チャービル家の兄弟(2)

「おい! 何だあれは!」

 見張り台にいたエルマが声を張り上げた。

 空に広がる無数の黒点。

雨雲、鳥の群れ? 

いやちがう。

 細く長い無数の影が水面目がけて急降下してくる。

 突風が吹き荒れ、帆は風に煽られた。影は船を目がけて矢のように急速に落ちてくる。

「船体にぶつかるぞ! 取り舵だ、ロイ」

 それに気が付いたマラーの指示を出し、近くにいたロイは舵を取り、赤の女王号は急旋回した。

 大騒ぎだというのに、母サハラはキセルを片手に船長室から悠長に顔を出した。

 船員たちは皆、船長の指示などなくとも持ち場について事態に対処する。

「砲弾はよしな、お前たち」

「し、しかしサハラ様」

「あれは海飛竜ティーズダートだ」

「海飛竜?」

 確かに普通の生き物ではない。細長いまるでウミヘビのようだ。跳ね上がった水から異様なニオイが漂った。

 それが強い酸だと分かったマラーは叫んだ。

「酸で溶かされるぞ。シヴァ!」

「分かってんよ!」

 身軽なシヴァは横帆を固定していたマストに留め具を壊し、帆を広げた。甲板にいた船員たちは間一髪酸を浴びずに済んだ。

 しかし安堵したのもつかの間。強風にあおられた無数の海飛竜が降って来た。

「おいおいおい! こっちに来るぞ!」

「くそ!」

 ヴィーシャがすぐに舵を取って船を反転させるも、回避しきれなかった影が甲板めがけて落下した。

バタバタと落ちたそれは全て竜の死骸。

「なんだ、これは」


風が止み、ようやく飛来物が落ちて来なくなった。

海面には無数の死骸が漂い、海で生まれたドラゴンとは思えない程の異臭を放っていた。

 恐る恐る空を見上げていた船員たちは、安堵のため息を吐き、マラーの指示ですぐに復旧作業に移った。しかし、中には立ち上がれない者もいる。

 海面から立ち込める悪臭のせいだ。

「全員、口元を布で覆え。それから気分が悪い者は強い酒で口をゆすげ」

 平然として、いや立ち尽くすサハラの姿にマラーは少なからず疑念を抱いているようだった。

 甲板に落ちた遺骸をサハラは見下ろしていた。

それはもはや胴体と繋がってはいない首だけの存在。

ぐしゃぐしゃに潰れ、骨も肉も、鱗も、かつての竜の面影はなかった。

アリスタはサハラの足にしがみつき、様子を伺うしかなかった。

 その時のサハラの顔は、今まで見たことがない程に悲しみに満ちていた。悔やんでいるような、憎しみに満ちているような。いや、これは諦めているような表情だ。

「母上、これは一体、どういうことです?」

 マラーは腕で顔を覆いながら、サハラに問うた。

 腐っている。

 さっきの酸といい、生物がここまで腐敗することなどあるだろうか。何がどうしてこんなことになるのか、海の上で暮らすだけの海賊たちには理解できない。

 ヴィーシャはシヴァに声を掛けて、兄と母の元へと駆け寄った。

「お前たちは余り近づくな」

「だけど、母上」

「海飛竜は海で生まれ空で生き、そしてまた海にその命を戻すと言われた竜だ」

「なんだ。御伽話のドラゴンかよ」

 期待外れというよりおぞましいその姿にシヴァは顔をしかめた。

「北のドラゴン?」

「こんな南の海に来るなんて」

 兄弟たちは疑問を口にする。



『——カナンの子か』


「——っ」

「くっそ、なんだこれ」

「頭が痛い」

 耳鳴りのように響く声に、アリスタを含め三兄弟たちは耳を塞いだ。

 マラー、ヴィーシャ、シヴァの三人は母の血を引いているから、カナンの血の力で人以外と心通わせる素養があった。稀に声が聞こえることもあるが、この竜の声はまるで感情の波が一気に流し込まれたみたいで気持ち悪い。

「兄さん!」

 カナンの血を引いてないためかアリスタには何も聞こえない。

 そんな息子たちの様子を気にも留めず、サハラは海飛竜と会話を続ける。今は失われた古代カナン語で。


「いかにも。カナンの血を引く者だ。何故こんな南にあなたのような者が? あなた海飛竜は氷の海を好むはずだ」

『北は汚れた。最早我々が生きられる空はない。奴らのせいで、我々は喉が腐ってしまった』

「奴らとは何だ」

『——汚れた人間共が作り出した黒い霧だ』

「黒い、霧?」


『カナンの民。何故戦わぬ』

「カナンの民はもういない。僅かな血筋を残しただけだ。あなたたちのように我々もいずれ歴史の彼方へ消えゆくでしょう。次代には抗えない」

『貴様ら人間は所詮、害獣だ。この世界を蹂躙し、形を変えて我らを食い散らす』

「……」

 海飛竜は最期の力を振り絞り、あらん限りの呪いの言葉を吐いた。

『人間共め。呪われろ、呪われろ、呪われろ!』

 

 朽ちて骨だけとなったドラゴンにサハラは祈りの言葉を捧げた。

「生きとし生けるものは皆、海へ還る」

 まるで子どもにまじないを教えるような優しい口調だった。

 母サハラの慈愛に満ちた声色に、マラーだけが違和感を覚えた。

「母上?」

「何だったんだ。気味が悪い」

 こんな状況で悪態をつけるシヴァは勇敢なのか無謀なのか。

「本当に呪われるぞ、お前」

「まあ、人の船の上に落ちてきて吐くセリフではないな」

 不可抗力とはいえ、我が家の船を汚されてマラーはご立腹である。

「お前たち、少しは死者に敬意をはらえ」

「そんなこと言ったって」

 三兄弟にとって、誇り高きカナンの民の血など知ったことではない。母がかろうじて受け継いだ言葉を理解できる程度だ。

「船を出せ」

「え?」

 船員たちは甲板をデッキブラシで汚れを落とし、帆を補修している最中だ。まともに出航できる状態ではない。入江の女王の言葉に船員たちも思わず手を止めてしまう。

「母上、どこに行くのです。早く港に戻らなければ——」

「海が私たちを助けてくれる」

 確かに潮の流れがいつもより速い。そして帆を進める風も良好だ。

「だけど……」

「心配ない、マラー。島が見えてきた。そこで補給すればいい」

 チャービル家に領土はなくいくつもの島に拠点を置く。食糧も真水も十分に補給できる島だ。疲れた船員を癒すには十分な場所だ。

母の目配せで、三兄弟とアリスタは船首へと集まった。

「北で良くないことが起こった。それを知るために海神の神殿を尋ねなくては」

 この流れはまずい。逃げようとしたヴィーシャとシヴァを、マラーは両手で掴んで逃がさなかった。

「お前が指揮を取れ、マレクザルガ。神殿に行って、埋葬するのだ」

 ——嫌だ。

 ——面倒くさい。

 ——腹減った。

「楽しそう!」

 アリスタだけが声に出し、幼い末弟の頭を三兄弟はそれぞれ叩いた。

 サハラはにこりと笑い、アリスタの頭だけを撫でた。

 こういうところがミリアに似ている。

「一体、何故そこまで」

「帰るべき場所へ帰れなかった者を弔う義務が私たちにはある。それを守らねば、我々は二度と海の加護を得られないだろう」

母サハラは迷信深い。

「——はい」

渋々了解したマラーの傍らで、ヴィーシャとシヴァは腹を抱えて笑っていた。

「好きな部下を連れていけ」

「心得ました母上。では、愚弟たちを連れて行きます」

「え?」

「は?」

 マラーは弟二人の首根っこを掴んだ。母親譲りのオリエンタルブルーの目と圧力で弟たちを逃がさない。

「さあ、支度の準備だ。ヴィーシャ、シヴァ」

「こんの、くそ兄貴! 俺たちまで巻き込むのかよ」

「なんだ、弟。神殿が怖いのか?」

「こ、怖くねえし! 面倒なだけだし!」

 シヴァはふん、とそっぽを向いた。

「昔漏らしてたからな、お前」

「ガキの頃の話だろうが!」

「今も十分ガキだっての」

 シヴァは文句を言い続け、ヴィーシャは八つ当たりを始めた。それに対して大人しくしているわけのないシヴァはヴィーシャのあごに掴みかかり、短気なヴィーシャは殴り返した。

「やんのか、こら!」

 弟二人の本日二回目の喧嘩勃発に、マラーはうんざりして止める気力が失われていた。

その傍らで構って貰えないアリスタはマラーの服の裾を引っ張った。

「ねえねえ。俺はぁ?」

「お前はダメだ。母上の傍にいろ」

 マラーの冷たい言い方にアリスタは頬を膨らませた。

 どんなことでも仲間外れが一番嫌いなのだ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る