チャービル家の兄弟
アリスタが王都へ向かうより七年前。
最南端の海賊の小国、
この世界でこの船に追いつけぬものはなし、と称えられた最速の船である。
赤樫で造られたその船が海に浮かぶ姿はまさに「赤の女帝」。そしてまたその船の船長も海の女帝と呼ばれた我らが母であった。
広大な海を眺めるばかりが海賊ではない。
昼は珍しい雲の形を見つけては石灰で甲板に塗りたくる。それがアリスタの楽しみであった。
船員たちはマストの調整、捕獲網の修理など与えられた仕事をこなしていたが、チャービル家の兄弟たちは各々暇を持て余していた。
「お前はまた。どうせ塩で流れるんだぞ」
「いいんだ。海に流れることに意味があるんだから」
「我が家に哲学者の誕生だな」
ふああ、と大あくびをするシヴァの揶揄いを無視し、アリスタは風が運ぶ音に耳を傾けた。
「兄さん、聞こえた? クジラかもしれない。ねえ、兄さん!」
シヴァは余りにもしつこい末弟の質問攻めにうんざりしていた。母サハラと似た力を受け継いでいたこともあり、シヴァは兄弟の中で唯一、動物と会話が出来るのだった。
「出たよ。アリーのクジラ、クジラ、クジラ。お前この海にはクジラしかいないって思ってんのか?」
「イルカもいるよ、ほら」
アリスタの指笛に応じ、イルカが海面を跳ねた。
「おいおい、お前のお友達か?」
「シヴァが変なこと吹き込むからだぞ。おかげでアリスタの友人は妄想のクジラとイルカだけだ」
帆の影で涼んでいたヴィーシャは伸びをした。
「何イラついてるんだよ。ま、陸の上の女がいなきゃお前はまともじゃないからな」
凪いだ海ほど暇なことはない。シヴァはいつものように軽口を叩いた。
「………」
ヴィーシャは貝殻を指先で飛ばし、シヴァの後頭部に命中させた。
「何すんだ!」
「俺を侮辱したからだ」
暇になるとやることと言えば一つ。喧嘩である。
シヴァはヴィーシャに飛びかかるが、ヴィーシャは華麗に避けた。
「やんのか、シヴァ。お前が俺に喧嘩で勝ったことがあったか? あ?」
「あるぜ。三回だけな。今日で四回目だ!」
一日一回は起こるヴィーシャとシヴァの喧嘩に、船員たちは賭けを始めた。
常勝のヴィーシャか、それとも稀に大勝するシヴァか。
「やめろ、二人とも」
「タマナシは黙ってろ!」
「——あ? 何て言った?」
「おっと、これはまずい」
マラーの十八番の怒り顔が出た途端、ヴィーシャは船尾に逃げ、シヴァはマストに上った。
マラーはつかつかと船尾のヴィーシャを追って剣を抜いた。
「待て! タマナシって言ったのはシヴァだ。俺じゃない! ああ、ごめん。だから剣はしまって兄さん! 可愛い弟の体に傷をつけないで――」
喧嘩は強いヴィーシャだが、剣を抜いた兄のマラーにはめっぽう弱い。一度とんでもなく怒らせたことがあり、マラーに追いかけられると逃げ腰になってしまう。
シヴァはマストの上からしてやったりと大笑いしている。
しかしマラーはすかさず舵を回してマストを動かし、シヴァを振るい落とした。
「うっわ、ずるい!」
マラーは剣をしまい、シヴァの頭を鞘で叩いた。
「船上で殴り合いをするなら程々にしろ。歯がなくなるぞ」
船員たちは「飽きないな」と笑い、作業に戻った。結局一番強いのは一番上の兄貴のマラーなのである。
兄たちの喧嘩を他所にアリスタは風の音に耳を傾けた。
「マラー、やっぱり聞こえるよ」
「この海にクジラはいない。遠くの海の生き物の声が聞こえるのは母上だけだ」
「本当だって!」
「じゃあお友達のイルカさんに聞いて来いよ。『もしもし、イルカさん? クジラの群れを見かけませんでしたか?』てな」
シヴァは可愛がる弟をいつものように揶揄い、アリスタは頬を膨らませた。ヴィーシャはアリスタの頬を突いて笑ったその時、船に暗く大きな影が刺した。
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