媛ノ誤謬

丁川夏乙

第1話 序

かりはひがごと 花かえるゆえ」


 その時、にのまえ礼人あやとにはその言葉の意味が分からなかった。


 単純に現代語訳すれば「雁は道理に外れている。花の咲く良い季節に去って行くのだから」といったところだ。しかしそのとき季節は初夏で、雁はとっくに北へ飛び立った後。季節外れもいいところだった。


 街の雑踏の中、礼人は今でもふと、淡く恋した人とすれ違った気がして、ふり返ることがある。

 都会の人混みはその人には似つかわしくないし、そもそも彼女が礼人の前に再び姿を現すことはないと分かっている。けれど深山の底知れなさと巨大な街の底知れなさには、隅々まで全体像を把握している者が存在しないという共通点がある。自分の行動範囲だけは明瞭で何の不安もなく歩き回れるのに、自分の知る場所以外は茫漠としていて、テリトリーの外へ踏み出すと途端に迷ってしまう危うさ。


 そんなふうに誰も全体像を掴めないのならば、そこに誰も知らない隙間が存在しないか。


 闇が存在しないか。


 そんなことを思うからこそ、そこに姿を求めしてしまうのかも知れない。


 半年前の成葉里村なばりむらでの事件を境に、彼女はこの世に存在しない人になった。それを知っていてもなお探してしまう。それは礼人の思いが、自分で認識しているよりも深かったということなのかもしれない。

 あの一連の出来事の犯人が藤蔭姫沙紀ふじかげひさきではなかったと知ったのは、全てが終わってからだ。そのことに礼人よりも、ずっと早く気がついていた人間もいた。しかし礼人が早々に真相を教えられていたとしても、果たして何か出来ただろうか。


 事件は呪いだったのか、あるいは———誤謬ごびゅうだったのか。

 どちらにしろ礼人の手にはあまるものであったのは、違いなかったのだ。


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