第四章 天の光は全て星 その一
「お互い、少し時間を空けて外へ出よう」
これから向かう場所は警察予備隊の機密に関わる場所である。そして狂四狼の住んでいる所は予備隊が接収した土地で、周りには公僕や同業者が多い。故に狂四狼は念には念を入れて満月とは同時に出掛けずに、時間をずらして行くことにした。女が夜に出歩くのは物騒なのでお昼過ぎ頃、先に満月を外に出した。
そして新月の夕方、狂四狼は一夜分の僅かばかりの糧食となる握り飯と足下を照らす懐中電灯、懐中時計を鞄に入れ、腰にいつもの打刀を差し、更にひときわ大きい大太刀を背負った。そして玄関を閉める。そして外に止めておいたリヤカーを引き摺り、ゆっくりと家を後にした。
「満月、……いるか?」
バラックの集合住宅を抜けると小さな小川が見えてくる。狂四狼はそこで竹の水筒に新鮮な水を補給すると小声で満月を呼んだ。
「旦那様、いますよ」
川の岸の向こう側の小さな岩場の影からひょいと小さな影が跳び出した。もう薄暗いので影を見ただけでは誰かははっきりしないが、声は満月のもので間違いない。問題なく出会えたことに安堵しつつ、リヤカーを持ち上げ、背中に背負うと満月の元へ向かった。
「待たせたな」
「いえ」
「誰かに見られたり、話しかけられたりはしなかったか?」
「ずっとのんびり昼寝などをして隠れておりましたので特には」
捕まったら面倒なことになるとは事前に伝えてあるが、それでも昼寝できるとはこの娘はやはり図太い。
「寒いか?」
昼はぽかぽか春らしくなった。今も少しは暖かいが、それでも夜は冷えてくるだろう。
「少し」
「布と干し草をやる。これに包まってこのリヤカーに乗れ」
「はい」
干し草を敷き、満月をリヤカーに乗せると、その上に布と干し草を被せ満月を隠した。そして足下を照らすように懐中電灯を取り付けるとゴロゴロとリヤカーを引いてその場を離れる。
「寒いか?」
再度満月に問いただす。
「いえ、思いのほか暖かいです」
「そうか、ここからは長いぞ、眠っておけ」
「わかりました」
最初は順調だった。しかしそれは最初だけ、数時間後、狂四狼は己の甘さを知ることとなる。
***
――ガコン――
「…………」
――ガコン――
「…………あの」
――ガコン――
「……あの!」
体が前のめりになりリヤカー取手に胸を打ち込んでしまう。隻腕隻脚の狂四狼は手で持つリヤカーの取手部分を肘で挟み込むようにして持っているが、何度か足を滑らせた拍子に取手を落としてしまった。満月がリヤカーの中から抗議の声を上げる。
「なんだ……?」
正直侮っていた。リヤカーは車輪が空気入りのタイヤで出来ており、多少の凹凸は吸収してくれるが、それも多少。真夜中の真っ暗な山道がこんなに険しく歩行が困難なものだとは思わなかった。
文字通り一寸先は闇。木の根、石ころ、泥水がリヤカーの行く手を阻む。こんな小さな懐中電灯では満足に目の前も良く見えないのだ。
「お、お花を摘みに」
「またか、さっき行ったばかりじゃないか」
休憩を挟めということだろう。気を遣っているのがバレバレだ。狂四狼は満月を無視して先へと向かう。一心不乱に前へ前へと進む。
――ガコン――
「あう……」
狂四狼が再びリヤカーを落とした時に満月の呻き声が聞こえた。どうも振動で舌を噛んだようだ。
「すまん」
狂四狼が振り向き、謝罪を口にする。すると狂四狼の目の前、リヤカーから暗闇に怪しく浮かぶ鬼火のような朱色の光が二つ現れた。狂四狼が驚いて下がろうとすると、今度は干し草から真っ白い腕が伸びて狂四狼の腕を掴んだ。狂四狼の腕を掴むその真っ白な腕は幽霊のようで、狂四狼は軽い恐怖に見舞われた。
「うお!」
「痛いんじゃボケ。止まれ」
「うお……」
結論から言ってしまえばその朱色の光の主は満月の眼であった。そして満月の口から思いもよらない暴言が跳び出し、狂四狼は再び別の意味で恐怖した。
「…………むぅ。落とされる度に痛いので休憩してください。それもできないのでしたら私が代わりにリヤカーを引きます」
「…………」
こんな夜更けに女が一人で歩いていたら賊に襲われる。そのためにリヤカーに隠してここまで来たのだ。それに女に乗せて行って貰うなど言語道断である。
「……わかった。この山道を登った先、道の外れに湧き水がある。そこで休憩しよう」
狂四狼は体力には自信があった。野外で、四十時間以上連続で任務のために活動していたこともある。しかし疲労を認めざるを得ない。ついに折れてしまった。疲労の前に屈服してしまった。無念であった。
山の中は木々に覆われた闇の世界であった。この森の中で良く訓練を行う狂四狼でさえ、全容を把握している訳ではない。迷ったら大変なこととなる。狂四狼はなんとか微かに見覚えのある岩や大木を目印に突き進んで行く。
しばらく進むと木々がなくなり、少し開けた空間が広がっていた。そこでは水の流れる音が聞こえる。霧状の水が体の表面を濡らす。湿気が体を包む。それはここの奥には滝があり、ここが湖になっていることを表していた。
「生き返るな」
狂四狼は竹で作られた水筒で湖の水を掬うとそれを飲み干し、水分を補給した。そして満月にも水筒を渡してやる。満月も同様に湧き水を飲んだ。
「冷たくて気持ち良いです」
満月はなんだが少し暑そうだ。
「真夜中になればもっと気温は下がる。あまり体を冷やすなよ」
「はーい」
「それと握り飯があるから食っておけ」
狂四狼は鞄に入れた握り飯を満月に渡し、ついでに時計を確認する。すると午後十一時頃、出発から六時間あまり経っており、そろそろ休憩を入れても良い頃合いだったので丁度良かった。
狂四狼は水辺の岸に腰を下ろし、胡坐をかき、打刀を抱きかかえながら体を休めようとする。
「よいしょ」
気が付けば、満月も狂四狼の隣に座っていた。そこでその小さな口を駆使してはむはむと握り飯をかじっている。
「お疲れでしょう? 旦那様も食べて下さい」
「もう食った。十分だ」
まぁ嘘だ。しかし日頃訓練している自分よりも遠出に慣れていない満月を優先することは誤りではないだろう。
「そうですか……」
満月は少し残念そうに俯くと、また握り飯をリスのようにかじり出した。
満月が他人に気を配るようになったことを良かったと考えるべきだろうか? 狂四狼は考える。
満月は同棲を始めたばかりの頃は狂四狼を威嚇するかの如く心の壁を作り、毅然とした態度を保ち、必要以上の馴れ合いを嫌っていた。しかし最近は心を開いたのか、安易に接近を許すようになっている。
このまま関係が発展して行けば、もしかしたら温かい家庭を持てるかも知れない。しかしそれは本当に、俺自身が望む物なのか? 俺はそれに値する人間なのかと、そう狂四狼は考えてしまう。
「俺は……何がしたいのだ」
狂四狼の呟きが満月に届いたのか、満月はしばし困ったような顔を浮かべた。しかしすぐに前を向くと大きく伸びをし、両手を広げ岸辺に大の字になって寝っ転がった。
「旦那様は、横にはならないんですか?」
「ん?」
「旦那様はいつも、寝る時でも、後生大事そうに打刀を抱いて座ったまま眠っております。それでは疲れてしまいますよ」
「戦場が長かったからかな、どうも横になるのが苦手なのだ」
「たまには良いものですよ。騙されたと思って目を閉じて横になって下さい」
「うーん」
「ほらほら」
狂四狼は根負けして、残っている隻眼の右目を閉じ、背を倒す。水のせせらぎや春の鳥達のさえずりが心地良い。
「旦那様。ゆっくりと目を開けて下さい」
「…………………………………………………………これは」
眼前に広がるのは満天の星空だった。漆黒の世界に宝石を散りばめたような空。それは近すぎて、今にも落ちてきそうで、手を伸ばせば届きそうだと思わせる。
狂四狼はこの年にもなって柄にもなく感動してしまった。星くらい子供だって知っている。しかし一体いつから空を見上げることを止めてしまったのだろうか。些細なことだが、そんなことで心が揺れ動くとはつくづく安い人間だと感じる。
「今日は明るい月もないので特に星が良く見えるな」
「そうですね。今日ここに来たのはたまたまですが、最高の時期だったと思います……」
「本当に良いものだ……」
星はいつもそこにあった筈なのに、もう何年も見ていないことに気付く。
「私は昔孤児でした」
満月の父は戦争で死に、母は空襲で死に、兄は病気で死に、最後に妹は疎開先の親戚の家で邪険に扱われ自殺したそうだ。満月も親戚との折り合いが悪く、家を出て、そのまま戦災孤児となった。
そこで工場や軍施設、闇市で盗みを働き生活していたが、政府の浮浪児狩りに遭い、施設へ送られたとのこと。そこでたまたま容姿が良かったことから礼儀作法を学び、警察予備隊の慰安部隊に送られることとなったが、すんでの所で狂四狼との縁談が持ち上がった。そして今に至るらしい。
「私は色んな物を亡くしここまで歩んで来ました。けれどこの空だけは絶対に誰にも奪えません。この空は未来永劫ここに在り続けます。だから私、この空が好きなのです。だから宇宙のことを勉強して将来は星に携わる仕事がしたいのです」
どれだけ時間がかかっても辿り着きたいと、満月はそう主張した。
それは素晴らしいことで、狂四狼も応援したくもなる。……応援したくもなるが、それには専門的な知識が必要になるだろう。今の日本社会で専門知識を学ぶためには多額の労働免除金を払い学生になる必要があるし、勉学に励んだ後の職業選択でも自由は基本的になく、縁故で便宜を図って貰うぐらいしかない。厳しい道になる。
「素敵な夢だな」
「旦那様は、星座はご存知でしょうか?」
「いや、そんなに詳しくはない。方角を知るために北極星ぐらいは知っているが、それ以外は北斗七星くらいしかわからない」
狂四狼がそういうと満月は北の空の高いところを指差した。
「それで十分です。あそこに柄杓の形をした北斗七星があります。その柄の部分の延長上、東の空にある明るい星が見えますか? アークトゥルスと言います。更に延長させていくとスピカという星にぶつかります。この大きな線を春の大曲線と言います」
「ほう……」
満月は狂四狼に他にも春の大三角、おおぐま座、うしかい座、おとめ座、しし座などを素人にもわかりやすく星にまつわる話を交えて簡潔に説明してくれた。
星の数は無限大。狂四狼は満月の指差した星を正しく認識できているのかがわからない。それが不安であったが、きっと大丈夫だ。自分と満月は今もこうして同じ地に存在し、同じ方を向いているのだから。
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