第6話 夜のバーにて
「ふぅ」
両手を挙げて、ぐぐっと伸びる。日が落ちてブルーモーメントの空にしばし目を預けたあと、帰路についた。日中と比べ、随分と気温が下がってきて、少々、肌寒くなってきた。
マジェスティの結成から、数日が経った。昼夜を問わずに、冴島から進捗の確認がくる。
携帯販売員としての日々の業務もある。部長としてクレーマーやらの対応だったり後輩と上司の板挟みになったり社外との折衝もあったり、まぁ、普段から気遣いも多かった。
「なんだか疲れが取れないなぁ」
今日もまた、後輩のやらかしの対応と、それに対する上司からのネチネチが酷かった。その上、この時勢でボーナスも下がる一方だ。責任や職務に見合ってない。働き甲斐はない。
「こんな景気だから仕方ないのかな」
外国と比べて、給与も物価も上がりづらい国。とても過ごしやすく、過ごしにくい、不思議な国である。
再び空を見れば、黒に染まった空に幾つかの星が見えた。こんな都会の空でも届く、星の光の強さを羨ましく思う。
からん、と音を立てて入ったのは、お馴染みの枝松の店である。
「いらっしゃい」
穏やかな顔で迎えてくれる枝松。店内には、ショパンのチェロ・ソナタが流れている。
「この時間に来るのは珍しいですね」
さっとカシューナッツが運ばれてくる。有名なナッツ専門店のものであり、枝松の店で食べてから、家にも常備するようになった。
「冴島さんのおかげで、随分と疲れるようになりまして」
ついさっきも、氷上とやらのバトルを熱く語られたばかりだ。その氷上という傭兵も、おぞましと変わらない、それが感想だった。
「冴島さんは、とても優しい方です」
穏やかな声と共に、ジントニックを差し出す枝松は、どこまで見通しているのだろうか。
「いただきます」
爽やかな香りが鼻に抜け、喉を優しくジンが刺激する。メジャーなアルコールだけど、ここのジントニックはとびっきりにうまい。
からん。
思わず肩を縮めて振り向いた先には、セミロングの黒髪の麗人がいた。「こんばんは」と、枝松に挨拶をして、さっとカウンターについたのだけど、ほのかに甘い香りが届いていた。
「いらっしゃい」
枝松が声をかけると、麗人はブラッディーマリーを注文した。
「どこかでお会いしましたか?」
やんわりと微笑み顔を向けられて、ようやく俺は注視していたことに気づいた。
「失礼しました。つい見惚れてしまいまして。一ノ瀬と申します」
率直に謝罪し、名乗る。
「まぁ、ありがとうございます。山崎と言います。おばさんになりますから、お気遣いなさらないでくださいね」
本場の京都なまりでたおやかに会釈され、心がはんなりさんとなった。
「一ノ瀬さんは、昼の常連さんです」
枝松の補足に助けられる。何も言えない秋がくるなんて、定番ソングってきちんと心情を押さえていたんだな、などと感慨に耽ながら頷いた。
「ここのコーヒーが美味しいわよね」
山崎は目を輝かせ、話を向けてくれた。
「はい。好きです」
ほほが赤らむのがわかる。昔から年上の女性と話すのが心地よいのだ。あの冴島のように、ぐいぐいくるのは困る。
「なんだか、告白みたいな語勢ですね」
やんわりとからかわれたあと、手を口に当てて、山崎は手毬を転がすように笑った。
「ここは現実なのだろうか」
疲労がみせた精霊と錯覚するほど、理想的なお姉さんであった。ふと甘い香りが近づいて、コトンと優しくグラスを置いた音がする。
「せっかくのご縁ですし、お隣よろしいでしょうか?」
「はい、喜んで!!」
この出会いに感謝すると、神に祈りを捧げたい気持ちになった。
からん。
夢心地の中に鳴った来客の音に、肩をぴくりとさせて振り向いた。
入店したのは冴島ではなく、3人組だった。ほっと、一息ついてカウンターチェアにかけ直す。
「一ノ瀬さん、少々、不審です」
枝松から優しく嗜められる。
「わたしの時も、そないなリアクションをとられましたな」
山崎からも優しく詰問される。
「最近、苦手な人と、ここで会いまして。少々、トラウマ気味なんです」
正直に白状する。
「一ノ瀬さんが苦手な方と言うたら、お相手は冴島さんかしら」
眉がぴくりとあがるのを自覚した。冴島は有名人? 常連さんであれば知り合いになるか。いや、まさか。おそるおそる山崎をうかがった。
「当たりです」
やんわりと微笑む山崎の笑顔が刺さった。
「はぁ。逃れられないのか、運命からは」
冴島という大いなる運命を感じながら、寄る辺をなくした心地で寂しくグラスを鳴らした。
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