第三章 世界で一番、最低なキス その五

 夜明けと共に半月は目を覚ました。


 半月がむくりと体を起こすと、半月の手にイヴの手が握られていることに気付く。それはただ手と手が添えられている握られ方ではない。恥ずかしいことに、互いの五本の指を絡めた恋人繋ぎだった。半月は頭を抱える。


 今までの話だが、いつも夜になると半月とイヴは四畳半の一室で少し離れた所で寝る。ところがイヴは毎晩トイレに立ち、布団に戻る時に半月の布団に潜りこんで半月に引っ付いてくるのだ。


 半月が「なぜ自分の布団に戻らないのか」と尋ねると、イヴ曰く『さ・む・い』と素っ気ない返事。半月は自分が湯たんぽ代わりであるのか、そうかそうかと納得した。


 だが昨晩のことで自身の誤りが分かった。


 ――自分は愛されている――。


 イヴは強くもないありのままの自分を受け入れてくれた。それが分かって半月はたまらなく嬉しかった。


 半月もイヴのことを保護者として好いている。ずっと孤独だった自分にこんな幸せが訪れて良いのだろうかと不安になる。この手の温もりさえ失いたくない。ずっとこのまま繋がっていたい。半月はそう思ってしまった。


「だが、一線は超えてはいけない…………」


 イヴは半月を受け入れるつもりでいたが、半月は踏み止まった。


 自分がイヴに抱く好意と、イヴが自分に抱く好意には差異がある。昨日は激情に駆られて恋人の真似事のようなことをしてしまったが、それは一度きりの過ちとするべきだ。基本的に自分の持つ感情は兄が妹に持つ親愛の情で、イヴが持つ感情は子供が大人に憧れるような好意だ。そのように半月は考える。


 そう、イヴはまだ子供なのだ。


 イヴが自分に抱く感情は恋人に抱く愛とは違うものだろう。そしてイヴにはこれから生きていれば必ず、温かい家庭を作るべき優秀なパートナーが見つかる筈である。だからイヴを自分の欲望のはけ口にはしないと半月は決心した。


 半月は自分の欲望のために大事な人を傷付けたくないのだ。


 そうして半月はイヴを起こさないように、結ばれた手を名残惜しいが解く。そして立ち上がるとガスコンロの前に立ち、朝食の用意を始める。


「味だけではなく、見た目から魅せられる物に仕上げないとな」


 半月にとって一人の時の食事は単に義務だけのものであった。しかし二人となった今、半月は食事を生きる楽しみの一つとしてイヴに提供したいと思った。


 ただ生きるのではなく幸せになるために生きる。そうした方が良いのだと半月は直感で思ったのだ。


「まずスライス食パンに外側の耳だけが残るように切れ目を入れて、内側の白くて柔らかい四角形を取り出して……」


 この前は料理に失敗したが、このままではいけないと半月は対策を立てていた。図書館で調べた調理方法のメモを確認しながら料理を作っていく。


 フライパンに食パンの耳だけになった外側を乗せる。その切り取られた四角形の内側にバターを入れて焦げないように溶かす。そしてその上にたまご、ベーコン、チーズを順に入れていく。最後に内側の白くて柔らかいスライス食パンで蓋をするのだ。


「最後だ……あとは焦げないタイミングでひっくり返すのみ……集中しろ」


 半月は何をしても人より不器用なのだ。人よりずっと丁寧に慎重に集中してやらないと失敗することは目に見えている。


 そこで半月は自分の背後でもぞもぞと動く気配を察知する。


「ぬ?」

「…………ンー」


 半月が後方を振り返る。するとパジャマ姿のイヴが目を擦りながら半月の腰に抱き着いてきていた。


「お、おう、起こしたか? 朝食を作っているから、準備が出来るまで顔洗ってテレビでも見て待っていてくれ」

「んーん」


 イヴは半月の背中に顔を押し付けながら深呼吸をして、半月の体臭を嗅いでいる。そして眠たげで気怠げで、顔を洗いに行く気配はない。


「ほら、もうすぐ料理が完成するから……あっ……少し焦げたか?」


 半月は案の定イヴに気を取られて料理のタイミングを逃す。慌ててパンをひっくり返すが、少し焦がしてしまった。


「~~~~ッ!(ジュルリ)」


 臭いに釣られてイヴが料理を覗く。


 そこにあるのは目玉焼きにとろけたチーズ、周りに焼けたベーコンが散りばめられた食欲をそそらせるパンである。お子様舌のイヴにとっては高級料理よりもご馳走である。涎を半月のトレーナーに垂らし、頭頂部の跳ね毛をぴんぴんぴーんと反応させていた。


 それは多少焦げても、否、多少焦げたくらいの方が美味しそうだった。


 半月のひたむきな努力と偶然の僅かな失敗とが相まって、人生で会心の出来の料理が完成した。半月は喜ばずにはいられない。


「よ、よし。ほら飯にするぞ」

「!(こくり)」


 イヴは急いで洗面台に立った。


 二人は色々なことを話し、賑やかでテーブルマナーとは無縁の愉快な食事をした。



*****



『プ・ロ・に・な・れ・る・?』


 ジムに向かうバスの中で、イヴは自分はボクシングのプロになりたいとタブレットを用いて半月に話した。


「分からない」


 元プロボクサーで現プロ格闘家の半月の目から見て、イヴにボクシングの素質があるかはまだ不明であった。


 まず前提としてボクシングや武道には『心技体』三つの要素が求められると半月は考えている。


 まず一つ目に『体』、イヴの体は小さいし鍛えられていない。それはイヴ本人も良く自覚している。けれどボクシングにはプロならば十七も階級があるし、イヴは若いのでこれからしっかり肉体を作ることが出来る。そこは問題ない。


 二つ目に『技』だがそれはこれからイヴが学習して、練習して身につけていけば良いのだ。これも問題ない。


 三つ目に『心』だがこれが重要だ。


 ボクシングは殴り合う競技である。柔らかいグローブを填めているとはいえ、相手は本気でこちらを殴り来る。狭いリングの中で逃げることは出来ず、たった一人で立ち向かわなければならない。その恐怖は計り知れず、大きな勇気が求められる。


 また殴られることよりも軽視されがちだが、殴ることにも勇気が求められる。


 普通の人は人生の大半を暴力とは無縁の生活を送る。争うこと、その最も原始的な手段である暴力は単純にストレスなのだ。それでもどんな相手であれ、どんな事情があれ、情け容赦なく自分の拳を相手に打ち込む揺るぎない心が必要である。


 真のボクシングはイヴがこの前行ったスパーリングとは全く別物だ。


「覚悟が必要になるだろう」


 そう半月はイヴに諭す。


「ん!」


 バスの中でイヴはフンと鼻息を出し、小さくガッツポーズをした。


 その後、練習でのイヴは『技』と『体』を育てるために努力をしていた。


 まずジムに着くと半月とイヴは一日八キロメートルのダッシュとジョギングをこなす。半月にとっては運動前の軽いウォームアップだが、イヴにとってはきついトレーニングだったようで初日から「オエエエェェ」っとゲロを吐いた。


 次にイヴはジムで姿勢の確認を行うシャドーボクシングをこなした。イヴは話すことは出来ないが身振り手振りで会話し、半月を真似て的確に自分のものとする。素直な性格が幸いしてすぐに物事を吸収する。そうして色んなボクシング技術を覚え、それをミット打ちとサンドバッグで確かめ、マスボクシング(寸止め形式のスパーリング)で身体に馴染ませる。


 最後に腹筋や背筋などと言った一般的な筋力トレーニングを行い、今日の練習メニューを終わらせた。


「♪」


 ジムの帰り道、イヴは上機嫌だった。以前行った商店街の駄菓子屋を再び訪れた時、「暗い印象だったけど、その時よりもずっと良い表情になった。安心したよ」と店主も言ってくれた。半月も悪くない気分だった。


 イヴはスナック菓子を自分で選んで買い、それを美味しそうに頬張る。そしてテレビやラジオで聞いた流行りの音楽を口呼吸で歌いながら、シャドーボクシングを繰り出す。


『が・ん・ば・る』


 イヴはそう言って、きらきらと子供らしい無邪気な笑顔を浮かべた。


「応援している」


 最初はボクシングに反対していた半月も、イヴの一途な練習を見ていたら応援したくなるというもの。イヴにあれやこれやを教えてやりたくなってうずうずしてしまう。だが物事には順序というものがあるし、一気に教えてもイヴが混乱するだけなのでぐっと堪えた。


「……」


 半月はふと誰かの視線を感じた気がした。何となく悪意を含んだ嫌な視線のような気がした。辺りを見渡すが今の商店街は夕方の人通りが多い時間帯、誰のものでどこからの視線かはわからなかった。


「?」

「何でもない。帰ろう」


 思い過ごしかもしれない。半月は気にしないことにして、首を傾げるイヴを連れてさっさと自宅のアパートの中へと入っていった。



*****



 春が来ようとしていた。街路樹の桜の木にはつぼみが付き、朝からウグイスが可愛らしく鳴き初め、暖かな風が住処としている木造四畳半のボロアパートに吹き荒れる季節となった。


 のどかな朝の日差しを窓から浴びている中で、半月は部屋の中で右手の指先をよじ登る小さなてんとう虫を見つけた。半月はゆっくりと窓から空に向かって手を伸ばし、指先を太陽に向けてかざす。するとてんとう虫はその羽を開き何処かへ飛んでいった。


 いつもならボクシングの練習に出向いている半月とイヴだが、イヴがオーバーワーク気味のトレーニングを繰り返すので強制的に二人一緒に休むこととなった。つまり半月にとっては珍しいオフだ。


 そんなのんびり過ごすことが約束された一日は、イヴの急な決意表明から始まった。


『か・ぞ・く』

「ぬ?」

『お・て・つ・だ・い』


 イヴは何か恥ずかしそうに俯いて、タブレットを叩いた。そわそわと指遊びをしながら機械の声を出した。つまりイヴは自分も家族なのだから家事を手伝いたいと主張しているようだった。


「ふむぅ……」


 半月は料理こそ努力するようになったが、掃除も洗濯も全てが苦手であった。だから家事は時々しかやらず、やったとしても適当に済ませていた。半月は基本的に不器用だし面倒臭がりなのだ。


「俺もやるのか?」


 イヴはしっかりと頷くと、厳しい言葉を半月に叩き付けた。


『せ・い・か・つ・の・み・だ・れ・! こ・こ・ろ・の・み・だ・れ・!』

「ぬぅ……」


 半月は痛い所を突かれて返答に窮する。半月は仕方なく掃除道具を出し、洗濯機の準備をした。


 半月は出会う前のイヴの生活を知らない。だが一人で生きていたなら最低限のことは出来る筈と、少しイヴの家事能力に期待していた。だがイヴは半月と同等か、半月よりも家事が出来なかった。


「イヴは家事が苦手か?」

「……(こくり)」


 イヴは申し訳なさそうに頭を下げる。


 確かにイヴがせっせと家事をこなすところを想像出来ない。イヴには気品のようなものがある気がする。もしかしたら身寄りがなくなる前はお嬢様だったのかもしれない。


 半月は自分と出会う前のイヴ過去が気になったが、イヴが語ろうとしないのはあまりそのことに触れられたくないからであろうと推測した。だから半月はそれ以上イヴの内面と過去に踏み込もうとはしなかった。


「そうか、二人で頑張ろう」


 そうして不器用なりに二人で四角い部屋を丸く掃除し、片っ端から物を乱雑に収納し、びしょびしょの衣類をよれよれのまま室内に干した。


「これから二人で成長しよう……」


 短い時間でも嫌いなことをするとドッと疲れる。半月はこれで終わったと思い、体を横にして惰眠を貪ろうとする。


 すると半月はイヴに腕を掴まれ、すぐ外の商店街に連れ出された。


 イヴの言う『お・て・つ・だ・い』の本当の目的はこれからだったのだ。

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