第八章 無限大の正義 その二
次の日の江東区、ここも東京のど真ん中だというのに空が広く見える。辺りは建物のない見晴らしの良い芝生の訓練場が広がっていた。そこにしとしとと雨が降る。昨日より強くなった雨は警察予備隊本部で対峙する草薙達と警察予備隊員達の体から熱気を奪って行く。
「まず我々の戦力を示す必要があるな。交渉はそれからだ」
草薙と霧崎と霧崎の私兵三十人は警察予備隊本部に到着した。すると周りには三百人を超える隊員達と戦車十両が武装して待ち構えていた。全員が普段は用意されていない筈の銃で武装している。向こうもそれなりに準備してきたということだろう。
「良いのか? 俺が変身すればお前の私兵に犠牲は出ない」
「いや、私達の戦力が君だけでないことを証明したい。それに何が起きても良いように、念のために君の力は温存しておきたい」
遮蔽物のない開けた空間で霧崎の私兵の武装は射程距離十間程度の拳銃と刀のみ、一方警察予備隊員の武装は射程距離四町もある歩兵銃、一見して、勝負は決しているように思えた。だが、霧崎には切り札がある。
「決死隊! 前へ!」
霧崎の今いる私兵の三分の一に当たる十人が一歩前へと歩を進める。そして全員が懐から一本の注射器を取り出す。
「変身せよ!」
十人が自らの腕に注射器を刺す。
それはかつて薄翅蜉蝣衆の久我虎彦が使った変身薬を改良した物であった。旧日本軍が開発した通常の人間でも変身ができるという変身促進剤である。しかし薬物接種から数分で肉体が崩壊し、死に至るため、兵器としてはまるで使い物にならないと旧日本軍が結論付けた失敗作であった。
霧崎は変身促進剤によって引き起こされる変身を調節して、崩壊を遅らせ、変身を長持ちさせることに成功した。通常の変身形態よりも戦闘力は落ちるが、それでも圧倒的。崩壊の時間は従来の十倍程度で個体差はあるが一時間ほど。
「安定剤注入!」
十人全員の筋肉が醜くぶくぶくと肥大化し、皮膚は灰色に変色していく。体躯は十尺に到達し、額には二本の角が生えた。口からは血の蒸気とも言うべき赤い吐息が溢れ出していた。皆、懐から更にもう一本の注射器を取り出しこれを刺す。
「行け!」
霧崎は私兵の不安定性突然変異が安定したことを見計らうと突撃の指示を出す。
そこからは虐殺だった。銃なぞ役に立たず、隊員は武器を捨て逃げ惑う。それを追いかけて殺戮する私兵達、彼らは命を捨てる覚悟で変身したのだ。自分達に残された最後の時間でできうる限りの暴力を行う。
「私はお前達の屍を踏み越えていく。お前達の死は無駄にはしない」
霧崎はそう呟いた。
****
「それで、貴様等無限大の正義の会の目的は何だね?」
鷹山警察監は端的に聞いた。
鷹山警察監は早々に降伏し、警察予備隊本部の施設内の書斎で黒い皮の椅子に腰掛け、逃げも隠れもせず正面から霧崎と草薙を出迎える。
部下には全員に席を外すよう命令した。一人で霧崎と相対することを鷹山警察監は望んだが、鷹山警察監の右腕とも言うべき警察監補である安岡と言う男だけはどうしてもと言って部屋に残っている。
「警察予備隊の力をお貸し頂きたい」
霧崎もまた端的に述べた。
「何のために?」
「よくある話で恐縮ですがね、武力による国家転覆です」
「霧崎と言ったか、国家を脅かし、その果てに何を望む? 権力か?」
間を置くように、鷹山警察監は煙管を吸う。それに合わせて、霧崎と草薙も煙草を吸う。霧崎は一息、煙をゆっくり吸い込み、鼻の奥で香りを感じるようにしてから吐き出すと言葉を紡いだ。
「権力……それも良い……けれどね鷹山さん、そうじゃないんですよ。私は国内で戦争がしたいのです。一度全てをリセットして歪みを取り除きたい」
「歪みじゃと……今は長くつらかった世界大戦も終わった……。若者の尊い命を食い潰した争いは終わったのだ! そして復興も軌道に乗ってきて多くの国民が経済成長の益を受けている。多くの民の暮らしは豊かになっているこれ以上何を望むというのじゃ!?」
その豊かさ、経済成長も朝鮮半島という生贄の上にあってこそだと草薙は内心思った。だが、口には出さない。
「この国には貴方の言う益にあずかれない者もいるということです」
「誰のことを言っておる」
霧崎は深い溜息を吐いた。
「とっくにご存知でしょう? 日本人一致総団結に加われなかった者達ですよ。戦災孤児や在日外国人、部落民や障害者です。彼らは不当に搾取され、虐げられ、差別され、屈辱を食らわされている」
「平和的な解決を目指すべきじゃ」
「…………何事も暴力が一番手っ取り早い。従ってもらいますよ」
「ただのクーデターならよかった。しかし君の話を聞いて気が変わった。国を滅ぼす戦争は許容できぬ。儂は……協力できぬ」
「残念です」
互いの主張は食い違い、話がまとまらないと霧崎は諦めた。
「あの惨禍を覚えていないのか!? あの悲劇を繰り返すのか!? 先の戦争での死者は七百万、数字にするのは容易いが想像を絶する人の数だ!」
鷹山警察監は思いとどまるよう必死に切言する。けれど霧崎は残念そうに目を伏せるだけだ。鷹山警察監の声は届かない。
「草薙君、頼む」
「あぁ」
机を間にして、鷹山警察監の前に草薙が立つとゆっくりと手を天井にかざす。そして手刀で喉を切り裂いた。「カハ」と最後の声を漏らし、もがいて突っ伏すように血飛沫と頭を机の上に落とした。
「安岡警察監補、駄々をこねてもこうして犠牲が増えるだけです。協力をお願いできますね?」
「……わかった……第一管区隊は貴様等の傘下に入る。ただし政治家達への根回し、各部署への連絡、武器の調達、全てを行うのに最低三日はかかる。それはよろしいか?」
「根回しは結構です。どうせその政治家も殺しますからね。連絡は速やかにお願いしますよ。そうでないと今度は貴方が犠牲になる」
霧崎の狙いは東京の警察予備隊の妨害を阻止することであり、第一管区隊を沈黙させた以上その目標は達成できた。
実のところ裏切られる危険をおかしてまで傘下に置く必要はないのだが、いずれやって来るだろう第二、第三、第四管区隊の部隊と交戦するのに時間が稼げるだろうと踏む。同じ組織内で戦うのであれば士気も下がるからだ。
「……全てが貴様等の思う通りに行くと思うな」
ずっと鷹山警察監の脇に控えていた安岡警察監補は毅然とした態度で霧崎とその私兵と草薙に言い放った。書斎に伝令役の霧崎の私兵が一人入ってきてこっそり霧崎に耳打ちをする。
「死刑囚第二号と第四号? それに第二、第三、第四管区隊の遊撃士か、予定よりも早いな」
聞き耳を立てていた草薙が部屋を出る。草薙はようやくまともな敵と出会えた喜びに打ち震えていた。
****
ぽとんと一滴、満月の額に雫が垂れた。
「うぅ……」
「寒いか、満月? 俺のせいで……すまない」
「いいえ、大丈夫です。二人なら」
狂四狼と満月はお互いを抱き締める形で温め合っていた。
二人は共に麻の白い肌着一枚にされ、洞窟の一部を掘削して作ったかのような座敷牢に囚われている。
狂四狼は一度だけ外に出され、何の物かわからない薬を投与され、レントゲンを撮ったが、何に使うのかは不明だ。大方改造人間の実験でも行うのだろうと狂四狼は予測した。
そこは夏だというのに酷く寒かった。外はもう夜なのだろう、辺りは暗く、肌を撫でる風は淀んでいる。雨漏りが酷く、冷気と雨粒がしとしとと降り注ぐ。畳のすぐ下は地面で、格子の反対側は岩なので冷え切っており、傷にさわる。掃除されていないようで埃が積もっており、咳が止まらない。
周りを観察する。動けば体に蜘蛛の巣が付くし、鼠が牢獄を走り回り、イモリが岩壁に張り付いて、足下には百足がいた。
ふと格子の向こうから灯りが見えた。コツコツと足音が聞こえて、灯りが近づいて来る。
「不死身、医者を連れてきた。診察を受けろ」
「懐かしいのう……元気か不死身?」
前田上官と間田白と言う医師が格子の外側に立っていた。前田上官が鍵を開け、中に間田を入れる。
間田は戦争中ありとあらゆる前線に足を運び、強引とも取れる手段で神が与えた才能ともいうべき腕を振るい、片っ端から兵士の治療を行った名医だ。
もう怪我人を量産する戦争に飽きたのか、今はのんびりとした岩手の下町で小さな病院を経営して地元の患者を診ていると聞く。そこで間田は子供から老人、政治家からヤクザまで片っ端から治療していく様が無数の手を持っているようだとして、千手観音とも揶揄されているそうだ。
戦争中、何度か間田白に狂四狼は診察を受けていた。狂四狼にとって一番世話になっている医師だ。
「先生が……なぜわざわざ?」
よっぽどの重病患者がいない限り往診はしない主義であるらしいが、なぜこんな所に間田がいるのか狂四狼には分からなかった。
「今回特別に警察予備隊がお前のために連れてきた」
「俺のような脱走兵になぜ……?」
前田は目を伏せる。
「訳は後で話す。今は診察を受けなさい。自分のためにも、そして隣にいる妻の夜行満月さんのためにも」
間田はスーツケースを広げ、慣れた手つきで医療器具を取り出した。
狂四狼は促されるまま、座敷牢に備え付けてある布団を広げ、その上に横になる。
そのような状態で間田が狂四狼を首から肩、上腕、前腕、手、尻、肋骨、大腿、下腿、脹脛、と全身の末梢神経を触診し、後ろに蛍光灯の付いている持ち運び可能な白いボードの上に置いた全身のレントゲン写真を見比べている。
「不死身、右足を失ってから何度変身した?」
「十二回です」
「痺れはあるか?」
「右手、肩、腰にあります」
「絶望的じゃな」
「ッ!」
一言狂四狼に告げ、満月が震えた。
「そうか……」
悪いとは思っていたが、改めて医師に告げられるとそれなりに衝撃を受ける。
ついでに間田は口内を覗き、血圧を測り、心臓の鼓動と脈を診て、注射器で血を抜く。
「左腕と右足の神経が断裂していると話したことは覚えているか?」
「はい」
「変身を解除すると末梢神経組織の変異が起こる。その時に神経の一部が傷ついたりするが、これは自然治癒する。だから運が悪いか、連続で変身しない限りは大抵の肉体の欠損は防げる。しかし神経が完全に断裂して広範囲に裂離してしまえば自然回復は見込めないと説明した筈だが?」
「必要に迫られたため」
「馬鹿たれ」
間田は軽く狂四狼の頭を叩いた。
「あ、あの……旦那様の体はこれ以上悪くなるのでしょうか?」
満月がすがるように間田に質問する。
「このままでは左腕と右足と左目だけでは済まぬ。変身すればどんどん悪化する。既に神経の遮断、麻痺が各所に見られる。最悪死も考えなければならない非常に危険な状態だ」
間田は「馬鹿に付ける薬はない」と呟き、聴診器、血圧計、消毒剤、ペンライトを片付けて帰り支度を始めた。
「絶対安静。良いか、変身するんじゃないぞ」
そう捨て台詞を残して間田は座敷牢から去った。そうして狂四狼と満月と前田上官だけが残される。
「不死身、お前にやって貰いたい任務がある」
「そうだろうな」
狂四狼はふぅと短く息を吐くと布団から起き上がる。
「東京で無限大の正義の会と呼ばれる反政府勢力がクーデターを起こそうとしている。その中には不死身と同じ改造人間である草薙空我という男がいる。この男を討ち取って欲しい」
「い、今の話を聞いてなかったのですか!? 旦那様は変身すれば死んでしまうかもしれないと言われたのですよ!?」
満月が両手を広げ、狂四狼と前田上官の間に割って入る。満月は目には強い力が宿っており、その小さな体で精一杯自らの意思を主張している。
「夜行満月さん、貴方の言うことも尤もだ。我々も草薙空我と言う男を抹殺すべく東京に空爆を行っているが、それで奴を倒せるとは思えない。不死身狂四狼の力が必要なのだ。そうでないと日本は内戦への道を歩むこととなる。同じ日本人同士で殺し合うこととなる」
「そんな大きな荷を旦那様一人に背負わせないで下さい!」
「我々警察予備隊は貴女を拷問してでも不死身を戦場に立たせる用意ができている」
「やる」
狂四狼は小さな声で、しかしはっきりと、宣言した。
「やるよ」
「旦那様……」
「不死身……」
勿論ここでやらねば満月自身まで脅かされるということもある。だがそれだけが問題ではない。自分はまだ戦場でやり残したことがある。そのことを狂四狼は分かっている。それは風助との闘いでわかった。自分は皆を見捨て、裏切ったのだ。もう逃げない。
「前田上官、遊撃士中隊に強いストレスに晒され、精神に異常を来し、薬物に手を出している者がいる。彼らにカウンセラーを与えて救ってやってくれ」
「わかった。約束しよう。しかし彼らは既に出撃してしまっている」
風助やかつての仲間である遊撃士中隊はその高い機動力を買われ、無限大の正義の会に迎撃態勢が整ってない今、既に出撃してしまっているとのこと。狂四狼が彼らを救うには直ぐにでも出撃して後を追う必要があった。
「車はあるか?」
「外の滑走路に旧日本海軍からのお下がりの零式艦上戦闘機が泊めてある。それでお前は明日の朝二時にここを出発して東京へ行く。二時間後だ」
「時間がないな」
「そうだな草薙空我を倒す作戦の説明がある。それを考慮すると、もう出発だ」
「……どうして行くと決めたのですか? 私が枷になっているからですか?」
満月が狂四狼に悲痛の面持ちで問いただす。
満月の目には大粒の涙が浮かんでいた。その小さな握り拳は震え、歯を食いしばって嗚咽を堪えている。満月は蚊帳の外で、足手まといで、何もできない己が悔しいのだろう。
そんな姿さえ愛おしいと狂四狼は思う。狂四狼は立ち上がり、そっと満月の頭に手を置くとゆっくりと撫でてやる。
「そうじゃない。満月、俺は多くの仲間を地獄に導いた。そいつらを助け、そいつらの心を少しでも楽にしてやらねばならない。俺にはその責任があるんだ」
一度は裏切ったが、今ならまだ間に合う。狂四狼の人生で、これが最後のチャンスになるだろう。
「…………」
満月は懸命に、何か言いたそうに、言葉を探した。しかし狂四狼を説得できる強い台詞が見つからない。
「必ず、絶対に、帰って来て下さいね」
「満月、お前はいつも俺を照らしてくれる道標だ。……必ずお前の下へ帰ってくる」
生きる目的を失い、塵芥に埋もれ酒を飲んだ時も、お前は俺を導いてくれた。墓場で俺と共に骨の山に這い上がってきた時も、俺を肯定してくれた。二人で勉学に励みながら昔の自分が決して無駄ではなかったと感じさせてくれた。心が壊れて満月を犯そうとした時も慈愛深く受け入れてくれた。
いつだってお前がいた。そして今回も満月は引いてくれた。狂四狼の意思を尊重して認めてくれた。だから決心ができた。
不調など、どこかへ吹っ飛んだかのように力がみなぎっている。全てを終わらし帰って来る。相手がどんな強敵だろうが関係ない。
身が引き締まる。気持ちが昂る。
「約束ですよ……」
満月が小指を差し出してきた。それに合わせるように狂四狼も小指を差し出し、これを絡め、指切りを行った。
前田上官と共に座敷牢を出る。
こうして狂四狼は戦場へ帰ることとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます