第一章 彼方からの咆哮 その二

 時は一九四六年三月太平洋戦争中に北海道をソビエト連邦が占領した直後。場所は青森の津軽地方の小さな集落。その集落の外れにある寂れた二棟造りの一軒家に狂四狼と楓はいた。


 一九三八年から制定された国家総動員法の効力は今も続いている。女子供を問わず多くの人員が資源と見做され戦場や工場、軍用施設等に徴用されていく中、身寄りのない不死身狂四狼は柳生楓に匿まれ共に密かな生活を送っていた。今戦争に行くのは死にに行くようなものだという楓の判断からである。


 戦後楓は多少ではあったが医学の知識もあったことから軍医として扱われ、狂四狼を連れて北へ北へと流れた。そして最終的には本州の北端までやって来ると北海道に向けて配備されていた兵士の世話をした。


 楓は戦中の十分とは言えない僅かな配給を狂四狼に分け与えた。最初の頃は一方的な施しを不服とした狂四狼はこの配給を斥けたが、空腹には勝てなかった。それでも狂四狼は打刀一本と弓を背に負い白神岳に入り、食べられる野草や獣を楓の元へと持って帰った。


 恩恵は白神岳だけではない。集落には徴収逃れのための隠し田に加え穀倉なども揃えられており、他の集落よりも裕福であった。とは言え戦時中、皆大変に貧しく、毎日生きるだけでも厳しい日常であった。それでも二人で力を合わせれば乗り越えられると信じていた。幸せな日々であった。


「最近、こんなド田舎の辺境の地でやけに人を見かけるな」


 そう狂四狼は静かに尋ねた。


 深夜、ほのかに春のやや温かな風が香る月が昇る中、簡易的な病院に仕立て上げた簡素な一軒家の牛舎の中で二人は遅い夕食を取っている。日夜を問わず人を受け入れ続ける楓の病院には怪我をした日本軍兵士が数人いるのだ。匿われている狂四狼の声を聴かれてはまずい。


「患者の話によるとソ連が今にも本州にも雪崩れ込む勢いだそうだ」


 今日は久々に大物が獲れた。楓は狂四狼の獲った鹿の肉をふんだんに使った煮汁を良く味わうように舌の上で転がす。それをゆっくりと咀嚼する。


 調味料なぞないので大した味はない。しかしそれを胃の中に貴重な命を流し込むと、美味しいと呟きふぅと息を漏らした。茶碗を置き、薄暗い部屋の中空を見上げながら答えた。


「そうか……いよいよか。連中、臆病のくせに数だけは多いからな」


 日本兵が町を徘徊するようになった。狂四狼はこっそり人気のない夜明けと共に山に入り、日暮れと共に山を降りる。それでもそこら辺で何人かの憔悴した兵士を見かけた。


 ソ連兵はあまり優秀な武器を持たないがとにかく数が多い。北海道上陸作戦の時などは斥候の話の通りだと、海岸に押し寄せるソ連兵と見える砂浜の面積が三対一だったそうだ。無論、兵士が三で砂浜が一。


 圧倒的な物量で攻め入る彼らに対し日本軍は銃を持たず銃の代わりに日本刀や酷い例だとこん棒を装備して戦う。決着は目に見えていた。悪夢の再来が近いと、覚悟をする時が来たかも知れないと狂四狼は感じた。


「問題はソ連兵だけではないかも知れない」


 さらっと楓がそんなことを言い放つ。


「? ……どういうことだ?」


 狂四狼は思わず箸を止めた。


「頻繁に、警官が人を連れ去っている」

「徴集か?」

「男に限らない。どうやら子供を狙って問答無用で連れていくようだ。そして誰も戻ってこない。いよいよ人手が足りないようだな。その様は徴集というより拉致に近いな……」

「…………」

「軍は何かをしようとしている」

「またお得意の特攻か……」


 狂四狼は大きく溜息を吐く。


 無邪気な顔をした子供に刃物や爆薬を持たせたら、敵兵にとってそこそこの脅威となるだろう。なるほど確かに戦果を挙げられそうだ、反吐が出るような話だが。


「……狂四狼。お前は明日からここを出るな」


 楓は狂四狼を真っ直ぐ見据える。長く続く食糧難ですっかり痩せこけた頬、浮き出る鎖骨、真っ白で枯れてしまいそうな細腕、そしてそれでも光を失わない強い信念を持つ瞳は、月光に照らされ情緒的な色気を醸し出している。


 思わず、吸い込まれるように狂四狼は手を伸ばしてしまう。優しく抱擁するように背中を抱えた。楓も自身の体重を狂四狼に預ける。互いの吐息が感じられるくらいの距離で見つめ合う。


「こんなになるまで我慢して……先生は俺がいない間もあんまり食ってないんだろう? 俺が持ってきた食料は怪我人に渡してしまっているんだろ? 俺が気付かないとでも思ったか?」

「すまんな……」

「俺がここにいたら、その怪我人と先生の飯はどうするんだよ?」

「私はお前が心配なんだ」

「大丈夫さ、俺は上手くやる。それよりも俺は先生が心配だ」


 この時、もう少し慎重になっていれば良かったのだ。まだ戻れた。二度と手に入れられない幸せがあった。悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない。



****



 次の日の夕暮れ、狂四狼はいつもより深く白神岳の奥に入って行った。途中熊にあったり道に迷ったり危ういところもあったがなんとか上手くやり過ごし、いつもより多くの山菜と茸を得られた。


「はは、たまには冒険してみるものだな」


 しかし帰路で気付く。


「西の空が明るいな……まるで」


 まるで火……。そう言いかけたところで背筋に冷たいものが流れる。悪寒が走る。昨晩の話が頭を過る。狂四狼は沢山の山菜の入った籠を投げ出すと全速力で山を駆け降りた。


「鼻がもげそうだ……」


 狂四狼が到着にすると無残に焼き払われた集落があった。猛烈な異臭がする。まるで大量に動物を焼いたような臭いだ。それは肉だけではなく内臓や大量の毛、爪に血、皮膚の混じった臭い。


 狂四狼は顔をしかめ、燃え立つ田畑、崩れた大きな古民家を尻目に見ながら、通りを抜ける。


 辺りには腸を盛大にぶちまけた集落の老人や後頭部をざっくり切り落とされ目をカっと見開いたままの子供、四肢を酷く損傷して焼かれながら事切れ筋肉が収縮しながら死んでいる女。その他にも死体死体死体。


 狂四狼は目を背け、走る。目指すは楓のいる病院。集落の端にある寂れた二棟造りの一軒家。 それはメラメラと燃えていた。


「糞ッ!」


 家を見澄ますと燃え始めたばかりのようで、火は屋根の燃えやすい茅に集中しており、人の居住する空間は辛うじて、入れるようだった。しかし予断を許さない。いつ柱が燃えて家が崩れ落ちるかはわからないのだ。急がねばならない。


 狂四狼は縁側から障子を突き破って中へ突入する。煙をあまり吸い込まないように体勢を低くし、口に小袖の袖を当てた。この場所は囲炉裏の間、楓が患者を診察したところだ。そこの部屋の隅に何者かがいた。はいつくばって震えている。


「誰だ……?」


 狂四狼がそう声をかける。すると何者かは立ち上がりこちらへ振り向いた。


「あ、あんた……あんたこそ誰だ?」


 男は酷く怯えていた。


「話は後だ。とにかくここを出るぞ! 立てるか?」

「いや、ここで死なせてくれ……俺は血を流しすぎた、もう持たない」

「何を、ッ……」


 男ははいつくばっていた訳ではない。太腿から下がないからそう誤認したのだ。大方、楓が治療した日本兵の一人であろう。止血が試みられているが、完全ではない。日本兵の下腹部から大量出血し、血溜まりができていた。


「何があった!? おい!?」


 男は心なしか目が虚ろだ。狂四狼は男の両肩を強く掴む。がくがくと揺らしと意識の覚醒を試みた。


「……突然ソ連の軍服を着た連中が、……俺達も応戦したが、怪我人だけじゃどうしようもなかった」

「糞ッ! なぜこんな小さな集落に……」


 まさかこんなチンケな集落を襲うだなんて完全に想定外だった。心臓を鷲掴み、掻き毟りたくなるような焦燥に駆られる。


「狙いは穀倉の食料だろう……」

「先生は!? 楓は!?」

「突っ走れる足のある奴は皆とっくに逃げたさ。日本軍が引率した」

「そうか……」


 これから死にゆく者の前で、大変不謹慎ではあったかも知れないがそれでも狂四狼はほっと胸を撫で下ろした。


 その表情を捉えると男は剣呑な顔をする。


「気を付けろッッ! 奴ら化物を……化物をこの戦争に投入しやがった! お前も大和の魂を持つ日本人なら行け! 戦え! そして死ね!」


 男は両手で強く狂四狼を突き飛ばした。狂四狼は尻餅をつく。すると炎をまとった屋根が崩れて男を押し潰した。


「化物? …………」


 一瞬、後ろ髪を引かれる思いに苛まれたが、狂四狼はすぐに反転し病院を脱出した。草履の紐を締め直し、深呼吸を二度行うと丹田に気合を込める。


 山を迂回せねばならない。目指すは大日本帝国陸軍第八師団のある弘前だ。おそらく既にソ連兵と交戦状態にある筈、心してかからなければならないだろう。


 そう考えていた。






「斬り殺せ」


 不死身狂四狼は戦慄した。

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