第五章 禁じられた遊び その一
六畳一間の狭い室内で狂四狼と満月はちゃぶ台を挟み、正座をしながらお互い向き合う。満月はやや緊張した面持ちだ。
墓場での一件後、狂四狼は満月を認めた。それは満月が勉学に励むことを黙認するということだけではなく、積極的に協力するということでもあった。つまりそれは狂四狼が満月の先生になるということである。
不死身狂四狼という男、もう学問の道から離れて随分と経つが、なかなか馬鹿にしたものではない。中学校で習う分野での知識は勿論のこと、難関高校を目指していただけのことはあり、高校一年生程度の学力は備わっていた。
満月は、学校制度が廃止されてから三年が経過するが、なんとか小学生卒業レベルの学力は備わっていた。戦中、満月は家族が次々と亡くなり親戚との折り合いも悪かったと聞いていたが、少しでも夢に向かって前進することが楽しいとその心の隙間を埋めたのが勉学で、暇を見つけては独学で勉強していたのだ。
労働免除金と高校の学費は狂四狼の貯金とこれから働いて何とかする。命懸けの仕事だけあって収入は人並み以上にあるのだ。だから金の心配は要らない。
問題は他にある。急いで受験を切り抜けないと高校に入学した時に周囲と年齢が離れてしまうのだ。天文への道を開くためにも、人脈作りのためにも、周囲と浮いてしまうという事態は避けたい。よってできれば来年で合格する必要があるだろう。
最短で満月が高校に通えるようになったとして、満月は来年で十六だ。それでも周りより一歳年上となってしまうが、その程度なら問題ないだろう。
「高校へ行くなら、それ相応の学力を付けねば入試に受かるまい」
「はい!」
「では良い物をやろう」
狂四狼はちゃぶ台の上に十数冊の本を広げた。
「これは!」
満月の目がキラキラと輝く。
それは戦前に使われていた国語数学理科社会、中学一年から三年までの物全ての四教科の教科書や資料集、演習問題集の類であった。それは持っているだけで犯罪、危険な香りのする代物である。
「古本屋街の裏道にある露店で見つけた。販売してはいけない筈の物だから探すのに手間取るかとも思ったが、意外と苦労はしなかったな。どこも在庫を抱え込んでいるようだった」
教科書は売り手の側に立った見方をすればどの家庭にもあるベストセラーの小説のようなものだ。しかし学校制度が廃止になってある日から突然不必要になれば、それは余って当然というもの。新品は政府の意向でまとめて燃やされたが、中古市場では皆一斉に手放したので大量に出回っていた。
「なんと言って良いやら……ありがとうございます! 一生懸命勉強します!」
満月はちゃぶ台に頭をぶつける勢いで何度も何度も頭を下げた。そして両手でちゃぶ台の上の本をかき集めると、一冊一冊丁寧に中を確かめた。もう溶けてしまいそう恍惚とした表情を浮かべている。
「まず国語、漢字以外は全て才能だから今更ほとんど勉強する必要はない。良かったな! 楽ができるぞ!」
「なんか身も蓋もないですね」
「次に社会、これはひたすら暗記だから一人で勝手に覚えろ」
「あれ、なんか突き放されているような……?」
「次に理科、えぇっと物理、化学、俺がみっちり教える。生物、地学はやはり暗記だからそこは頑張れ。まぁこれは満月も得意みたいだから心配はしていない」
「ほっ……なんだが安心しました」
「最後はお前の苦手な数学だな、これは理系の人間として天文で食っていくのなら避けては通れないだろう。苦手のままじゃどうしようもない。ここから改善していくぞ」
「わかりました!」
「まずは食塩水だな。百分率と言うのは……」
満月は年相応の愛嬌を振りまくと、ちゃぶ台の対面に座る狂四狼の隣に移動し、肩と肩をぶつけながら鼻息を荒くして数学の教科書を広げた。
昔、狂四狼は柳生楓に聞いたことがある。「勉強なんかしても将来使うことがあるのか? 役に立つとは到底思えん」と。対し楓は「使う生き方か使わない生き方かは後でゆっくり悩んだら良い。どんな道でも誇れる生き方を選べ」と答えた。
確かに学問というものは専門的な職業に就く者以外はあまり必要ではないかも知れない。狂四狼はそのような縁はなかった。生き方を選ぶ機会すらなかった。しかし今はこうして当時学んだ知識を用いている。
柳生楓との日々は無駄ではなかった。あの模索の日々は本物だった。狂四狼にはそれがたまらなく嬉しかった。
****
「最近先輩が明るい……」
風助はそんな一人事を呟いた。狂四狼の変化に最も早くに気付いたのは風間風助だった。
風助の実家は裕福で、風助は温泉街の旅館の一室を借り、そこで身の回りの世話などを仲居に任せながら優雅な生活を送っている。今は街が一望できる露店風呂で、二人の雅な女性に風助は背中を流して貰っていた。
二人とも前は近くの色街で遊女をしていて一人は三十くらいの熟女、もう一人は熟女の娘に当たる十四の少女であった。風助はモテる。先週も二人同時に口説いたらぞっこん惚れ込まれ、この様だ。風助は裸の親子二人を同時に侍らせる。
「どうしましたか? 風助様」
熟女が胸元を隠した手拭を取り払い、風助の背中に体を当て、色っぽく身体をくねらせながら尋ねる。
「何が?」
「お顔が怖い」
今度は少女が風助の胸元に顔を埋めながら答える。
「そう?」
「「私達を構ってくれません」」
熟女は風助の女のように艶やかな髪を手櫛で整え、少女は風助の剣術の稽古で鍛えあげた腹筋を撫でる。
風助は自分の感情に驚いた。そうか、僕はいらいらを隠し通すことができないくらい不機嫌なのかと認識した。原因は何だ? 狂四狼が明るいのは良い、それでなぜ僕自身が不機嫌になるのか、と自己を分析する。
「嫉妬か?」
行きついた答えに驚き、自然に心の声が漏れた。
「「風助様?」」
「ごめんごめん、何でもないよ、えーっとじゃあお酒頂戴」
それを聞いた熟女が嬉しそうに脇に置いてあった徳利を取ると、酒を口に含み、風助に接吻した。熟女は口移しで風助に酒を飲ませる。
風助はそのままの姿勢で少女の頭をよしよしと愛撫する。しかしいくら安い女を侍らせても風助の心の溝は埋まらない。頭に浮かぶことは狂四狼のことだった。少し前までは獣のように尖っていたのに、今はあんなに穏やかだ。それじゃあつまらない。
やっぱり狂四狼の嫁として贈られた女の影響だろうかと風助は思案する。だがその疑念を、そんな筈はないと直ぐに取り払った。
「……あの人は僕と同じ筈なんだけどなぁ……」
風助は水の滴る前髪の奥から鬱屈した目で恨めしそうに狂四狼を思い、温泉が作る蒸気の影を追った。
***
風間風助は自分の昔を思い出す。
風間風助は代々京都で染物屋の商売をして成功をおさめてきた裕福な家庭の三男坊として生を受けた。よく三男坊の冷や飯食いと言うが、風間家はそんなことはない。
自慢の長男は家の跡を継ぎ、次男は政治家となり、長女は官僚の家に嫁いだところで親も安心したので、年の離れた三男の風助はその麗しい容貌も相まって多くの愛情を受けて育った。そして「将来はお前のやりたいようにやりなさい」と言われる。
だから風助が陸軍士官学校を出て祖国に尽くす軍人になりたいと両親に申し出た時はなんて出来た息子なのだろうと言われた。
誰もが羨む傑物の一家。しかし今までに一人だけ風助の本性を知った者がいた。知った上で受け入れてくれた。それが若い女の使用人の松であった。
確かアレは六つの時か、猫だった。
祖父の勧めで始めた剣術の道場の帰り道、風助の母と風助と使用人の松の三人で時のことである。父母から溺愛され蝶よ花よと女の子のように育てられ、世の中全てが優しいものに溢れていると思っていた幼き日の風助だったが、町は綺麗な物ばかりではない。
それが道に捨てられていた子猫だったのだ。
「母さん、僕、あの猫が欲しい」
「駄目よ、ばい菌が付いているわ。もっと綺麗な子を買ってあげる」
「……はい」
幼き日の風助は強くは訴えなかった。いつも母様は正しかったし、母様は自身の意見を曲げないからだ。わがままを聞いてくれる時はいつもすぐ聞いてくれたし、駄目な時ははっきりと駄目といつも言われていたからだ。
ただ風助は、どんな猫でも良いのではなかった。あの捨てられていた可哀想な猫を拾いたいと思ったのだ。
そんなことを考えていると使用人の松がこっそり耳打ちする。
「お坊ちゃんは優しい子ですね。後で私がこっそり家へ持ち帰ってあげますよ」
「うん。お願い」
風助は小さい声でお願いすると松に感謝した。
そうして風助は子猫を屋敷内に招き入れる。
「おいでー」
風助は庭で松の世話により綺麗になった子猫に手を差し伸べる。怖くないよと、餌だよと声を掛ける。しかし子猫はシャーと威嚇するだけで傍に来てくれない。野生なぞとっくに失った猫の癖に鋭いなと風助は思った。
「人に怯えています。少し時間が必要ですね」
使用人の松はそう言う。けれど風助にはそれが歯痒い。
風助はある時、檻を用意する。鼠を捕獲する小さな檻だ。その檻に餌を仕掛け、じっくりと子猫が入るのを待つ。捕まえればあの子猫を好きにできる。そう考えるとわくわくした。幼心に胸が高鳴ったのを今でも鮮明に覚えている。
しばらくすると思惑通りに間抜けな子猫が檻に入る。しめたと思い檻を閉じて子猫の前に姿を現すと檻の中で子猫が激しく暴れ出した。そのまま風助は檻を持って屋敷の廊下を駆け抜ける。逸る気持ちを抑止できなかった。そのまま土蔵に転がり込んだ。
風助は檻の中に手を入れ子猫の首を掴み、土壁に投げつけた。子猫は脳震盪を起こしたのか、ぐったりとしている。
風助はその様子を見ると喜々として懐に忍ばせて置いた包丁を子猫の腹に刺した。猫は強い痙攣を起こしたが、腕力で無理やり押さえつけた。そして何度も子猫の頭を殴打した。たぶんその時にはもう子猫は死んでいたと思う。
すぐにその手は血だらけになり、風助は泥んこ遊びをしているような無邪気な気分になる。だが泥と違って生温かい。夢心地で猫の腸、腎臓、膀胱を取り出すと宝石でも手に入れたかのように大切に持ち上げ、そのぶよぶよした感触を確かめる。我を忘れて無我夢中で解体する。高揚した気分が抑えられない。
「坊ちゃん?」
土蔵の入口で声がした。
振り向くと松が立っていた。
「松、見て見て! これ僕がやったんだよ?」
風助は首、前足、後ろ足、胴体とバラバラにした猫の亡骸を両手で持ち上げると松に見せた。
――パシン――
「え?」
風助は亡骸を落とした。直ぐに風助の頬に熱い痛みが走った。自分が叩かれたのだと気付くのに少しばかりの時間を要する。
「なぜこんなことを……」
「捨てられた猫だよ?」
どう扱おうが自由じゃないかと風助は思った。その時はまだ生き物の命の尊さなんてものはまだ良く分からない。
「お墓を作ってあげましょう……」
松はそれだけ言った。それ以上風助に手を上げることもなければ、風助を責めることもなかった。それでも松が夜、父と母に見つからないように風助を連れて屋敷を出て、屋敷の裏山に土を掘って一緒に穴に亡骸を置いた時、悪いことをしたのだと幼心に思った。
「死んでしまった命はこうして弔うのです」
松はそうして祈りを捧げた。風助も松に倣って祈りを捧げた。それが正しいことに違いないのだと思った。ありがとう楽しかったよと心の中でお礼を述べた。
それから風助はしばらく大人しくしていたが、夜になるとあの子猫のことを思い出していた。檻の中に閉じ込め、生殺与奪の権を握るわくわく感。そして遂に殺生に至るその過程における背中を駆け抜けるかのような絶頂。最後に自己の欲求に逆らえず墓標を立てて埋葬し、罪を告白する背徳感。
何一つ忘れることができない。大きくなり、善悪の判断ができるようになる。すると己の本質が邪悪であること知った。だがそれでもその殺戮の衝動に抗うことができない。風助は苦しむ。
昆虫から始まり、鼠、モグラ、烏、野犬と松に見つからないようにこっそり動物を捕まえては、解体し、包丁でバラバラにするとその墓は一つずつ増えていった。
風助のその衝動の向けられる対象が人間になるのにはそう時間はかからなかった。
人生初の殺人は下町の橋の下に住み着いた流れ者。眠っていた早朝に日本刀で襲った。
道場で畳表や青竹を用いた試し斬りを行ったことがあるが、それよりも悲惨な結果となった。袈裟に斬った刀は折れ曲がり、上手く仕留めることができずに一瞬大声を出されたがすぐに口を塞ぎ、短刀で喉を切り裂き、胸の辺りを何度も何度も突き刺した。
背徳感に震える。同時に警察に捕まることを恐れる。屋敷に戻り自室で怯えていたが、何事もなく日々は過ぎていった。
ある時、松が病に蝕まれた。
医師の診断によるともう回復の見込みはないということ。そして持って後数日とのことだった。
風助は懸命に松の看病をした。風助に取って、松は第二の親のようなものだ。色々なことを教えてくれた恩人でもある。松の死は望んでいなかった。
松は「ありがとうございます」と病床で感謝を漏らした。そしていよいよ最期の時が訪れると部屋に風助だけを残す。お互い手に握ってその時を待つ。
「坊ちゃんは善悪がわかる優しい子、しかしとてもつらい業を背負っています。人を切り裂きたいなら解剖医を目指しなさい。人を殺したいなら兵士になりなさい。これが私が最期に言えることです。どうかお幸せに……」
そう言い残すと松は手を握り込んだまま冷たくなった。その時風助は松のことが儚く美しいと思ってしまった。その時自身がまともに人を愛せないことを理解した。本質的に人を死でしか愛せない。
そしてもう一つ、松は知っていたのだ。あの子猫のことだけではなく他のことも全て知った上での最期だったのだ。
「父上、母上、僕を士官学校に入れて下さい」
そう家族に話したのは松が亡くなった翌日のことだった。
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