ヴィーシャの愛

 セピア暦一〇一二年秋。

 グラン・シャル王国に新たな女王が誕生してから半年が経とうとしていた。

 女王がいる王都から遠く離れた海と島の小国、千草の国シャルトルーズ

 千の草を溶かし映した鏡のような色の海だと詩人は謳う。

 メノリアス王の御代に、当時最も力を奮った海賊の一族であるチャービル家を名目上の小国の支配者に据えただけで、名家というには語弊がある。

 航海術と商売に長けた我が一族が、次期長となる男子に約三十年前に、カナンの民の血を引くヴェルーリャ家の娘を妻としたことから、その権力は猛威を振るった。

 千を超える海賊たちが集った海賊団の長である父、カルカニスと、入江の女帝と呼ばれる母、サハラの権勢の時代であった。

 この夫婦の力により、無法地帯だった港町は小国の中心地となり、多くの小国の商売の窓口へと発展したのである。

 しかしとある事件を機に、カルカニスとサハラの関係は決裂してしまう。サハラが可愛がっていた女海賊ミリアが、敵対する海賊との海戦中、カルカニスを庇い亡くなったのである。

 烈火の如く怒り狂ったサハラは、実の夫であるカルカニスを激しく憎み、その怒りは未だ冷めていない。

「錨を下ろして陸に上がろうものなら、縊り殺してしまえ」

 と、三人の息子にも脅し、未だその怒りは収まらない。


 カモメの鳴く声。

 波の音。

 漁師たちが下ろした魚と貝売りが荷車へ運ばれる音。

 

 海の男に生まれたからには自分の船で寝泊まりをするものだが、ヴィーシャは違った。

 昨夜はいつものように娼館に泊まり、お気に入りの娼婦を指名する。ヴィーシャはベッドの上で伸びをして、傍らですやすやと眠る裸体の娼婦ソフィアの横顔を眺める幸せに浸っていた。

 もうひと眠りと、寝具に潜り込もうとした矢先、破壊されるような音と共に扉が開き、ソフィアは飛び起きた。

 ヴィーシャはその扉の開け方と歩く音で、その足音の主がご機嫌斜めであることを察した。

「起きろ」

 兄、マラーである。

 母親似のオリエンタルブルーの目の鋭い眼光と、威厳ある風格。

 派手に着こなすことこそが千草の国の海賊流であるが、マラーの恰好は至ってシンプル。

 新しいマストのような白いシャツと、黒いズボンとブーツ。

 唯一着飾っていると言えるのは、カナンの民を象徴する星の紋様を刺繍した腰布だ。いつも清潔にしているところが、海賊らしくはない。

 そして裸体の男女二人を見下ろしても全く動じぬ精神力は、問題ばかり起こす弟たちに鍛えられた賜物だ。

「何だよ、兄さん。朝の甘いひと時を邪魔するなんて」

「母上が呼んでいる」

「適当に誤魔化してくれよ、そんなの。俺と兄さんの仲だろう?」

 ヴィーシャは傍らに立つマラーの腰に携えたシャムシール(獅子の剣)の柄をちょいちょいと叩くと、マラーは深くため息を吐いた。

「俺がどう言っても無駄だ。いいから服だけでも着て来い」

 それだけ言うとマラーはスタスタと部屋を出て行った。

「全く、兄さんは忙しい人だな」

 渋々、床に散らばった服を着たヴィーシャは、娼館には珍しく置いてある鏡の前で身なりを整えた。いつものいい男だ、と確認して少し流した髪を紐でくくった。

「ねえ、もう行っちゃうの?」

 すっかり目を覚ましたソフィアは滑らかな指先でつい、とヴィーシャの腕をなぞった。

「ごめんよ。今夜また会いに来るから」

「そう言って、この間はリズのところへ行ったでしょ? 知ってるのよ」

「妬いてる?」

「妬いてないわ」

「そうやってむくれるところ、俺は好きだな。俺のことが信用できない?」

「ええ。信用できない」

「これでも?」

 熱いキスを交わし、ヴィーシャは「またね」と立ち去った。


 鼻歌を歌いながら娼館の扉を出たヴィーシャは、今晩の前金である銀貨を一枚、店主に渡した。

 娼館の外で、娼婦たちの熱い視線を浴びているにも関わらず、鉄仮面で無視を決め込む不愛想な兄に、ヴィーシャはくすりと笑った。

「ご機嫌斜めだね、兄さん」

「お前がどの娼館にいるかすぐに分かるようになった自分に嫌気がさしているだけだ」

 娼館の裏通りを抜けて、港町へ続く裏路地を慣れた足取りで、マラーとヴィーシャは進んでいく。少し前までは浮浪児がいた通りも、町が豊かになったことでいなくなり、心置きなく歩けるというものだ。

「流石はチャービル海賊団の中で一番の航海士。可愛い弟のいる場所なんてすぐに分かるってことだ」

「————どんな褒め方だ」

 マラーよりも身長が高いヴィーシャは、兄の後頭部を見下ろし、肩をすくめた。

「兄さんは本当、お堅いねえ。いつになったら女の一人でも出来るのやら。取り合えず、その眉間のしわを何とかしてくれよ」

「お前、この間樽に入れられたくせにまだ懲りてないのか? 女遊びも程々にしろ」

 少し遊びが行き過ぎて、怒りに燃えた女たちが手を組み、ヴィーシャを裸に剥いた後、樽に放り投げたのである。

「あれは愛情表現ってやつさ。本気だったから皆本気で怒ってくれるってわけ」

「あれで懲りないのなら次は歯を全部抜かれるぞ」

「それは困るな。その時は兄さんが俺に芋粥を食べさせてくれよ。あーんって」

「…………」

「あ、怒った?」

 流石に顔を引きつらせたマラーに、ヴィーシャの悪戯心が加速した。

「俺の顔が千草の国で一番カッコイイのは周知のことだよ。兄さんだって俺の顔好きでしょ?」

「————酒がまだ残っているようだな」

 マラーはヴィーシャの顎を乱暴に掴み上げ、無理矢理黙らせた。

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