第一章 彼方からの咆哮 その三



「斬り殺せ」


 不死身狂四狼は戦慄した。




 慎重に、しかし迅速に潜伏とほふく前進とその自慢の健脚で駆け抜けること十二時間。確かに狂四狼は岩木川の上流を目指し昼前に無事、弘前に到着した。


 否、出来すぎていた。順調すぎた。ソ連兵はどこにもいなかった。それどころか戦闘の痕跡すらなく、狂四狼は何の障害もなく大日本帝国陸軍第八師団と合流を果たす寸前だ。


「着いてしまったぞ……」


 ここはかつて弘前城下町として栄えた町であり、しっかりとした瓦屋根の宿場や広い商店街、他にも色々な軍御用達の木造建築の建物や長屋がいくつも並んでいるが人影は少ない。今は非常時であり、基地には厳戒態勢が敷かれているのだから当たり前といえば当たり前であったが、最悪市街戦を覚悟していたため拍子抜けである。


 狂四狼は念のため建物の影に隠れながら辺りの気配を伺う。実は日本軍はとっくに降伏しているのではないかとも考えたが、基地の建物には相変わらず風になびく旭日旗が威風堂々と掲げられているため、その線はなさそうだ。


「…………何も起きていない……?」


 狂四狼はそれを確認するとふらふらとした足取りで歩き出す。しまいには目抜き通りの中央で呆然と立ち尽くしてしまった。首巻きで汗を拭きとり、呼吸を懸命に整える。


 人気のない町の中で、静かに砂埃が舞う。


 色々と疑問が残るが、疲労のせいで頭に考える力が伴わない。脳という物は肉体の二パーセント程度しか重さがない癖に消費するエネルギーは二十パーセントにも及ぶ圧倒的に燃費が悪い器官なのだ。故に疲れていると思考が停滞する。


 完全にガス欠状態の狂四狼は思考力が整わないまま、町で一番大きな陸軍基地の施設入口まで歩いてきた。


 門の前にはいつもと変わらないと言った面持ちで、皆が着る一般的な着物ではなくしっかりと和服調の軍服を着込んだ日本軍兵士が二人ほど突っ立っている。狂四狼はその兵士に引率した集落の人達の話を聞く。


「知らん」


 すると兵士はそんな事実はないと言い放った。


 混乱。あの焼かれた集落はなんだったのか、あの虐殺された人はなんだったのか、ソ連兵が襲ってきたと話した怪我をした日本兵はなんだったのか。狂四狼の精神は爆発しそうなほど昂ぶっていた。


 狂四狼は「そんな訳はない! 確認してくれ!」と食い下がったが相手にされなかった。基地の中にいるのではないかと二人の門番を殴り倒し、門の前で格子を掴みながら楓の名を叫んだ。


 その足掻きを踏みにじるように、騒ぎを聞きつけてわらわらと蟻のように群がる兵士達。それらに圧し掛かられ、狂四狼の動きは封じられてしまう。


「話を聞いてくれッッッ! 俺は徴兵を逃れてあの集落にいたんだ!」


 狂四狼は必死に、組み伏せられた状態で、処罰も覚悟して思い切って自らが徴兵逃れのために今まで匿われてその集落で生活していたことを叫んだ。けれど門番はソ連兵がこんなに早く来る筈もないと言い鼻で笑った。


 しかしその状況を滑稽滑稽と観覧する者がいた。


 体躯六尺に及ぼうかという大男で年齢は四十を少し超えたぐらいか、それでも中年とは思えない精力みなぎる力強さがある。男はそのただれた目で狂四狼を上から下まで看視し、軍用煙草を口にくわえながら潰れてひしゃげた鼻で匂いを嗅いだ。


 陸軍第八師団の師団長、階級は中将でありその名を久我虎彦という。


「鎮静剤だ」


 久我は這いつくばる狂四狼に告げて注射器を背中に刺す。そうして門番に下がらせて解放するよう言いつけた。


「ぅう……」


 解放された身体に痛みが走る。狂四狼は伏せた状態のまま、自分の圧し掛かられた肉体を触診した。どうやら圧し掛かられた拍子に左腕と左肋骨を折られてしまっている。息が苦しく、折れた骨が多少肺を圧迫しているようだった。


「名を不死身狂四狼君と言ったかね? なるほど、今にも噛み付きそうじゃないか」


「……俺は…………狂人じゃない……」


 気力を振り絞り、痛みを堪え、なんとか自分の主張は虚言でも妄言でもないと主張した。


「ふむ、部外者には教えられぬことも多々ある。しかしだ、儂らは今、本土決戦に向けて『神威隊』という軍隊を組織中だ。人手が喉から手が出るほど欲しい」


 大日本帝国には戦闘機も戦車も戦艦もない。それどころか鉄も火薬も食料も枯渇しそうだ。しかしその大和魂だけを心に、手製の武器を振るう狂人とも言うべき民兵『神威隊』が組織されているという話は狂四狼もラジオ放送で聞いている。なんでも竹槍、弓、投石器まで投入し、ゲリラ攻撃を行い、各地で連合国軍とソビエト連邦に対抗するそうだ。


 久我は狂四狼が従軍するとなれば話をしてやると遠回しに聞いてきている。この一件、やはり何か裏があるのだ。


「……」


 狂四狼は黙って頷いた。


「付いて来なさい」

「ど……こへ?」

「試験を行える場所へ」


 君は最後の受験生だ。君を試させて貰うと久我は付け加えた。


 意識が飛びそうになり、体が芯から熱を発し、暑く重い。そんな興奮止まらない狂四狼に久我は簡単に答える。


 この物資が不足した中で珍しく小銃を携帯した兵士六人に囲まれ、まるで鎖を付けられた囚人のように重い足取りで行軍する。


 薬の影響によるものか、深刻なエネルギー不足による脳の能力低下によるものかは不明だが、そこから先は記憶が曖昧だった。


 森の中を十時間は歩いただろうか?


 道中、水も食糧も支給されていない。狂四狼は脱水症状を引き起こし、更に歩きながら軽く失神しかけていた。顔面蒼白で折れた左腕を抱え、苦しい息をなんとか整えながらの長時間の死の行進であった。


 その間久我はずっと大日本帝国の素晴らしさだの、世界の不平等さだの、君達は愛国の志士であり未来に残すべき財産であるだのと狂四狼に語り続けた。耳には瞼がないと昔誰かが言っていたが、まさにその通りで心を強く持っていても言葉が脳まで突き刺さる。狂四狼はその言葉に服従してしまいそうになった。


 そうしている内に、開けた崖の上に到着した。既に日は沈んでおり、三日月が出ている。辺りには灯された松明が掲げられている。炎が闇に沢山の人をゆらゆらと映し出していた。


 皆、磔にされている。


「罪人だ、斬り殺せ」


 現在地も不明。目的も不明。相手の罪状も不明。


 小太刀を右手に渡された。肩を叩かれると一言だけ久我はそう呟いた。丘の上、目の前には磔にされた若い女。目隠しと猿轡をされている。


「これが、試験なのか……?」


 狂四狼は久我にも聞かれないようなか細い声で己に問いかけた。異常だ。そう直ぐに分かった。自分はへばっているし、間違いなく洗脳されている。狂四狼にはそういう自覚があった。


「拒否すればどうなる?」


 衰弱した頭を必死に働かせて思考してみる。


「死」


 死臭がする。死臭は他の罪人の者か?


 最後の受験生と言っていた。他の受験生のどこへ? 死んだのか? 考えてみればこんな試験を口外できるようにする訳がない。人目のないところまで連れ去られて、試されている。舞台が整い過ぎている。


 狂四狼はまちがいなく自分が命の危機に瀕していると確信する。女を殺さなければ、自分が久我に殺される。ここで逃げだせば確実に遭難する。


「はッ、はッ、はッ」


 死体の数が二つになるか一つになるかだ。


「はッ、はッ、はッ」


 死体の数は少ない方が良いに決まっている。


「はッ、はッ、はッ」


 この女は罪人だ。


「はッ、はッ、はッ」


 仮に女は罪人ではなく、自分が騙されたとしても、それは騙した試験官たる久我が悪いと悪魔が囁く。


「はッ、はッ、はッ」


 声が聞こえる、俺は悪くないっと。


「はッ――――――」


 一突。


 自分の右胸の辺りで小太刀を強く握り締めると、自身の体重で女の心臓のある左胸を圧し潰すように刺し貫いた。


 鮮血を浴びる。猿轡越しに女の最期の吐息を聞いた。気がつけば、大地が横から縦へ……傾いて……倒れた。肛門の力が緩み、脱糞した。


「よくぞ断ち切った」


 雑音、久我の台詞は最早聞こえない。


 わかっていた。目隠しと猿ぐつわをしても、すぐにわかる。今斬った女は、この世で愛したたった一人の女だ。真実を凝視すれば気が狂うこともわかっていた。


「か、……えで」


 体が煮え滾るように熱い。


 体内の血液が霧状に散布され周囲が赤い蒸気に包まれる。目の前には一本の月光に煌く巨大な野太刀が柄から生成され、切っ先までの形を作り、大地に突き刺さっている。


 そして狂四狼の体を青白い炎が包みこみ、皮膚が熱量を持った黒い鉄のような物に包まれる。それはゆっくりとまるで無数の蟲が浸食するように全身に広がり、生身を覆い隠していく。やがて兜、鎧、籠手、草摺、脛当、立拳に化した。


 双眼が黄金色に光る。誕生したのは全身に装甲をまとい首には赤い首巻が舞う一体の異形の武者。一体の化物の誕生の時であった。


「ッッ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 轟く咆哮。


 その夜の桜はこの世の物とは思えないほど美しく、不死身狂四狼は発狂した。

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