第二章 燃える心を持つ少女 その三
半月は普段は自転車を使うが、今日は体のことを考え市営バスを使った。ホームレスの群がる河川敷を川沿いに下ること数キロメートル、辿り着いた先は小さな橋の下、簡素に造られた古いボクシングジムだった。
ジムの中には一辺が七メートルほどの正方形のリングが中央に置かれ、それが部屋の大半を占めている。その周りに全身が確認出来る大きな鏡があり、サンドバッグとパンチングボールが吊るされ、隅の棚にはグローブやヘッドギアが置かれている。場所を取る大型の筋肉トレーニング用のマシンの類は一切ない。
数人の男達が各々濃密な練習していた。季節は真冬であったが、ジムの中は男達の体から出る熱気で満ちていて暑かった。
半月はまずジムの中で余裕を持ってウォームアップに時間を費やし、その後外で軽いランニングを行って戻ってきたところだ。玄関でウィンドブレーカーを脱ぎ去って黒のジャージ姿になる。
ジムの入口に片目に眼帯をした老漢がいた。この人物は先のタイタンとの試合で半月のセコンドを務めた柳生重蔵である。半月にとってのコーチでもあり、半月と薄翅蜉蝣衆との仲介役でもある。更に言えばこのジムの経営者でもあった。
その柳生は穏やかではない状況で、見知らぬ少年と何やら話していた。
見知らぬ少年は十代後半の東南アジア系の美男子で、中々良い体格をしている。身長は半月と同じか僅かに大きいぐらい、肩幅はやや狭く手足の長いすらっと細長い体躯で体重は半月の方が重そうだった。
このジムへの新しい入門希望者だろうか?
「蹴ラナイ、組マナイ、投ゲナイ、ソシテ唯一ノ拳デサエ制約ガ多イ。ボクシングハ未熟、路上デハ弱イデス」
そんな話し声が聞こえてきた。
怖いことを平気で言う。若い、そして中々気骨のある奴が来たなと半月は感心した。だが時々はあることなので半月は気にせず柔軟体操を行う。
すると同じくジムの中で練習をしていた筈のジムの後輩二人が、怖ず怖ずと半月の前に現れた。後輩二人は強面の半月相手に緊張で顔を強張らせて、何か話したそうだった。
半月は極度の人見知りで、このジムでもあまり人間関係を築いていない。それ故、後輩達とも距離を置かれ、特別な用事がないと話しかけられない。だからこの時、半月は何があったのか、大体の事情を察していた。
「あの、先輩……柳生会長がリングに上がって欲しいそうです」
「道場破りだそうです」
…………やはりか……入門希望なら良い重量級のスパーリング相手が出来て良かったのにと半月は残念な思いを禁じ得ない。
「そ、その……す、すぐ行く」
半月は顔馴染みの後輩達と話す時でさえ、どもって声が上擦ってしまう。心の中で馬鹿にされてやしないか心配だったが、後輩二人は丁寧に頭を下げて去っていった。
そして半月はトランクス一丁に着替え、シューズと十オンスのグローブを用意するとリングの上に上がった。
「ボクシングとの異種格闘技の真剣勝負を望んでいるそうじゃ。怪我が治り切ったばかりのところで悪いがやれるか?」
柳生が難しい顔で半月に問う。
「応」
ここの看板が持っていかれたところで半月にとってはどうでも良い話だ。はっきり言って他人事であったが、勝って道場を防衛した暁には十分な報酬もくれると言うので乗り気になった。
「真の蹴り技というものを見せてくれるそうじゃ」
「勉強させて貰う」
半月も一言そう柳生に返した。
リングの対角線の先には先ほどの少年がトランクスを履いてグローブをして、頭にはお守りのヘッドリングを付けて待っていた。一目でムエタイ選手だと分かる。蹴りのスペシャリストだ。
「なるほど、手強そうだ」
半月は丁度自身の弱点である蹴りを見極めたいと思っていたところだ。
半月の構えはボクシングをベースに、若干のレスリングのスタイルを取り入れたものである。
ボクシングとレスリングはどちらもスタンスを広く、頭をやや前に倒し、重心を落とす。それは上段に蹴る側にとっては頭を差し出しているように見えるだろう。それに拳と足とでは間合いが違う。半月が自分の得意なボクシングをするためにはまず下段回し蹴りの間合いを超えて近寄らなければならない。
よって蹴りの上下段共に今の半月には厳しい攻撃であった。
「ムエタイのクルーザー級の王者。名前はガオグラン・プラムーじゃ。今後日本のキックボクシングのリングに上がりたいそうで、名を上げたいらしい。そしてボクシングの底を知りたいそうだ。手加減はないぞ」
柳生が半月の両の拳にグローブを填めさせ、口にマウスピースを突っ込みながら忠告する。
「本気で蹴ってくれないと今後のためにならない」
「頼もしいのう」
「ルールは?」
「なし。と言いたいところじゃが、向こうはムエタイ、こっちはボクシングと相成った」
「なるほど、驚くほど公平なルールだ……」
向こうは蹴ってよし殴ってよし、更には肘打ちから首相撲まである。けれどこっちは殴るだけ。どう交渉したらそうなるのかと、柳生は馬鹿なのではないかと、半月は呆れる。
大方、柳生はこの戦いを『ボクシング強し!』という宣伝のために利用したいのだ。そういう意図が透けて見える。
「お主が油断しなければ問題なくやれると信じとる。勉強だと思って相手をしてやれ」
セコンド兼レフェリーの柳生がリングから降りた。そして動画を撮影する携帯端末を取り出しこちらへ向ける。
コングが鳴り響いた。
ガオグランと半月が向き合う。半月は不意打ちを仕掛けようと思ったが、勉強にならないので止めた。
普通にグローブとグローブを合わせる。
ガオグランも不意打ちの気配を感じたようだが、余裕を崩さない。その甘いマスクで「よろしく願いします!」と余裕の挨拶をして破顔する。半月は驚きながら「う、うっす」と噛み噛みの返答。
互いに間合いの外まで離れる。
ガオグランは背筋を伸ばし立ち、腕を高めに上げて、拳をこめかみを保護するように置いた。脇を開け、やや後ろ足に体重を乗せて、前足を上げやすいように構えている。
前傾姿勢のボクシングやレスリングとは明らかに異質なものであった。
格闘技の試合において、序盤は大きい体格の者の周りを小さい体格の者が回ることが多い。今回もそのような形となった。
「ッフッフッフ……」
ガオグランはヘビー級よりも一つ軽いだけのクルーザー級とは思えない軽やかなフットワークで、リングの中央を陣取っている半月の周りを回る。
「足で追い詰めろ!」
柳生がそう指示する。言われるまでもなかった。
半月は顔下半分を両の手のグローブで守るピーカブースタイルに構える。そして相手を覗き込みながら、のっそのっそと左右に重心を移動させてガオグランと同じ方向へ体を向ける。頭を振りつついまいち遅い足取りで、けれど的確にコーナーへと追い詰めるように動く。
二人の距離が近づいた瞬間、一歩ガオグランが半月へ向かってステップを踏むと左前足が浮いた。
「ハイ!」
ガオグランが犬歯を見せた。
前蹴りかと半月は思った。そう判断するのも無理はなかった。
ガオグランの左足はただ正面に上げられただけだったのだ。しかしそれは前蹴りではなかった。初動は似ていたが、それ以降が大きく異なっていた。
バチンと半月の正面ではなく、側面となる右の腹、肝臓を刺激するようなガオグランの蹴りが入った。
「我ッ……」
半月の体がくの字に曲がる。腹膜が刺激され、下腹部から重たい痛みが正中線を貫くようだった。呼吸が困難になり、視界がチカチカと点滅する。更に冷え汗がダラダラと出て来る。
この一撃を貰う直前まで、半月はガオグランという少年を侮っていた。しかしたった一撃でその見くびりは改められることとなった。
「前蹴りじゃない……ミドル(中段回し蹴り)か……」
正面からやって来て、横にねじ込むような軌道だった。そしてボクシングのボディブローよりも遥かに威力のある蹴りだった。これがムエタイのミドルキックだ。半月が空手で学習した、膝を畳んで足を横から回し、大きな弧を描き蹴る回し蹴りとは異なっている。
「しっかり膝を上げろ! 何のために作った脛じゃ!? 直ぐに足を掴め!」
柳生がリングのマットをバンバンと叩きながら喚く。
そして足をガオグランが蹴った左足を戻すと今度は左足を軸に右足が浮く。
そうはさせるかと半月が動く。
やはり前蹴りに似た初動であったが、半月は今度は間違わず正しく受けられた。半月の腿を狙ったローキック(下段回し蹴り)に対し、半月は左膝を上げて空手の局部鍛錬で培った鉄の脛でしっかり受けた。
半月の額、拳、肘、膝、脛は特別製。麻袋に砂利と砂をぎっしり詰めた代物にひたすら打ち込み、血尿を漏らしながらの局部鍛錬の果てに鋼と化している。
「それで良いぞ! 半月!」
「疾ッ!」
半月は上げた左足をそのまま降ろさず、強く前に踏み込む。
ここでガオグランの笑みが消えた。ボクサーは鴨、ローキックで簡単に潰せると思ったのだろう。そして今半月の脛が蹴りを受けるために鍛えられた本物であると感覚で感じたのだ。
目の前の相手がボクシング以外もかじっていること、簡単な相手ではないことを今頃悟ったようだ。
「……」
ガオグランがボクサーの間合いから出ようと下がる。リングの端ぎりぎりの位置だ。
それを追うように半月はもう一歩踏み込み左ジャブ、更に一歩踏み込み右ストレートのワンツーをガオグランの顔面に打つ。踏み込んだこの二撃は空手の順突きと逆突きとも呼ばれ、前へ進む体全体の運動量が拳に乗るため攻撃力が高い。
後ろへ下がる相手を追い込むには効果てきめんである。
「鋭ッ!」
更に半月はコーナーへとガオグランを拳で押し込む。そしてガオグライの高いガードを潜るようにボディブローを連射した。
一発、二発、三発、四発。
ガオグランも負けじと肘を半月の顔面に打つ。半月のブロックしたグローブが縦に、刃物で斬り裂いたようにざっくりと裂けた。
ムエタイの肘に驚かされる。しかし半月は怯まず、そのまま拳を打ち続ける。ダメ押しで水月に抉り込むようなボディブローを放った。
「グググッガッ!」
ここでガオグランの顎が開いて息が止まる。口から胃液がボタボタと垂れ流される。それと共にタマウスピースが零れ落ち、そしてガオグランのガードと頭が降りた。
「打打打ッッ!」
半月はガオグランに降参を促すよう丁寧に、そして隙を与えず圧し潰すように、ガードの隙間に銃火器で撃ち抜くような重く速い拳の連打を入れていく。火花が散るような拳のラッシュであった。進撃烈火の拳、以前半月がタイタンと戦った時にリングアナウンサーが呼んでいたものだ。
驚異的な動体視力と鍛え抜かれた強く速い肉体、それに圧倒的な肺活量がなせる脅威の無酸素運動であった。
対しガオグランは半月の拳を嫌がって亀のようにガードを固めて、反撃の隙を祈るように待っている。ガオグランの顔がたちまち腫れ上がる。舌を噛んだのか、殴られた拍子に口から唾液の混じった血が口から溢れ出る。
「今じゃ! 終わらせてやれ!」
これで最後、半月と柳生がそう確信する。
ボディブローやアッパーで相手の意識を下へ移した。ここで半月は切り換える。大リーグのピッチャーが大きく振り被って硬式のボールを放つような、斜め上から覆いかぶせるような大振りのパンチを出した。
オーバーハンドパンチと呼ばれるものだ。
その半月の会心のオーバーハンドパンチがフッと空を切った。
「なにッ!?」
予備動作の大きいパンチだが、深く潜り込んで放ったパンチなので受けることは出来ても躱すことは難しい。だがこれをガオグランは膝を折りながら、信じられないような上半身の柔らかさによるスウェーバックと呼んで良いか分からないほどの仰け反りで、既の所で回避した。
このガオグランという男、驚異的な反射神経と身体能力を持っている。
「イイ!」
ガオグランは仰け反って背中をロープに預けたまま、右膝を高く上げた。ガオグランの膝が半月の胸の辺りまで上がると、そのままゆっくり的確に半月の首の付け根辺りの胸部を目掛けて体重を乗せた重い蹴りを打ち出す。
それは痛みを伴わせる攻撃ではなく、足の裏全体で半月の体を押し込んで後退させるような前蹴りであった。
立ち姿勢における人体の重心は骨盤付近、それよりも遥かに高い位置を押された半月の体に、頭部を後ろに落とすような回転力が発生する。半月は大きくバランスを欠いて「ぬっ!」と転びそうになる体を踏ん張りながら、四、五歩後ろへリングの中央へ後退する。
そして半月は体のバランスを戻して視界を前に戻す。すると空いた間合い分、ガオグランが体当たりでもするかのように走って追いかけてくるのが見えた。
「アィィィイイイイ!」
ガオグランは跳んだ。シンプルな飛び膝蹴り、だが一撃必殺の可能性も秘めた強力な技である。狙いは半月の顔面だ。
「ぐうううううぅぅぅ!」
半月は腕を胸元で交差させるクロスアームブロックで、両手のボクシンググローブをクッションのように自身の顔面とガオグランの右膝の間に挟んでブロックした。それでもなお視界がぐらぐらと揺れた。鼻血がどっと溢れてリングに大量に撒き散らされた。衝撃で意識が一瞬飛ばされ、いつの間にか尻餅を突いていた。
「ワン! ツー! スリー! フォー!」
レフェリー役の柳生がリングの内側に入り、腕時計を確認しつつダウンした半月の前でカウントを始める。
その有様をガオグランはコーナーから余裕たっぷりに見下ろしていた。
「ルールに救われたのか、俺は……」
かつてはプロのボクサーとして、今はプロの格闘家として飯を食ってきた自分が、この無名の少年よりも劣っているというのか? そんな思い上がりが半月の脳裏に過った。
だがそうではない。
もしこれが路上の喧嘩ルールならば腰の落ちた半月の顔面に、ガオグランがサッカーボールキックを放って終わりだったかもしれない。けれどもこの闘いにはお互いが決め合ったルールがある。お互いがそれを了承した上でリングに上がっているのだから、『もし』とか、『たら』とか、『れば』はないのだ。
「ありがとよ……」
「……フっ?」
半月は「久々に初心に帰れた」と小さく囁いた。半月は自分の根っ子はボクサーということを思い出し、ありがとう坊ちゃんとガオグランに感謝の気持ちを伝える。
半月は大きく息を吸うと目と口を閉じて全力で鼻から息を出す。粘性のある鼻水と血の混合物をリングの上に撒き散らす。そうした後、両手のグローブをリングに突いて、片膝ずつ立ててゆっくりと立ち上がった。
「ボクシングはな……立ち上がれば負けじゃねえ……」
ボクシングは最後まで殴って殴って……殴られて殴られて、そんな肉体と精神の削り合いの果て、最後まで立っていた奴が勝者だ。そう半月は考えている。だからまだ勝負は付いていない。
半月はフラフラだがファイティングポーズをしっかり取る。
「エイト! 半月やれるか!?」
「当たり、……前だ!」
半月が柳生を押しのける。そんな半月のギリギリの状態を確認したガオグランはすぐに距離を詰めて大振りの左フックを仕掛けてくる。
「糞……った、れ!」
半月はこの左フックを避けられず、もろにこめかみに受ける。足もガクガク、平衡感覚も狂って千鳥足になる。そのままみっともなく、避難するように目の前のガオグランに抱き着いた。いわゆるクリンチだ。
ガオグランは両手を首に回すと強く手前に引き込み、左右の膝を交互に半月の腹に刺してくる。半月は激痛に喘ぎ、マットに下痢を漏らしそうな感覚に陥る。気力が萎えていく。苦しかった。ギブアップすれば楽になるぞと己の肉体の中の悪魔が囁く。
このクリンチからの首相撲、容赦のない強力な膝蹴りの連打こそ、ムエタイが立ち技最強と呼ばれるゆえんである。
「こッッの! 若造がァァアアア!」
半月にはふらつく足と平衡感覚が回復するのを待つ暇はない。
半月も両手をガオグランと同様に首に手を回し、倒れないようにしがみつきながら、体重をガオグランの肩鎖骨に預けてマットに押し込む。そして左右に振ってそのままぶん投げようとする。
しかし立ち技最強と名高いムエタイ選手であるガオグランも引き込みが強く、倒すことが出来ない。
「レスリングを思い出せ! 主の土俵じゃろうが!」
柳生は簡単に言うが、ガオグランも腕力と体幹が強く更に組むのも上手いのだ。
半月は本気の投げを右に左に休む間もなく仕掛けていく。両者共にバランスを保つことに精一杯で膝蹴りを入れる余地はない。投げの仕掛け合いの応酬で、踊るようにリングを縦横無尽に駆け回る。
最後にはバチンと雷撃でも落ちたかのように互いを突き飛ばし合い、離れ際の蹴りの届かない間合いを作った。
「フゥゥウウ……」
「ガアア……ハァ……ハァアアアアァ……」
まさか打撃のみの立ち技格闘技で、レスリングの勝負になるとは思わなかった半月。
ともかく時間を稼ぐことが出来て平衡感覚はやや回復してきて助かった。しかし組み合いは下手な殴り合いよりも体力を存分に消費する。両者疲労の色が濃いが、絶大な威力の飛び膝蹴りと腹に良い膝蹴りを数回貰った分、半月の方が消耗が激しい。
自分が優勢、それを自覚しているガオグランが先に仕掛けた。
「ハイッ!」
ガオグランはまた半月の下腹部ではなく、胸の辺りを狙った前蹴りを放つ。先ほどのスピードはないが肉体の質量を存分に、足の裏全体に乗せた前蹴りだ。
半月は前蹴りを反射的に払うように対処しようとするが、ガオグランの蹴りの位置が高く重さもあるので受け切れない。この相手を突き放すための前蹴りは、ダメージこそあまりないが、こちらから距離を詰めることを許さない非常に厄介な技だった。
半月はなす術がなく突き飛ばされる。ロープに寄り掛かる。するとまたガオグランが走って仕掛けてきた。
「気を付けろ! 次に来るぞ! 防御じゃ!」
柳生が悲痛の声を上げた。
「読める」
攻撃が読める。
半月は冷静だった。
この前蹴りは攻撃の起点、まだ見せてない本命があるぞと覚悟を決める。上体を小刻みに揺らして的を絞らせない。
一発目、ガオグランの大きくステップインしながらの高速の左ジャブ。速いがタイミングがわかれば対処し易い。半月は相手の左ジャブを自身の右拳で外側から弾いて落とす。パーリングと呼ばれる技術だ。
二発目、ガオグランの力のこもった右ストレート。基本的なワンツーだったため、これも半月には準備が出来ていた。半月は頭を左に振りつつ、これも相手の右ストレートに対し自身の左拳で外側からこれを弾く。
三発目、文句を付けようがないワンツースリー。ガオグランの鋭い右ハイキック(上段回し蹴り)。これが一番当てたい攻撃の筈、半月は完全に見極めてきっちりと間合い分上体を反らしてスウェーバックで完全躱す。
ここだ。
そう半月は確信する。
半月は反らした上体を戻し、相手の攻撃の引きに合わせて跳び込む。反撃に打って出る。ガオグランは空振ったハイキックの足と腰の勢いが止まらず、回し蹴りを打ち切って半月に無防備な背中を晒した。
だが、ガオグランは止まらなかった。
「ジャアアアアアアアアアアアッップ!」
ガオグランは蹴った右足を着地させる。すると今度はその右足を軸にして、間髪入れず跳んだ。そのまま空中で相手に浴びせるように、相手の頭部を横から狩るような左のバックスピンキック(後ろ回し蹴り)を半月へ放ったのだ。
ハイキックは囮。空振りで隙だらけと思わせ、カウンターを誘ってからの跳躍を伴う全体重を乗せたバックスピンキックが正真正銘の本命であった。一撃、二撃、三撃に続く魔の四撃目。
ガオグラン、やはり驚異的な身体能力を持ち主だと半月は再度感服させられる。
「グゥゥウ!」
半月の跳び込んだ体は止まらない。間に合うかは不明だが、相手のバックスピンキックを、潜るように体勢を低くして躱すしかないと体が勝手に判断した。右に体を捻ったダッキングである。
躱し――ッッ! た――――。
半月は頭を捩じった。半月のこめかみから頭の頭頂部にかけて、ガオグランの魔の蹴りが掠り通過した。
ガオグランが驚愕の表情を浮かべたまま、蹴りの勢い止まらず正面を向く。ガードも開いたままの無防備な体を半月に晒した。
「勢ッッ!」
半月は相手の蹴りを潜り、屈むことで足のバネに力を溜めていた。これを解き放つ。
半月は勢い余って跳び上がるのではないのかと思うほど体を伸ばした。それと同時に斜め下からガオグランの頭部にフックとアッパーの中間の軌道を描く力の限りの拳を打ち込んだ。
「――ッ!?」
ドスンと大きな家具が倒れたような音がした。
ガオグランの頭が斜め後方に大きく弾け飛んだのだ。そのままガオグランはマットの上に仰向けに倒れ込む。その顔を確認すると目をカッと剥いたまま全身をビクつかせ痙攣していた。どうやら失神しているようだった。
「ガゼルパンチ……」
柳生がそう呟いた。
「………………十、数える必要はないな」
ガオグランには自信があったのだろう。確かに強かった。自分から勝負を申し込んで来るだけはあると半月は納得した。そして半月は精根尽き果てて残心を取る余力もなく、その場に仰向きに倒れ込む。
「――ッ!」
緊張の作る静寂なジムのどこかから、最近になって良く聞くようになった声にならぬ口から息の漏れた呻きとパチパチという場違いな音が響き渡った。
半月はリングの上で寝たまま、音の方に視線を向ける。
少女がいた。ここにいる筈のない、しかし見間違う筈のない、綺麗な純白の髪に褐色肌の小さな少女がいた。
イヴがジムの隅で、口を半開きに開けながら興奮したように拍手をしていた。
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