第2話 姫沙紀の夢(一)


 ぽとり。

 背後の地面に何かが落ちた。それは椿の花が時を迎えて落ちた音かも知れない。


 だがそこは土蔵の前だ。

 だから姫沙紀ひさきはぎくりとして、身動きできなくなる。


 背後の頭上には、土蔵の二階の小窓がある。そこから何かが落ちた可能性があるのを、彼女は知っていた。見たくない。けれど見なければなお、嫌な気分がまとわりつく。いずれ発見してしまうものならばと、彼女はこわごわふり返り地面を見る。

 地面には、ノートの一ページを破り取って丸めた紙が転がっていた。意を決し、土蔵の二階の小窓を見上げた。何も見えない。そこには土蔵の中へと続く、小さな闇があるだけ。

 そのことに安心し、地面に転がった紙を拾いあげて開いてみた。


 そこには鉛筆の、ひどく拙い歪んだ文字で「あそぼ」と書いてある。


 まるで耳元で、「あそぼ」と囁かれたような気がして、突然怖くなり、悲鳴をあげ、紙を放り出して母屋に駆け戻った。


「母さん! 土蔵に幽霊がいる!」


 必死に声をあげた。以前から、変だ変だと思っていたことが正体を現したのだと思った。

 母屋に両親の姿はなく静まりかえっている。何かが追いかけて来るような錯覚に陥り、人の姿を求め、姫沙紀は母屋の東から渡り廊下で繋がっている隠居の棟へと走った。

 隠居には、普段なら絶対に自分から行こうとしない。しかしこの時ばかりは、誰でもいいから人のいる場所へ行きたかった。

 六畳の二間と便所しかない平屋は、カーテンも障子も常に閉めっぱなしで、空気が淀んでいて、埃と、饐えた果物のような臭いが充満している。エアコンもないのに、真夏でも窓が開け放たれることはない。建屋の中が耐えがたいほど蒸し暑くなったときも、腕を通せるぎりぎりの隙間が開くだけ。そこに住む人が光や外気を嫌うからだ。


 住んでいるのは姫沙紀の曾祖母そうそぼ余姫よきという人と、余姫の娘であり姫沙紀の祖母にあたる桜子さくらこの二人。


 曾祖母の余姫は八十歳近い年齢ながら矍鑠とし、何事においても厳しかった。姫沙紀は身だしなみや立ち居振る舞いをよく注意されていたし、屋敷の誰も余姫には逆らえなかった。

 おそらく成葉里村なばりむらの誰一人として、彼女に盾突こうと考える者はいない。彼女は最後の大(おお)媛(ひめ)様と呼ばれている。年齢を重ねて瞳の水晶体は濁っているが、その濁った目で睨まれるのは恐い。だからこそ、威厳に満ちた曾祖母が逆に頼もしく思えた。


ひいお婆ちゃん!」


 二間続きの手前の和室の襖を開けると、暗い畳の上に布団が敷かれ、祖母の桜子が天井を見上げて横たわっていた。祖母は毎日、一日中、一人でこうやって横になっている。まるで死体みたいだと、屋敷に住む誰もが言う。

 首だけ捻って、


「姫沙紀ちゃん? どうしたの」


 と、桜子は掠れた細い声で訊く。それを無視し、桜子が横たわる床の向こう側の襖に向かって、


「曾お婆ちゃん!」

 

 と、声をかけた。

 しかし余姫の返事はない。辛そうに、桜子が体を起こす。


「どうしたの。何かあったの姫沙紀ちゃん」


 のったりした訊き方が癇に障った。姫沙紀は怖さと苛立ちのために、じたんだを踏みたくなる。桜子はまだ五十代のはずだ。しかし真っ白い髪と真っ白い肌をしていて、肌が骨に貼りついたように痩せていた。たいがい染みだらけのパジャマを着ている。胸元がいつもはだけていて痩せた胸が見えているのを、軽蔑に似た厭わしい気持ちで見ることがあった。


「桜子お婆ちゃんには話しても意味ない! 余姫お婆ちゃんがいいの!」


 なにか言おうと口を桜子は開きかけるが、声が出る前に咳きこみはじめた。これが始まると、なかなか治まらないのを姫沙紀は知ってた。


「ほら、そんなんだから! だから余姫お婆ちゃんがいいんだって、わからないの!? 私が探してるのは余姫お婆ちゃんなの。余姫お婆ちゃんはいないの!?」


 咳が続く。桜子は生まれた時から体が弱く、隠居になっている離れからほとんど出たことがない。それでも子どもを三人も産んだ。そのうちの一人が姫沙紀の母である小姫子さきこだ。


 咳こむ桜子の傍らを通って奥の襖を開けたが、真っ暗で誰もいなかった。さらに恐くなり、姫沙紀はその場で曾祖母を呼んだ。


「曾お婆ちゃん! どこ!? 土蔵に幽霊がいる! 曾お婆ちゃん、どこ!?」


 咳が止んだ。桜子が目を細める。嬉しそうに何度か頷く。


「そう。そう。うん、そうねぇ。よかったねぇ」


 姫沙紀は桜子を振り返り、泣きそうになりながら、前屈みの桜子の背に向けて怒鳴った。


「よくないよ。幽霊が本当にいるの」


 桜子が首を回してこちらを見た。姫沙紀を指さす。


「そこだ。そこに」


 突然、目を見開いて口の端を吊り上げ、笑うような顔で桜子は叫んだ。


「お前だ! お前が幽霊だ」


 ただでさえ怯えていた姫沙紀は、桜子の声に驚き、息が詰まり、身を縮めた。


「馬鹿め! 馬鹿め! 藤媛の呪いだ!? 馬鹿め! 自分達が生むものが何かも知らずに怖がってる! 呪われているのはお前だ! お前達だ。自身が呪いで、呪いが呪いを生むんだ! 永久に畏れろ! 畏れろ!」


 桜子は大きな口をあけ、黄ばんだ歯がぬらぬらと唾液で光っているのを見せつけながら、げたげたげたげた際限なく笑い出す。

 

 

 そこで、姫沙紀は目覚めた。



 今見ていた映像が夢だと悟ったが、暗闇の中で震えて、肩を抱く。

 あまりに生々しく鮮明に、色や音、手触りまでも再現されていたので、あの時を追体験したようだった。あの時、姫沙紀は小学校に上がったばかりだった。大きくて新しい、ぴかぴかのランドセルと、つるつるした紙質の、ひらがな・カタカナ表が嬉しかった頃だ。


 あれは、気配だけを感じていた厭わしい存在が、そこにいるのだと悟った瞬間だった。


 ただ、もう今は、土蔵の中には何もいないはず。


 けれどここは藤蔭屋敷ふじかげやしきだ。村人達は常ならぬことがあると決まって、藤媛の呪いだと口にする。その感覚が正しいとするなら、姫沙紀が感知できないだけで、今も土蔵の中に何かがいる可能性はないか。なにしろ藤蔭家は藤媛の末裔なのだから。


 桜子は、最後の大媛様である余姫の娘だ。まともなことは何一つ言わなかったが、大媛様の力のわずかでも受け継いでいるかもしれない。その人の口から発せられた言葉が、大人になった今でも忘れられない。


 布団を頭の上まで引きあげた。布団の中で姫沙紀は目を閉じる。周囲に人の気配はないが、だからといって安心できない。突然、いるはずのない者の気配が、布団の傍らで膨れあがったりしないとも限らない。

 今のこの状態から早く抜け出したい。けれどまだ、それはできない。

 誰かが奇跡のように、姫沙紀を藤蔭屋敷から救い出してくれないだろうか。そんな都合の良いことを、ぼんやり考えた。

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