第三章 世界で一番、最低なキス その四

 半月はここで目が覚めた。


 同時に罪から逃避するための半月特有の発作が起きた。


 耳鳴りがする。口が渇く。息が出来ない。大量に発汗する。手足が痺れて震える。心臓の鼓動が命の危機を知らせる早鐘を打ち続ける。


「ガああ……フはあはあああああああああ!」


 半月は手に伝わる畳の感触と布団の感触から、今自分が自室にいて布団を掛けられて寝ていることを知った。


 すると半月はただただ何かにすがるように、自室の四畳半の真ん中に敷かれた布団から這い出る。そして手であちこちの感触を確かめ、屑籠を確認するとその中に大量の吐瀉物を撒き散らした。


「ガハっ……は……ガアああ…………」


 吐き続ける。


 そして胃の中のものも胃液も出し切る。


 半月はこの発作が起きるといつも同じ行動を取る。


 それは儀式のようなものだった。


 半月は服の袖で口を拭うと部屋の隅のタンスからごそごそと物を漁る。取り出したのはアイスピック、かつて満月に止めを刺した物だった。


 そのアイスピックの尖った先端を、ゆっくり半月自身の眼球に近づける。


 先端の針が視界をゆっくりと埋めていく。これが自身を貫く狂気の刃だ。


 意識が爆発しそうになる。


 まるで無数のアリが振り払っても振り払っても、つま先から脹脛、太腿、腹、胸へと這い上がり、首、顔まで到達する光景が見えてくるようだった。また巨大な蜘蛛の巣に引っ掛かった自分が、必死にもがくも抵抗虚しく無数に小さな蜘蛛達に神経毒を注入されて、生きながら捕食されていく様が半月には感じられるようだった。


 アイスピックの尖った先端が半月の眼球に触れた。


『ほら母さん、僕を見て! 僕の中の怪物がこんなに大きくなったよ!』


 幻聴が聞こえる。陶酔するような圧倒的快感に背筋が凍る。先ほどは呼吸が出来なかった反動からか、今度は呼吸が過剰になり過呼吸を引き起こす。


 半月はそのまま自分の眼球に傷が付かない程度に、アイスピックで眼球全体をゆっくりとなぞり回した。


「…………大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない。大したことではない…………」


 半月はそう祈るように、自分に言い聞かせて精神の安定を図る。


 アイスピックで貫いた大事な大事な満月の眼球の感触は、時間がいくら経過しても消し去ることが出来ない。しかし眼球を突き刺される側はどうだろうか? 満月が死の間際に経験した、目を貫かれて殺されるということが、どれほどの恐怖を伴うものか半月には分からないのだ。


 半月はそれを疑似体験しようとしている。


 それがこの儀式だった。


 半月はいつもこのまま自身の目も刺し貫いてしまいたい衝動にも駆られるのだが、ギリギリのところで理性と本能がその自傷行為を止めてきた。しかしこんなことを何回も行っていれば、いつか自傷自殺に成功してしまいそうだった。


 あまりに危険だったが、このやり方以外に発作を止める術を半月は持たない。


「あの時死にたがっていた母は……」


 半月は片目を失った満月の最期の表情を今でも覚えているが、その時満月は何を思っていたかは今になっても分からない。


 死にたがっていた満月は喜んでくれていただろうか?


『よくぞ私を殺したね』


 それとも心の底では、最期の瞬間まで救いを求めていたのではないか?


『よくも私を殺したな』


「どちらにしろ、そうしなければ俺は愛して貰えなかった……」


 満月の言う事に従った半月だが、完全に満月のためという訳ではなかった。半月は自分の醜いエゴのために人を殺したのだ。だが他にどうするべきだったのか、半月にはわからなかった。


『ほら母さん、僕を見て! 僕の中の怪物がこんなに大きくなったよ!』


「仕方なかったのだ!」


 半月は耳を塞ぐがそれでは幻聴は防げない。今度は声の主を脳から追い出すように、髪を引き抜き、頭皮から出血するほどに頭を掻き毟る。


 ネバついたような疲労感は抜けないが、感覚は戻ってきた。半月は震える手足を玄関まで這わせるとそこに置かれた冷蔵庫から水筒を取り出し、入れてあったアサガオの種子を粉末状にして作った薬物の代用品の飲み物を飲んだ。


 疼き、悪寒、目眩、血圧体温の上昇、そして訪れる偽りの多幸感。


「救えねぇ……」


 薬に頼っても、脳を誤魔化しても、心までは偽れない。


 寒い、ただ寒かった。発汗して濡れた皮膚を夜の冷気がなぞり震えが止まらない。たった一人で、夜の吹雪の森を歩く小さな子供のように心細く、不安で、……恐ろしかった。


「誰か、誰か……俺を救ってくれ……」


 誰に届く訳でもないそんな消え入るような声で、半月は救いを求める。震える体を自身の両腕で抱き懸命に祈った。だが今までに何回も発作を経験したが、そんな祈り届いたことは一度もない。


「――――」


 ふと背中にほのかな温もりを感じた。


「な――ッッ!」


 半月は雷に打たれたように驚いて背後を振り返る。


 そこには何か尋常ではない様子の半月を察して、小動物のように怖ず怖ずと手を伸ばすイヴがいた。イヴは心配そうに上目遣いでこちらを伺っている。


 見られた。


 自分の醜悪で弱い姿を全部視られた。


 半月はそう思った。


 弱さを悟られずに生きてきた。喧嘩三昧に日々を送り、更に格闘技という本格的な暴力を身に着けた。だから虚勢を張り続けていられる限り、これからも満月のいう通り奪われずに生きていけると思った。


 まだ間に合う。


 そうだ一人で生きていれば、こんなに苦しむことはなかったのだ。そうすれば弱さと永遠に向き合わずに済んだのだ。


 ――こんなに弱い自分は愛されない。

 ――殺そう。

 ――見捨てられて傷つく前に殺そう。アイスピックで目を刺し貫いて殺そう。


『ほら母さん、怪物はボクだった。僕の中のボクがこんなに大きくなったんだ……』


 半月の中のボクが囁く。


「――ッ!」


 半月はイヴの両肩を押して床に押し倒す。半月は自身の重たい体を活かしてイヴの上に乗り掛かり、そのまま組み敷いて両腕を押さえつける。イヴを敷布団の上に磔にする。


 そして半月のその手にはアイスピックが握られていた。幸いにもその凶器のことまではイヴに気付かれてはいない。


「ァっ……ンっ……」


 またイヴが泣いた。その穢れのない瞳を潤わせて涙が流れ出しそうだった。心が叫びたがって喉を一心不乱に動かし、切に声を出そうと願うが叶わない。他の人と同じようにすらすらと話せれば、自分の思いを素直に伝えられれば、どれだけ良いことかと言わんばかりの表情だった。


「イ、ヴ」


 お前は本当に泣き虫だなあと、半月は左手でイヴの喉を柔らかく押さえつけながらそんなことを考えた。それと同時になぜイヴは泣いているのだろうと不思議にも思った。


 いつかできなかった思春期の子供であるイヴの思考の追跡を試みる。


 半月の右手に握られた凶器にイヴは気が付いていない。押し倒されているとはいえ、まさか自分がこれから殺されるなんてこと想像出来るだろうか? ましてやろくな抵抗もせず黙って殺されることを受け入れるだろうか?


 何か違う気がする。半月は自信が持てない。


 その時だった。


 イヴの頬にぽたぽたっと二つ三つの水の雫が落ちた。


 イヴの涙ではない。組み敷いて下にいるイヴの頬に突如雫が降って来たのだ。半月は訳がわからず、それを認識するのに少しの時間を要した。


 半月はしばらく間を置いて、ようやく簡単な解に気が付く。


「あぁ……そうか」


 イヴの頬に現れた雫は、イヴの上に圧し掛かっている半月が落涙して出た雫だ。半月はこの瞬間まで、自分が泣いていることに気付かなかった。先に泣いていたのは自分の方だと知る。イヴの涙はただの優しい貰い泣きだと知る。


 イヴは半月の誰にも届かない筈だった心の咆哮を、世界でたった一人聞いてくれて、自分自身の悲しみであるかのように受け入れてくれて、共感しているのだ。


 半月は正確に理解した。


「なぁ、俺はお前とさえ出会わなければ……罰をそのまま受け入れられたのだぞ? 愚かで一人ぼっちの怪物のままでいられたのだぞ?」


 イヴの心は炎と呼ぶにはあまりに小さな火のようだった。だがその取るに足らないたった一つの小さな灯が、その半月の心の中の深淵をほのかに照らし出した。


『母さん、ボクを見て……』


 ボクという怪物は光に怯え、隠れた。


 半月の中から殺意は消え、アイスピックを手放す。半月はイヴと同様に気持ちが昂って溢れ出す感情を抑えられず、ぽろぽろと涙を流す。こんなに泣いたのは満月を殺めたあの時以来か。


「ぇッ……う……」

「俺は罪人だ。俺は昔人を殺したことがある……。大事な人を、世界で唯一人俺の傍にいてくれた人をこの手で殺したのだ……。ただ愛されたくて、その愛を失うことが怖くて、正しいか分からないまま殺したのだ……。その事がずっと頭から離れない」


 半月はぽろぽろと涙を流しながら自分の罪と過去を打ち明ける。半月はイヴを組み敷いたまま、イヴの胸に自分の頭を押し付けて、自分の顔を隠しながら自分の殺人が正しかったのか分からない苦悩を告白した。


 そしてその間も半月の涙は半月の瞳を離れイヴの胸に注がれ、少しずつ濡らしていく。


「ウ……ぇっ……ウ……」


 イヴがどこまで半月のことを理解してくれたは分からない。お互いに不器用で意思の疎通すらままならないのだ。でもイヴは半月の告白を真剣に聞いてくれていた。そしてずっとイヴの嗚咽は止まらない。イヴはその整った顔を存分に歪めて音無き声を上げる。


「人を一人でも殺すと世界が変わるのだ……。世界が灰色に映るのだ……。命の神秘なんて嘘だって分かる。人間なんてそこらの石ころと何も変わらないって分かる。俺はお前とは違う。お前が死んだって俺はきっと涙の一つ流せやしないのだ…………」

「んっ……」


 イヴは小さな両腕で半月の頭を優しく包み込み、半月の頭をよしよしと撫でる。

 その手を半月は振り払った。


「やめてくれ……俺は……その優しさに値しない人間だ。お前の期待を裏切ってしまうようで悪いが、俺は強くなんかない。俺の時間は殺人者になったあの時から止まったままで、今も俺はあの時と同じ弱い子供のままだ。失望しただろ?」


 イヴは必死になって首を横に振る。しかしどう半月を慰めたら良いかは分からないようだった。


 半月は惨めに感じた。やはり他人といるとこんなに簡単に傷つくと半月は自嘲する。


「俺のような屑のことなんて放っておいてくれても良い……。今だって俺は、この手でお前すらも――――」


 半月が続けて声を発しようとしたその刹那、イヴが発言を制止するように両手で優しく半月の顔を上げさせた。そして顔を寄せると半月の唇とイヴ自身の唇を重ねた。


 ――え――


 それは小鳥がついばむような不器用な接吻だった。


「イヴ……? なぜ……?」

「ぁん……」


 半月はイヴを押し退け、狼狽して狭い自室の壁に背をつけるまでジリジリと後退する。 自分の容姿は野獣のようでお世辞にも整っているとは言い難い。嫌じゃないか? 気持ち悪くないのか? そう半月はイヴに問いかけたくなる。


 そんな半月にイヴは暗闇の中で優しく微笑む。そのイヴの姿は窓から射す月光に照らされて、きらめいて美しかった。


「その……吐いたばっかりで汚いだろ……息も臭いだろう……?」

「ん!」


 イヴはそんな些細なこと全く問題にしないと言った面持ちで、優しく半月に近づき壁際に追い詰めて胸に寄り掛かる。そこでイヴは照れながらもぞもぞと、唇は勿論のこと首や胸、耳、瞼に至るまでありったけの熱く情欲的なキスをした。


「イヴ……」


 まるで獣じゃないかと半月は困惑する。


 半月は二十二年間の人生でこれが初めてのキスであった。つまりファーストキスである。そんな貴重な体験がこんな肉欲に塗れた、吐瀉物塗れの臭い物だったなんて冗談も良いところだった。


『気持ち良くなって』

『難しいことは全部忘れて』

『罪とか罰とかそんなものは置いて』


 イヴのキスにはそんな思いが込められているに違いないと、半月はそう確信が持てた。


 半月もイヴの示す通り、軽率に生きて行くのも良いかと思えた。そのイヴの優しさに半月は溺れることにしたのだ。


 今は真夜中、退廃的な時間になる。そんな予感がした。


 世界で一番、最低なキスだった。

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