第5話

 蒼士は「朝飯がない」とぼやき続けていたが、礼人の方は、宿の者たちが忽然と消えたのに衝撃を受けて飯どころではない。


「本当に誰もいないじゃないか」


 宿の中を探して回ったが、誰の姿もない。台所にはひととおり食器や鍋などはあるのだが、ここ数年使った形跡がなく埃を被っていた。礼人達があてがわれた以外の部屋はカーテンが閉め切られ、畳に埃が積もっている。どの部屋にも家具類はほとんどなく、段ボールや古風な長持ちが暗い部屋の隅に積み重ねられているだけ。裏口から外へ出てみれば、プロパンガスのボンベがはずされてガス管が剥き出しになっていた。

 電気と水道は生きていおり、風呂場の外にある電気給湯器には赤いランプが灯っている。


「電気と水だけは使えるようになってるけど、まるで空き家だ」


 部屋に戻った礼人が蒼士に告げると、彼は座卓に突っ伏したまま「そうだよ」と、当然のごとく返事する。腹が減って気力が湧かないらしく、礼人が家の中や周囲を見て回る間、座卓に突っ伏したきり。横着に一歩も動かなかったのだ。


「だから飯がないんだよ。どうすればいいんだ、一さん。飯がない・・・・・・」

「お前、この状況で考えることは飯だけか」

「他に考えることがあるの?」

「なんで民宿の経営者家族が消えてるかってのことの方が、飯より重大だろう」

「経営者が消えたことが重大なのは、彼らが僕達の飯の世話をすることになっているからだ。そうじゃなきゃ、彼らが消えようが蒸発しようが、僕にはどうでもいい」


(こいつ、日常的にどんだけひもじい思いをしてんだ?)


 蒼士の言葉を聞くと、昨夜のカモ発言でむっとしたにもかかわらず、不覚にも同情した。彼の態度は、日常生活の困窮から生じる慢性病みたいなものかもしれないと思えた。 


「お前にとって飯がどれほど重要かはよくわかったから、飯のためにも現状をなんとかしなくちゃならない。あの夫婦も娘もここに住んでない。他に家があってここに通って来るのか? にしても、もうすぐ十時だ。ここまで客を放っておくのは、おかしいよな」

「狐に化かされたかもね」


 顔を伏せたまま蒼士が、くぐもった声で続ける。


「ここは岡山県だ。中国地方だ。中国地方には、長左ヱ門の狐退治って有名な民話がある。『安芸・備後の民話第一集』にも載っていた。安芸国、現在の広島市で採話された民話で、長左ヱ門て人が隣村の婆様の家でもてなしを受けて一泊したけど、目が覚めたら橋の上だった。前夜、蕎麦だと思って食べていたのは蚯蚓で、柏餅だと思って食べていたのは馬糞だったっていう」


 昨夜の冷えたまずい夕飯を思い出し、こみあげるものがあった。しかも夢か錯覚かわからない、暗闇から覗く目のことも思い出す。気持ち悪いやらぞっとするやらで、青ざめた。

 しかしすぐに、蒼士の肩が面白そうに震えているのを発見した。


「笑ってるじゃないか! 俺をからかってんだろ。何か知ってるのか」

「知りやしないよ、僕だって。宿帳を見て変だとは思ってたけど」

 顔をあげ、彼は大儀そうに頬杖をつく。

「変て、何が」

「宿帳は新品の大学ノートで、それ用に適当に準備したって感じだった。何か変だとは思ったでしょ。しかもあの夫婦は夫婦のくせに、お互いに敬語で妙によそよそしいし」


 実は礼人は、その点はまったく違和感も覚えていなかった。表情からそれを読み取ったらしい蒼士は「きっと長生きするよ、一さんは」と呆れたように言って、さらに続ける。


「その他にも、庭の様子や家の中に籠もってる埃っぽい空気は、長期間放置された建物特有のものだ。この建物が久しぶりに戸を開かれたんだって事は誰にでも分かる。それなら一さんだって気がついたでしょう」

「まあな」


 そこには気がついたが、気にしていなかったことは口にしない。言えば、蒼士の想像の中での礼人の寿命がさらに延びるだろう。それは屈辱的だ。


「ただ自宅とは別に、空き家を民宿として利用するのはよくある。山口県の長門市で一度、そんな宿に泊まったことがある。ここもその口かと思ってた。その場合は朝になれば経営者がやって来るけど、いつまで待っても誰も来ない。前金を払ってれば騙されたのかと思うけど、僕達はまだお金を払ってない」

「騙されたんでもない。かといって俺達を客として、もてなす気もない。なのに、いったん受け入れて放置か? 何が目的だよ」

「さあ。それが分からない。だから変なんであって、狐の悪戯かなって言ったんだ」


 気怠げで横着な態度はさておき、蒼士が礼人よりも格段に注意深く周囲を観察していたことには感心した。とはいえ、現状のままでは手の打ちようがない。


「ここで待ってても仕方ない。村の誰かを捕まえて、この宿がどうなってるのか聞くべきだな。小さな村だ。誰か何か知ってるだろ」

「そうだね、朝飯もこのままじゃ食べられないし」

「行くぞ」


 雄々しく告げた礼人に、蒼士は力なく手を振る。


「行ってらっしゃい」

「お前も来いよ!」


 さすがに良い顔ばかりも出来ずに厳しく告げると、怠惰な同宿者は、「動くと腹が減る」ぶつぶつ言いながら、眼鏡をかけて一緒に宿の外へ出た。

 出たのはいいが、そこで困った。人がいない。藤やの庭先で周囲を見回すと、視界の斜め下に広がる田圃の一角に軽トラックが一台止まっている。その車も親指ほどの大きさに見えるから、かなり距離がある。あとは坂の下に大阪ナンバーの水色のコンパクトカーが止まっていたが、人影はない。

 坂の上へと視線を転じると、藤棚を背負う屋敷が掌ほどの大きさに見える。


「あの屋敷が藤やの一番近所だな。何か知ってるかもしれないけどなぁ。俺に仕事の依頼をくれたのは、あのお屋敷の人だから、今日、仕事の打ち合わせで正式訪問する約束になってるんだ。仕事の前に、こんな妙なことで訪問していいものかな」

「仕方ないじゃない? それとも正式に仕事の件で訪問した後に、実は、かくかくしかじかで困ってますと相談するの? それも妙でしょう」


 蒼士が言うように仕方ないと腹を括って、坂を上った。

 屋敷の敷地に入ると、正面に平屋の母屋がある。母屋の東端には渡り廊下で繋がれた、母屋より一回り小さな平屋。西端には、これも渡り廊下で行き来出来る、赤褐色の傾斜のきつい屋根をもつ文化住宅風の離れ。近くで見ると威圧されるほど大きな屋敷だった。

 ただ庭の隅には枯れ葉が吹き寄せられ、植木も屋敷を覆うように奔放に枝を伸ばしている。荒廃の一歩手前で踏みとどまっている印象だ。庭石にはびこる苔の分厚さが、屋敷が重ねた時を物語る。旧家の威厳を連綿と受け継ぎ、息も絶え絶えにそれを引きずり、衰退へと向かっているような気配。重苦しい澱のようなものが敷地の中に満ちていた。それはわずかに土黴の匂いがする、湿った土蔵の臭いに似ていた。

 母屋の玄関は四枚の引き戸で構成されていた。その戸が一枚分開いている。中からは若い女の声が聞こえたが、誰かを問い詰めているようなきつい声だった。


「覚えていないって、そんな曖昧なことありますか?」


 別の女の声が答える。こちらは戸惑っているような、澄んだ細い声。


「すみません、本当に。でも四年も前のことで、その人だと言われればその人のような気もするし。そうでない気もするし。確かなことは言えないんです。しかもお目にかかったのは細切れの時間で、それらを全部あわせても数時間なんです」

「わかりました。そう仰るなら仕方ありません。お邪魔しました」


 苛立ったようにぴしゃっと言いきる声がして、グレーのパンツスーツを身につけた、きりっとした目つきのショートヘアの女が玄関から出てきた。玄関前まで来ていた礼人とぶつかりそうになり、彼女はびっくりしたような顔をした。目が合うと会釈し、さっさと屋敷の敷地から出ていく。危なっかしく砂利を踏むのは細いヒールだ。あきらかに田舎道を歩き慣れていない服装からは、都会の匂いがした。坂の下に止めてあった大阪ナンバーのコンパクトカーは、おそらく彼女のものだろう。

 何者だろうかと思ってその後ろ姿を見送っていると、開いた玄関を潜り、中から誰かがすうっと出てきた。振り返ると、出てきたのは若い女性だ。わずかに警戒の色を滲ませながら、戸に手を添えて立っている。


「どちら様ですか」


 澄んだ声で問われたが、礼人は暫し声が出なかった。現れたその人があまりにも清楚で、大正時代に描かれた美人画のような佇まいで、浮き世離れして美しかったから。

 年頃は二十代半ばか後半。礼人よりも少し若い。赤い鼻緒の下駄を素足に引っかけ、紺色のワンピースに薄手のカーディガンという質素な服装だった。白くて細い首や、スカートから出ている、ほっそりとした膝と脹ら脛、ペテギュアもしていない裸足の足の指が、飾りっ気がない故にかえって生々しく艶めいている。真っ直ぐな黒髪は項の上で一つに括られ背に垂れ、揺れていた。一重でありながら形良く大きな目は、日本人形のようだ。

 綺麗だ。と、一瞬、その言葉だけが頭を満たした。問答無用で美しいものを目の当たりにすると、あれこれ気のきいた言葉や複雑な思いは浮かんでこないらしい。


「あの・・・・・・どちら様ですか」


 沈黙する礼人に戸惑ったのか、彼女の瞳に不安が現れると、ようやく礼人は正気づいた。


「あ、すみません。急にお邪魔して。はじめまして。今日、訪問の約束をしていた『にのまえ写真館』の一と申しますが」


 意味がわからないというように、彼女は目をぱちくりさせた。


「ここは藤蔭さんのお宅ですよね?」


 念のために問うと、彼女は頷く。


「はい。藤蔭です」

「じゃあ、藤蔭姫沙紀さんはご在宅ですか? 今日お目にかかる約束をしていた、『にのまえ写真館』の者が来たと言って頂ければわかると思います」


 彼女は、ますます困惑した表情になる。探るように礼人と蒼士を見た。


「藤蔭姫沙紀は、私です。一さん? と仰るんですか? なんのことを言われているのか、わからないんですが」

「え、そんな。だって・・・・・・」


 礼人の頭は真っ白になった。呆然と目の前の女性を見つめると、相手もひどく困ったような顔をしている。「カモ」という言葉が礼人の頭の中を駆け巡った。しかしただの悪戯で片付けられないのは、五万円もの前金が支払われているからだ。悪戯ではなく、何かの手ちがいが起きているのかもしれないと、混乱した。

 混乱のために機能停止した礼人の傍らに立っていた蒼士が、面倒そうに口を開く。


「すみません。とりあえず、その件は後にして。僕たちは昨夜、坂の途中にある藤やに宿泊した者なんです」

「藤や?」


 彼女は、蒼士に視線を移した。


「僕は終夜と言います。僕たちは昨夜、藤やにご厄介になりました。けれど今朝起きたら、宿の人達がいなくなっていたんです。こちらのお屋敷が藤やの近くなので、何か事情を御存知ないかと思って訪ねて来たんです」


 蒼士は無表情に女性を見つめていた。彼女は彼の言葉に、驚いたように目を見開く。


「藤やに、本当にお泊まりだったんですか?」

「昨日の午後到着して、宿のご主人と奥さんと、お嬢さんにお目にかかりました」


 彼女は礼人が名乗ったとき以上の不審の目を、二人に向けた。


「そんなはず、ないです。藤やは、私ども藤蔭家の所有です。けれど四年前に廃業しているんです。あそこは閉めたまま空き家にしてありますから」


(廃業して、空き家?)


 混乱の上に混乱が重なり、礼人はもう一言も言葉が出なくなってしまった。蒼士は眉をひそめながらも冷静に答えた。


「そうなのかもしれませんが、僕達は昨夜、確かに藤やに宿泊しました。あそこが、こちらのお屋敷の所有だとしたら何か妙な事になっているのかも知れません。見に来て下さい。その場で判断が必要な事もあるでしょうから、出来れば所有者であるこのお屋敷の中で、主格に当たる人に来てもらえれば、なおいいです」

「え、ええ。分かりました。この屋敷の主は私なので。私が行きます」


 やましいところはないと言いたげな蒼士の口調が功を奏したのか、胡散臭そうだった彼女は表情を引き締めると玄関から出てきた。からから下駄を鳴らしながら、礼人達の数歩先を歩いて坂を下りる。


(この人が藤蔭姫沙紀。しかもこの屋敷の主?)


 若い女性が屋敷の主を務めているのが意外だった。彼女の立ち居振る舞いや言葉遣いが、年に似合わず古風とも言える程落ち着いているのは、屋敷の主という立場のせいだろうか。

 学生時代、礼人が好んで観ていたのは古い日本映画だ。現代に比べればどこか淡白な俳優達の演技と、現代とかけ離れてしまった過去の日本の景色は、ファンタジー映画のようで、観ているとほっとした。前を行く彼女の言動が、その古い映画の女性達と重なる。

 こんな雰囲気の女性が現代にもいるのかと、驚いていた。

 藤やに到着して庭に入ると、姫沙紀は早足で真っ直ぐ玄関に向かい戸に手をかけた。「開いてる」と声をあげ、顔色を変える。慌てた様子で屋内へ駆け込み、室内の方々を覗き、勝手口を出て裏手まで見て回っていた。ちょうど今朝、礼人がやったのと同じ行動だった。


「驚いてるな、あの人。気の毒に」


 あちこち見て回る彼女を待ちながら、礼人と蒼士は玄関の三和土に立っていた。彼女と一緒に室内へ上がるのは躊躇われた。藤やが藤蔭家の持ちもので廃業しているのが事実だとすると、礼人達は図らずも不法侵入者だ。


「気の毒なのは、一さんもだけどね。あの様子を見る限り、仕事の依頼者っていうあの人は、仕事を依頼した心当たりが全くなさそうだった」


 姫沙紀の動きを視線で追いつつ、蒼士は気怠げに口を開く。


「一さんへの仕事の依頼は妙だ。五万円の前金が支払われているって言ってたけど、嫌がらせにしても悪戯にしても費用をかけすぎてる。そんな大金を使って、一さんをからかいたい人の心当たりはある?」

「そんな金持ちの暇人の心当たりはないよ」


 情けなくて、泣きたい気分で顔を歪める。


「僕に言わせれば度が過ぎてる。度が過ぎてると言えば、この藤やもそう。廃業した宿が勝手に営業されてたんだから、持ち主は、びっくりするし不気味だよ。詐欺にしても、嫌がらせにしても、悪戯にしても、こんな事する意味が分からない。妙なことだらけだ」


 玄関に戻って来た姫沙紀の顔には微かな怯えと強い困惑が浮かんでいた。


「誰かが勝手に藤やを開けていたようです。止めてあったはずの水道の元栓が開いてますし、落としていた電気のブレーカーも上がっていて。台所で、ここの鍵を見つけました」


 小さな鈴がつけられた鍵が姫沙紀の掌にあり、彼女は気味悪そうにそれを見つめる。


「この鍵は、うちの屋敷で保管していたはずなんですけど。誰が持ち出したのか」

「じゃあ、誰かが勝手にここを空けて、勝手に僕達を客として受け入れて、いきなり放り出して消えたって事ですか?」


 確認する蒼士の言葉に、彼女は戸惑いつつ頷く。


「おそらく、そうかと。でも・・・・・・誰が、どうやって・・・・・・なんのために」


 姫沙紀は頼りない返事をする。状況を理解したばかりで、何がどうなっているのか、何をすれば良いのか分からず、弱り果てているようだ。蒼士が、思いついたように訊く。


「一さんは、この宿をどうして知ったんだっけ」

「仕事の依頼者からメールで紹介されたんだ。宿はここしかないからって、電話番号が書き添えられていて」

「僕の方は、ネットでT市の宿を検索したら出てきた。誰かが個人的にまとめた、民宿情報みたいなサイトだったけど」

「営業していた四年前までは、市の観光協会のパンフレットに載せてもらっていましたが」


 姫沙紀の言葉を受けて蒼士は頷く。


「それなら、過去の情報がネット上に残っていた可能性はあります。それで一さんは、いつ頃どうやって予約したの?」

「一ヶ月くらい前に、書き添えられてた電話番号に電話して予約した。女の人が出で、愛想良く予約を受けてくれたんだ。確か、履歴が残ってるはずだけど」


 礼人はカーゴパンツの腿ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、発信履歴を操作し該当の電話番号を見つけて表示した。蒼士は画面を覗き込むと、自分のスマートフォンを取り出し、電話帳を操作して藤やの番号を表示した。どちらも同じ番号だった。


「僕も電話で予約した。半月くらい前だけどね。同じように女の人が出て予約を受けてくれた。一さん。その電話番号に今、かけてみて」


 蒼士が促すのでリダイヤルした。スマートフォンからコール音が聞こえた途端に、室内に電話の音が響いた。姫沙紀がびくっとした。玄関脇に置かれていたファックス兼用の固定電話機が鳴っていた。「切って」と、蒼士が命じるので呼び出しを切る。すると玄関脇の電話も鳴り止んだ。ぷつりと音が途切れ、その場に静寂が戻る。

 姫沙紀が、礼人と蒼士を交互に見やった。


「これは、どういう事でしょう」


 蒼士は今しがた鳴った固定電話機に近づくと、幾つかボタンを触って何やら確認して顔をあげる。その顔からは気怠げな表情が消えており、眼鏡の奥から鋭い目で姫沙紀を見た。


「一さんと僕は、間違いなくここに電話したんです。そして誰かが電話に出て予約を受けたって事は、少なくとも一ヶ月前から、誰かが鍵を使ってここに出入りしてたって事です。この電話機、コードレスの子機がありませんでしたか?」

「そういえば、あったような気がします。今、建物を見て回った限りみあたりませんけど」

「じゃあ、子機が持ち出されている可能性がありますね。この固定電話機は古いアナログ式だから、子機を建物の外に持ち出しても電話を受けられます。デジタル式と違って微弱電波でも通話が可能だから、見通しで百メートル以上離れた場所でも使える。五百メートルの距離があっても使えた例もあるらしいんで、条件によってはかなり遠くても使える可能性があります。充電した子機を持って電波の届く範囲にいれば、建物に入ることなく電話を受けられます。範囲は結構広い。千年藤の辺りから、坂の下辺りまで届くはずです。ただ子機を持ち出すにしても出入りは必要です」


 青ざめた姫沙紀に、蒼士は問う。


「で、僕達はどうすれば良いですか?」


 弱り切った様子の女性に対してあまりに冷たい物言いなので、礼人の方が慌ててしまう。


「おい。この人に丸投げかよ。よく分からんが、この人も被害者っぽいのに」

「それを言うなら僕達は、加害者でも被害者でもなく、巻きこまれた第三者だ。一さんは仕事の件がこれと同根なら被害者だけど、今のところ確証はないから別件の可能性がある。とにかく、この藤やの件に関しての第三者である僕たちが何をどうすればいいかなんて、判断できない。ここの所有者に決定してもらうしかない。とっとと出て行けと言われれば、早く出て行かなきゃ。じゃないと僕は飢え死にする」

「飢え死にはしないだろ、朝飯抜いたくらいで」

「出て行けと言われたら、今夜の宿を確保をしなくちゃならないから、三村町まで移動する必要がある。そんなことしてたら昼飯どころか夕飯だって危うい。一さんがぐずぐずしてるせいで昼飯も夕飯も食いっぱぐれたら、責任とって米を五キロ買ってもらう」


 なんで米だよ突っこみたい。しかもなぜ礼人が責任をとる事になっているのか。これはちょっと詐欺まがいの要求だと思うが、彼は本気で苛々しているようだ。しかも自分達では判断できないというのは、正しい言い分だった。

 かといって、この可憐な女性に「俺達どうしましょう」と問うのは酷だ。

 当たり前だろうが、どうすれば良いのか姫沙紀にも咄嗟に判断がつかないらしい。「どう、と言われても・・・・・・」と、困惑しきりで口元に手をやる彼女の仕草に、場違いにもどきりとした。戸惑う様子に色香があった。そのとき、


「とーさん」


 低い位置から甲高い声がして、膝の辺りをぎゅっと掴まれた。びっくりした礼人は声をあげ、背後をふり向いた。目はすぐに、自分の背後に立ち、カーゴパンツの膝を掴む幼児の姿を捉えていた。


「えっ!? どこの子」


 幼児は三歳くらいの女の子で、髪を古風なおかっぱにしている可愛い子だった。女の子は礼人を見あげ、再び「とーさん」と呼んだ。何がなんだか分からずにいる礼人と違い、蒼士は慌てず騒がずその場にしゃがみ、女の子の視線に下りる。


「つれないじゃない、お父さん。娘に向かって」

「馬鹿を言うな。見ず知らずだ」

「すみません。私の娘です。どうしたの姫奈ひな。ついて来ちゃったの?」


 姫沙紀が焦って玄関に下りた。蒼士は立ち上がりざまに女の子を抱き上げると、姫沙紀に「はい」と抱き渡した。女の子はまん丸の目で、彼の顔をじっと見ている。


「姫奈ちゃん!」


 庭の方から女性の声がした。姫沙紀が「ここにいるわよ」と応じて玄関を出たので、礼人と蒼士も彼女を追う形で庭へ出た。アンクルパンツを身につけて髪をボブにした、溌剌とした感じの女性が、庭に駆け込んできたところだった。


「姫奈ちゃんが急に見えなくなったから、焦った。姫沙紀さんを追っかけちゃったんだね」

「ごめんね、麻美あさみちゃん。姫奈を任せっぱなしで」

「ううん、全然良いんだけど。どうしたの? そこの人達、誰?」


 麻美と呼ばれた彼女が胡散臭そうに二人を見るので、姫沙紀が、かいつまんで事情を説明した。すると麻美は「ええっ!?」と声をあげた。


「どういう事、それ。気味悪い。警察に通報したほうがいいよ、姫沙紀さん」

「でも。藤やの鍵は藤蔭屋敷に保管してあったのよ。鍵を勝手に使えるとなると、屋敷に出入りしてもおかしくない人達が関係してるかしらって」

「それって。松影まつかげ?」

「可能性はあるでしょう。それなら下手に騒がない方が」


 麻美は嫌悪感を滲ませた表情になり「そうね」と低く答えて頷く。雰囲気はかなり違うが、姫沙紀と麻美の目元や口元はよく似ているので、一瞬姉妹かと思った。ただ親しげではあるが、「姫沙紀さん」「麻美ちゃん」と呼び合う様子は、姉妹よりも距離がある。


「それよりもこの方達に、どうしてもらうのが良いのかと思って」


 麻美の出現で冷静になったのか、姫沙紀は思案顔になる。麻美は、あっさりしたものだ。


「帰ってもらうしかないじゃない? 成葉里村には泊まれるところないし」

「でも気の毒だわ。騙されて、あげくに・・・・・・」


 そこまで口にして、姫沙紀は何か思い出したように礼人の方へふり向いた。


「あの、一さんでしたか? どうして私を訪ねてこられたんですか。お二人ともどういったご用件で来られたんですか」

「俺と彼は、昨日たまたま同宿になっただけで、連れではないんです。彼は祭があるという話を聞いて、見物に来たらしいです。俺は仕事の依頼を受けて来たんです。あなたの名前で、依頼をもらいました。連絡先の携帯電話番号も教えてもらって」


 驚く姫沙紀に、礼人は写真館に来た仕事の依頼内容と経緯を説明した。話をしている間に、何度も姫沙紀と麻美は顔を見合わせ、二人の表情が段々と強張っていく。


「メールを? でも私、そんな覚えがないわ」


 姫沙紀は、麻美に助けを求めるように告げた。すると麻美が挑むように問う。


「そのメールアドレスに、もう一度メールしてみてください。それと連絡先の電話番号にもかけて下さい。それ、絶対になりすましです」


 求められるままにその場でスマートフォンからメールを送ったが、昨日まで何事もなく送れていたメールが宛先不明のエラーで返ってきた。やりとりしていた先方のメールはフリーメールで、先方がアドレスを消してしまったらしい。さらに連絡先の電話番号として教えられていたのは、姫沙紀の母、小姫子の電話番号らしかった。ただその携帯電話はほとんど使われることがなく、家のどこかに放り出してあるとのことだった。


「送れませんね。やっぱりたちの悪い悪戯だったんですかね。ひっかかった俺が、間抜けって事かなぁ。それにしても俺なんか引っかけて、なんの得にもならないのに」


 はるばるやって来たにもかかわらず、それが悪戯だか嫌がらせだったか、そんなものだったらしいと知った礼人は、諦めの境地に達しようとしていた。苦笑いする。


「でもこの悪戯の犯人は、藤蔭姫沙紀さんを名乗ったんだよね? しかも連絡先として教えていたのは、藤蔭家所有の、使われていない携帯電話の番号。だとしたら、悪戯の犯人が引っ掻き回したかった相手は、一さんじゃなくて藤蔭姫沙紀さんだった可能性がある」


 蒼士が言うと、ますます姫沙紀と麻美の顔色が青ざめた。


「確かに、俺は利用されただけで、藤蔭さんに対する嫌がらせという可能性もあるな。藤やの件もあるし。でも五万円も支払って嫌がらせなんかするか? 普通」

「普通じゃないのかもね」


 さらりと、蒼士はとても嫌なことを言った。


「誰かに悪戯や嫌がらせされる心当たりは、あるんですか?」


 礼人が問うと、姫沙紀の目が泳ぐ。


「あると言えば、ありますけれど。こんなことまでするかしらと・・・・・・」


 姫沙紀に抱かれていた姫奈が、急に礼人達の方へ顔を向け、抱いてくれとねだるように両腕を差し出した。子どもに不慣れな礼人は戸惑ったが、蒼士はごく自然に腕を伸ばして姫奈を抱く。強張っていた姫沙紀の表情がいくぶんやわらぎ、申し訳なさそうな顔をする。


「ごめんなさい。この子、見慣れない男の人がいると、自分のお父さんだと思うみたいで」

「かまいません」


 子どもを抱いても、蒼士は土嚢を抱えているみたいなつまらなそうな顔をしているが、子どもの方は気にならないらしい。小さな両手で蒼士の頬を触る。そんな様子でも、姫沙紀は子どもをかまってもらったのが嬉しいらしい。口元をほころばせた。


「終夜さんでしったか? このままお帰り頂くのは気の毒ですし、こんな空き家でよければ好きなだけ滞在してもらってもかまいません。お食事も、うちからお持ちします。滞在費も結構ですから。一さんは、どうしましょう。お仕事のつもりでいらしたんですものね」

「帰りますよ」


 力なく笑った礼人に、姫沙紀は心が痛むらしい表情になる。


「お仕事は二週間の予定だったんですよね? どの程度の金額でお仕事を受けられたのか、訊いてもいいですか」


 ホームページにも明記してある料金を礼人は告げた。すると姫沙紀は少し考えるように間を置いてから、礼人を見上げる。


「このままお帰り頂くのは申し訳ないので、私がその条件で改めてお仕事を依頼しましょうか。もし、一さんが引き受けて下さるなら」


 思いがけない申し出だった。

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