第五章 禁じられた遊び その二
そして次に思い出したのは、初めて不死身狂四狼出会った時のこと。それは去年の冬の薄翅蜉蝣衆を殲滅した時ではない。狂四狼は風助のことを覚えていなかったが、風助ははっきりと覚えていた。憧れていた。
「これは夢か……」
その男と遭遇したのはまだ風助が学生の頃、戦後であったが予断を許さない状況で対ソ連兵を想定した訓練で冬の八甲田山に登山した時のことである。
雪は小降り、天候はそこまで悪くなかった。故に油断があった。案内役を買って出た村人の要求を勇ましく跳ね除けたは良いが、未熟な風助達学生は見事に遭難した。
地図によれば人里までそれほどの距離はなく、それだけなら何とかなったかもかも知れない。しかし遭難中に熊に遭遇した。正確には待ち伏せされていた。
それは『穴持たず』と呼ばれている。体が大きすぎて穴に入れず冬眠し損ねた熊で、冬でも貪欲に餌を求めて彷徨う非常に狂暴で危険な熊だ。
足場は悪く、雪をかき分けて逃げ切れるとは到底思えない。しかし手持ちの武装は大小の太刀が二本だけだった。仲間が三人勇猛果敢に太刀を抜刀し熊に挑んだが、傷一つ付けられず腹や頭を齧られ、食い潰され、惨殺された。
風助も応戦したが、体当たりを受けて気絶。次に目を覚まし、雪に埋もれた体を奮い立たせた時、衝撃の光景を目の当たりにした。
「これは夢か、それとも僕は死んで地獄に落ちたのか」
空から優しく降り積もり、紅に染められる粉雪。その雪に深く突き刺さった数本もの日本刀。惨殺され、無残に散った人間の肉片。そして九尺にも達しようという巨体を持つ熊とそれに立ち向かうたった一人の男。
結論から言うとそれが不死身狂四狼だった。
「夢じゃねえ、現実だ。糞が、お前らを助けるために俺らも二人失った。雪山に餌が来ることなんてそうそう無ぇからな。熊も必死になる訳だ」
この時の狂四狼には右足があり左腕が脇差だった。
まるで野獣。隻腕で狂四狼はただ一人、雪に刺した日本刀を代わる代わる持ち替え、熊に浅い傷を付けていく。そして狂四狼も傷を貰い全身は血だらけで、立っていることが不思議なくらいだった。
熊が人を襲う理由は幾つかあるが、それが戯れ苛立ちの気分から来るものならば痛みを与えれば撃退できるだろう。しかし今回は餌が目的だ。そう簡単にはいかない。
「僕を、置いて逃げて……」
このままでは全滅と風助は確信。
松の『人を殺したいなら兵士になりなさい』という言葉を思い出す。兵士になれば殺すことはできるが、逆に殺される覚悟も必要なのだということが今更分かった。
「お前、死にてえのか?」
「そうじゃない! 僕だって死にたくはない。けれど二人揃って死ぬよりは一人だけで死ぬ方が良いに決まっています!」
へぇーっと狂四狼は日本刀を構えた熊と対峙したまま、納得したように笑った。牙を剥いて笑ったのだ。殺しが大好きと言わんばかりに。
「合理的だな。ただ俺は殺し合いと賭け事が好きなのさ」
逃げるよりも殺し合うことを選んだ。そして賭けるものは自身の命、一人死に一人助かることよりも、二人共死ぬか二人共生きるかを選んだ。狂四狼は風助を助けるために自らの命を賭けたのだ。まさに『命懸け』ではなく『命賭け』の所業。
「安定剤が一本しかねぇ」
だが狂四狼はやるしかないと決意した模様で、片左膝を突き日本刀を左頬と左肩の間に挟んで右手でゆっくり抜刀。そして宣言する。
「来い暁ノ鴉ッッ! ……変……身」
「変身!?」
この時の風助は改造人間のこと、神威隊の決戦兵器の噂は都市伝説程度にしか聞いたことがない。
悪寒、凍てつくような鋭い殺気……。
その殺気の中心には狂四狼、震える体を押さえつけながら安定剤と呼ばれていた注射器を懐から取り出し、これを着物の上から肩に注射した。狂四狼は痙攣を繰り返し、心臓が強制的に強く動き出したのか、全身のから血が噴き出て出血が悪化する。
右手には柄から切っ先にかけてゆっくりと暁ノ鴉と呼ばれた野太刀生成された。口から赤い蒸気を漏らし、体は青白い炎に包まれ、肌は甲殻に包まれる。そうして漆黒の武者が誕生する。
百貫もある熊が雪を蹴散らし、大地を揺らすかの勢いで武者に特攻する。それと同時、相対する武者も一直線に駆けた。互いが最短距離を最速で駆け抜けた。
熊が右腕を振り下ろすよりも速く、武者が熊の左脇を通り抜ける。その刹那、武者の右手に握った暁ノ鴉が上段に妖しく光り、熊の右腕を切断。
熊が左腕を横に薙ぐのを、武者は視認もせず、上体を後ろに逸らすように回避、武者が振り返ると同時に左腕の脇差で横に一閃し、熊の脇腹を深く斬り込む。
最期に武者は静かに腰を落とし、熊に零距離まで突っ込む。
『爆発を伴う神速剣突き』
忘れもしない鮮烈な一撃。
その肉体の走行による肉体の全運動量を存分に活かした突きは、真っ直ぐに熊の腹を直撃し、白刃は熊の体に突き刺さる。そして体内から爆発した。
百貫もの重量が宙に浮き、吹き飛ばされる。ゴロゴロと二回三回、転がり続け大木に当たるとうつ伏せになりその巨体は止まった。
しかし熊もしぶといようで、体を揺らしながらグググと立ち上がる。その腹部は脈打つ五臓六腑がぐちゃぐちゃに混ざっているのが確認できた。それで生きているのは奇跡だ。
しかしそれだけ、熊は口からボタボタと赤黒い血液、胃液、唾液の混合液を垂らしながら、ぐらりと傾き倒れた。
武者は熊を僅か三撃で葬り去ったのだ。
その様子を観察し終えると、黒い甲殻の鎧が剥がれ、呼吸を大きく乱した狂四狼が姿を現す。そしてぐったりと膝を付く。しかしその顔はどこか晴れやかで殺戮を好む異形の戦士そのものだった。
生きるという目的以上に強者が弱者を蹂躙するその光景が目に焼き付いた。その殺生は戦闘を好み快楽を得る人間の存在でしか成し得ない。風助は自分の憧れを見つけたのだ。
「そこのぼんぼんの学生、後はお前の仕事だ。俺を背負って人里まで降りろ」
俺はもう動けんと言い残し大の字になる狂四狼を背負うと風助はゆっくりと下山し、見事生還を果たした。二人は『命賭け』の勝負に見事勝ったのだ。
****
「良い思い出ばかりだ」
三日月の出る夜、人気のない静かな風の香る竹藪の中で風助は己の太刀『雪風』に二人分の血を吸わせた。
相手は先ほどまで一緒だった母娘の二人。風助は亡骸を裸にし、何度も何度も執拗に、感触を楽しむかのように腹や胸、首に刃を突き立てる。そして風助は最後に刃を二本用意し、母娘のそれぞれ左の乳房に突き立て、心臓まで貫通させて終わりにした。
一仕事を終えて喉が渇いたが水がない。仕方なく母娘から勧められた密造焼酎を一杯煽る。喉が焼け付くような強い刺激が伴い、体が温まった。しかし、その程度の量のアルコールでは渇きは癒されない。
「こいつらなら遊んでも良いよね」
この母娘は昏酔強盗に殺人の常習犯で警察からも指名手配されていた根っからの悪党。風助も身なりの良さから金持ちと判断され、狙われた。
風助が人を殺める時は警察予備隊の任務の時、それと私的な場合は悪人に限っている。別に正義を気取っている訳ではない。そうしないと自分のことをあんなに思ってくれた松が悲しむと思ったからだ。
しかし最近、風助はやはり物足りなくなってきている。動物を解体して欲を誤魔化すのもいい加減飽きたところだ。
「薄翅蜉蝣を退治した時は楽しかった」
風助は自身が不幸だと思う。なぜこのような厄介な星の下に生まれたのか。人の道に外れ殺人鬼になるのは簡単だ。しかしそれでは駄目なのだ、それが生きるということだろう。
「あの人はこの渇きをどう処理しているのだろう?」
風助は考える。もし自分が女の人と一つ屋根の下で暮らすことになったらどうだろう? 恐らく三日と持たず殺してしまうなという結論に達した。
「あの人は凄い人だから、我慢もできるのだろう。あの人に付いて行けば絶対大丈夫だ」
そうして竹藪に置いた提灯を拾い上げ、風助は来た道を戻り旅館へと帰った。
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