第二章 燃える心を持つ少女 その四

 半月は息を整え、リングを降り、つかつかとイヴに歩み寄ると「俺の跡をつけて来たのか? ここは女子供の来るべき所ではないと言った筈。なぜ来た?」という具合にイヴを叱ろうとした。


 ところが「まぁまぁまぁ」と柳生が半月とイヴの間に割って入り、半月の腕を掴むと奥の事務室に半月を連れて行った。すぐに柳生は半月をソファに座るよう促すが半月はこれを無視した。


ドアのすぐ傍で柳生と半月は立ったまま話をする。


「お主、なぜそんなに怒っとる?」

「女や子供に殴り合いを見せるべきではない。イヴを家へ帰らす。今すぐに、だ」


 半月は話を終わりにして事務室から出ようとするが、再び柳生に手を掴まれた。


「少し落ち着け。ボクシングは伝統と格式あるスポーツじゃ。そして主はそのスポーツのアスリート。しっかり自信を持って見せつけてやればええじゃろ?」

「所詮は殴り合い。野蛮なものだ。俺は納得できん」

「あの娘、いつからいると思う?」

「……知る訳がない」

「少なくとも四時間ほど前じゃな。主がジムに来て、気付いたら外の窓からこっそりと、けれど張り付くように中を覗き込むあの娘がおった。余程主に懐いているらしい。この寒空の下で体がガタガタ震わせ、鼻水を垂れ流しながら、ずーっとサンドバッグ叩いたり縄跳びしたりする所を羨望の眼差しで眺めておったわい」

「…………」

「わしも外に出て幾度か声を掛けたが無視されてのう……放っておいたが、忍びないのでお主がランニングに行った隙にジムに引っ張って来たわ」

「…………」


 半月は事務室の扉を少しだけ開けて、イヴの様子を確認した。


 イヴは隅っこで数人の男達に囲まれている。その群れの中心でタブレットを片手に、不貞腐れたようにベンチの上で小さく体育座りをしていた。


 今のイヴは以前とは違って中々綺麗に見える。飢えた男達がイヴに群がるのも無理はない。だがイヴは話しかけてくる男達に対し、タブレットを操作する素振りすら見せず、ジェスチャーも何もせず、ただ興味なさげに完全に無視していた。


 どうやら柳生の言う通りのようだ。半月はイヴが自分を見るためだけにこのジムまで尾行して来たようであることを確信した。


「ふーむ」


 半月は不思議でしょうがなかった。自分は今、イヴに嫌われていると思っていたからだ。なぜそんなに自分に関心を示すのか分からなかった。


 確かにタブレットを渡して一緒に買い物や生活をしたりした。それで多少機嫌を取ったとは思う。しかしたったそれだけでイヴがそこまで自分を好いてくれるようになったとは思えない。少しは保護者らしい部分もあると分かって貰えた程度だろう。思春期の少女はそんなに甘くない。


 思春期の少女の複雑な心を理解しようなどと努力しても徒労に終わる。……と今まではそこで諦め、適当に思考停止していた。勿論難しいのはその通りなのだが、もう少し真面目に検討するべきであった。


「……悪いことをした」


 ここで半月はあることに気付いたのだ。


 半月には仕事や生活のこと、そしてイヴがいる。しかし今のイヴには仕事や学校という日常がなく、コミュニケーションが取れる相手も半月しかいない孤独の身なのだ。半月のことが気になって当然だった。


 もっとイヴの気持ちに立って行動するべきであったと半月は思う。イヴが何か自分自身を認めてやれるような、仕事か趣味か没頭出来るものを見つけるまで配慮が必要だった。


「あの娘、ちと健気すぎるのう」


 それは信頼と言えば聞こえは良いが、依存とも言う。


 柳生と半月は事務室を出る。半月はイヴの元へ歩み寄り、柳生は二人を離れた所から見守っていた。


 イヴがベンチに座った姿勢のまま申し訳なさそうに半月を見上げる。その様子はまるで首後ろを摘まれた子猫のようだった。


「…………ん……(ぺこり)」

「…………そうだな……せっかくボクシングジムへ来たのだし、ストレス解消のためにでもサンドバッグでも殴るか? 気持ち良いぞ」

「う(びくびく)…………ん? ん!」


 イヴは半月に怒られると思っていたのだろう。目を瞑って怯えて小さく丸くなっていたイヴは半月の発言にピンと背筋を伸ばして反応する。


 そして半月の後にくっ付いてサンドバッグの前に立った。上半身に着ていたセーターを脱ぐと体のラインが出る長袖インナーシャツになる。半月は周りの男共の視線が気になったが我慢した。


「ほら、殴ってみろ」

「うー……ん?」


 イヴは首を傾げながら、周りのボクサーの見様見真似で拳を作るとサンドバッグに拳を打ち込む。


 ポスっとサンドバッグが僅かに揺れた。


 完全な猫パンチだった。


 半月がズッコケる。遠くで見守っていた柳生までもがズッコケる。更にジムのあちらこちらで練習する振りをしていた練習生もズッコケた。


「ん??」

「違う……肘から先だけで撫でるようになっている」


 半月はわかりやすく右のパンチだけやるとイヴに説明する。


 サンドバッグの前に立ち、肩幅に足を開く。そして右腕を畳むように曲げ、その腕を床と垂直にして、右拳が顎の右付近に来るように添える。そして若干右肩を引き、若干左肩を前に出し、不要な左腕をだらんと垂らす。


「これで右から出すパンチの準備は完了だ。上半身を良く見ていろ」

「(ふんふん)」


 半月はイヴが頷いて準備が整うとゆっくりと体を動かす。


 腰を回転させ、左肩を引き右肩を前に出すと右腕が前に迫り出される。それと同時に畳んだ右肘を前に伸ばして右拳を前方方向に射出する。その時に前に出された右拳はドリルのように内側に捩じることも忘れない。上半身のみを使ったパンチだった。


 半月はそれを最初はゆっくり、だんだん速く五回ほど繰り返す。


 イヴはそれを食い入るように見続けた。


「どうだ?」

「!」


 イヴが数回の試行錯誤の後、同じように上半身のみのパンチをサンドバッグに打ち込む。するとボスっと、そこそこの音がした。


「良いぞ上出来だ。飲み込みが早いな。じゃあ今度は下半身も動作に加えるぞ。半歩歩きながら今の動作をやる」


 先ほど半月の下半身は左右対称の直立姿勢だった。そこから左足を大袈裟に上げて半歩前へ踏み込む。そして上半身は先ほどと同様に、左肩を引き右肩を前に出すように腰を回す。同時に、下半身は後ろの右足で床を蹴るようにして体を前に送るようにする。すると重心が後ろから前へと移動し、右腕が前に押し出されるので、そのまま体重を乗せて拳を捩じりながら前方方向に放つ。


 これを先ほどと同じように五回ほど繰り返す。


「一歩助走をつけて、右拳というボールを弧を描くようにではなく、押し出して真っ直ぐ投げるイメージだ。やってみろ」

「ん!」


 イヴは初め、上半身と下半身の連動が出来ず、腰を回転させながら重心を下半身後方から上半身前方へ滑らかに移動させることが出来ていなかった。そこで半月はイヴの隣に立ち、同じ姿勢でサンドバッグを殴ってゆっくり教えた。イヴはそれをしっかりと真似して、段々と理解して自分のものにしてきた。


「思い切り打ち込め」

「んッッ!」


 ドスンとサンドバッグが揺れた。今まで一番の揺れ幅だった。


「んひゅーっ!」

「中々良いじゃないか。才能がある」


 気持ち良いッッ! という表情でイヴその場でぴょんぴょんと跳ねた。何度も何度もサンドバッグに拳を打ち込んでいく。それだけでは飽き足らず、蹴ったり体当たりをしたりしてじゃれついていた。


 その様を柳生も微笑ましくリングのコーナーに顎を付けて上から覗く。


「半月、お主は引退したら指導者としてもやっていけるかも知れんのう」

「チッ……うるせえ」

「お嬢ちゃんも筋が良い。その気になったら遊びに来なさい。わしが教えよう」

「んふぅ……!(ぺこり)」

「よしイヴ、次はディフェンスを意識して構えを覚えようか。まずは顎引いて右と左の拳を上げて、……うむむ基本的にはボクシングでは両腕はハの字にならないように……腕は地面に垂直になるよう立てて、いやでも無理に力が入るようなら多少脇が開いても良い……。右拳が前の方がやりやすいのか? 右利きなら牽制の左を前に必殺の右は後ろに取っておくものだ。それと少し体を前屈みに曲げて……右腕は顎と肝臓、両方を守れる良い高さに添えてだな…………。膝は少しゆとりを持って曲げて後ろ足の踵は浮かせて……。窮屈? まぁ最初はそんなものだ…………」


 ことボクシングの話になると半月は黙っていられない。この時の半月はいつもよりずっと饒舌だった。


 こうして半月とイヴの試行錯誤が続く。半月はジムから帰宅するバスの中でも延々とボクシングの話をイヴに聞かせる。イヴもアンテナ代わりの頭頂部の跳ね毛がピンと立てて興味あり気にそれを聞き続けた。


 半月はボクシングを含めた格闘技をやっていて初めて尊敬されたと感じた。半月はボクシングを所詮は野蛮な殴り合いと言い切っていたし、あまり褒められた職業ではないと思っていたが、イヴはそんな自分をごくごく自然な形で肯定してくれた。


 夜行半月、二十二歳。独身だが四苦八苦しながら訳ありっぽい身寄りのない少女と同居。職業、半人前の格闘家……。


「俺が考えていたよりも悪くないのか……?」


 半月は少し自分を認めてやることにした。確かに悪い気はしなかった。

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