第一章 一人ぼっちの怪物 その四

 どうということはない。ただ知人を部屋に招いただけ、その筈だった。


 半月は家に少女を迎えると、まず少女を風呂場に案内した。


 夜で水流れる音が近所迷惑もあったかもしれないが、少女のことを第一に考えて少女が風邪を引かぬようにと浴槽にたっぷりと湯を張ったのだ。長い間外に放り出され冷え切った少女が、体の芯まで温まれるようにとの配慮である。


 当然の対応だったと半月は思う。


 それがどうだ?


「ッ……」


 半月は絶句する。


 今少女はお風呂上りで湯気をまとい、その肌や純白の髪を僅かに濡らして、頭にカチューシャをしただけの生まれたままの姿で佇んでいた。


 彼女は身寄りがなくなってまだ日が浅いのか、太陽の下で輝く小麦のように美しい褐色肌を晒している。少し痩せているが女性的な柔らかい肉もあり、その艶めかしい素足からくびれのある腰、首までの体を構成する体の優美な曲線は好色と言うよりは最早芸術と言っても良い。そして僅かに膨らみのある未発達の胸部や大事な部分を隠そうともしない。


 少女は布団の敷かれた四畳半の部屋、その中央に座り込む半月の前に立つ。


「ど……どうした? 服を着たらどうだ?」

「(フルフル)」


 少女は半月の発言を否定する。


 勿論半月は少女が入浴している間に男物ではあるが下着のシャツとパンツ、それにジャージの上下もちゃんと用意したのだ。


 それを少女は着なかった。


「すまん。服が大きかったか?」

「……」

「何か思うところがあるのか?」

「……」


 少女の体は僅かに身震いする。視線を下に落とし、顔つきには恥じらいがあった。


 半月は少女の意図が分からない。


 少女は口が利けないため、会話は首を縦に振るか横に振るか程度のことしか出来ない。普通ならば筆談という手もあるのだろうが、教養のない少女には文字を読むことも書くことも出来ない。


 何かきちんとお互いの意思疎通が出来る手段があればと切に願う。


「そんな恰好じゃ風邪を引くぞ……」


 半月は少女の目から視線が外せなかった。


 少女の容姿に大きな問題があったからだ。


 艶のある背中まで伸びて獣の耳のように外にはねた純白の髪、巨匠が魂を込めた一筆でさっと描いたかのようなほっそりと整った顎、紅もつけてないのに桃色の薄い唇、そして澄んだ琥珀色の瞳を持っていた。


 まだ女と呼ぶには早いつぼみのようなこの少女には、悪魔的な魅力があった。路上で出会った時には薄汚れてわからなかったが、この少女は年齢にそぐわない妖しさを内に秘めている。将来必ず化ける、そう半月は確信させられた。


 何か訳があってストリートチルドレンの真似事などをしていたのかもしれない。この少女にはそんな危険な香りがした。


「ぁ……ぅ……」

「ぬぬ……」


 少女は腰を下ろし四つん這いになる。そして半月に迫った。ポスンと半月の胸に顔を埋めて半月の体に抱きつく。


 半月は全く動けなかった。


 さすがに少女が何をしようとしているのか分かったのだ。いや察していたが認めたくなかったというべきだ。自分は今誘惑されている……ということを。


 半月は青春の大半を貧民街で過ごした。母以外からの愛情なぞ知らず、憎しみと暴力の中で生きてきた。従って性行為などは理性よりも動物的な本能に根付いた情動によって行われるものであると信じていた。神が与えた愛の表現、精神的な絆を深める尊い行為などと言われても欺瞞にしか聞こえてこなかった。


 だからこそ人との交わりを恐れていた半月は、低次元な衝動と表向きには嫌悪し馬鹿にしていた性というものを実は心の奥底では神聖視している節があった。


 ここで欲望に身を任せ、流される訳にはいかなかった。


「違う……」


 半月は少女をそっと、けれど拒絶するように押し退ける。


「フッ……」

「その、すまない……でも俺はお前にそういうことをさせるつもりで声をかけた訳ではない……それはわかって欲しい」


 少女は自身の両腕を用いて、体を抱くようにして身体を隠した。震え声を出し、顔も紅潮させて困惑の表情を浮かべて半月を注視する。


 半月にも戸惑いは残る。しかし少女の声にならない音を聞いて少し冷静になってきた。恐らく少女が望んで行動した訳ではなく、やむを得ずの行動なのだ。


「もし、俺とお前、きちんと言葉を交えて話し合うことができたなら、どれだけ良いことかと思う……」


 半月は少女に恥をかかせてしまったと思った。己が気紛れで行動した罰が早速下ったと感じた。


 捨てられたペットを拾う気軽さで声をかけた少女は、半月が考えていたよりもずっと賢く、ずっと臆病で、ずっと健気な人間であったのだ。


 大方、この少女は親切というものに慣れていないばかりか、それを心のどこかで恐れているのだ。


 だから少女は自分なりに半月と平等な関係を築こうと、出来る限りの礼と誠意を示したつもりなのだろう。それか何かを差し出さなければ追い出され、自分の居場所を作れないとも考えているのかもしれない。


 確かに何も持たない少女に出来ることは少ない。使えるのは自身の体ぐらいなものだ。それでも強い気持ちがないとこんな大胆な行動には出られない。


 芯の強い娘なのだ。


 半月としては少女の意思は汲んでやる必要があった。


「今日はもう遅いから寝るぞ」

「……ん……」


 少女は気落ちし、そっぽを向いていじけてしまう。


「まずは意思の疎通の方法を考えなくてはな……」


 半月はそう少女にも聞こえるように独言する。そして少女を見つめた。


 言葉を持たないこの少女は、今までどのように生きてきたのだろうかと想像する。


 多分大変だったろうし、半月以上に孤独だった筈なのだ。意思の疎通ができればこれからの少女の人生は大きく好転するだろう。その手助けをしてやりたいと思えた。


「……」


 少女は半月の独言を聞いていた筈だが、へそを曲げたように半月を無視する。


「いいか、俺は花屋の店主のように甘くはないぞ」


 花屋の店主のように少女を簡単に見捨ててやったりなんかはしない。そう半月は心に誓った。


「…………」


 少女は与えられたジャージに袖を通すと、挑発的な物言いをする半月を睨んだ。


 半月はコミュニケーションが得意ではない。こんな風に人を怒らせるような励まし方しか知らない。


 それでも少女は謙虚に振舞う必要なしと判断したようで、緊張は解けたようであった。一日疲れたのだろう、黙って布団に潜るとすぐに小さな寝息を立てた。


 そんな少女の寝姿を見て半月は決心した。自分には地位も教養もなく、大人としてひどく頼りないかもしれない。それでも出来る限り少女の保護者であるように、誠実に振舞わねばならないと決心した。


 この日八百長で負けを強要され、格闘家としての尊厳を奪われた夜行半月という半人前に、重い責任ができた。

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