第一章 一人ぼっちの怪物 その三

 そうして半月は花道を担架で運ばれ、着いた先は古い選手控室だった。


 半月は鳥肌が立つような寒い部屋の中、背もたれのない長いソファに寝かされる。寝た振りをしたまま、スタッフから掠り傷や打撲、腫れた鼻の応急措置を受け、氷で冷やされ、圧迫される。


 そしてそれらの作業が一通り終わると、柳生は手早く用事を済ませて帰りたいと思っているのかスタッフを締め出してしまった。


 そして柳生は懐から新しい煙草を取り出し、火をつける。


「半月、もう寝た振りは良いじゃろ。さっさと金の話をするぞい」

「……爺、俺の前で煙草を吸うな」


 半月がむくりと上体を起こすと柳生に煙草を消すよう促す。この部屋は煙草臭い、汗臭い、そして血生臭い、そういう場所であった。


「なんじゃと、……いや、そうじゃの……すまん」


 柳生が少々苛立つように、けれど言われた通りに備え付けられた流し台で煙草の火を消す。そしてロッカーから薄い白い封筒と分厚い青い封筒を取り出した。


「半月、お主は負けたから十七万だ。この中からロッカー代三四五〇、シャワー代五七五〇、それに残った分からみかじめ料の三割を引いて、……手取りは十一万ちょい」


 柳生はそう説明して薄い白い封筒を差し出す。


「もう片方は?」

「アメリカ人は羽振りが良い、主の分け前は六十万じゃ」


 そうして柳生は分厚い青い封筒も差し出した。


 この試合には台本があった。


 つまりは八百長だったのだ。


 今夜のバーリトゥードを特別席で観戦していたアメリカ人のVIPは、刺激的な試合内容に大喜びで接待は大成功だったそうだ。これで日本という小さな島国の一反社会的集団に過ぎなかった薄翅蜉蝣衆に、立派な後ろ盾が出来るだろう。新しいパイプと拠点が出来るだろうと柳生は話した。


 つまりタイタンや自分だけの話ではなく、薄翅蜉蝣衆の上層部にも話が通っているのだ。所詮自分は大きな組織の歯車の一つに過ぎないと半月は知る。


 半月は二つの封筒を乱暴に受け取る。医師のちゃんとした診察も受けずに着替え、荷物をまとめて、控室を後にする。


 そのまま真っ直ぐ薄翅蜉蝣衆の違法賭博施設を去った。



*****



 半月が電車を乗り継ぎ、自宅の最寄り駅に着いた頃には夜も更けていた。


 電車の人混みの中でも、静かな真夜中の街の中でも、半月は先ほどの試合のことを思い返す。


 試合を八百長にしろと言われたのは試合のほんの三十分前のことだった。


 確かに格闘家を名乗る以上、普段からコンディションを整え、己を鍛え磨き、常住坐臥戦うことばかり考えてきた。


 そんな半月であったが、それでも今日のバーリトゥードが決まり心が躍った。試合までの五週間と二日、大一番になると意気込んでいつも以上に入念に準備してきたのだ。


 それを八百長で、仕組まれた敗北で台無しにされた。


「俺は馬鹿だ」


 半月は自虐する。


 少し考えれば分かることだった。


 タイタンはレスラーだ。レスラーは年間百を超える試合をこなすと聞く。平均すれば三日に一回戦っている計算となる。日常から戦いに身を置く彼らにとって体は最も重要な資産なのだ。それなのに何の算段もなしに危険なバーリトゥードに出場する訳がない。


「やりがいだけでは飯は食えんしな」


 半月自身だってそうなのだ。今回はたまたま向こうさんから六十万貰ったが、薄翅蜉蝣衆から出た純粋なファイトマネーはたったの十一万だけだ。これだけの収入で生活するのは難しい。


「弱い奴はどの世界でも搾取される……」


 そう、仕方のないことなのだ。


「救えねぇ……」


 半月は、自分は格闘家として上手くやれただろうかと顧みる。


 例えば上段回し蹴りがタイタンの頭に入った時、しっかり追い打ちしていれば勝てただろうか? 例えばタックルに来たタイタンを膝で潰した時、手加減しなければ勝てただろうか? 例えば猪木アリ状態になった時、跳躍してきたタイタンの股間を攻撃すれば勝てただろうか? そもそも勝利へのきっかけを作ったスタンディングでの殴り合い、確かに手応えがあったが、ただタイタンが自分に見せ場をくれただけではないのか?


 色々と思考が巡る。あくまで仮定の話で考えてもしょうがないことではあるが、考えずにはいられない。格闘を除いてしまえば自分には何も残らないことを半月は知っている。


 今回はその尊厳すら奪われた。


「チッ、冷えるな」


 空を見上げれば、いつの間にかパラパラと雪が降り始めている。


 半月は街灯の点けられた商店街を静かに歩いてゆく。


 もうすぐ家に着く。誰もいない、何もない、あの孤独の聖域に着いてしまう。しかしそれは自業自得で仕方のないことだ。疎まれることを恐れて対人関係を避けてきた罰だ。


 帰ったらまずは酒を一杯やろうと心に誓う。


 頭部に攻撃を受けた格闘家が直後に飲酒をするのは脳内出血を引き起こす可能性があり、危険な行為である。しかしどうせ八百長、見かけほどダメージはない。


 たまにはたっぷり酔い潰れるのも良いだろう。憂さも晴れるし不安も除けられる。それにこういう冷える日に飲む日本酒は絶品だ。


 そうして商店街の出口が見えた。見上げれば自宅が見えるところまで辿り着いた。少し離れているが、歩道の先に酒を売っているコンビニが新しくできたはずである。今も開いているだろうかと様子を伺う。


 すると近くの歩道を照らす街灯の下、ジュースなどを売る自動販売機の隣で何やら影がうごめいた。


「ぬ?」


 同じ考えで無謀にも外で酒を飲み、酔い潰れて嘔吐して動けなくなっている人間だろうか? いやそんなに切迫した状態ではないようだった。ただそこに座っているだけのように推察できた。


「子供か……?」


 目を凝らして見つめると、それは灰色のパーカーを着込んだ子供のようだった。自動販売機の出す熱で暖を取り、風を避けているようだった。自動販売機に身を寄せて、体を体育座りで小さく丸めて座り込んでいた。フードを深く被って俯いている。


 ……こんな雪の降る夜更けにまさか、そんな疑念が頭を過る。


 半月はゆっくりと子供の傍まで歩く。


 やはり例の少女だった。最近見かけるようになった口の利けない花売りの少女だ。


「今日は冷えるな……」

「…………(コクリ)」


 フードを深く被って俯く彼女はまるで小さなハリネズミのようであった。半月が声を掛けるともぞもぞと体を動かし、少しだけ顔を出す。こちらを一瞥するとまたフードを被り直し、俯く。そして一度だけ僅かに頷いた。


「花は……ないのか?」

「(フルフル)」


 少女は俯いたまま、黙って首を横に振った。


「こんな真夜中にどうした? いつも仕事が終わると花屋に帰っているだろ?」


 少女は身寄りがなく、今は花屋に住み込みで働いていることを半月は知っている。それがなぜここに座りこんでいるのか不思議だった。


 少女は答えない。首を縦にも横にも振ることはなかった。ただ黙殺する。


「……クビになったのか?」

「っ……」


 少女は黙殺する。ただ図星だったのだろう、体育座りで足を抱える手がギュウと強く握られていた。花売りの仕事をあんなにひたむきに頑張っていたのに、気の毒な話だ。


 半月は少女の隣の自動販売機に小銭に投入する。そのまま温かいコーヒーと温かいココアを購入する。二本の缶を持って少女の前に座り込んだ。


「風邪引くぞ。飲め」

「…………ン」


 少女はフードの隙間から缶を覗くとおずおずとコーヒーを受け取った。「そっちのブラックコーヒーを取るのか」と呟く半月を尻目に、かじかんだ手を温かい缶で温め、ゆっくりとコーヒー缶の蓋を開けて一口コーヒーを飲む。


 少女の口から白く温かい吐息が漏れた。


 半月はそれを見届けると少女の隣に座り込んだ。手早くココアの缶の蓋を開けてこれを飲む。温かく甘い。


 真っ暗闇の中で、街灯だけが淡い雪と自動販売機、そして隣に座り合う二人だけを照らし出す。


 半月は口下手だ。だからこういう時、何を話して良いかわからなかった。対し少女は無気力で、なるようになれといった感じで、コーヒー片手に退屈そうに押し黙ってしまう。


 半月にとっては重苦しい沈黙が場を支配する。


 仕方ないので半月は自分のことを語り出した。


「大の大人が恥ずかしい話だが、俺は殴りっこで飯を食っている」

「…………」

「今日は負けてしまった。ボコボコの面を見りゃ一目瞭然だな」

「…………」

「言い訳ならいっぱい浮かんでくるのだがな」

「…………」

「結局のところ俺もまだまだ弱いってことだ」

「…………」

「上手くいかないものだ」

「…………」


 半月は自分の弱みを吐き出すように話した。


 しかし半月が話す間、少女からは何の反応もなかった。少女はずっと俯いたまま殻に閉じこもり、無視しているようであった。それは「放っておいて欲しい」という拒絶にも取れる。


 だから半月は困った。


「俺もそんなものだし、お前もあんまり気を落とすな」


 半月の発言はあまりに無責任なものだった。


 少女の状況は切迫している。このまま朝まで待てば少女は新鮮な死体になってしまうだろう。それを半月は遠くから眺めて「あの娘は運がなかった。あぁ可哀想だな」と軽く思うぐらいなものだろう。そして十秒後には忘れている。その程度に決まっているのだ。


「その……お前、これからどうするのだ?」


 聞かなくても大体想像が付くが、半月は一応尋ねてみる。


「……(フルフル)」


 やはり少女は俯いたまま首を横に振った。


 世の中は不幸に溢れている。半月は一々他人のことなど気にしてもしょうがないのだと自分に言い聞かせる。しかし見捨てるのも後味が悪いのも事実。


 半月は頭を抱えた。


「畜生……」


 一時の感情に流され、責任も持てないのに哀れに映る少女を助ける。それはなんて高慢で偽善じみた考えなのだと半月は思う。そんな糞みたいな考えは早々に捨てるべきであった。だが半月には心にある思いが過る。


 慰めて欲しい。


 諦観して一人を受け入れた筈だった。


 でも本当は孤独がつらい。


「俺には何にもない……それでも……お、お前さえ良ければ――」


 その願いを少女に伝えられたら良いのに、半月にはどうすれば良いかが分からない。上手く言葉に出来ないのが歯痒い。自然に上から目線の物言いになってしまう。


 半月は手に持った甘ったるいココアを全て飲み干すと、勇気を振り絞って少女に話す。平静を装ってはいるが、自分の声は上擦っている。鏡で見ずともタイタンに殴られた時以上に、自分の顔が火照っていることが半月にはわかった。


「――付いて、…………来るか?」

「…………………………………………………………………………ん」


 少女は決意めいた表情で頷いた。

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