第四章 天の光は全て星 その二

 夜明け前、まだ空は薄暗く外気は冷え込んでいる。


 狂四狼はその不自由な体でリヤカーを引きながら、山を登り、川を越え、谷を渡り、最後に森を黙々と歩いてきた。眠気はあまりないがさすがに疲れている。しかし休憩は挟まない。もう目的地はすぐ傍だからだ。


「満月、起きているか?」

「起きております。旦那様」

「もうすぐ着くぞ」

「まだ夜明け前なのに人の気配がします」


 満月の言う通り、道の向こうから訓練の一環で作ったと思われる手作りの松明を片手に行軍を行う予備隊の一団に出くわした。あまりこのような僻地まで来ることはないのだが、珍しいことでもない。たまたま運がほんの少し悪かっただけで、想定の範囲内だ。


「そうだな、ここからが正念場だ。何が起きても良いように緊張しておけ」


 狂四狼は一団とすれ違う間際、見送ろうとして敬礼をした。すると一団も答礼で返す。そのまま何事もなくすれ違ってくれれば良いもの……集団においては目敏い者が一人や二人いたりするのだ。


「貴方は何者か?」


 行軍を行っている最後尾の者に尋ねられた。その者一人のせいで行軍全体が止まり、狂四狼とリヤカーに潜む満月は多くの人間に囲まれることとなる。狂四狼の手に汗がじわりと浮き出る。


「二等警査相当、不死身狂四狼」


 狂四狼は敬礼をしながら直立不動で答える。


 尋ねた隊員の男はふむ、と思案する。


「チッ……油を売っている時間はないぞ。早く行かねば」


 他の者が急かすのも聞かない。狂四狼の身分が低いと見るや、その男は狂四狼の隻眼隻腕隻脚を上から下まで値踏みするかのように眺める。そしてその後、尋ねた。


「こんなに早くに珍しい。何用か」

「任務です」

「どのような任務か?」

「言えませぬ」

「その荷の中は何か?」

「言えませぬ」

「なぜ言えぬ」

「…………」


 なぜ言えぬか言えば、それは言ったと同じことだろう。


「怪しい奴。二等警査相当と申したが、相当とはどういうことか?」

「警察予備隊預かりの身分です故」

「リヤカーの中を検めるぞ」


 男がリヤカーに手を出そうとした瞬間、その手をパシっと狂四狼が強く掴んだ。


「……予備隊預かり……不死身……どこかで聞いた名だが?」

「上官に何の真似だ?」

「既にお察しの通りと思いますが、これはこの先にあるモノと関係あるモノでございます。それ故、言えぬ類のモノでございます。それでも見たいとおっしゃるのならそれ相応の覚悟が必要になります」


 狂四狼が素早くリヤカーの布と干し草の一部を取り払い、満月の真っ白い足のみを男に見せる。


「これは……少女……の死体」


 それは白く、細く、美しい曲線を描く足だった。


 男は息を呑む。それと同時に、一団の誰かが男の脇をつんつんと叩いた。


「なんだ? 今忙しい」


 男が煩わしそうに後ろを振り向くと、男に耳打ちする者が一人。


「不死身の狼? 不吉の死刑囚第九号?」

「…………」


 狂四狼の心臓の鼓動音が高まる。


「これは道中に大変失礼しました!」


 男は急に態度を変え、敬礼をする。それに倣い一団の全員が敬礼を行った。誰かが狂四狼ことを知っていたようだ。知った上であまり関わらない方が良いとの判断を下したのだろう。狂四狼はほっと胸を撫で下ろすと満月の足を布で隠す。


「では失礼します……」

「はっ! お気をつけて!」


 ゴロゴロゴロと音を立ててリヤカーを引き歩き出すが、一団は狂四狼が影の中に消えるまでずっと敬礼をし続けていた。やがて松明の群れが小さく、そして見えなくなって行く。


「足だけとは言え、まさか体を晒されるハメになるとは思いませんでした。もぉ! バレたらどうするつもりだったんですか? 聞いてませんよぉ……」


 満月の泣き言がリヤカーの中から聞こえてきた。満月がリヤカーから顔を少し出し、周りを伺いながら抗議する。


 確かに、満月が少しでも動いていたら終わりであったと思う。地味に危なかったのだ。


「でも私の旦那様が有名人なようで私は鼻が高いです」

「うるさいぞ」

「ところで言えぬ類のモノって何ですか?」

「うるさいぞ」


 満月を再度リヤカーの中に押し込む。森を抜けると狂四狼の張り詰めていた体が解放された。遂に、ようやく、やっと、半日かけて辿り着いた。


「着いたぞ」


 狂四狼はリヤカーを止めた。


 そこは森を抜けた場所で、目の前には不自然に盛られた小高い山がある。そしてここからでは確認しづらいがその奥は崖となっている。


「暗くて良く見えませんが、ここに警察予備隊に関係する何かあるのですか?」

「いやぁ……まぁ、ここに施設か何かがあるって訳でもない」

「……静かなところですね。でも何か臭います……何かが焼けたような臭い……」

「まあな……」


 静寂だった。獣の雄叫びも虫の鳴く声も風が葉を揺らす音もあまりしない。泥には腐った臭いが混じっており鼻をツンとした刺激が襲う。瘴気と呼ばれる悪い空気が辺りに一面に広がり、息を吸う度に肺を侵していく。


 遠巻きに鹿、猪、リスがこちらをじっと見つめている。


 狂四狼と目が合うとササっと逃げていった。そう、ここに入り浸る輩なんてそうそういない。


 皆、一秒でも早くここを離れたがる。ここはそういう場所だ。


「なんだが、その、不気味です。ここ、怖いです」

「すぐわかる。もう出てきても良いぞ」


 満月が干し草を押しのけ、リヤカーから這い出してくる。裸足で地面に降り、三百六十度、辺りを見渡す。


 生と死を繰り返す太陽を迎える東の空は真っ赤に燃えていた。それはまるで炎のようで、地獄の影を見ているようだった。


「瓦礫と土の山?」


 満月が呟く。


「いや……」


 違う。確かに人為的に積まれた山のようなものある。だがそれは、瓦礫ではない。


「…………」


 狂四狼は大量に積み上げられた土と何かの混合物を崩さないように、足場を慎重に選びつつ、ゆっくりと山を登る。そして山の頂上に背負っていた大太刀を突き立てた。


 


 地平線が光った。


 夜が明けたのだ。


 


「ッ!」


 満月が小さな悲鳴を上げた。


 どうやら満月は自身の誤りに気付いたようだ。


「白い……骨? がい……こつ……」


 狂四狼は白骨の山を踏みにじり、その上で満月を見下ろす。


「……ここは墓場。土と一緒に盛られたのは瓦礫ではない。人間の白骨だ」


 狂四狼は白骨の山の頂上で、そう事実を端的に言い放った。


 満月は息を飲み、一歩二歩三歩と後ずさり、尻もちもちをついた。その小さな体は震えている。声を出さないあたりに好感が持てる。すぐヒステリックに叫ぶ輩を狂四狼は好まない。


「先ほどの『類のモノ』とは屍のことだ。『言えぬ類のモノ』とは、身元を知らしてはいけない者の屍という意味だ」


 ここは旧日本軍が内密に処理したそういう者達の死体を燃やし、骨だけをまとめて埋めた所だ。ここにはおぞましい軍の暗部の歴史そのものが眠っている。


「この山に埋められた無縁仏、限りない死人の中にはかつて俺が愛した女もいる。初恋だった。世界でたった一人、俺が愛した人だ」


 あの時もこんな季節だった。あの時と変わらない不吉な山桜が嗤う。


 満月の表情から、恐れが小さくなっていることが読みとれた。満月はその地に跪いて、優しく両手合わせ、目をつぶる。満月は狂四狼のために見ず知らずの柳生楓を思い、祈ってくれているようだった。同情というものは何故こんなにも温かいのだろうか? 満月は狂四狼ができないことを狂四狼の代わりに思ってくれている。こんなに嬉しいことはない。


「俺が生涯を賭けてでも大事にしたいと思ってた人なんだ……」


 しかしできなかった。自らの手で断ち切ってしまった。そして自分は今ものうのうと、恥ずかし気もなく生き続けている。


「満月、頼みがある」

「はい」

「もしよければここにある全ての魂を供養してやって欲しい」


 この中には狂四狼が殺した人間も多く含まれている。罪悪にまみれ、死後地獄に落ちるであろう狂四狼にはできないことだ。


「私は……その、宗教的な知識はあまり……」


 そんなことは関係ない。些細なことだ。


「気持ちだけで良いんだ。形式や言葉は飾りだ。そもそも供養なんてものは自体、生者のためのものだしな。俺が言った言葉を復唱してくれればそれで良い」


 満月は少し考えると、……黙って頷いた。



「願以此功徳」

『願以此功徳』



「平等施一切」

『平等施一切』



「同発菩提心」

『同発菩提心』



「往生安楽国」

『往生安楽国』




 昨今の日本では宗教者に対しても厳しい目が向けられ始めている。そろそろ取り締まりも始まるかも知れない。クリスマスなんかは商業的な意味合いが強くなった例外中の例外だ。しかし、隠れ念仏というものがある。宗教というものは歴史において度々弾圧されるもので、時には権力者を欺きながら地下で信仰を続ける者が今もいるのだ。


 今、満月に復唱して貰った回向文と呼ばれるものも、隠れ念仏を信仰する者からこっそり教えて貰ったものだ。いつかここに来て供養したいと思っていた。


 今、狂四狼の願いが叶った。


「ありがとう」


 感謝の言葉しかない。


「いえ、私は……ただ……言葉を発しただけで……」


 それでも良いんだ。本当にありがとう。


「満月、俺は本当に酷い生き方をしてきたと思う。兵士というよりは暗殺者に近い……いや快楽殺人鬼に近い生き方だ。俺は他人を搾取することで美味い飯を食って、心地い良い寝床を手に入れた」

「時代のせいかと思います。個人の意思は時の津波の前で無力です」


 満月は狂四狼を庇ったが、狂四狼は救われたいがために語っている訳ではない。狂四狼は山を作る白骨の一つの頭蓋骨を取り、髑髏の眼窩ゆっくりと眺めた。


「悪いことをしている、罪の意識を感じるべきだと心の表面では分かってはいる。分かってはいるのだが……どうも俺の精神回路って奴はイカれていて、残虐行為を働いてもあまり罪悪感がないんだ。それどころか、周りは俺を評価する。俺は近々出世する予定だし、お前という女も与えられた」


 狂四狼は手に取った頭蓋骨の眼窩に指を突っ込み、キャッチボールでもするかのように太陽に向かって放り投げた。ほら、自分は仏様で遊ぶような真似をしても何とも思わない。狂四狼は自分が攻撃的精神病質傾向を持つ人間なのだと理解している。


「どうでしょうか……」


 満月が困っている。狂四狼が何を求めているのかわからないといった表情だ。前置きが長くなってしまった。


「満月、お前が勉学をするということは、俺が自らの生活の質を上げるために、快楽のために殺人を行うことと変わらないことだと思う。罪ではないかも知れないが、今の世の中では犯罪だし、罪悪を感じるべきかもしれない。今を生きるのに精いっぱいなこの時代でお前がお前の願望を押し通すということは、わがままを貫くということは、贅沢だ」


 狂四狼は厳しいことを言ったと思う。満月はまだ十代、子供だ。


「私を否定する……ということですか?」


 否定する訳ではない。


「ただ知っておいて欲しいことなのだ。知った上でお前がどうするのか……それはお前の自由だ。そしてお前の責任だ」


 ここに埋められた楓達を含む集落の人達の住処と食料は上陸してくるソ連兵に利用されるとの判断で、ソ連兵に扮した旧日本軍の手で燃やされ、強奪された。


 結果ソ連兵の侵攻を僅か数日遅らせることに成功したらしい。そしてそこに住んでいた人は邪魔だったと理由で改造人間生成の実験のためについでに処刑され、結果一人だけ不死身狂四狼と言う成功例を生み出した。


 本当に信じられないほど阿呆な理由で人が死んだ。今狂四狼は虐殺される側から虐殺する側へ移り、飯を食っている。今の恵まれた狂四狼は犠牲の上に成り立っている。


「……ッ……わ……わたしは……」


 苦渋の表情を浮かべる満月。やはり満月は葛藤している。俺とは違うと狂四狼は思う。正真正銘満月は善良な魂の持ち主だ。


「今後は選択を迫られるだろう。わがままを通す生き方はつらいぞ。良心を持つお前は、イカれた俺とは違う。そういう生き方は自身の精神を蝕む」


 幾人もの人間を殺し、屍を踏みつけて、白骨の山の頂上にいる化物、悪鬼、それが不死身狂四狼の正体だ。


「…………」


 無自覚に罪を重ね、後戻りができなくなるよりは、いっそここで知らせておいた方が満月のためだ。


「すぐに結論を出すことはない。また長い帰り道だ。存分に悩むが良い」


 話は終わった。もうここにいる必要はない。そうして狂四狼が山を降りようとした矢先に、満月が駆け寄って来た。


「わ、わたしは!」


 満月はその小さな体と手足を存分に使って、不器用に、白骨の山をよじ登ってくる。その足場は崩れ、手や足がもつれ、体が死者の山に沈みそうになるが、それでも満月はよじ登ってくる。


「満月?」


 満月はただ必死だった。


「私は自由でありたいのです! なぜ己の生き方を己で決めることが罪なのですかッッ!?」


 満月が狂四狼の足を掴んだ。


「道徳的な罪ではない。……罪ではないが、……労働という義務を放棄し、勉学に励むことは犯罪だ。時代が、環境が、お前を許しはしないだろう」


 満月が狂四狼と同じ位置、頂上に立った。


「私の心は私の物。私は私の尊厳のために戦います」


 そうか。そこまでの覚悟か。


「強いな……。俺とはまるで違う……俺は弱い人間だ」


 誇り高く、崇高、高潔。


 眩しく、羨ましい。


 狂四狼はあの狂った桜が咲き誇った夜、刃を持って決断を迫られた時、折れた。我が身可愛さに大事な人を殺した。狂四狼は弱い人間なのだ。


「旦那様、貴方は貴方自身をよく分かっていないと見えます。旦那様は弱くなんてありませんよ」

「いや俺は、弱い」


 どうしてこんな強さを持てなかったのか……と狂四狼は嘆くばかりだ。


「狂四狼様、私の目を見て下さい」

「?」


 ただ促されるままに満月を見つめる。顔と顔がぶつかりそうになるくらいに、接吻を予期させるようなくらいに、狂四狼と満月が接近する。熱い吐息を交換する。


「狂四狼様の隻眼はあの日の出の太陽のように、闇を切り未来を照らす太陽のように、黄金色に輝いております」

「俺にそんな力はない」

「狂四狼様、本当の意味で自分を見つめることができる人間などいないのです」


 けれど私が見ています。私が貴方を見ています。満月はそう言った。

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