第三章 世界で一番、最低なキス その一

 曇天の夕方で薄暗い空の下、チカチカと明滅しリングを無機質に照らす眩しい蛍光灯が印象的であった。その日のジム内は異様な空気に包まれており、多くの練習生達がそのリングを注視している。


「ファイブ! …………シックス! …………セブン!」


 レフェリー役の柳生が時計を見ながら明瞭な声でカウントを始めるが、それはとてもゆっくりで実際の十秒よりも二倍以上長そうだ。


「イヴ! 立て! 限界の振りをして同情を引こうとするな。それとももう終わりにするか? お前の強くなりたいという意思はその程度のものだったのか? 違うだろ!」

「…………ッ」


 半月が叱咤激励する。


 するとイヴは四つん這いの姿勢から、リング端に張られたロープを掴み、リングの隅にあるコーナーにしがみつくようにして何とか立ち上がる。


 そう、今日リングの上に立っているのは半月ではなく、イヴである。


 今朝からイヴは今日という日を楽しみにしていた。


 午前にイヴはわくわくしながら簡単にボクシングのルールを教わった。そして午後からやや緊張しながらも期待を胸に抱き、新品のスポーツブラとショートパンツに着替え、ディフェンスの構えとジャブとストレートを教わった。そうして今、イヴはスパーリングと呼ばれる実際の試合形式の練習を行っている。


 ここでイヴはボクシングの厳しさを身をもって知った。


 それはイヴがか弱い女の子だという点を差し引いてもなお、凄惨な光景だった。


 イヴは整った顔を痣だらけにして、鼻血を出して、口から胃液を垂れ流し、その瞳から涙を流し、足から腰から腕までプルプル震えさせていた。


 イヴのスパーリングの相手を務める女性は体付きがイヴより一回り大きい上、プロである証のC級のライセンスを持つ本物の実力者である。イヴが一方的に打たれるのも当然の結果であった。


 しかしイヴは諦めず両の拳を顔面まで上げてファイティングポーズを取る。


「…………」


 つらい筈である。痛い筈である。苦しい筈である。


 だがイヴはやる気だ。


 柳生が半月の顔を見つめる。柳生の表情からは「これ以上続けるべきでない」とする主張が読み取れる。


 それもそうだ。このスパーリングは半月の指示でダウン無制限であり、イヴのダウンはこれで七回目である。怪我や後遺症が考えられる危険な水準はとっくに超えており、立ち上がれるのだからやらせるべきという精神論は語るべきではない。このスパーリングは即刻中止するべきであった。


「…………まだだ」


 だがイヴのセコンドである半月は続行を指示した。


 柳生もイヴのスパーリング相手を務める女性ボクサーも周りの練習生達も、惨たらしい状態のイヴと鬼気迫る表情の半月をただ呆然と見つめていた。


 カンとコングが二ラウンド終了を知らせる。


 瞼を腫らしたイヴが、さながら迷子の子供のようにひっくひっくと泣きながら自分の帰るべきコーナーを探す。半月は「こっちだ」と告げてイヴの肩を叩き、コーナーに用意した椅子にイヴを座らせる。


「まだやれるな」

「(こくり)」

「お前には左ジャブと右ストレートしか武器がない。しっかり左で距離を測って当たる距離に入ったら必殺の右を打ち込め」

「(こくり)」

「頑張れ!」

「(こくり)」


 イヴは大粒の涙を零して嗚咽を飲み込みながら、健気に半月の言う事を聞く。


 そのイヴの純粋さに半月も揺れるものがあったが前々から覚悟していたこと、半月は心を殺してイヴを送り出した。すぐにセコンドアウトの指示、そして三ラウンド目のコングが鳴る。


 イヴは勢いよくリング中央へ走った。


 奇襲ではない。確かに勝つために向かって行った訳だが、イヴにペース配分という余裕はない。体が動く限り戦うだけだった。


 イヴはただ必死なのだ。


「ッッ! ウッ!」


 イヴのするボクシングは最早ジャブやストレートなどと呼べるものではなく、ただ拳をがむしゃらに大振りに流すものであり、すぐもつれ合う子供の喧嘩のようであった。


 イヴは素人なのだから当然である。


 だがそれでも、このジムの中で誰一人としてそれを笑う者はいない。下手であっても、正真正銘の崇高で偽りのない純粋なボクシングだったのだ。


 尊い。


 こんな年端もいかない小娘に対し、半月は尊敬の念を禁じえない。


 素人がボクシングに本気で取り組んで、相手に向かって行く。幾度となく立ち上がり拳を振るう。なんと真っ直ぐでなんとしぶといことか、半月はそう思えた。


 イヴがここまでやるとは思わなかった。花屋を追い出され、雪の降る路上に座り込んで、失意の中にいたあの夜とは大違いだった。無気力な振りをしていたが、その小さな体にこんなに燃える心を隠していたのではないかと半月は感服する。


「ッァ!」


 イヴが本日八回目のスリップに近いダウンを取られた。


 半月の指示だが、柳生がわざと遅くカウントしていることにイヴもさすがに気付いている頃だろう。ゆっくり長くテンカウント近くまで休んでいれば良いのに、イヴは僅かスリーで立ち上がる。


「強くなれる……」


 半月の口から自然とそんな声が漏れた。


 半月は少し驚いた。


 半月は昔から、どうしたら強くなれるのだろうかと自身に問いかけ続けてきたからだ。強さの本質が何かが分からない。しかし今のイヴは強さの素質がある。そう思えたことが不思議たった。


 果たして自分はこれほど強く生きてこられただろうかと半月は自問自答する。


「ぅ!」


 イヴが右ストレートを単発で出すが相手選手にスウェーバックで上体を反らされ華麗に躱される。そこでイヴは離れた距離を埋めるように、防御回避を度外視して思い切り踏み込んだ。イヴは半月に教えられていない、無我夢中で真横からぶん回すような左のロングフック気味の拳を放つ。


 これは悪手であった。


 イヴが踏み込み、前傾姿勢になったところに、相手選手の右ストレートがイヴのロングフックより先にイヴの顔面を捉えた。


 イヴの出したロングフックは弧を描くような軌道のため、相手選手の出した直線で進むストレートより距離が長く、届くまでに時間がかかるのだ。この時のイヴはカウンターの恰好の的であった。


 相手選手のグローブがイヴの顔面に食い込む。


 しかしまだ終わりではなかった。イヴにはもう何も見えていない筈だが、イヴが無我夢中で放ったロングフックは止まらない。


「行け!」


 半月は思わず叫んだ。


 イヴの拳に勢いはない。だが、「せめて一発くらいは」そんな気迫が込められていた。これには相手選手も戦慄したことだろう。


 それでもやはり悪手なのだ。


「当たった……当てやがった……」


 気概を示したイヴの最後の一撃は相手の鼻先を僅かに掠るだけに留まった。


 イヴの腕を曲げて放つフックは、曲げた分射程が短かった。イヴと相手選手、二人の間合いは相手選手の放ったカウンターのストレートの分だけ離れている、イヴのロングフックはまともにクリーンヒットしない。


 それでも確かに掠ったのだ。


「当たったぞ! イヴ!」


 そしてイヴは前のめりに、受け身を取ることもなく顔面をマットに打ち付けるように倒れる。ついにイヴは九回目のダウンを喫する。もう根性がどうのこうのではなく、意識が完全に断ち切られた倒れ方であった。


 半月は柄にもなく興奮していて、我に返ってそれに気が付き、紅潮する。


「う、うっす……つ、つき、付き合って、……頂いて、ありが、……ありがとうございました……」


 半月は柳生とイヴの相手をしてくれたボクサーに頭を下げた。


「イヴ、お前は気を失っても拳を振るえるのだな」


 半月はリングに上がり、イヴの傍まで駆け寄ると、その頭を丁寧に撫でてやった。


 誰もが皆、等しくリングの上では孤独だ。そんな中、体格もない技術もないボクサーの背中に半月は確かな強さの片鱗を垣間見た気がした。イヴの強くなりたいという気持ちはいつか実を結ぶだろう。


 冬が終わろうとしていた。

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