第三章 世界で一番、最低なキス その三
悪夢が始まった。
半月が充実した生活の中にいると、それを踏みにじるように悪夢を見る。その悪夢は半月の過去の行いを振り返るもので、半月の苦悩を反芻させて自身の原点を想起させる。
「母さん……また会える……」
人は最初から一人という訳ではない。長い間孤独だった夜行半月という人間にもかつては親がいた。母がいた。母の名は満月と言った。
満月は半月に自分は弱い人間であると語った。
満月は半月に自分には生きるための武器がなかったと語った。
財産もなければ学もない、更には生まれつき体が弱かったらしく肉体を酷使するような仕事もできなかったそうだ。紆余曲折はあったが最終的に満月には赤線地帯の売春婦に落ち着いた。そう生きるしか術がなかったと半月に話した。
満月は、自分にはドラマのヒロインのような明るく恵まれた容姿がある訳でもなく、女を主張するような豊満な体を持っていた訳でもないことを自覚していた。
ただ病弱だったことが幸いとなったのか、どこか細く儚げで危うい色気があったようで、食うには困らない程度の客は付いたと半月に話した。半月の父はその食うには困らない程度の客達の中の誰か一人であると語って聞かせた。
「別に……誰の種でも良かった。私は私の生きた証が欲しかった。だからお前を生んだ。それでは不満か?」
半月が小学生に入ったばかりのある夜、半月が満月に満月自身のこと、そして自分の父のことを尋ねた返事がこれである。そのまま満月は「父が必要か?」とも問い質したが半月は首を横に振った。
半月はこの時には既に自分の容姿のせいで周りからないがしろにされていることに気付いていた。そして満月の愛すらも疑っていたりもしたが、この時は確かな満月の愛を感じることができた。
この時半月は感激したし、とても安心したことを良く覚えている。
だが満月は歪んでいた。
そのことにこの時の半月は気が付かなかった。
ある時住み込んでいる娼館の近くで半月は白いビニール袋に捨てられた一匹の捨て子猫に出会った。目には目やにがべっとりついていて瞼を開くことも出来ない。毛並みも汚く、ノミやダニも多く持っていそうだった。
「母さん…………、僕、あの猫が……」
「良いよ。持って帰りな」
幼い半月はあまり満月にわがままを言わない子供であった。満月に愛想を尽かされることが怖かったからだ。だからこの時半月は緊張していた。だが半月の願いは満月にあっさり聞き入れられた。拍子抜けするくらい簡単だった。
半月には動物の知識がなかった。しかし分からないなら分からないなりに、ひたむきに勉強して猫について調べた。
始めの頃は子猫もシャーと威嚇して近寄らなかったが、半月は自分に敵意がないことを子猫に伝える努力をした。そして子猫が冷えないようにカイロで温め、哺乳瓶でミルクを与え、陰部や肛門を優しく刺激して排泄を促すような世話もした。
その有様を満月は黙って見ていた。
それから数年が経過した頃、子猫もすっかり端正で健康な大人の猫になり、半月に懐いた。半月も猫を可愛がった。
そして猫が健康に成長するのと反比例するように、満月は体を悪くした。満月の顔は青白く、体は干した魚のように痩せ細ってしまい、鎖骨肋骨が浮き出ていた。
「猫を殺しなさい」
病床に伏せる満月は優しい顔で半月にそう指示した。
「え?」
半月は意味がわからず聞き返す。
「神聖な命も所詮は石ころと変わらない物質の塊で出来ている。それを理解しなさい。ナイフで内臓を抉り出して解体しなさい。アイスピックを目から差し込んで脳まで貫通させなさい」
満月はいつもより優しい母であることを強調するような声色で、端的にそう言った。そうして満月は痩せ細った冷たい手で半月の手を取るとアイスピックを握らせた。
「母さん……出来ない、出来ないよ。どうして?」
「半月、私はもうすぐ死ぬわ。そうしたら父のいない貴方は一人で生きていかなくてはいけない。この地獄で、たった一人で生き残るには強くならなくては駄目。強いということは残酷なこと、奪うこと。だから殺しなさい」
それが満月の強さの持論だった。残酷に奪われ続けた自身の人生を憎むような、満月の弱さが垣間見えるような考えだった。
「残酷なこと、奪うこと……それが強さ……」
「そう」
「母さん、出来ないよ。強くはなれない……」
半月の目から流れる涙が止まらない。
「もし出来ないのなら、私は弱いお前を永遠に愛さない」
「ッッ! …………!」
満月の母であることの放棄、それは半月が最も恐れていたことだった。
半月はアイスピックを握ったまま繰り返し吐いた。胃の中の食物を出し切り、胃液も出し切り、最後には胃そのものが裏返って口から出て来るのではないかと思わせるぐらいに吐いた。
涙が溢れ止まらなかった。
気が狂いそうで、気が狂いそうで、気が狂いそうで気が狂いそうで気が狂いそうで、ついに狂った。
「ッッッ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
半月は猫の首を掴んで床に押さえつけた。猫は脳震盪を起こしたようで、ぐったりとしている。
半月はいつも護身用に懐に忍ばせておいているナイフを猫の腹に刺した。猫は痙攣を起こしたが、腕力で無理やり押さえつけた。そして繰り返し猫の頭を殴打した。
たぶんその時にはもう猫は死んでいたと思う。
すぐに半月の手は血だらけになり、半月は現実感を失う。泥んこ遊びをしているような無邪気な気分になる。だが泥と違って生温かい。夢心地で猫の腹をナイフでこじ開ける。腸、腎臓、膀胱を取り出す。すると宝石でも手に入れたかのように大切に持ち上げ、そのぶよぶよした感触を確かめる。そのまま我を忘れて夢中で解体する。高揚した気分が抑えられない。
そうしてこの殺戮を半月は猫の目にアイスピックを突き刺して終わりとした。
嗚咽と嘔吐を繰り返す半月の頭を満月はおもむろに撫でた。満月は「ごめんね。私が弱くてごめんね」と囁いた。
半月を愛おしむ満月の心は確かにあったのだ。
半月は猫の亡骸を落とした。
「お墓を作ってあげましょう……」
満月はそう言った。
そしてその日から半月の強くなるための儀式が始まった。
昆虫から始まり、鼠、モグラ、烏、野犬と世間に見つからないようこっそり動物を捕まえては、刃物でバラバラに解体する。その証となる墓は一つずつ増えていった。
殺戮が完了するといつも満月は半月の頭を撫でた。半月はこの時だけは満月の冷たい手の僅かな温もりを感じることができた。
満月の殺しの指示の対象が人間になるのにはそう時間はかからなかった。
「半月、私のお願い、聞いてくれる?」
「何?」
「私いよいよ駄目みたいなの」
そこからの台詞を半月は生涯忘れることは出来ない。
「だから最後は強いお前が私を殺して終わりにして」
確かに満月はそう半月に頼んだのだ。
半月は満月が少しでも苦しまぬよう、満月が寝ている早朝にナイフで襲った。
半月は震える手を抑え、心臓にナイフを突き立てようとした。しかし上手く仕留めることができずにグフと声を出されたがすぐに口を塞ぎ、短刀で喉を切り裂き、胸の辺りを幾度も幾度も突き刺した。
そして満月が瀕死の状態になったことを確認すると、猫と同様にアイスピックで眼球を刺し貫いて眼球の奥にある脳を破壊し、止めを刺した。
人は通常、同胞である人を殺すようにはできていない。殺人には非常に大きな精神的負荷がかかるよう設計されている。ましてや近接での、更には心の窓と呼ばれる眼球を潰しての殺人というものは精神に大きな打撃を与える。
満月の死に顔は永遠に自身の心に刻印されるだろうということを半月は予感していた。
だが半月はそれをやり通した。
半月はそれがたとえ呪いとなっても満月を忘れたくなかったのだ。
満月の残ったもう一つの眼球が半月を睨みつけていたような気がした。
血の臭いが染み付いて取れなかった。
背徳感に震えた。
咆哮した。
半月は住まいの娼館を飛び出し、貧民街へと逃げ込んだ。
半月の中に怪物が誕生した。半月が十一の時の話である。
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