第二章 燃える心を持つ少女 その五
まだ寒い日が続くある朝のこと、半月はイヴの様子が少し変なことに気付いた。健気で毒がない。ついでに元気なように振舞っているが、顔色が悪い。イヴはなんとか普段と同じように振舞い生活していたが、やはり無理していたようで、ある時限界を迎えて倒れ込んだ。
大方風邪だろう。理由は分かっている。数時間もの間、極寒の外で半月のトレーニングを見張っていたせいで体を冷やしすぎたのだ。
「イヴ、帰ったぞ」
「…………ぅ……うーうー……」
四畳半の部屋の中心に敷かれた布団の上で、イヴが真っ赤な顔をして苦しそうに手を上げて返事をした。
半月は寝込むイヴの隣に座り込み、そしてイヴの額に置いた濡れたタオルを取り換えてやる。そして枕元に置かれた体温計を確認する。
「体温は測り終えたな、どれ……三十八度か」
半月は悩んだ。ただの風邪なら問題ないが、インフルエンザ等の難しい病気ならば病院に行った方が良いと思う。しかしイヴは保険証を持ってないし、イヴは語らないがどうも素姓に訳ありのようなので病院のような公的機関に掛かるは避けた方が良さそうなのだ。
「ならば闇医者か」
金は普通の病院に行くより十数倍多く掛かるし、何より柳生に医者を紹介してもらう必要がある。それはしゃくなことだが必要な事と割り切るしかない。そう、惜しむことはないのだ。道場破りの一件もあったし、これで貸し借りなしと考えれば問題ない。
「?」
「何でもない。とりあえず飲め」
半月はスーパーで買ったスポーツドリンクを取り出し、傍に置く。次に薬局で買った市販の風邪薬を開け、カプセルを取り出す。
「ぅぃ」
半月はイヴの背中を支えて起こす。そしてペットボトルに入ったスポーツドリンクにストローを差し込み、カプセル状の薬と一緒にイヴの口に持っていった。
イヴはストローに口を付けこれをゆっくりごくごくと飲み始める。その様子に半月は安堵する。ところがイヴが急に口を離した。苦しそうに胸を抑えて呼吸を止める。
「どうしたイヴ? 大丈夫か?」
「(こくこく)」
イヴは問題ないと頷くがとても苦しそうだ。
「苦しいなら吐き出して良い」
「(フルフル)」
半月はティッシュを数枚取るとイヴの口元に当ててやる。しかしイヴは首を横に振り、これを拒んだ。拒んではいるがイヴは呼吸がとてもつらそうだった。
半月はここで一つ、違和感を持った。スーパーに買い出しに行く前と後でティッシュの量に変化がない。
「ひょっとして、鼻水を出したり痰を出したり咳をしたりすることを我慢していないか?」
「……………………………………………………(フルフル)」
イヴは長い沈黙の後に首を横に振った。
「嘘を吐くな」
「……………………………………………………(こくり)」
今度はゆっくりと頷くイヴ。とてもばつが悪そうだった。
「なぜだ? 我慢することはない。しっかり体の中の悪い物を出さないと回復しないぞ?」
イヴは脇に置いてあるタブレットを操作する。
『き・た・な・い。う・つ・る』
その無機質な音声が紡いだ言葉に半月はドキリとさせられた。このか細い少女は体調を崩しても咳すら出来ない、弱っていても甘えられず人の目ばかりを気にしなければならない厳しい環境に身を置いていたのだ。
端的に言えば虐待を受けていたのかもしれない。
「俺は風邪なぞ引かん。…………馬鹿だからな。だから沢山咳をして良い。鼻水を出しても良い。俺は気にしない」
半月は「子供なのだからもっと甘えろ」と囁いておもむろにイヴの頭を撫でてやる。
「ん」
イヴは苦しそうに、そしてぎこちないように口元を緩めた。
半月はイヴから許可を貰うと、ティッシュを再びイヴの口元に持ってやりながらその小さな背中を優しく撫でてやる。
イヴはゲフンゲフンと咳をし、粘性のある黄色い痰と鼻水をしっかり吐き出す。
「その調子だ。次は汗を拭くぞ」
半月はお湯でタオルを濡らし温め、これを絞って水気を取る。そしてイヴのパジャマを脱がして下着姿にすると、先ほどのタオルで顔、首、背中、腹、両腕、両脚を順に優しく拭いてやった。
子供とはいえ、女の体を見ながらの慣れない作業であった。しかしイヴが少し柔らかい表情になったので半月は安堵した。
そうして痰や鼻水、汗もひとしきり出したところでイヴは楽になったのか、再び体を横に倒した。イヴは口呼吸をやや粗くし、顔を赤くしながら、目と口を外に出すように布団を浅くかけて半月の顔を凝視する。
「今、栄養があって消化に良い物を作ってやる。お前はテレビでこの前録画したアニメ映画でも見て休んでいろ」
子供向けの美味い料理は出来ないが、機能的な料理ならなんとかなる。適当に切った野菜を放り込んで作る雑炊ぐらいなら出来るだろうと半月は考え立ち上がろうとする。
すると半月は起立を阻むようにイヴに手を掴まれた。
「ぬ?」
「ん……」
イヴは何か決心した面持ちで、大事そうに布団の中から一枚の封筒を取り出した。それを半月に手渡す。
その封筒には拙い字で『おてがみ』と書いてあった。それは文字を書くというよりはタブレットに表示されている記号を精密に模写したようで、丁寧で不格好なものであった。
「文字を書く練習までしていたのか……。今晩からは文字の書き順や文字が綺麗に見えるコツを教えてやろう……。中、読んで良いのか?」
半月がそう問うと、イヴは寝たまま恥ずかしそうにコクリと頷く。
封筒の中には小さな紙が二枚入っていた。タブレットの字を読むことすら覚えたばかりのイヴがわざわざ手紙にして伝えたいこと、半月はそれがどんなことなのだろうかと思いを巡らせながら紙を開く。
『あなたのように』
『つよくなりたい』
二枚の紙を使ってたった二言、そこにはそう書かれていた。
「…………」
イヴが何か期待するように半月を見つめている。
強くなりたいという少女の願いに半月は絶句した。頭が真っ白になり、何をして良いかわからなくなった。
「……?」
イヴが心配そうに顔を覗き込む。
「…………そうだな……最近は物騒だし、身を守る術を考えるのも一考だな……」
半月は「うん……良い物がある」と言い残し、立ち上がる。そして部屋の隅にあるタンスからごそごそと何かをあさり始める。
その有様をイヴは布団から上半身を起こして、何やら不思議そうに首を傾げながらじっと半月を見ていた。
「……これだ」
半月は再びイヴの寝る布団の横に座り込むと、手のひらに収まる大きさの木でできた柄のような物をイヴに見せる。
「こう使う」
半月は木製の柄を軽く操作する。すると木製の柄からぬるりと淡い光を放つ刃が現れる。刃渡りは九センチほど、その刃をイヴの首に接触しない程度に近づける。
それは折り畳みナイフであった。
「身の危険を感じたら迷わず使え」
半月はイヴの首から刃を放して柄に収納し、柄を反転させてイヴに折り畳みナイフを差し出す。
「ッ! ……ぃッッ(フルフル)」
イヴはナイフを受け取ろうとはしなかった。
首を横に振り、拒絶の反応を示す。口をパクパクと開閉し、何かを伝えたがっていた。その姿は懸命で、体調が悪いせいもあるのか興奮していた。
「どうした?」
「!」
「このナイフがあればしっかり人間を殺すことが出来る。何が不満なのだ? これがお前の欲しているものだろ?」
半月は戸惑ってしまう。
自衛するならば武器を使うのが一番手っ取り早い。このナイフは小さな子供でも女であっても手軽に携帯出来て使える。身を守る手段としては一番簡単な手段の筈だ。そう半月はずっと思ってきた。
しかしイヴは納得しなかった。
イヴはナイフを首に当てられても怯えなかったし、その小さな体で口が利けないのに、違う違うと何度も首を振って大きく主張してみせた。自分が書いた『あなたのように』の紙を何度も指差した。
「俺の、ように?」
「(こくり)」
半月は思考する。……俺は別に強くなんか……ない。俺のどこが強いのか、何をもってして強いのか、それを教えて欲しいくらいだ。いや今はそういう話ではないな。この前のボクシングの話だろう。イヴはボクシングに憧れてしまったのだ。
「イヴ、その、お前をサンドバッグの前に立たせたのは気晴らしのためだ」
「…………(じっ)」
「この前の様子じゃ、殴り合いなんてやったことないだろう? それなのにあの時、才能があるなんて無責任なお世辞、言うべきではなかった。反省している。お前にボクシングは勧められない」
「……………………(じーっ)」
「……イヴ……言いにくいことだが、お前は俺じゃないし、俺のようにはなれない。お前は体だって小さいし、華奢な女の子なのだ……、ボクシングにはとても向いていない。でもそれは悪いことではない。世の中には色んな人間がいるのだ。違って当然。得手不得手があって当然なのだ……」
「…………………………………………(じーーっ!)」
半月がイヴを諭すように告げている間、イヴは発熱で赤くした顔を更に赤くして、ぷくーっと頬を膨らませながら半月を睨みつけていた。そしてイヴは自身の顔を熱で湯が沸かせそうなほどに紅潮させ、頬を割れる寸前の風船のように大きく膨らませた。その瞬間、イヴは半月が持っていたナイフを勢いよく奪った。
「お、おい……?」
半月が問いかける間もなく、イヴは折り畳まれたナイフの刃を出し右手に持つ。そして左手で背中まで垂らされた自分の純白の髪の束をまとめて掴み、引っ張ってそこにナイフを当てた。
「ッフ!」
イヴは自身の髪をばっさりと切り裂いた。
ふわりと清純で可憐なイヴを象徴するその純白の髪は、静かに布団の上に撒き散らされてしまった。今や背中まで伸ばされた髪は、肩に少しかかる程度にまで短く乱雑に切られている。
髪は女の命とも言う。だからイヴが自身の髪を切った意味は大きい。イヴはか弱い少女である自分と決別したいのだ。
そしてイヴはうーうーと小動物が威嚇するように呻きながら、半月の胸に跳び込み駄々をこねた。その小さな拳で何度も何度も半月の胸の心臓を叩く。
半月はイヴの体温を感じながら、ただ困惑する。
「そんな事をしても……何かが変わる訳では……」
「……」
イヴは半月の胸の中で下から見上げるように、半月にすがるように見つめてきた。どうしても、どうしても強くなりたいというイヴの揺るぎない強い意思を感じる。イヴが語ろうとしない、イヴの過去や内面に関わる訳があるのかもしれない。
「畜生……」
イヴは本当に手のかかるわがままな女の子だ。中々思うようにならないし、すぐ感情的になるし、頑固で一度考えると突飛な行動に出る厄介な子供だ。
「……(じっ……)」
「……俺とお前は違う。イヴがボクシングを習ったところで俺にはなれない。今のイヴの体付きに沿って鍛えられるだけだ。それは分かるな?」
「……(こくり)」
「時間もかかるし、結果も伴わないかもしれない。危ないし、怪我をすることだって珍しくない。それでもやるか?」
「……(こくり)」
なるほど、イヴ自身が鍛えたいのは体より心の方のようだ。
確かにナイフを貰ったところでそこはどうしようもないなと半月は納得する。そして半月は「こんなに無茶をして」と呟き、イヴの汚く切られた髪を頭から毛先までゆっくり撫でる。
「まずはその滅茶苦茶な髪を切って整えるぞ。そして早く風邪を治してしまえ」
「……?」
「その後練習だ。つらいぞ……覚悟はしとけ」
「!」
イヴはねっちょりとした涙と鼻水を垂らし、それを半月の胸に擦り付けながら、最高に不細工な笑顔を作った。そして嬉しそうに頷いた。
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