第9話 谷口の思い
「しめがコーヒーとは、な」
コーヒーをしめに頼んでいた冴島を思い出すと、腹立たしくも思える。いちいちセンスが良いのも困ったものだ。
しかも久々に友人にラインしたら、何かあったんかとしつこく心配されたし。ただ話したいだけじゃダメなのか、共に野宿した仲だと言うのに。
おぞましとあった日から1週間。シフト通りの半定休日。俺はルーティンに従い散歩をしていた。
公園に到着し、のどを震わせ踏み入る。何事もなく、散策は続いた。美しい花が並び、子どもの声が耳に届く。散歩を楽しんでいたりベンチに座り本を読んだりする姿も目に入ってくる。
見慣れた光景が真新しく感じられ、まるでおぞましとの遭遇などなかったように脳を書き換えていく。
「こんにちは」
声をかけた相手は、姿勢がよく、それでいて和やかな雰囲気を持つ女性。昨夜のバー枝松で出会った、谷口恵理奈である。
彼女は本を閉じると立ち上がり、折り目正しく会釈をくれた。
「こんにちは」
やわらかな声に癒される。ほんわかした山崎と似た系統だが、もっとぽわぽわした感覚がある。
「春秋が好きなのですか?」
彼女が読んでいたのは、宮城谷昌光著の子産だった。中国の春秋時代に、晋と楚の強国に挟まれた、弱小国・鄭の宰相となった子産。晋と楚の和平条約を取り持ち、鄭に平和をもたらした。
「えぇ。特に子産は、派手さはありませんけど、自分の力を過信しないで、国に従事した姿が素敵だな、と」
本で口元を隠してしまう谷口は、小動物のように愛らしい。
「素敵ですよね。ぼくも、宮城谷さんの作品から春秋をしりまして、中国にもこんなに面白い時代があるんだ、と感動しました」
「私も同じです。もともとは、日本の戦国時代が好きで読んでいたのですけど」
「ぼくもです。なかでも伊勢宗瑞が好きで」
「後北条の祖ですね。伊勢のまま亡くなるところも、彼らしい謙虚さが見えていいですよね」
「はは、ここまで共感いただいたのは、初めてです!!」
そのまま語り合い、すっかり意気投合した俺たちは喫茶店へと入った。
「随分と仲が良いのね。恋人のようにも見える」
典型的なジト目をくれる冴島涼子が現れた。
「恋人だなんて、谷口さんに失礼だろう」
そう返しながら見る彼女は相変わらず、窓から差し込む光が美しさを際立たせていた。まるでこの喫茶店が冴島のために設計されているような気さえしてくる。
「ふーん、あなたは嬉しいのね。一ノ瀬くんは、こう言ってるけど、谷口さんの方は」
視線を追うと、うつむきもじもじとした谷口の姿があった。
「とりあえず座ろうか」
声をかけると、ほっとしたようにちょこんと座った。
「へぇ、谷口さんも常連なんですね」
「えぇ。ここのハーブティーとクッキーが好きなんです」
そう言って、クッキーをかじった。
「枝松さん、この試作はもう少し苦味が欲しいですね」
相変わらず的確な指摘をする冴島、同感なのが腹正しい。だいたい、最初に絡んできて以来、何も言ってこないのは何なんだろう。
「あの、一ノ瀬さんは、やっぱり参加されるんですよね」
谷口の奥にいる、冴島を軽く睨んでいると、不意に尋ねられた。
「マジェスティに、ですよね。えぇ、乗りかかった船からは降りれませんから」
そう言って笑いながら、谷口の瞳を見る。何度か目を伏せたあと、ぴたりと目を合わせてから告げられた。
「私も参加します」
「やめておきなさい」
割り込んできた冴島と、俺の気持ちも同じだった。
「冴島さん、私では頼りになりませんか」
冴島と向き合う谷口の表情は見えない。
「そうね。参加の理由がいかなるものであったとしても、やめた方がいいわね」
毅然と応じる目は、不思議と穏やかに感じられた。
「私は、いつも1人でした。もちろん、野中さんのように関わってくださる人はいますけれど」
進藤って嫌われてるんだなぁ。
「すいません、突然、自分語りを始めて」
そう言って、席を立とうとする。
「自分語りは好きなの。私の語りも聞いてもらおうかしら」
そう言っておどける冴島。
「ありがとうございます」
席に着いた谷口は、こちらを振り向いて頭を下げた。
「一ノ瀬さんも聞いてくださいますか?」
「もちろんです」
枝松もにこやかにうなずいていた。
「私は空想するのが取り柄の残念な生き物なんです。こないだも雲になりたい人生だった、なんて思っていて。だからかもしれないんですけど、おぞましさんは、きっと不条理な制約で苦しんでいるのではないかと思ったんです」
谷口さんは、途中で帰ったはず。なぜ、俺と同じような感情を持っているんだろう。
ーー野中さんも谷口さんも、怖いもの知らずでねーー
進藤のセリフを思い出す。そうか、谷口さんも調べていたのか。野中のように、進藤が巻き込んだのかもしれないが。
「似たもの同士、ね」
「え?」
「一ノ瀬くんも、あなたが帰ったあとに、同じようなセリフを言ったのよ」
嘲笑う冴島に、何も返せない。こちらを振り向き、目を輝かせる谷口がいるから。背筋だけひくひくさせる、謎の芸当を習得しながら頷く。
「谷口さん、きっとあなたはマジェスティに入らなくても、おぞましを追い続けるのでしょうね」
「はい」
返事をする背筋は、美しく伸びていた。
「一ノ瀬さん、あなたも情報を明かすでしょうね。そして、谷口さんを危険に巻き込むのよ」
冷然とにらまれるけれど、俺は否定はできなかった。
「私の結論は変わらない。谷口さん、あなたはマジェスティに参加しない方がいいわよ。おぞましは、現代に勝てる人類はいない存在だもの。私も、彼には思うところがあるけれど、殺意を向けられれば間違いなく死ぬ。それでも、私はマジェスティを結成した。結成した理由は後付けできるけれど、勘と熱で動いているのが本音よ」
一息に言い切ると、椅子から降りて歩み寄ってくる。
「だから、谷口さんの気持ちを否定はできない。それどころか、よく理解できさえする。ただ、これだけは約束して欲しいの」
デジャブを感じる俺の前で、谷口の手に手を重ねて置いた後、告げた。
「いのちだいじに。何かあったら私と共に、真っ先に逃げるわよ。全てを置き去りにしてね」
「はい! よろしくお願いします」
枝松を見ると、穏やかな微笑みをくれた。
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