第三章 世界で一番、最低なキス その二

 そうしてイヴが初めてのボクシングを終えた夜となった。


 今半月はボクシングでボロボロになってマットに沈んだイヴを労うため、そして負けるとわかって試合をやらせたイヴへの謝罪の意味も込めて、行きつけの屋台のラーメン屋へ案内したところだ。


 高架橋の下にあるため、通過する列車の音がうるさいし、振動もするし、人通りも多いが味は抜群のラーメン屋だ。


「俺はあの頃より体は大きくなったし鍛えた。躊躇なく人を一方的に殴ることも覚えたし、奪われるよりも奪う側に回ることの方が多かった。そのおかげで貧民街でも生き残ることもできた。でもそれは強さの証か?」


 半月は屋台でラーメンと熱燗を組み合わせた魅力的な馳走を目の前にして、そう誰にも聞こえないような小さな声で独言する。そうして強さへの考えを巡らす。こんなことは久しぶりだった。


 イヴの影響であることは明らかであった。


「ック……ヒック……ヒックヒック」


 当のイヴは泣いてしゃっくりをしながら、晩御飯のラーメンを自前のフォークで下手にすすっている。


「無理なスパーリングを組んで悪かったな。ボクシングというものを知るには、あぁするのが一番手っ取り早いと思ったのだ」

「ン!」


 イヴは隣で同じくラーメンをすすっている半月の背中をぽかぽかと叩く。惨敗したことがよほど悔しかったようだ。


「ボクシング、嫌いになったか?」

「(ブルブル)」

『む・ず・か・し・い。た・の・し・い』


 イヴは首を横に振り、タブレットでボクシングを続ける意思を半月に示した。


 そうして二人揃ってずるりずるりとラーメンをすする。


 屋台なので冷たい夜風に吹かれて寒いが、温かみのある白熱電球と湯気の立つラーメン、それに体の芯から発熱させる熱燗が寒さを吹き飛ばす。


 率直に言って最高な気分だった。


「五臓六腑に染み渡る……」

「…………(じー)」


 半月がお猪口に注がれた熱燗を一気に煽る。その半月の有様を片目の瞼を腫らしたイヴがじっと見つめている。


 半月は「酒はお子様にはまだ早い」とイヴの額にデコピンを入れた。イヴは「んぎゅ」と喉を鳴らし、額を押さえて、どこか名残惜しそうに行儀悪く屋台の机の上に顎を乗せた。グラスを傾けてチビチビとコーラを飲む。


「機嫌が直ったか?」

「(ブルブル)」


 イヴはまたもや首を激しく横に振ると、物凄い勢いでタブレットを操作しだした。


『お・わ・び。あ・い・す』

「アイスクリームが食べたいのか?」


 イヴは両腕を広げ、大きな円を描いた。アイスクリームをうんと食べたいらしい。どうやらイヴは半月がアイスクリームを一箱丸々レンジで温めて、流動食のように大量に胃に流し込んでいるところを目にしていたようだ。


「駄目だ駄目。あのアイスクリームは俺が無理やり体を大きく作るために流し込んでいるのだ。悪いやり方だ。そのコーラだって妥協しているのだぞ? 成長期のお前はもっとバランスを意識した健康的な食事を摂るべきだ」


 半月がそうたしなめるとイヴは顔を赤くして、ぷくーっと頬を膨らませた。いつか見た光景だった。またイヴが爆発する、そう半月は焦った。


「…………少しだけなら許可する」

「!」


 ピンとイヴの頭頂部の跳ね毛がアンテナのように跳ね、イヴは小さくガッツポーズを行う。そして晴れやかに破顔した。そうしてイヴは頬を緩ませて再びラーメンに手を付ける。


 そんなイヴの姿を見て半月は溜息を吐く。


 ガタンガタンと列車が高架橋の上を通った。けたたましい音と振動を出す。その間はお互いにタブレットの音や声が届かないので必然的に黙らざるを得ない。イヴと半月の間に心地良いような気まずいような不思議な空気が漂う。


「…………ふぅむ」

「…………(ずるずる)」


 列車が通りすぎ、静寂が訪れた。


「…………うーんとだな……」

「…………(ずるずる)」


 半月にはイヴにどうしても聞きたいことがあった。半月は意を決して切り出してみる。


「…………なぁイヴ」

「?(ずるずる)」

「強さってなんだ? どういう奴が強い人間なのだ?」


 イヴがボクシングをやりたいとねだった時、『あなたのように』『つよくなりたい』と半月に伝えたのだ。


 半月はイヴが自分に伝えたその強さがどんなものか具体的に聞きたくなった。まぁ大方強さとは喧嘩が上手いこと、暴力が得意なこと、そんな答えが返ってくるものだとばかり半月は思っていた。


「ん……」


 ……半月にはボクシング一本でやって行く道もあった。


 半月にはボクサーとして全身を絞って絞って、何も出なくなるまで絞った後には削って削って、命懸けのぎりぎりまで階級を落として飢えた獣としてリングに上がり、ベルトを貰う。つまりチャンピオンになるという栄光への道があった。


 でも半月は強くなりたかったのだ。


 その命懸けの栄光への道はスポーツのアスリートとして道で、武を極めるという観点から考えれば肉体の弱体化を招き、明らかにマイナスだった。


 半月の望むものはそこにはなく、半月は格闘家を目指した。


 要するに半月は他人に舐められないように暴力を身につけ、いざという時には喧嘩で他人を蹂躙出来るようになりたかったのだ。そんな見かけだけの、張りぼての強さが欲しかったのだ。


「…………ン」


 イヴはタブレットと睨めっこをして、んーんーと喉を猫のように鳴らしながら、ぎこちない機械の言葉を紡いだ。それは慎重で念入りに考えられてとても遅かったが、半月はきちんとイヴを焦らさずその言葉に耳を傾ける。


『雨降る人ごみの中、一緒に四つん這いになって花を拾える人』

『捨てられて、無視されて、寒さに震えていた中で気にかけてくれる人』

『何度殴られて蹴られても、最後には立ち上がる人』


 イヴは初めて出会ってから今までの会話で最も長い時間をかけ、最も長い機械の言葉を紡いだ。そしてイヴの澄んだ琥珀色の瞳が半月の灼熱の三白眼を見つめる。イヴが大真面目で語るものだから、半月は照れ臭くって小っ恥ずかしい気持ちになり顔が火照る。


 半月は熱燗を再び勢いよく煽る。


「……………………………………………………………………。そうか……その、俺が思っていた強さとは……違うな。うむ」


 半月は窮したが、酒の力を借りて辛うじて返答できた。


 イヴの考える強さは優しさや不条理に立ち向かうことに起因している。きっとそれまでイヴは優しさに飢え、不条理に折れた生き方をしてきたのだろう。イヴはその生き方を変えたいと願ったに違いないのだ。


 イヴの言う強さとは、若く純粋なものだなと半月は思った。僅かではあるが、隠されていたイヴの内面と過去が垣間見えた気がした。


「…………イヴから見て、俺はそんなに強いのか?」

「(こくり)」

「そ、そうか……そうかそうか」


 なるほどふんふんと半月は頷く。


 酒が進む。


『つ・き・!』


 イヴが空を指差して自分の声をつづる。


 所詮は都会の狭い空だったが、その夜は頭上高くに冴え冴えと青白い光を放つ満月が浮かんでいた。


「あぁ……綺麗だな」


 半月は随分久し振りに夜空を見上げた。そこにあるものは満月だけではない。漆黒のキャンバスに散りばめた宝石のように、星々がうっすらうかがえる。


 半月は昔、宇宙が好きな少年だった。宇宙は大きさも距離も時間も何もかもが壮大で、少年の心を虜にする魅力があった。子供の半月は暇があると図書館で天体の本を開いて世界の果てまで思いを馳せていた。


 だが大人になった半月はいつの間にか地面ばかり見て空を忘れてしまった。空はいつも変わらずそこにあったのに……。そんな事、子供だって知っているのに……。


 イヴといると様々なことに気付かされる。


『ゆ・う・ふぉ・お・?』

「そりゃ飛行機だ」


 半月は自分の大きな両の手の平をまじまじと眺めた。


 半月は自分があんなに切望していたものを、実は既にその両手に持っているのかもしれないと思った。


 更に酒が進む。


 半月はラーメンの会計を済ませて、酒瓶片手にふらふらと歩き出す。


「よし。俺が本物のユーフォーを見せてやる」

「!」


 半月はイヴを連れて空を見上げる。今ならオリオン座がしっかり現れている筈である。半月は酔っ払いながら、得意気に知っている冬の星座をイヴに紹介する。そして二人は仲良く夜の散歩に出掛けた。


 そこから先は酔っ払ってよく覚えていない。

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