第三章 誰が為に その二

 満月と出会って東京から青森の弘前市に帰り二か月半が経過。


 狂四狼は警察予備隊が接収した土地を与えられ、弘前拘置支所からそこへ引っ越すこととなった。いざ行ってみるとガッカリしたもので、家はバラックと呼ばれるトタンや有り合わせの木材で作った長屋のような物が立ち並ぶスラムのような場所だった。


 これでもかなりマシな部類と説明を受けたが怪しいところだ。しかしまぁ外側にしか鍵がない牢獄よりは良い。


 引っ越しは至極簡単だった。それは狂四狼の持ち物が打刀や手裏剣の暗器武器の類と衣類のみだったからである。


 狂四狼は物欲など持てない性分だったのでそこは飲み込めるが、満月も身の回り品と本らしきものと衣類などが僅かにあるだけであった。年頃の少女にしてはあまりにさっぱりしすぎている。どういう生い立ちなのか、聞きたいと思ったが「詮索してくる男は嫌いです」と釘を刺されてしまった。


 どうも狂四狼は妻となる予定の満月に距離を置かれているようであった。しかし多少嫌われるぐらいが良いかなとも思う。そちらの方が慣れている。無闇にパーソナルスペースを侵してくるのは風助だけで十分だ。所詮は他人。そう思えば気が楽だ。


「ただいま……か?」


 最近は出張も少ない。夕方頃、警察予備隊での訓練を終えて、六畳一間の我が家に帰宅する。その時の「ただいま」という科白は未だに慣れない。家の中に他人がいるという感覚に違和感がある。


「お帰りなさいませ旦那様」


 満月が事務的に三つ指をついて綺麗な座礼で迎えてくれる。


 旦那様と呼ばれているが、正式に結婚した訳ではない。二人の都合があるだろうから籍を入れる時期は任せると前田上官から言われている。狂四狼個人としては結婚するつもりは微塵もない。恐らくそれは満月も同じ。


 しかし上官の顔を立てるためにはしばらくは一緒にいる必要はあるだろう。そんな背景を持つ妙な同棲生活だった。


「行水にしますか? お食事にしますか? それとも……」

「何でも良い」

「何でもは困ります」

「ではお前にする」

「…………(プイ)」


 そっぽを向かれた。


「食事にするよ」


 当たり前だが、夜の生活は今のところない。その片鱗も見せない。


 狂四狼は満月と共にこたつ兼ちゃぶ台の上に用意された麦ご飯に大根とワカメの入った味噌汁、漬物を食す。食事の最中、狂四狼はふと疑問に思っていたことを口にしてみた。


「最近はどんなことをして過ごしているのだ?」


 全体主義の進んだこの現代、通常なら国家総動員法により女でも貴重な労働力として工場などで働くことを義務付けられているが、満月は新婚扱いでその義務からは逃れている。要するに子供を作れという国からの圧力だ。


 しかしまだ子供がいる訳でもなし、近くに友達がいる訳でもなし、家にラジオのような娯楽がある訳でもなし、暇ではなかろうかと思う。まぁ家事をしっかりとやってくれているので文句はないが、満月の生活が狂四狼に縛られたままでは可哀想だと狂四狼は思った。


「これをしておりました」


 満月は一束のカードを取り出す。


「トランプ……」


 それは狂四狼にも馴染み深い物である。あまり場所を取らず、短い時間で大勢の者と賭け事や遊びができるトランプは戦場でも大いに活躍している。しかし……それは


「一人でか?」

「はい」

「何をするんだ?」

「占いなど」


 ……寂しい。そして暗い。この夜行満月という少女、随分と深い闇を抱えている。


「そ、それじゃあ……一つ、占って貰おうか」


 狂四狼は己から出ていたであろう憐れみに満ちた視線を誤魔化すように取り繕い、満月の目の前に座りこむ。


「はい、それでは、まず血液型は?」

「B型だ」

「自己中心的な存在ですね。うざいです」


 静寂。


 静寂。


 …………。


「…………? 終わりか?」


 占いというか、狂四狼はただ罵倒されただけである。


「ご存知ないのですか? 運命とは、己の力で切り開くものです。安易に占って楽な逃げ道探しなんて愚か者のすることですよ」


 狂四狼はそんなこと全くご存知ない。


「それじゃあ、お前はそれで一体何を占ってたんだ?」

「明日の天気とか……そんなところですね」


 そんなことに五十二枚もカードは必要ない。


「靴でも飛ばしておけ」

「私はペットじゃありません。私が何をしてようと勝手です。私に対して過度の干渉をする人間は全員嫌いです」


 ばっさりと満月は言い放った。侮蔑の目が赤く光る。


 狂四狼は開いた口が塞がらない。しかしこのまま黙ったままでは敗北を認めたこととなる。十代半ばの子供に負けたことになる。何か言ってやらねば気が済まないと言葉を探す。


「どうせお前はAB型だろ? この変人が!」

「くっ……」


 満月が悔しそうに俯いた。


 先が思いやられる……そう狂四狼は思った。



 ****



 家はいつ崩れるかもわからないボロ屋で、壁は薄く、寒さも凌げない有様だったが、辛うじて電気とガスと長屋のすぐ傍に綺麗な水の汲める井戸だけはあった。


 満月は年頃の可愛らしい年ごろの少女だけあって、身なりにはかなり気を配っている。そのため夜になり人気が少なくなると、良く体を洗いにこの井戸に来た。それに合わせるように、狂四狼も自身の体臭が臭いと言われない努力をしようと二日に一回くらいは満月の後に水を浴びるよう心掛けている。


「先に行水に行きますけど覗かないで下さいね」

「あいわかった」

「女の子なので少し長いかもしれません。それでも井戸に落ちて溺れたりはしないので、そんなつまらない口実で覗くのも禁止です」

「あいわかった!」


 狂四狼はこたつの中で乱暴に返事をした。どうやら満月の狂四狼に対する信頼はゼロに限りなく近いようである。


 そして一時間が経過。


「さすがに……長い……」


 逢引の時の支度や買い物、食事、そして風呂、女というものは男とは時間の流れる速度が違うのではなかろうかと驚かされる。そして待たされている間、男というもの大概苦痛を感じている。女はそのことを良く知っておくべきだ。


「はぁ……もうすぐ春とは言え、こう何回も水を浴びていたら低体温症になってしまうぞ……」


 さすがに心配になってきたが、どうする? 覗くべきか? いやそれはするなと釘を刺されている。


 そうやって玄関の外へ注意を向けているとガサゴソと物音が聞こえてきた。


 満月が井戸から戻ってきたと解釈する。


「やっとか……」


 寒さに挫けそうになりながら、気合いでこたつから体を出す。そして着物を全て脱ぎ払うとすっぽんぽんの全裸となった。草履を履き、パシパシと頬を叩くと股間を手拭で隠す。


 そして扉を開けた。


 辺りはもう真っ暗で冬の名残りをみせる冷たい風が体から容赦なく体温を奪い取り、ガクガクと顎と膝が揺れる。井戸まで距離は二十間ほど、長屋の角を曲がればすぐそこだ。その義足を駆使して思い切り走った。途中泥に足を取られ盛大に顔からこける。しかしめげずに井戸に向かった。


「はぁ……はぁ……はぁ……あぁ?」

「――えぇ……」


 満月がいた。


 満月は井戸を照らす白熱球の淡い光に包まれていた。襦袢を脱ぎ、井戸に背を向けるようにして座り込み、こちらを向き、一糸まとわぬ雪のような淡く美しい肌を晒している。両腕は後ろに回され、長い足は大胆にさらけ出され、全身を良く眺めることができた。


 その胸は発展途上で大変慎ましく、その腰はきゅっと締まっている。手足を含め、体を構成する体の優美な曲線は好色と言うよりは最早芸術と言っても良いモノであった。


「ッ…………!」


 満月の喉がごくりと息を呑むように動いたのがわかった。満月はそのまま狂四狼を凝視する。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 はらりと男のいちもつを隠す手拭が風に流されて取れた。


 息を荒げた全裸の男と小動物のように愛らしい全裸の女、一対の雄と雌、こうなればやることは一つだ。それは生命が誕生してから今の今に至るまで受け継がれて来た生の営みだ。お父さんお母さんもやってきたことで、その結果として自分自身がいる。それは祝福されることではあるが決して隠すようなことではない。やましいことなど何もない。


「すまん!」


 狂四狼は敬礼の形で腕を上げると体を反転させた。とぼとぼと全裸で歩いて行くうちにいろいろと考えた。肉眼で女の裸を生まれて初めて見てしまったと唸る。そして無意識の内にその小さな胸と色っぽい腰に艶めかしい脚を頭のキャンバスに思い描く。


 そこで違和感に気付いた。


「普通、隠すな……」


 狂四狼は立ち止まる。


 普通なら満月は胸を手で隠し、足を閉じて合わせるべきだ。それが咄嗟の行動というものだ。なぜそうしなかったか? 驚きのあまりパニック、つまり思考が停止していたのか?


「そんなタマじゃねぇな」


 両腕は後ろに回されていた。


「……うん」


 隠さなかったのではない。既に隠していたのだ。両腕を後ろに回し、己の体よりも隠したかった物を隠していたのだ。


 狂四狼は後ろを振り返ると満月に詰め寄った。


「隠した物を出せ」

「嫌です」


 即答。満月がこうなったら絶対何を言っても聞かないと確信が持てた。


 狂四狼は迷わず、満月の腕を取り、捻り上げると持っていた物を奪い取った。それは古い一冊の本だった。


「中学一年の数学・演習問題……」


 表紙にはそう書かれていた。嫌な汗が吹き出る。


「…………返して……」


 満月は泣きながら鼻声で呟く。


「できない」


 日本人一致総団結、つまり日本人は外国に頼らず団結する時が来たのだという風潮だ。その理念に基づき、全体主義へと傾倒しつつあるこの国では学校制度を廃止し、子供も重要な働き手として徴用している。労働は子供だろうと義務として課せられている。


 一般的には学問をすることは禁止されているのだ。学問を修めることができるのは多額の労働免除金を積んだ者だけ、この国はインテリを嫌っている。この本は所持しているだけで犯罪に問われる可能性がある。


「とりあえず、服を着てくれ……俺は先に戻っている」


 考えてみたら狂四狼も全裸であった。



****



 狂四狼は部屋で胡坐をかきながら満月を待っていた。その間、気になってしょうがなかったのでしきりに本のページをパラパラとめくり眺めていた。


 一つ一つのページは傷んでいて、公式は丁寧に筆で強調され、練習問題は何度も消しゴムで消して解きなおした形跡が見られた。丁寧に、そして懸命に勉強している。そういう印象を受けた。


「燃やした方が良いのだろうがな……」


 もう最善の結論は出ている。しかし人は合理性に欠ける生き物だ。時として最善の行動を取りえない。


「あの……」


 満月が静かに部屋に入ってきた。服はちゃんと着られており石鹸の香りもするいつもの綺麗で美しい姿。しかしその表情は暗い。真っ暗も良いとこである。こんなにもわかりやすく絶望していると美人が台無しだ。


「…………」

「…………」


 気まずい沈黙が場を支配する。叱るべきは自分なのだがら、狂四狼から話を切り出すべきである。……べきであるのだが、どうしても最初の単語がどうしても浮かんで来ない。


「その、百分率は苦手か?」


 狂四狼は自分でもその第一声に驚いた。それはただの感想である。満月の解答を見て、特に出来が悪かったのが食塩水の濃度に関する問題だったのだ。


「え? あ、私は……はい。あまり理解しきれていません」


 満月は驚いた様子で狂四狼の顔を見上げた。咎められると思って、覚悟して来たのだろう。確かにそうするべきではある。


「この問題集には、解答がないんだな……」


 通常、例題には解説付きの解答が載っている筈なのだが、肝心の演習問題には解説や解答が見当たらない。


「……演習の解答解説は別冊でまとめられていたのですが、紛失してしまいました……」


「そうか」


 道理で解答の間違いが間違ったまま放置されていた訳だと思う。


「そうだな……今日のところは、返す」


 返してとの懇願を撥ね付けた狂四狼だが、結局本をあっさり満月に返してしまった。


「え、でも! これは……」

「じゃあ要らないか?」

「……要ります」


 満月は腑に落ちない様子で本を受け取った。満月は本の中をあらためる。そしてその大きな目を更に見開いた。


「……ッッ! 解答があります! 旦那様が採点してくれたのですか!?」


 本を胸に抱え込み、狂四狼の顔を正面から覗き込む満月。なんというか、少し近い。狂四狼は自身の体臭や息が臭くないか心配で少し引いてしまった。


「まあ、少し、暇だったから……」

「あの、……ありがとうございます。……解説まで……ありがとうございます」


 満月は狂四狼が引いた分更に間合いを詰めて、何度も頭を下げた。その時の満月の表情は今まで見た中では特に明るく、年相応の可愛らしいものだった。この笑顔を曇らせるのは気が引けるが……言わねばなるまい。


「満月、まだだ。まだ認めた訳じゃない……俺は迷っている」

「……」


 満月の表情が曇った。更に少し狂四狼から距離を取って警戒している。心の距離がここまで如実に表れる人間も珍しいのではないだろうか?


 狂四狼は部屋に一つしかない窓の外を眺める。


「満月か、すると二週間後だな」


 今宵は満月。すると新月は二週間後になる。


「はい……?」


 そう満月ではなく、新月。


「新月の日に見せたい場所がある」


 結論はその時、そう満月に伝えた。

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