ヴィーシャの愛(4)

 その夜。

 兄と弟と飲む気になれなかったヴィーシャは、いつもとは違う酒場のカウンターでぼんやりと飲むことにした。賑やかではないが、店主が気を利かせてヴィーシャの好きなハチミツ入りのブランデーを出してくれるので、たまに一人でぶらりと入ることがあった秘密の場所だ。暗くて見えない入江の近くにある酒場の喧騒が、窓の外から聞こえてくる。

 二杯目のブランデーを頼んだところで、横に断りもなしに座った相手に、ヴィーシャは笑いかけた。

「待ってたよ、リズ。来てくれないかと思った」

 昼間に着ていた服とは異なり、娼婦らしい胸元を開いた派手なワンピースを着ていた。当たり前のようにヴィーシャの二杯目を奪い飲み干した。

「さっきカレンから聞いたの」

「そう」

 リズは頬杖をついて、ため息を吐いた。

「あなた、カレンを買ったんですってね?」

「まあね。目が見えない子は声がいいんだ。とってもね」

 カレンは生まれつき目が見えなかった。そのため親にも捨てられ奴隷商人に売り飛ばされ、盲目故に商品としての価値もないと娼館にタダ同然で押し付けられていたのだ。そんな噂を聞いたヴィーシャは下働きをしているカレンに声をかけたのである。

「客が付かない女の子に金貨五枚も渡すなんて、どうかしてるわ」

「いい女にはそれくらいの価値があるんだ」

「あの子はまだ八歳よ」

「将来いい女になる。その前金さ」

 カレンと過ごした一晩。カレンは最後まで申し訳なさそうに縮こまっていた。目が見えず、まともな扱いを受けていない少女は謝ることは身に沁みついているらしい。

ヴィーシャは歌をリクエストして、最後は泣いてしまうカレンを抱きしめて朝まで添い寝してあげたのである。全く、何ていじらしくて可愛らしいのだろう。

「あんたのこと、少し誤解していたわ。それは謝る」

 リズは言葉とは裏腹に不本意そうだ。

「謝ることなんてないさ。俺が他の女の子と遊んでいるのは事実だから」

「そうじゃないわ」

 リズは利発なとび色の目でヴィーシャを見た。娼婦にしては珍しく、文字が読めてグラシアール語以外にも黒曜語を話せるリズは、どこか俯瞰したところがある。プライドが高く、いつもツンとしていて、しかし今みたいに自分の誤りをすぐに正したいと、わざわざ探す律儀なところがヴィーシャは気に入っていた。彼女との会話はどんな上等なワインよりも酔わせてくれる。彼女が娼婦として人気が高いのもこういう巧みな話術にあるのだろう。

「それで、私はどれくらいの価値があるかしら?」

「金貨で比較なんかできないな。それに、物で解決することは俺の好みじゃない。君は俺を引っぱたく度胸がある。そんなところが好きだな」

 ヴィーシャはリズの手を取ってキスをした。

「叩く方も痛いだろ?」

 リズは困ったように笑う。

「私のどこが気に入ったのかしら? 体? それとも顔?」

「ちょっと短気で感情的で、つまり情熱的なところ、かな。俺にはない度胸があるところも、俺は羨ましい。もしリズが男だったなら、この町の女の子はみんな夢中になっただろうね」

「娼婦の外見を褒めないなんて、珍しいわね」

「そう? 俺は君の外見も好みだけど」

 こういうことには嘘は吐かない主義だ。

「ねえ、あなた。一体誰を探しているの?」

「———どういう意味かな」

 ヴィーシャは思わずリズから目を逸らした。

「渚の子ミリア。あなたその人に惚れていたのね?」

 ぎくり、とヴィーシャの心臓が跳ねた。

 彼女が死んでから十年以上の月日が経った今でも、彼女を偲ぶ者は多い。しかしヴィーシャ程ミリアを想った海賊はいないだろう。

「………誰からその話を聞いたの?」

「あなたのおしゃべりな弟よ」

 シヴァめ。口留めをしたところで、銅貨一枚で簡単に兄の秘密をペラペラと話す軽薄な弟の口の堅さを信じる方が馬鹿なのだ。

「私も少しは知っている。渚の子ミリア。この千草の国の誇りだわ。特に私たちのような女にとってはね」

 そうだ。

 ミリアはこの国に生きる女にとって、いや、海賊たちにとっての誇りだった。

 冒険心と野心に満ちて、豪放磊落でありながら弱者に優しく、喧嘩と酒が大好きで。

 憧れない者などいなかった。ヴィーシャもその虜になった一人だった。

「ああ。憧れだった。そして好きだった。俺に喧嘩の仕方を教えてくれたのもその人だった。いつか父さんから奪ってやろうと思ってたさ。もしアリスタが女だったら、禁忌だとしても俺は妻にしていただろうね」

 思いの丈を吐露しても、気持ちが楽にならない。

 実の父親がミリアを二人目の妻となったと聞いた時、そして彼女が死んだと聞いた時の痛みと闇は未だに消えずにそこにある。酒をどれだけ飲んでも、幾人の娼婦を抱いても、彼女のことを忘れることはできない。

突然、リズは声を上げて笑い出した。

「わかったわ、あなたが女の子に手を出す理由が………。寂しいのね?」

「…………」

「当たった?」

「違うよ」

「当たってるでしょ?」

「————そうだね、当たってるかも」

「だから女の子をとっかえひっかえしてるの?」

「それは違う。俺は俺の意志で女の子が好きなだけ。不誠実だって言う子もいるけど、俺は一人を選べない」

「探しても、もうミリアはいないのよ」

「そう、だね。分かってる」

 ここまで言い当てられては、繕ってもダメだと、ヴィーシャは項垂れた。

「やっぱり寂しいのね。偉大なお母様に、優秀な兄さん。その二人はいつも下の弟二人と海のことばかり考えているから。悪さをして振り向いて欲しいのね」

 ミリアのことだけでなく、ヴィーシャの悩みの確信をついてきたリズ。

 ヴィーシャは項垂れたままため息を吐いた。

「………」

「顔がいいのも損ね、色男さん」

「久々に落ち込むよ。そこまで言い当てられると」

 リズはヴィーシャ脚に手を這わせた。

「いいわ、慰めてあげる。昼間のお詫びに」

「————ソフィアと一緒でもいい?」

 今晩はソフィアと夜を明かす約束をしていたのだ。ヴィーシャは甘えた声でリズの手を取った。リズはやれやれと、ヴィーシャの髪を撫でた。

「仕方ないわね。部屋に案内して」


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