絶命剣『死狂』
安東陽介侍
第一章 彼方からの咆哮 その一
昔からそうだった。その不死身狂四狼という町一番の不良はまともな教育なんて受けた覚えがなく「学校なんて馬鹿がいくところだ」とずっと言い回っていた。
理由は簡単だ。学校なんていかなくても生きてれば自然に知恵は付く。それに生きて行く上で不可欠な人を騙す能力、小金儲けの方法、そして何よりも喧嘩の勝ち方を学校は教えてくれないからだ。
しかし柳生楓という女に「人を騙し、金も巻き上げ、喧嘩もできるお前が四則計算もできないのか」と言われた。自尊心の塊たる狂四狼にとっては非常に我慢ならないことであった。
結局は羨ましかったのかもしれない、真っ当に生きるということが。負い目があったのだろう。だから暇を見つけては学生に喧嘩を吹っ掛け、辱め、小銭を巻き上げて、その場凌ぎの優越感を得て、良い気になっていたのだろう。
そんなろくでもない日々に別れを告げるために、狂四狼は楓の私塾へ通いはじめた。
****
月日は流れ、緑の眩しい初夏の一日は強い陽を浴びた蝉が金切り声で鳴いている一場面から始まった。ところが青く澄んだ空はあれよあれよという間に黒い積乱雲に覆われ、塾である掘っ建て小屋に大雨が打ち付ける。
あちらこちらで雨漏りしていて集中力を阻害する音が奏でられる。それに部屋がじめじめとして薄暗い。塾長である柳生楓が天井からぶら下がっている白熱電球を点灯させた。しかし雷鳴と共にその白熱電球も今、切れた。どうやら停電であるらしい。
ここの塾生である不死身狂四狼にとってずっと座っているのはつらい。
湿気と熱気にまみれ、脇汗が止め処なく流れる。狂四狼は思い切り、自身の小袖の襟を掴むとイライラをぶつけるように脱ぎ払った。そうして上半身裸となる。
袴を掴み、片膝を立てた半分の胡坐の姿勢から貧乏揺すりの止まらない太腿を何度も何度も叩いた。新緑の葉と清々しい向日葵の香りを思い切り吸ってゆっくりと吐き出し、何度も心を落ち着かせようと努力した。
本日は中学校卒業程度認定試験の模擬テストの日であった。狂四狼にとって、これまでの成果が試される時である。試される時であるが、……紙に書かれている問題が全くわからない。
時間は無常にも刻々と流れている。
額から嫌な汗が出る。垂れた汗の雫が紙面を灰色に濡らした。頭をかき毟り、膝で机を叩き、鉛筆をガジガジとかじる。
「終わりだ」
試験の終了を告げる楓の声。
「待ってくれ、ああ、今、今閃いた。書き終えるまで待ってくれ」
最後に乱暴に解答欄を埋めようとする。悪足掻きだ。
「駄目」
半分近く白紙の答案用紙は容赦なく奪われてしまった。
この鬼め。狂四狼はそう囁いた。
採点を待っている間も、夕立は降り続いた。狂四狼は袴も脱ぎ払うと褌一丁で寺子屋机に脚を乗せボロボロの木造の低い天井を見上げ、仏頂面でその時を待った。
土砂降りの雨はまさしく狂四狼の心情を表しているようで、試験の出来は散々であった。狂四狼の心は言い様のない不安で胸が張り裂けそうだった。
ふぅと楓が溜息を吐き、武士のようにしっかり着こなされた茶色の着物の袖を、凛とした美人を構成する小顔の顎に当てると何かを思案した。そしてその場で即点数が告げられる。
「四十五点だな……」
狂四狼は憤怒で机を蹴り倒す。
「無理だ無理だ、俺には無理だった。てめぇの口車に乗せられて糞みたいな時間を過ごした。俺は最大限の努力をしたつもりだ。その結果がこれだ!」
狂四狼は先ほど脱ぎ散らかした黒の小袖と灰色の袴を掴んで外に出ようとする。
「待て待て、この豪雨の中どこへ行くつもりだ? まだ授業は終わってない」
あっさり手首を掴まれ、捕獲される。着物の上から楓の豊満な乳が背中に押しあてられるが、今は狂四狼もあまり嬉しい気分ではない。
「あぁ? 終わりだ終わり。これ以上やっても意味がねえんだよ! カスが!」
「二年半も頑張ったんだぞ? その努力を放棄するのか?」
「もう俺も十五だ。だってのにこの点数はねえだろ。無駄だったんだよ。やってられっかよ……」
強い口調とは裏腹に、狂四狼の目は充血していて涙をいっぱいに溜めていた。それほど真剣だったということだ。
「その……すまん! すまん、ちょっと試してみたかったんだ。実はこれは中認試験(中学校卒業程度認定試験)の問題じゃないんだ」
楓が両手を合わせて、狂四狼に深々と頭を下げた。後頭部に束ねられた真っ赤な麗しい総髪が下に垂れる。
「は?」
「これだ」
楓から手渡されたのは一冊の分厚い問題集。
「帝都工業高等学校・過去問題集……?」
狂四狼は首を傾げた。本来ならば中学卒業の資格を得るための国家試験に挑もうというのに、楓から渡された本には高校の名があった。それも有名校だ。
「高等学校……」
「中認試験問題じゃなく、高校入試の問題だったんだ」
「はああああああああああああああああああああああああああああ?」
狂四狼は肺の中の空気を全て絞り出して叫んだ。
難しくて当然である。中学卒業に漸く差し掛かったと思っていた学力がそれを通り越して中学を卒業した者が競って争う高校入試の水準まで到達していたというのだ。
「なあ、狂四狼。このまま高校を目指さないか? この高校なら手に職を付けて、誰からも後ろ指を指されることなく、面目躍如たる態度で町を闊歩できる。人から感謝されるようなことをして糊口を凌げる。そんな凡夫たる生き方も悪くないぞ」
いつの間にか激しい夕立は終わり、ふと玄関から外を眺めると雲の切れ間から太陽光が放射状に地上へかかっていた。天使の梯子だ。
「良く頑張ったな。お前が努力で掴み取った力だ。お前素質あるよ」
学問に関して、いつも狂四狼に厳しく当たっていた楓が今までに見せたことのない最高の笑顔でそう言い放った。眩しかった。
「高校? 俺が?」
狂四狼は胸に手を当て、自分自身に自問自答する。
狂四狼はそんなこと考えたこともなかった。人から馬鹿にされたくないというだけで最低限恥ずかしくない教養を得ることだけを目的としていたのだ。それが学生としての新しい可能性が見えてきたのだ。
「んなこと言われてもよう……金がねえと……」
そう言って後頭部を撫でまわす。どう取り繕っても顔のニヤニヤがおさまらない。純粋に、世辞抜きで、人に褒められるのは久しぶりだった。
「奨学金を受け取れば良い。優秀な成績を出したものは学費が免除される。まだ夏だしもう少し勉強すれば間に合う。お前の力なら十分可能だ」
楓の熱意に押され、四畳半のど真ん中の半畳の畳に座りこんでしまった。
「先生は……マジなのかよ?」
狂四狼は楓を見上げる。楓は真剣に狂四狼を見ていた。狂四狼は見つめられてドキドキした。
「あたりまえ!」
背中を叩かれた。楓がその整った顔をくしゃくしゃにして大人気もなく笑った。狂四狼も釣られて笑って少し泣いた。
白熱球が再び点灯した。
狂四狼は胸がいっぱいになった。これが不死身狂四狼の初恋物語だった。
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