第七章 血の報い その一

「ッッ…………」


 翌朝、狂四狼はまだ夜も明けないうちに目が覚めた。満月から逃げましょうと言われてから四時間しか経過していないが、幻肢痛と呼ばれる存在しない筈の四肢から感じられる激痛が突如襲いかかり跳ね起きざるを得なかった。


 欠落した右足と左腕。ない筈のその二つを万力ですり潰されるような錯覚を覚え、思わず頭を抑える。意識が混濁した状態から一気に覚醒する。


「ハァアアアアアアアアアアアア……」


 痛みを堪えながら深く呼吸をする。


 震える手で袴の中からいつも携帯している乾燥させて粉末状にした阿片を取り出し、飲み込む。鎮痛作用を狙ったものだが、痛みは一向に引く気配がない。


 布団を跳ね除け、水を入れる桶を脇に抱え、打刀を杖代わりに握る。


 外へ出ると上半身は裸、下半身は袴だけの恰好で、まともに走れないその隻脚の体で、狂四狼は脇目も振らずもがく様に本能のまま走り出す。


 走る。


 走る。


 走る。


 昨日の台風の大雨で土は泥となっており、やはり不自由な右足も相まって足がもつれ、無様に何度も何度も転ぶ。そうしてようやく白熱球に照らされた井戸に辿り着いた。井戸から大急ぎで水を汲み、桶の中に入れていく。


「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」


 桶の水面には汗だくで顔面蒼白の狂四狼と、自身の上半身が左右反対に映し出されている。狂四狼は水面に波が立たないようにゆっくりと深呼吸をしながら体勢を整えた。


 そして水面の左腕を映したまま右手を動かし、水面の左拳を開いたり閉じたりして実際には存在しない左腕を強く意識し、左腕があるかのように誤認識させる。


 幻肢痛の痛みを和らげる鏡療法と呼ばれる治療法であった。


「ハ――……、ハ――……、ハ――……」


 やがて痛みが少しずつ引いてゆく。呼吸も落ち着いてきた。


「旦那様……」

「……ッ……すまない。起こしてしまったか」


 顔を上げると満月が白い寝巻のままの姿で立っていた。満月も寝付いてからそれほど時間が経っていない筈だ。さぞ眠いだろう、悪いことをしたと思う。


 狂四狼の異変を察知したのか、満月が狂四狼の傍で座り込み、冷え切った背中と脇差の埋められた左腕、諸刃の刀の埋められた右足を摩擦で温めるように擦る。


「痛むのですね」


 満月はその柔らかな頬を狂四狼の背中につけて、静かに寄り添う。狂四狼を背中から抱き締める。


「もう我慢する必要なんてないんですよ?」


 それは今の幻肢痛の話だけではなく、昨夜の逃げましょうの言葉の続きだろう。良く出来た女だ。心に沁みる優しい言葉だった。


 確かに満月の言う通りではある。狂四狼は自分が汚れ仕事も多くこなせる貴重な人材であることはわかっている。辞めたいと言ったところで警察予備隊は自分を手放したりしない。それに改造人間としての肉体が門外不出の最高機密の塊である以上、一生自由はない。


 逃げるなら国外だ。しかし満月はどうなる?


「良いのか、全てを失うぞ?」


 このまま狂四狼が己の心を殺し続ければ、暮らしにはまず困らない。それに満月を学校に行かせることもできる。その延長上には満月の夢がある。ようやく見えてきた道筋を潰すことになるのではないか? 


 満月は例えわがままを貫くこととなっても『私の心は私の物。私は私の尊厳のために戦います』と宣言した。その誓いに偽りはないのか?


「いいえ、失いません。星はどこにでもあります」


 満月は高らかに天を指差し、優しく微笑んだ。


「俺は良い嫁を貰った」

「夫婦ですから、そう簡単には離れてやりませんよ?」


 あぁ俺は心底この女に惚れている。死がふたりを分かつまでこの女を愛そう。そう狂四狼は誓った。



****



 早朝、爽やかな風の吹くのどかな青空の下、木々の緑が眩しい季節となった。


 いつもとは違う部屋から外の風景を眺める。すると狂四狼は右手の指先をよじ登るてんとう虫を見つけた。狂四狼はゆっくりと空に手を伸ばし指先を太陽に向けてかざすと、てんとう虫はその羽を開き何処かへ飛んでいった。


「てんとう虫は自由で良いな」

「もうすぐ私達も自由の身です」


 狂四狼は警察予備隊の軍医に心身不調と診断され、二か月ほど休暇を貰った。それから一か月かけて入念に警察予備隊を欺く準備を行い、満月と二人で弘前市を脱出し、今は八戸市の港町に身を寄せている。警察予備隊が自分の不在に気付くのに数日間は掛かるだろうと狂四狼は予測した。


「ここは気に入ったか?」

「はい! 眺めも良いですし、ご飯も美味しいです!」


 狂四狼は仕事の関係で、この港町に日本から国外への脱出を手引きする者がいるとの噂を聞いていた。しかし直接つてがある訳ではなく、直ぐに日本を脱出できるかは不明である。長丁場になるかも知れないと思い、聞き込みの前にまず隠れ家を用意した。


 そこは港町の小さな二階建ての長屋の一角にあり、日当たりよしで窓から海も見える潮が香る良い家であった。狂四狼は昨晩ここを拠点に聞き込みを開始し、朝になったので戻ってきたところだ。


 おかげで狂四狼も朝食にもありつけた。ここらで取れたサバ・タコ・カレイなど豊富な海の幸であった。


 それに昼食用として駕籠に入ったイワシ・ブリも頂いた。狂四狼は駕籠の中に入った魚を眺める。彼らを観察していると中々面白い物で、間抜けであるがどうしてか愛嬌ある顔をしている。後で焼いて食おう。日本最期の思い出の味としては中々の物だ。


「今日は私も聞き込み参加します!」


 満月が腕まくりをして意気込みを見せる。


「遊びに来たんじゃないぞ」


 海で泳いだり、はしゃいだりなんかはしない。


「わ、わかってますよ!」

「まぁ冗談だ。気持ちは嬉しいよ、でも大体は把握してある。ただ、事が事だけに向こうも警戒しているだろうし、何が起きるかわからないから俺一人で行くよ」

「嫌です。私達は一蓮托生です」

「うーん」

「私だけ置いていかれそうで怖いのです! 何でも言うこと聞きますからぁ……」


 満月が正面から狂四狼の腰に抱き着いて頭を埋めてくる。そして目をうるうるさせて下から上目遣いで狂四狼の顔を覗き込む。その甘えるような仕草は年相応で可愛らしい。


「後ろから付いて来るだけだぞ……」

「はい!」



 *****



 狂四狼は釣り具を担ぎ、大家さんに挨拶を済ませると満月を連れて海へと向かった。


 狂四狼と満月は砂浜を歩き続ける。隻脚の狂四狼に取って、これは良い鍛錬になるぐらい体力を消耗していた。満月は打刀を杖代わりにして突きながら歩く狂四狼に合わせつつ、すぐに支えられるように右側を歩いている。


 周りには埠頭が砂浜から突き出るようにあり、大きな捕鯨船が停泊している。そこには薄手の着物を着て、腕いっぱいに刺青を掘り込んだ荒くれ漁師が沢山いた。近くに大きな鯨も打ち上げられている。


「凄いですね、鯨。初めて見ましたよ」

「そうだな、戦時で捕鯨船も徴用されてタンカーになったと聞いていたが、新たに建造されていたのだな。これだけ大きな船があるなら人一人くらい紛れ込んでいてもわからないだろう。亡命も難しくないかも知れん」

「希望が見えてきましたね!」


 満月が狂四狼の右手に指を絡める。そしてこれを握った。


「……」

「い、いけませんか?」


 緊張した面持ちで満月が尋ねる。


「構わないぞ。夫婦だしな、当然だ」


 狂四狼は緊張を意識しないように努めながら答えた。


「ふふっ旦那様……顔が赤い」

「うるさいぞ」


 二人は波がさらに険しい浜辺を歩いて行き、やがて巨大な岩礁が広がりを見せる場所に辿り着いた。そこではやや高い波が岩礁に打ち付けている。危ない気もするが、そこには数人の釣り人もいた。潮が降りかかる中、満月は目を細めてこの雄大な景観を楽しむ。


「わー」


 と感嘆の声を上げる満月。連れてきて良かったと狂四狼は思った。


「噂通りならこの辺りだ」


 狂四狼は満月を連れ、岩の足場を気にしながら岬を下っていく。そこで数人の釣り人一人一人を観察して回った。目当ては魚でも絶好の釣りスポットでもない。


「釣れますか?」


 そう言って俺は目当ての初老の男の隣に陣を取り、釣竿に付いている返しのない針を海に放った。


「いえぇ、どうでしょう……釣られたのはあっしの方かも知れません」


 空の駕籠を披露して恥ずかしそうにツルツルの頭を撫でながら顔のしわを伸ばし、屈託のない笑顔を浮かべる初老の男。ビンゴ、この老人が運び屋だ。この返しのない針こそが合図だったりする。狂四狼は無事に辿り着いたことに安堵した。


「ここでは何ですので、場所を変えましょう」


 釣り具を仕舞い、狂四狼と満月を導く老人は慣れたように岩の崖に沿って足場の悪い岩礁を歩いて降りて行く。狂四狼と満月も付いて行き、ゆっくり慎重に岩礁を降りていくと穴の空いた岩盤が見えてきた。


「ここです」


 穴の空いた岩盤の中は人が入れるくらいの空間となっていた。途方もない波浪を浴びせられ、少しずつ削られ浸食されてできた海蝕洞と呼ばれる洞穴である。


 中は薄暗いが吹き込む風で波飛沫が舞い、気持ちが良い。さらにそれが差し込む太陽光を乱反射させ、キラキラと宝石のように輝きだす。まだ冷たさの残る波が足下に入り、草履を濡らすが構わない。


「地元の漁師しか知らないし、知っていても滅多に来ない。そういうちょっとした秘密の洞穴です。ささ中へ中へ……」


 促されるまま狂四狼と満月は中へと入る。中には石でできた台と椅子らしきものがあり、二人はそこへ腰を掛ける。


「秘密基地みたいで楽しいですねドキドキします」

「そうだな」

「それで、お二人で愛の逃避行ですかな? いやぁ若さというのは私のような年寄りには眩しい……どこまで行かれますか?」

「「……」」


 無言で目を合わせる狂四狼と満月。しまった、散々逃げよう逃げようと話してはいたが、どこに行くかまではさっぱり話していなかったと今更気が付く二人。馬鹿か俺はと狂四狼は自己嫌悪で、どこが良いだろうかと考える。


「満月、好きな国はあるか?」

「えぇ! そんな大事なことを私の気分で決めてしまうんですか!?」

「確かに……適当すぎるか……運び屋のプロの目から見て、比較的行きやすい国はどこだ?」

「そうですね、やはりソ連や中国など近い国が行きやすいですな。今後の世界情勢を考えてみると西側諸国でも東側諸国でも軍事力が強い国が良いと思われます」

「両方共、共産主義国だな」


 民衆が平等なのは良いことだが、満月のことを考えるそれが最善とも思えない。


「比較的自由な国が良いのだが?」

「でしたら西側、特に自由の国と呼ばれるアメリカが良いですな。本土は遠いですが、沖縄でしたら亡命も難しくはありません」


 アメリカ……狂四狼に取ってその国はあまり良い印象はない。かつて日本を震撼させたテロリストである薄翅蜉蝣衆に武器を与え、後ろで支援していたのがアメリカだからだ。


 民主主義国家の筈だが、政府やマスコミなどの権力を持った機関は民衆を操るのが上手いと旧日本軍では噂されていた。それこそ世界一のズル賢さを持っているに違いない。奴らに比べれば魑魅魍魎と呼ばれた旧日本軍も可愛いものだろう……。


 しかし普通の暮らしを手に入れたいのなら確かに民主主義国家が良いかも知れないと狂四狼は思った。


 満月に視線を移す。すると満月は黙って頷いた。


「ではアメリカにしよう。最短でいつが可能だ」

「明後日の日暮れ時、ちょうど八戸に良い貨物船が来ますのでそれに乗って頂けたらと思います。いや誠に良い時期においでさすった。最近の日本は外国に頼らず国内のみで賄って貿易を減らす方へ政策転換していますからね。これから先は亡命も難しくなるでしょうな」

「金は?」

「今、前金として四万円徴収します。それと当日にもう二万円用意して頂きたい」


 銀行員大卒初任給が三千円の時代、大変な額である。


「あいわかった」


 老人と狂四狼は固く握手を交わした。

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