬱々としてたら。お母さんが『やる事ないなら、成葉里に行ってくれないか』って頼むんで。病気で気が弱ってる母の頼みだから無下に断れなくて。
さして気にした様子もなさそうに、麻美は言う。快活で物怖じしない性格らしい。
「どうしてお母さんは、そんな事を麻美さんに頼んだんですか?」
「よく分からないんです。ただ、お母さんが泣きながら真剣に言うもんだから。どうせ暇だから来る気になって。私の推測ですけど、お母さんは、あんな広いお屋敷に桜子お婆ちゃんと小姫子伯母さんと姫沙紀さんと、姫奈ちゃんだけだから心配したのかも。年寄りと子供ばかりで、元気に動けるのって姫沙紀さんだけだし。私、ここに来てもうすぐ一年経つし、いつまでここにいるべきか迷うんです。でも姫沙紀さんは大変そうだし、ここにいる事はお母さんの遺言みたいな形になっちゃったんで、出て行く踏ん切りつかなくて」
藤蔭屋敷には現在、当主として表に立つ姫沙紀と娘の姫奈、居候の麻美、そして姫沙紀の母である小姫子と、祖母である桜子、女ばかり五人が生活しているという。
姫沙紀の母である小姫子と麻美の母、慶子の上には、宗一郎という兄がいたという。本来ならその人が藤蔭家を継ぐべきだったが、宗一郎は二十数年前、家督を継ぐ前に若くして亡くなったらしい。
そこで小姫子が婿養子に迎え、婿が家督を継いだ。それが姫沙紀の父親でもある、
結局、武雄も早くに亡くなったので、仕方なく小姫子が家督を継いだ。そして四年前、娘の姫沙紀に家督を譲ったのだ。
麻美の話の中に、姫沙紀の夫の話は出て来なかった。姫沙紀は夫と離婚したか、死別したか、もしくは未婚で姫奈を生んだのか。話したくない事情があるのだろう。
「藤蔭屋敷の男は藤媛の呪いで早死にするって、村の人には言われるみたい。女ばかり残るって。呪いとかって言うの失礼ですよね。でも、姫沙紀さんは気にしてないみたいで」
麻美が茶を蒼士の前に置くと、ぼうっとして彼女の話を聞き流しているようだった彼が、ふいに口を開く。
「男が死ぬんですか? 藤媛の呪いで?」
「村の人がそう言ってるだけです。確かに、宗一郎伯父さん、武雄伯父さんと、若くして亡くなってますけど。宗一郎伯父さんの死因は聞いたことないですけど、武雄伯父さんは、奥の池で釣りをしていて亡くなってるんですよ。釣りが趣味だったらしくて、あの池には大きな鯉がいるとか。ただの事故ですもん」
「でもそれを呪いと、村の人が言う根拠は? 藤媛は村人を呪うような神なんですか」
「根拠は分からないです。悪口の延長です。財産があるから妬まれるんです」
蒼士は少し考えてから、噂の原因を探ろうとするかのように、さらに問いを重ねる。
「藤祭は具体的にどんな事をするんですか?」
「坂に提灯を立てて千年藤の周りに篝火焚いて、村の三つの部落の世話役である組長達が篝火の番をするらしいです。村の人は日が落ちて提灯が灯ったら各家庭で作った
「お参りって、祝詞や般若心経でも唱えるんですか」
「『こなせ、こなせ』て呪文みたいなのを唱えながら、童人形を置いて、手を合わせるだけと聞いてます。村の祭と言っても千年藤は藤蔭の敷地にあるから、やっぱり藤蔭屋敷の意向が重要みたいで。藤祭の時は藤蔭屋敷は大変なんだって、姫沙紀さん言ってます」
食卓を整えると麻美は、「一さん、午後はよろしくお願いします」と頭下げて出ていった。午後、礼人は藤蔭屋敷を訪問し、今度こそ仕事の話が出来ることになっていた。
礼人と蒼士は食事に手をつけた。朝飯が抜きだったので、少し熱すぎるほどに温められた味噌汁が染みいるように美味かった。蒼士は昨夜と同じく黙々と白米を平らげていく。
「美味そうに白飯ばかりよく食えるよなぁ。お前、こんな変な状況になったのに帰りたくならないのか? 俺は仕事がもらえなかったら、すぐにでも帰ってたぞ」
「四年に一度の隠れ里の祭を、どうぞ見てくださいと許可されたんだ。見ない手はない。こういった山里の祭は、部外者が入り込むのを嫌うところも多いから」
「隠里だって? 確かに辺鄙な場所だが隠れ里は大げさだろう」
思わず笑った礼人に、蒼士は軽蔑に似た視線を向ける。箸を置くと湯呑みの茶を一息で飲み干し、改まって正面から礼人を見据えた。
「言っておくけど、自分の知ってる場所の判断基準で行動したら、その場所に生きる人たちにとって苦々しい行動をとってしまう可能性がある。ここで仕事をもらったなら、その辺をわきまえておくべきだ。午後には、仕事の話をするために藤蔭屋敷へ行くんでしょう」
「俺は自分で店を始めて十年の社会人だし、そこそこ良識はあるつもりだ」
「一さんが、そう自負しているからこそ警告するんだ。一般的な常識や良識外にも、日本には大昔から暗黙のルールっていうやつがある。よそ者にはわかりづらいけど、けして犯してはならないルールとして厳然と存在している」
静かに断言する声には、妙な迫力があった。
「暗黙のルールを犯すと、そこに住む人たちから軽蔑され憎悪される。全てが明文化されている西洋的な規範に慣れきった都市部の人間には、そんなものは現代の日本にありえない気がする。けれど実際、山間の部落や島嶼部や離島へ行くと、スマホをいじりながら芸能人がどうとか、世界情勢がどうとか世間話しているおじさんおばさんでも、暗黙のルールに背く者には攻撃的だったり排除を試みたりするんだ。彼らは世間を知らないわけじゃない。それでも受け継いできた、生活っていうものが引きずっている根っこは暗黙のルールを守り通そうとする。理性ではないよ。そこに生まれて育った者に刷りこまれたものだから、正論で反駁しても効果はない。特殊な歴史を持つ地域ではその特性が強く出る。ここみたいな隠里はさいたるものだ」
「だからここが隠里だって、どうして言えるんだ?」
「昨日言ったじゃない。村の名前だって。村の名前は成葉里。音で言うなら『ナバリ』。隠れ里そのものだ。有名な同じ地名がある。もっとも向こうは村じゃなくて、市だけど」
すぐにはぴんとこなかったが、少し間を置いてからやっと気がつく。
「名張市か。赤目四十八滝があるとこだよな」
三重県名張市には小さな滝が幾つも集まった景勝地があり、そこを赤目四十八滝という。しかしそれ以上に有名なのは忍者だ。伊賀忍者の住んだ土地として観光の売りにしている。
「忍者で有名な土地と名前が一緒だから隠里か? 忍者の里って意味か?」
「そんな単純な話じゃないよ。何回も音だって言ってるじゃない」
うんざりしたように蒼士は言う。
「例えば、日本全国には五郎と名のつく神社が幾つもあるんだ。それぞれに、それらしい縁起もある。長野県伊那市にある五郎姫神社は日本武尊に侍いた
急に神社が飛び出したので面食らったが、彼の話を聞いていると違和感を覚えた。
「おい、変じゃないか。なんでお姫様を祀っているのに五郎だ?」
「変なのはそこだけじゃない。近在の守護神を祀っている社が何故、五郎なの? 太郎でもいいじゃない。近在の守護神って事は祖霊を祀ったものだから、もともと名前なんてないものが多いのに何故あえて五郎としたか。さらに曾我兄弟云々って縁起のある社だって、曾我兄弟と縁の地が近いとはいえ、なぜ弟だけ祀ってるのか。兄を無視するのは不自然だ」
「なんでだ?」
「結局、音なんだ。識字率の低かった昔の庶民が、宗教者が口にする『御霊』を『五郎』と聞き間違えて、文字をあてる時になって五郎と記したんだ。五郎はごく一般的な名前だったし、『ゴリョウ』なんて耳慣れない言葉は、耳に慣れた『ゴロウ』に聞こえたんだろうって、柳田国男も『一つ目小僧』の中で言ってる」
「聞き間違えで神社の名前が決まるのかよ」
余りに雑な感じがして驚いた。「そんなものだよ」と小さく笑って、蒼士は続ける。
「日本では土地の英雄、祖先、山川草木、なんでも神様になる。名前も不確かな神というのは案外多い。五郎と名のつく神社も、元は確固たる名前はなかったのかも知れない。それぞれの社に縁起はあるけれど、後付けの気配が濃いものが多いし。昔から五郎神社と呼ばれていて、土地の人たちが、何故、五郎だろうと考えたときに『ああ、ここの近くで曾我兄弟が生まれているから、それが由来だろう』って推測して、それが本当らしく伝えられる。聞き間違えだけじゃなくて、五郎と勘違いされるのにはもっと複雑な要因もあるけど、概ねそういう事。結局、昔から存在するものの本質を探るときに、名が持つ音に気をつけるべきだと、僕は思ってる」
「じゃあ村の名前も、ナバリって音に意味があるのか」
「『ナバリ』は、隠れるの意味『
かつてその土地に何かがあって、奇妙な地名が残ったとする。現代と違い大概の者が生まれ育った共同体で生涯を過ごすのだから、今よりも一層、自分の生きる共同体を良くしたい、守りたい、誇りたい意識は強かったはず。先祖達は、周囲から後ろ指さされかねない要因は取り除きたいと考えて当然だ。
「それでもあえて不吉な文字を残すときは、名前に触れちゃいけないタブーがあるんだ。でも普通は自分達が生涯過ごす土地は良くしたい。その地域に人目に触れさせたくない事情があるならなおさら、文字で音の真の意味を隠すはず。イメージの悪い名前を残すなんて、うちの村は昔良くない事情があったんです、秘密があるんですと、宣伝するようなものだ。宣伝してかまわないものは村の外に知られても、どうって事ない事実なんだ」
「じゃあいっそ文字を変えるだけじゃなくて、呼び名ごと全部変えりゃいいじゃないか」
「その地域だけが、宙に浮いてるなら可能だ。けど現実には、どんな土地にだって隣接地域はあって、隣接地域の人の目も耳も口もある。自分達が名前を変えると宣言しても、周囲の連中は呼び慣れた過去の名で呼び続けるから、極端な変化は不可能。あてる字を変えるのが最も有効な手段だった。そもそも名前なんて他者から呼ばれるために存在するんだ。この世に自分しかいなければ、自分に名前なんて必要ないじゃない。人間、で充分だ」
二人は、礼人にあてがわれた八畳の和室で座卓を挟んで向かい合っている。八畳は縁側に面しており、障子も縁側のサッシの窓も全開にしてあるので初夏の明るい空を見上げられた。前庭は雑草だらけだが、さわやかな風が吹いている。遠くで草刈り機のモーター音が響き、草の匂いが強く流れてきていた。
隠里という単語と、この、どこにでもありそうな里山の風景とが、ちょっと結びつかない。戦前戦後ならいざ知らず、ネットが普及し電波が飛び交い、自分の居場所さえ人工衛星で監視されているこの時代。かつての隠れ里も市町村の台帳に組み込まれ、行政サービスの対象だ。神秘性も怪異も剥ぎ取られ、日本の現代の田舎という、平均化された白々と明るい里山が存在するだけ。
しかし。
蒼士は成葉里村に踏みこんだその日に言った。「真に人目を憚るものは、存在を誇示しない。隠されているものこそ、本当に人の目に触れてはならないものなんだ」と。
何の変哲もない長閑な里山。そうとしか見えないこの場所にも、隠里として特殊な歴史があったのだろうか。そうは見えないのだが、逆にそう見えないのは、何かが巧妙に隠されていて、下手をしたら現代でも息づいているからなのか。それに気づかれないように、平均化された里山を装っているのか? 現実に礼人は、目的も定かではない奇妙な出来事の当事者になっている。そういえば、死体で発見された登山者がいたとも聞いた。
それを思い出すと背筋に薄ら寒いものが走り、すぐさまその悪寒を振り払った。
「本当に成葉里村は隠れ里だったのか?」
「と、僕は思うけど。根拠はおいおい採取していくよ。成葉里村の中では、根拠が見つからないかも知れない。けど昨日通過してきた町を調べれば、出てくる可能性はある。今も言ったけど、他者の視点で記録されたものにこそ対象物の事実が記されている事はよくある。ここに来る前に三村町の図書館に寄ったんだ。そこに、この近辺の人別帳と、明治初期の戸籍が収蔵されてるのを確認した。必要な箇所をデータにして送ってもらえるよう頼んであるから、数日のうちには送られてくる」
「よくそんな面倒なこと、図書館職員さんが引き受けてくれたな」
「お願いしますって真摯に頭を下げたら、快く引き受けてくれた」
それを聞いて、ぴんときた。
「その職員さん、女性だろう。しかもその時お前、眼鏡かけてなかったんじゃないか?」
「そうだけど」
今朝、偶然に彼の素顔を間近で確認したが、女性が無茶なお願いを聞いてくれるには充分な美形だ。ただし常に眼鏡をかけてうねる前髪で顔を隠しがちなので、それを彼自身が積極的に活用するつもりはなさそうだ。あまりお洒落な部類ではない礼人から見ても、蒼士はかなり適当な服装をしている。全身古着でコーディネートされているようだ。しかも変人の気配が濃厚に漂っている。
「お前、美大じゃなくて、民俗学の研究が出来る大学に行けばよかったんじゃないか」
「僕は、民俗学がしたいわけじゃないよ。民俗学なんて百人の研究者がいたら、百通りの解釈があるような学問だ。学んだからって僕が欲しい答えは求められない。日本画は単純に好きだから今の大学を選んだんだ。ただ描くよりも、昔描かれた日本画に興味がある。描くのは余り好きじゃない。出来るなら課題なんか出したくない。夏休み明けが前期の課題の締め切りだけど、それを提出せずにどうやって単位をもらうか頭を悩ませてる」
「それをお前の担当教授が聞いたら泣くな」
「言ってるよ本人の前で。そしたら、いつも教授は涙目になる。老人だから涙もろい」
「いや、それは涙もろいとは言わないだろ。とにかく忠告通り、行動には気をつけるよ。暗黙のルールとかってやつを犯さないように。ありがとう。口が悪いわりには面倒見が良いよな、お前。小さな子どもに好かれてたし、もしかして基本的な親切なんじゃないか?」
顔をしかめて、蒼士は嫌そうに答えた。
「親切の大安売りをするほど、もちあわせはない。目の前で間抜けなことをしているのを黙って見てて、取り返しのつかないことになったら僕も迷惑するから忠告しただけ。しかもあの姫奈って子に関しては、僕が中学生だったとき、妹があのくらいの年だったから、あつかいに慣れてるだけだ。よく、面倒を見さされてたから」
両親は蒼士が中学生の時に揃って亡くなったとは聞いていたが、妹はいるらしい。
「へぇ、妹がいるんだ。俺もいるんだぞ」
「僕の妹は、いるんじゃない。いたんだ」
冷めた蒼士の声音に、はっとした。これは触れてはならない事なのだろう。ついうっかり、口を滑らせたので仕方なく喋った感じがした。
「忠告ついでに言っておくけど」
話題をそらすように蒼士が口を開いたそのとき、開け放してある縁側から揚羽蝶が入ってきた。揚羽蝶は暫く室内を飛び回っていたが、すぐに縁側のサッシの窓にぶつかって羽をばたつかせ窓越しに外へ出ようと試みる。蒼士は立ちあがり縁側へ出て、そっと手で追いやって揚羽蝶を外へ出した。
「僕のことを親切だと誤解するようなお人好しぶりは、やたらめったら発揮しない方がいい。昨日も言ったけど、一さんからはカモ体質の香りがぷんぷんする」
飛び去る揚羽蝶を視線で追いつつ、蒼士は言った。遠慮のない言葉に、腹が立つよりもつくづく呆れてしまった。
「失礼だな」
「事実だよ」
午後、食器やお櫃を盆にまとめて抱え、礼人は藤蔭屋敷を訪問した。玄関を入ると姫沙紀が迎えに出てくれた。食器を運んできたことに礼を述べた後、困ったような顔をした。
「一さんにお願いした仕事は村全体が関わる藤祭のことなので、組長さん達を呼び出してるんです。一緒に話を聞いてもらおうと思って。でも皆、あと三十分ほど遅れておみえになるって事なので。それまで一さんには、お待ち頂かなくてはならなくて。すみません」
「組長ですか?」
さっきもその単語を聞いた気がするが、聞き流してしまっていた。しかし再び同じ単語が出てきたので疑問に思う。組長と聞けば即座に礼人は、反社会的組織を連想する。
「村には三つの部落があるんです。藤蔭屋敷を含む北側と西側、鉢の底を含む広範囲な部落が一つ。これを
「組長って、てっきり。やくざかと思った」
「呼び名が大仰ですよね」
軽口をきいた姫沙紀の表情に親しみを感じ、礼人も自然と表情がゆるむ。
「その組長さん達が来るまで座っているのも馬鹿らしいので、ちょっと千年藤を見ていいですか? お祭りの時にあのご神木がメインになるのだったら、周辺の様子を確認したいんです。そうすれば撮影に関する話もスムーズに出来ると思うんで」
「じゃあ、ご案内しますね」
姫沙紀は赤い鼻緒の下駄を突っかけると、礼人の先に立って玄関を出て、屋敷の母屋の前を横切った。母屋の東側にはカーテンが閉め切られた離れがあり、その前を通ると果物が饐えたような臭いが微かにした。離れの横を抜けると屋敷裏に出る。
屋敷の裏は切り立った崖だ。藤蔭屋敷の敷地に巡らせてある土塀は、屋敷の北側に立ち上がる崖に接している。屋敷の背後が天然の崖で守られてい格好だ。その崖は目測で四メートル以上も切り立っている。そのため屋敷北側は随分湿っぽい。土黴の臭いが強く漂う。
離れの裏には中庭があり、離れを睨むようにして崖添いに土蔵が立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます