第4話

「珍しい苗字だな。俺も人のこと言えないけど」

「苗字も名前も僕に選択権がないから、好きで名乗ってるわけじゃないけどね」


 彼——終夜蒼士は、いちいち捻くれた返事をする。


「それより宿は本当にこっちでいいの? 泊まれそうな場所が見あたらないけど」


 口だけは達者だが、蒼士は今にも倒れるのではと思える弱々しい足取りだ。


「見えてるさ。ほら、あそこだ。えっと、・・・・・・たぶん」


 礼人は地図アプリで位置を再確認してから、前方の急な上り坂の中程に建つ民家を指さす。蒼士が怪訝な顔をした。


 二人が合流した場所は村の中心部分。そこを起点とし村の四方、東西南北へ、やや道幅がある主要道が延びていた。東、西、南の道は、すり鉢の底をしばらく這ってから、それぞれ山の側面へと蛇行しながら上っていく。

 礼人達が辿っている北へ向かう道のみが、ほぼ直線だった。その直線の道は途中から、急に険しい坂になる。坂は、村を囲む山の中ではひときわ高い山の中腹へと続き、道のどん詰まりに藤棚を背負う屋敷があった。

 仕事の依頼者である藤蔭姫沙紀に教えられ、礼人が電話して手配した民宿『藤や』は、藤棚の屋敷へ続く坂の途中にある。道沿いには一軒しか建物がなく、間違えようはない。


 ただ蒼士が怪訝そうなのも無理からぬ事で、藤やとおぼしき建物は、まるきり普通の民家だったからだ。看板もなければ案内板もない。それでもアプリはその場所を示している。

 藤やの庭は足首辺りまで伸び放題の雑草に覆われ、庭木の紅葉にも蔦が絡まり、締めつけられているような有様だった。

 木造平屋建。庭に面して長い縁側がある。玄関戸や窓はサッシに付け替えてあった。傾きかけた古民家を、おおよそ三十年前に安価にリフォームした感じの、ちぐはぐで安っぽい外観。軒に蜘蛛の巣がかかっているのも、玄関脇に置かれた鉄さびの浮いたアルミ製の赤茶けたポストの存在も、屋号を記した表札ひとつない商売っ気のなさも、全てが不安要素で、不安要素しかない佇まいの民宿だった。


「宿のコンセプトは廃墟かな?」


 玄関前で蒼士が、疲れきった声で呟く。


「まあ、案外こういうとこは、飯が美味かったりするから」


 あまり落胆させるのも悪いと思い、希望的観測を口にしつつ、サッシの玄関戸に手をかけてみる。からからと意外にも軽く開く。風がすっと奥から抜け、埃っぽい臭いがした。


「すみません。こんにちは」


 声をかけると奥から軽い足音がした。玄関正面は六畳程度の板敷きで、最奥に硝子障子がある。そこから顔を出したのは、学校指定らしいジャージ姿の中学生くらいの女の子。彼女は礼人達の姿を認めると、こちらが声をかける間もなく、小さく声をあげて顔を引っ込めた。再び奥へ引き返す気配がして、誰かと小さく会話する声が続く。

 今度は、五十がらみの男女が硝子障子の奥から出てきた。夫婦のように見えた。


「あんた方、お客さんですかねぇ」


 笑顔ひとつなく、男の方が玄関に近づいてくる。


「今日から二週間の予約をした、一といいます。それで、こっちは」


 蒼士の方を振り返ると、彼は小さく頭を下げつつ名乗った。


「終夜です。僕は今日から三日間の予約で。ただ延長する可能性があるとお願いしてます」

「二人お客があるのは、知ってますから・・・・・・。宿帳を書いてもらいましょうか。えっと、宿帳はどこでしたかね。ありますかね」


 男が女に目を向けると、背後に従っていた彼女は作り付けの棚に置かれた大学ノートとボールペンを「これです」と男に渡す。男は大学ノートとボールペンを差し出す。


「ここに名前と住所を書いて下さい」


 玄関にしゃがみ、上がり框を机がわりにした。大学ノートは新品で、一ページ目の白紙の一行目に、自分の名前と住所を書く。次の行に蒼士も記帳した。

 中学生が硝子障子の向こうから顔を出し、興味深そうにこちらを見ている。

 男女は緊張した表情で礼人達を見守っているだけで、にこりともしない。記帳を終えた蒼士が大学ノートを男に渡すと、男の方はノートを上がり框に無造作に置き、「どうぞ中へ」と先に立って歩き出す。女は壁際に身を寄せ、二人を観察している。中学生も、まるで胡散臭いセールスマンが家に上がりこんできたような顔をしていた。

 彼らの愛想のなさは、商売が下手というレベルではない。客の来訪を、面倒がっているようにすら思えた。

 しかし一ヶ月前に礼人が予約の電話を入れたとき、応対に出た女は愛想が良く、快く予約を受けてくれていた。この場にいる女と電話を受けた女は、別人だろうか。先を行く男の背中には「出来るなら、帰ってくれ」というような拒絶、あるいは気弱な懇願めいたものを感じる。この態度はなんだろうか。 

 礼人に続いて框に上がった蒼士は、置き去りにされた新品の大学ノートに目をやり、なぜか口元に笑みを浮かべた。まるで面白いものを発見した、というように。


 縁側に面した六畳と八畳の続きの間があり、玄関から見て奥の八畳が礼人、手前の六畳が蒼士にあてがわれた。

 陽に焼け、ささくれ立った畳の上に、座卓が一つと薄い座布団が二つ。部屋の隅に湿っぽい布団が重ねてあるだけ。なんとも侘しかった。



 夕食前に礼人は、藤の巨木を写真に収めようと思い立ち宿を出た。外へ出る前には「散歩がてら一緒に外に出るか」と、同宿のよしみで隣室を覗いて蒼士の声をかけたが、彼は畳に突っ伏して顔もあげなかった。

 聞くところによると彼も東京から来たらしい。しかし礼人と違い夜行バスに揺られて岡山駅まで来て、その後JRの在来線を乗り継ぎ、七時間歩いたのだという。恐れ入った。


 カメラを手に坂道を上っていくと、道は、藤棚を背負う屋敷へ引き込まれるように終わっていた。瓦屋根のついた門からぐるりと、敷地は土塀に囲まれている。土塀は所々剥がれ落ちてはいたが、瓦の代わりに椹の板が葺いてある古めかしい造りだった。

 タクシーの運転手は藤蔭家は成葉里村の庄屋だったと言っていた。屋敷の建つ位置や立派な構えから、ここに礼人の依頼主が住んでいるに違いないだろう。メールのやとりとで住所を訊いているので、宿に帰ったら確かめてみようと思った。明日、仕事の打ち合わせで屋敷を訪ねる約束になっているのだ。 

 門を見上げて、それから左右へ続く塀へと視線を向ける。

 藤棚へは、屋敷の敷地を通り抜けないと近づけないらしい。

 探せば迂回路があるのかもしれなかったが、夕闇が迫っていたので、仕方なく屋敷を囲む土塀の横手に回り込み、雑草の茂る斜面に立って写真を撮った。藤の足下は見えず、大きく伸びた蔓や花しかレンズには入らなかった。だが敷地の北側に建つ土蔵を景色の一部に取り込む事で、それなりに構図を決められたのは幸運だった。

 夕暮れの光と藤の影が、陰鬱でありながら艶めかしい気配を醸している。


 少しずつ位置を変えてシャッターを切り続けていると、門から人が出てきた。三十メートル以上距離はあったが、もし屋敷の人であれば、明日訪問することになっている手前、無視もできないと思った。手を止め、門の方へ向き直った。

 門から出てきたのは、五十がらみの男二人だった。ずんぐりした体型で背が低く、頭髪の薄い頭頂部が尖っている。一人は作業服のような薄手のジャンパーを羽織り、もう一人は綿シャツだったが、驚いたことに顔も体型も瓜二つ。じろりとこちらを見たタイミングも、捻くれた目つきまで同じだった。

 礼人は会釈したが、彼らは顔を背け、並んで坂を下りはじめる。背中を丸めて何事か小声で話し合っていたが、急に、ひひひひっというような気味の悪い品のない声で笑って、どんどん坂を下りていった。薄暮の中で、奇妙なものに出会ったような心持ちになった。ずんぐりした体型と捻くれた目つき、品のない笑い声がそっくりな二人から、ヨーロッパ伝承に登場するゴブリンを連想した。

 中年男たちが陽の光を吸い取っていったのでもないだろうが、辺りが急に暗くなったので、そのまま藤やに帰った。


        ○○○


 宿の夕食は礼人の期待を見事に裏切り、質素かつ、まあまあの味わいの家庭料理だった上に、冷え切っていた。座卓が礼人の部屋にしかないので、夕食は彼の部屋に蒼士も呼ばれ、そこで向かい合って食べる事になった。

 宿に入るとき蒼士は落胆した様子だったが、食事については全く苦情を言わなかった。そして外見に似合わず良く食べた。白米だけは丼と見まごう大きな茶碗に山盛りにされていたので礼人は半分残してしまったが、蒼士はぺろりと平らげた。そして、残すならくれと言って、礼人の残した冷え切った白飯まで美味そうに食べる。


「こんなおかずで、よく食うな」

「白い飯が食えれば文句ない。下宿を出る時、うちの米はもう空っぽだったから」


 今時の若者には珍しい慎ましやかな発言には、同情を禁じ得ない。


「下宿ってことは一人暮らし? 終夜君、大学生?」

「そう」

「何を勉強してるの」

「日本画。美大の日本画学科に在籍してる」

「やっぱり仕送りだけじゃ足りなくなるのかな、日本画とかやってると。画材は高いだろ」


 礼人も美術大学を卒業したからわかるが、授業料以外にも機材や画材を買う金が必要なので美大生は苦労する。高価な画材を使う学科の学生達は、いつも金がないと呻いていた。


「仕送りはない。親がいないから。僕が中学二年の時に二人とも死んだ。学費は奨学金。足りないところは自分で稼いでる」


 迂闊なことを訊いてしまったと後悔した。


「いや・・・・・・悪い」


 せっせと白米を口に運んでいた箸を止めると、蒼士は顔をあげた。


「一さん。見るからにいい人だね。いい人過ぎるとカモられるよ」

「カモって、お前」


 失礼な言葉につい「お前」呼ばわりすると、蒼士は面白そうに目を細める。飄々とした風貌と淡々と喋る落ち着きからそうは見えないが、この青年は口が悪いようだ。もしかしたら性格も悪いのかもしれない。昼間出くわしたとき彼は、礼人のことを「景色に興奮して、ゲンゴロウに欲情する変態」と言った。あれは失礼な発言をしている自覚がないのかと思っていたが、きっと違う。失礼を百も承知で口にしたのだろう。


「だって、カモくさい」

「だから、おい。カモって」

「一さんは仕事で来たって言ってたよね。荷物を見ると写真屋みたいだけど、こんな場所で写真の仕事? 騙されてない?」

「仕事の依頼者は藤蔭姫沙紀って人で、藤蔭家はちゃんとある。タクシーの運転手さんも知ってた。メールで連絡取りあって、明日、屋敷を訪ねる約束にもなってる。しかも前金で五万円振り込まれてんだ。お前こそ苦学生のくせに、こんな集落の祭を泊まりがけで見物に来るか? 普通。誰かに『ここの祭はすごい』と言われて、騙されて来たんじゃないのか? 着いてみたらあまりにも何もない場所で、実は、びっくりしてんじゃないのか」


 やり返すと、蒼士は肩をすくめた。


「成葉里村のことは僕自身が調べて、来ると決めたんだ」

「強がってないか? 調べて、わざわざ来たい場所には思えないぞ」


 冷えた茶を飲みながら半笑いで突っこむと、蒼士はわずかにむっとした顔をした。食い終わった茶碗と箸を静かに置く。


「誰にそそのかされたんでもない。あえて言うとしたら、藤に呼ばれた」


 どきりとした。一瞬、藤影に見た黒引き振り袖の姿を思い出したからだ。


「この坂の上の屋敷裏に、大きな藤があったでしょう。あれは千年藤ちとせふじと呼ばれるご神木で、藤媛という媛神の伝説をもってる。藤媛はこの村を拓いた媛神で、村を守護して富み潤した。その死後は藤の木となって村を守護したっていう伝説だ。さっき一さんが仕事を依頼されたって言った藤蔭家というのは、藤媛の末裔で、千年藤を守る役目を負っているからこそ土地の支配者でいられたと言われている家だよ。四年に一度、その藤媛を祀る藤祭という祭がおこなわれているらしい。四年に一度が今年だ。平成の初めくらいまでは、大媛様と呼ばれる巫女のような存在もいたらしい。僕はそれらの藤媛信仰を調べに来た」

「画学生だろう? なんでそんな民俗学みたいなこと調べてるんだ」

「あるものを探してる。その手がかりになりそうなものを、片っ端から当たってるだけ。ここに、そいつが隠れてるかも」

「そいつ? 人か?」


 表情を消し、蒼士が囁くように言う。


「鵺だ」


「え?」と、さらに問い返す前に、急に蒼士は立ちあがった。


「ごちそうさま。疲れてるんだ。風呂に入って寝るよ。お休み、一さん」


 彼が出て行った襖を見つめて、礼人は眉をひそめる。なにを言っているのだと訝しんだ。

 鵺は『古事記』『万葉集』にもその名が登場し、不吉な鳥として扱われている。夜に鳴く鳥トラツグミが、鵺と呼ばれる例もある。『平家物語』『源平盛衰記』『十訓抄』に記された鵺は、毎夜叢雲とともに御所の屋根に現れ御門を苦しめた末に、退治された妖怪。猿と狐と虎と蛇を混ぜたような姿であったらしい。世阿弥の謡曲『鵺』もこの妖の鵺が題材で、源頼政に退治された鵺が成仏を願い、怪しげな船人として現れ旅僧に供養を願う。

 あまりにごちゃ混ぜで、曖昧模糊とした、何の象徴かも判然としない怪物の名だ。

 蒼士はその怪物の名を突然口にした。怪物を探している、とでも言いたいのだろうか。

 それともなにかの比喩として言ったのか。

 ただ彼は、自分がそれを口にしたことを後悔して誤魔化すかのように、席を立った。



 風呂と食事を済ませると、蒼士はさっさと布団に潜りこんだらしい。襖一枚隔てた隣室は静まりかえっていた。隣室だけでなく、宿全体があまりにも静かだ。

 宿の夫婦は夕食の膳の上げ下げに現れただけで、その後一切姿を見せない。娘に至っては、宿に入るときに目にしただけ。テレビの音や会話の声もない。あの三人は息をひそめ、膝を抱え、じっと台所の隅に座っているのではと思えるほど気配を感じない。静かすぎると、こちらの気配を探られているような気もして、落ち着かなかった。


(それにしても、とことん何もないな)


 テレビもなければWi—Fiもない。古い民宿に時々準備されている将棋盤すら置いてない。頭の後ろに腕を組んで、畳にごろ寝して天井を見つめていると、一人きりの状況がいやに身にこたえ、こんな場所まで来て仕事をする自分に虚しさを覚える。


(こんなところまで仕事に来て、俺は馬鹿みたいだ)


 谷中で、間口二間の小さな写真館をやっていた礼人の父は、礼人が中学二年の冬に死んだ。脳腫瘍だった。末期には強い痛み止めが使われ、意識が混濁することも多かった。それでも父親は礼人が見舞いに行くと、他の誰が行った時よりも意識がはっきりした。死期が迫った父親の、それは精一杯の努力だったように思う。礼人の手を握り、「お前は長男だから。お母さんと優穂を頼む」と繰り返した。

 父が亡くなった後の生活は楽ではなかった。極貧とまでは言わないが余裕はなかった。

 礼人は中学時代から新聞配達をし、高校生になるとバイトを掛け持ちして稼いだ。

 小学生の頃、妹の優穂は内気で学校にいけない時期もあった。そのときは忙しい母に代わり、高校生の礼人が小学校に出向き、教師達に色々かけあった。そしてなんとか、父の保険金と給食センターで働く母の給与とで、礼人と優穂は、美術大学と女子短大を出た。

 大学を出ると、礼人は父の残した写真館を再開した。それが、彼が現在営む写真館『にのまえ写真館』だ。間口二間、木造二階建ての古めかしい写真館だが、母が父との思い出を惜しみ、生活がぎりぎりでも店舗を手放さずにいたのだ。

 仕事が軌道に乗り始めてから数年、母に膵臓ガンが見つかった。礼人は仕事以外の時間の大半を母の看病に費やした。三年間の闘病生活の末に母は今年の春に亡くなった。亡くなる直前、妹は付き合っていた男性と結婚し、最高の親孝行として花嫁姿を見せた。

 葬儀が終わって二週間ほど虚脱状態だった礼人に、優穂が言ったのだ。「お兄ちゃんは、そろそろ自分の幸せを考えたほうがいいよ」と。

 痩せ細って皮膚はかさかさなのに、体の内側は燃えさかっているかのように熱かった父の手。その手の感触を、礼人は覚えている。その手の熱さが、母と妹を守れと励まし続けた。励まされて必死に守っていた。自分は、父に家族を託されたのだと。

 しかし妹は結婚し、他の男の庇護を受ける身になった。母も亡くなった。

 礼人が守るべきものが、いきなり消えたのだ。だから取り残されたような感覚が強い。

 守ることだけを考えて生きていた礼人は、突然自分の幸せを考えろと言われても戸惑うばかり。幸福は母と妹を守ることにあったのだから、それが消えたら「さて、どうしようか」と途方に暮れるような心持ちになった。日々の仕事は続けているが、自分のためだけに頑張るのは馬鹿馬鹿しいような気さえしてくる。


(漫然と仕事して、漫然と生きて。これからの俺の人生なんて価値があるのか?)


 守るべき者もなく、さしてやりたいことがあるわけでない自分自身を生かすために、必死になれない。そんなことを考える自分を、すこし欝的だと思う。いかんいかんと、心の中で己を叱咤して体を起こして、写真の整理に取りかかる。

 持参したノートパソコンを取り出すとカメラを接続し、内蔵のハードに保存されているデータをディスプレイに写した。夕暮れに映える千年藤を、遠景で何枚か撮影できている。

 大した出来ではないが、十年ぶりの風景写真にしてはそこそこ。藤の手前に土蔵を取り込むのは苦肉の策だったが、風雨にひび割れ一部が剥がれた漆喰の壁や、土蔵の二階に開いている鎧戸のある錆びた鉄格子付きの小窓など、場所の雰囲気をよく伝えている。

 何枚目かの写真を表示したとき、おやと思って、ディスプレイを覗きこんだ。


(なんだ、これ)


 土蔵の、錆びた鎧戸が開いた二階の小窓。そこに嵌めこまれた鉄格子の奥は、他の写真はただの暗がりだ。しかしその写真にだけ、鉄格子の向こうに白い顔がぼうっと浮かんでいた。目を凝らすと女の顔に見える。こちらを睨んでいる。顔の輪郭と目鼻、口はかろうじて分かるが、首から下は闇に溶けている。目だけが異様にはっきりしているのは、その女の目が大きく見開かれているからか。瞳に焦点を合わせると、写真の瞳が動きそうな気がして、慌てて目をそらした。

 写真を仕事にする連中の間では、いわく付きの場所や古い建物を撮ると、そういったものが写り込むというのは常識のように言われている。礼人も過去何度か、撮ったことがある。見慣れてるとまでは言わないが、「ああ、やっちゃったな」という感じだ。

 ただ、こんなものを撮ってしまうのは幸先が悪い。蒼士の「騙されてない?」という問いには真っ向から反発したが、実のところ依頼者の顔も知らないのだから不安はある。


(まあ、明日には、藤蔭姫沙紀ふじかげひさきって人に会えるんだし)


 東京を立つ前にメールをやりとりし、明日には屋敷を訪ねるという約束になっていた。何時でも良いと言われていたが、訪問前には電話を入れるべきだろう。屋敷の電話番号は聞いてないが、藤蔭姫沙紀の携帯電話の番号だけは聞いているので、そこに事前に電話しておこうと決めて電話をかけてみた。コールするとすぐに留守番電話に切り替わったので、メッセージだけを残して切った。都合が悪ければ折り返し連絡があるだろう。

 さらに教えられた藤蔭家の住所を地図アプリで検索し、位置を確認すると、案の定、藤蔭屋敷はあの千年藤を背負う屋敷だった。

 ノートパソコンの電源を落として布団を敷いて潜りこむ。布団は埃っぽかった。林間学校で使った、倉庫から運び出されたばかりの布団を思い出す。


 一時間もしないうちに眠ったようだったが、ふと真夜中に目が覚めた。


 豆電球を灯した薄闇の中に、コチコチコチと秒針の音が響いていた。部屋の柱にかけてある古い壁掛け時計だ。起きているときには気がつかなかったが、物音のない真夜中になると、音は意外なほど大きく聞こえる。時計の文字盤に目をやると夜中の二時過ぎ。かろうじてそれだけ確認したが、眠気は強く、すぐに眠れそうだった。

 そのとき、しゅるっ、しゅるっと、奇妙な音を聞いた。耳慣れない物音に反応し、入眠直前だった意識が覚醒へと引き戻され、廊下に面した障子の方へと寝返りをうった。

 誰かと目が合った。細い障子の隙間から誰かの目が覗いている。


「うわっ!」


 悲鳴をあげて布団の上に飛び起きた。しかし一瞬視線をはずした隙に、こちらを覗いていた目が消えていた。あるのは障子の隙間だけ。

 呆然と細い隙間を見つめた。宿の人間かとも思ったが、寝ている礼人と目が合ったということは、覗いていた者は廊下に這いつくばっていたということ。そう思うと、ぞっとした。礼人達の様子が気になって覗きに来たとしても、そんな異様な覗き方はしないだろう。

 膝で畳の上を進み、障子の隙間を急いで閉め、再び布団に潜りこむ。


(なんだよ。あの写真といい。さっきの、あれも)


 あれほど眠かったはずなのに、すっかり目が覚めていた。目を閉じ、周囲の物音を探っていた。襖一枚隔てた向こう側で、蒼士が寝返りを打つ音が聞こえるとほっとした。隣室に人がいる確信があるだけで格段に安心する。

 周囲が薄明るくなる頃に、ようやく礼人はうとうと眠りはじめた。


      ○○○


「一さん。起きて。まずい事になった」


 揺り起こされて礼人は目を開く。周囲は既にかなり明るい。

 こちらを覗き込む青年の顔をぼんやり見あげるが、頭ははっきりしない。「誰だっけ、こいつ」と思う。見覚えはあるのだが、誰だが咄嗟に思い出せない。なにしろ、自分の生活圏では滅多に目にしないような整った顔立ちの青年だ。「一さん」と、二度目に呼ばれて、その声でようやく思い出す。


「ああ? あれ? 終夜? だっけ?」

「出会って二日目で、いきなり呼び捨て、ありがとう」


 昨夜から同宿している画学生、終夜蒼士だ。咄嗟に彼だとわからなかったのは、彼が眼鏡を外していたからだ。前髪に隠れがちな顔がはっきり見えた。切れ長の目に薄い唇で酷薄そうなのだが、それがかえって、ひんやりした色気になっている。


「お前、こんな顔・・・・・・?」


 眼鏡を外したところを初めて目にしたはずたが、なぜか見覚えがあった。自分の身の回りにはない顔だと確信があるにもかかわらずだ。不思議だった。


「生まれた時から、この顔だ。それどころじゃない。まずいんだ、一さん」

「何がまずいって?」


 縁側から射しこむ陽の眩しさに目をすがめながら問うと、彼は深刻な顔で答えた。


「朝飯がない」


 こいつは小学生かと、半分寝ぼけた頭で呆れる。


「飯を食いたいなら、宿の人にお願いして出してもらえよ・・・・・・なんで俺に・・・・・・」

「お願いしたくても誰もいない。というか、この宿には人が生活している痕跡がない。無人だ。完璧な空き家だ。ここには僕たち二人だけしかいない」


 さすがに礼人も目が覚めた。


「どういう意味だ!? 飯より、そっちの方がまずくないか」 

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