マラーの覚醒(5)
千草の国にも雨は降る。
隣国の橙黄の国は一年で十日しかない雨季が水源の頼りのため、水が神聖なものだが、千草の国では雨は凶兆の証であった。雨は嵐を連れて船乗りたちを惑わすという理由からだ。
港町にとってとにかく雨は厄介なもので、荒くれ者が生きるこの町ではじっとしていられる者は少ない。鬱憤が貯まった輩が暴れ、必ず何か揉め事が起こると決まっている。
一方でマラーは雨の日になると体調が優れず、部屋に引き籠ることが常となっている。雨が降る日は頭が痛くなり、動くことも億劫になるからだ。
以前は三人で並んでハンモックをぶら下げていた部屋も、今はマラー一人である。
ここ最近では弟二人が家に帰ってくることなど稀であった。ヴィーシャは娼館に、シヴァはどこかの酒場で寝ているに違いない。
朝から横になってはいるが、頭痛は一向に収まらない。
「マラー、スープ持ってきた」
アリスタがぽてぽてとカップに淹れた魚介スープをこぼさないように持ってきた。
「大丈夫?」
アリスタは額と額を合わせて熱がないか測っている。
「大丈夫、いつものことだ」
「いいものあげる」
アリスタはポケットからたくさんのラズベリーを差し出した。
「貰ったんだ、あげるね」
いくつか潰れてしまっているが、ほとんどは食べられそうだ。頭が痛む日にはこれが一番効く。
「よく知っていたな、頭痛にはラズベリーがいいと」
「教えてもらったんだ。雨の日になったらマラーにあげるといいって」
「誰に?」
「シヴァだよ」
「……」
アリスタはあっけらかんと答えた。まだ五歳のアリスタには、俺が弟二人と気まずくなっていることは分からないらしい。
アリスタはマラーにあげるといいながら、半分近くを口に頬張ってしまっている。意地汚い食べ方がミリアにそっくりである。
「今日はヴィーシャが岬の見張りを変わってくれるって」
「見張り?」
「あれ? マラーが当番だったんじゃないの?」
アリスタは首を傾げた。
見張りなんて頼んだ覚えも当番だった記憶もない。
考えることが面倒で、うずくまっているとそこに麻布を纏ったキセルを咥えた母が現れた。愉快そうな声色はいつもなら安心感を与えてくれるが、今は少々苛立たせてくれる。
「昔からお前は雨が苦手だね、マラー」
「あ、サハラ様」
母サハラから見ればアリスタは夫の愛人の子ども。血の繋がりはなく、普通ならば疎ましく思う存在だ。しかし、実の息子三人よりもアリスタを溺愛していた。それはアリスタの母、ミリアを家族のように愛していたからに違いない。彼女にとってはミリアの忘れ形見であるアリスタは誰よりも可愛い存在なのだ。
アリスタは幼いながらもその境遇を察してか、サハラを母と呼ぶことはなく、敬称をつけて呼んでいた。
「アリスタ。今日は釣り針の手入れを手伝いなさい。それから網の修理もね」
「はあい」
アリスタは素直に返事をして、ぴょこぴょこと部屋を出て行った。
母は勝手に寝具の傍らに腰を下ろし、微笑ましくアリスタを見送った。
「あの子は手先が器用で気が利く。そこだけはミリアに似なかったな」
母は満足そうに笑う。ミリアの面影に加えて、あの人懐っこさだ。アリスタが可愛いのは母だけでなく俺たち兄弟も皆同じである。
その兄である俺たちをかろうじて繋いでいるのはアリスタの存在が大きい。
「母上、あの——」
「マラー。弟たちを守るのはいいが、何故頼らない?」
母はさらりと痛いところついてくる。優しくはなく、甘やかすことはない。危険を冒しても咎めはしない。
「なら、母上が言い聞かせて下さいよ。俺には無理だ」
「音を上げるのが随分と早いな」
「俺らしくありませんか?」
「さあ。私は全てを知っているかのように言うのは好きじゃない。ただ、私にも分かることはある」
母は煙を宙に吐いた。
「弟たちは待っている。お前が本当の海賊になるのを」
——本当の海賊?
本当の海賊なんて、なれるわけない。俺は父のように奔放にはなれないし、母のように家族を守れていない。
「お前は弟たちを守るばかりで、使おうとしない。大事なのは分かるが」
——違う。俺は母上が思うような兄ではないんだ。
俺はアリスタから貰ったスープを飲んで、十年前のことを想起した。
「母上は覚えていますか? シヴァが生まれた時のこと——」
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