ヴィーシャの愛(3)

 母、サハラは基本的に放任主義ではあるが、数日に一度息子たちを呼び出した。女王の即位以来、他国との交流が増えたことによるトラブルの解消やら敵対する海賊船の対処など悩みの種を解決すべく集まるのだが、大半は息子たちの素行による説教だった。以前はアリスタもいたため、説教の時間は三等分されていたのだが、今やヴィーシャとシヴァの二等分だ。マラーだけは母に叱られることはないから、それもまた妬ましい。

――――気が重い。

 このまま娼館で寝ていれば良かったと、ヴィーシャは後悔で深いため息を吐いた。

 港町を抜けて、チャービル家の屋敷までの入り組んだ道を通る道中。

 突如、ヴィーシャとマラーの前に一人の若い女が現れ、道を塞いだ。「おい」と傍らにいたマラーが睨むが、彼女は行く手を阻むが如く、動かない。

 しかしヴィーシャは彼女を知っていた。彼女は体をわなわなと震わせ、栗毛色の髪を振り乱し、ヴィーシャをいきなりビンタした。

「あんた、昨日ソフィアのところに行ったのね!」

「やあ、リズ」

 何度か指名し、褥を共にした娼婦だ。

 ヴィーシャにとっては女子のビンタなど容易く避けられるものだが、甘んじて受けた。殴る時の拳の痛みに比べたら可愛いものだ。

「君は相変わらず耳が早いね。俺のことを気になってるなんて」

「はぐらかさないで!」

「お誘いなら大歓迎さ。なら今夜はソフィアと二人でどうかな?」

 ヴィーシャはリズの手を取りキスをした。

「最低!」

 バチン、と今度は反対側の頬へビンタし、リズは立ち去った。

 ヴィーシャは腫れた頬をさすり、マラーは頭を抱えた。

 すると屋根の上から「ぎゃははは」と爆笑する声が降りてきた。

「いい音だね! 母さんのところに辿り着くまでに、何人の女に殴られるんだか」

 ひとしきり笑い転げた男は弟のシヴァだ。マラーともヴィーシャとも似ていない、スカイグレイの髪に紺色の目。そして海賊らしい粗暴で横柄な態度。父の血を色濃く受け継いでいる。大声で兄の不幸を嘲ることなど日常茶飯事だ。

「俺はあと二人いる方に銅貨五枚! マラーは?」

「一人で十分だが、あと三人は出そうだな」

「酷いなあ、二人とも。傷心の俺を慰めてくれよ」

 確かに、娼婦に殴られることはこれが初めてではないけれど。

「ヴィーシャ、お前。本当にいつか殺されるぞ」

「そうそう、女の恨みは怖いぞ。母さんを見て知ってるだろ?」

 母サハラは、夫のカルカニスに殺意を抱き続けていた。それは他の女に心を移したという嫉妬心ではなく、娘や妹同然に可愛がっていたミリアを死なせてしまったからだ。

 いずれにせよ怒らせた女は恐ろしい、と息子たちは身に染みて分かっていたのだ。

「勘違いしないで欲しいんだけど、俺は別に浮ついた気持ちで女性と関係を持ってるわけじゃない」

 真摯に女性を愛しているというのに、どうやら兄と弟にはそれが理解できないらしい。

「刺されても俺は庇ってやれないぞ」

「その時は骨を拾ってよ、兄さん」

「頼むから、もう少し自重してくれ」

「これでまだ子どもがいないってのが不思議なくらいだねえ」

 チャービル家の三兄弟は母サハラが待つ、岬の屋敷とゴンドラを進めた。


 このハイグラスに拠点を置くチャービル家とその海賊団。

 千草の国には城はなく、岬に山の如く積まれた家々と入り組んだ道の中にある屋敷の一つ。それが母、サハラの住居だった。

 呼び出しておいて。気分で寝床を変える母を探すのは大変手間で、三人は手分けして探す羽目になる。結局見つからず仕舞いになることも多々ある。岬に住む女海賊たちが三兄弟を見て、くすくすと笑い、宝石を与えさえすれば、稀に母の居場所を教えてくれる。正直それが頼みの綱なのだった。

「母上のこのクセにも困ったものだ」

「これもカナンの民の血なのかねえ」

 蛇のように入り組んだ長い坂道と階段を上りながらマラーとシヴァはぼやいた。

 母サハラの本日の居場所は岬の中でも最上にある海が眺められるポツンとある小屋だった。ヤシの木と葉で作られた粗末とも言える小屋に、貝殻とガラスの欠片で作られた暖簾。

 機織りをしている白服の後ろ姿。長い黒髪を三つ編みに横に流し、手首にいくつもの腕輪を身に着けている。彼女の手が止まり、三人に緊張が走った。

「入りな」

 キセルを燻らせながらひじ掛けに体重をかけてだらりと横になる母の前に、三人はいつも通りの並びで座った。

 カナンの民の特徴の一つであるオリエンタルブルーの目。

 貫録もあり、まだ若々しくもある細く引き締まった体。

 まだ子供を産む前の母は麗人の如く美しく、そして強かった。年を重ねても、息子三人は束になっても母と闘おうとさえ思ったことなどなかった。

 母サハラは無法地帯とも言える海賊が住まう千草の国の統制を担っている。いつも通り、王都からの書簡だけでなく、敵対する海賊たちの状況や隣国の噂まで語った。

「また私たちの島に足を踏み入れた奴がいる。その阿呆を捕らえなさい、殺すなよ、シヴァ」

「分かってますよ、母上。歯を抜くくらいにしておきます」

「いい心掛けだ。マラー、お前は船団を集めておきなさい。新参者が増えたせいで船が足りないだろう」

「それならもう手配はしてあります」

 一通り話を終え、これから酒場にでも行こうと誘うシヴァに、マラーは珍しく乗っかった。ヴィーシャも二人に続くが、母に呼び止められた。

「なんです、母上。お説教なら―――」

「顔を冷やさなかったのか?」

 今更、と思ったが冷や水を付けた布を渡されては受け取らずにはいられない。

 ヴィーシャだけが呼び止められ、また座るようにと言われた。

 ああ、これは長い話になるとヴィーシャは思わず天を仰ぎ、さっさと立ち去った兄弟たちが妬ましくなった。

「ヴィーシャ、お前は意中の娘がいるのか?」

 母は愉快そうに首を傾げた。

「それはまあ、山ほど」

「子はいないのだな?」

「まあ、今のところは」

「そうか」

 少し残念そうな母に、ヴィーシャは困惑した。早く孫の顔を見たいのだろうか。

 それなら先に兄のマラーに言って欲しいものだ。

「お前は優柔不断ではあるが、不誠実ではない。守るのであれば、最後まで守りなさい」

 母はこれで終わりとばかりに傍らにあったワインを飲み干した。

「———それだけ?」

 拍子抜けで、ヴィーシャは思わず勘繰った。

「お前は私の説教がそんなに好きだったか?」

「いや、それはない、けど………」

「お前は役目を果たしている。金にならないことばかりだがな」

 港町ハイグラスを豊かに出来たのは、幼い女王とそれを補佐したアリスタに違いない。青の国との貿易で得た利益は大きかった。しかしヴィーシャは毎日のように女遊び。上は母と変わらぬ女性から、下は十にも満たない少女まで。もちろん不誠実なことはしていないと言い聞かせているが、母にとって息子の評判は威厳にも関わる重要なことだ。

「母上は嫌じゃないの? こんなだらしのない息子でさ。兄さんと違って役立たずだし、シヴァと違って海賊らしくない」

 カナンの民としての誇りと気概を受け継いだ兄のマラー、そして父と同じく海賊の血を色濃く受け継いだシヴァ。俺はそのどちらでもないのだから。

「確かにお前は、私にもあいつにも似ていない。だが間違いなく私が腹を痛めて産んだ。その甲斐はあったさ」

 母には自分には見えてないものが見えているのだろうか。

 ヴィーシャは小屋から見える海に目を瞑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る