第2話 おぞましと呼ぶ麗人

 喫茶店の扉の前で、再度、一呼吸して気を落ち着かせようと試みたけれど、視界を防がんと汗は垂れてくるばかりだ。その汗を指先で遠くへと弾いた。どうしようもない、とあきらめて、入り口へと手を伸ばしたところに、横から伸びてきた白い手とバッティングした。


「すいません」


 心臓の音で頭が支配されている間に、先方から謝罪される。それでも、じわりと額に汗がにじむばかりでどうしようもない。


「……こ、こちらこそ、失礼しました」


 イントネーションも踏み外しながら、なんとか謝罪を返して、不恰好にドアを開いた。からん、と鳴るベルに身を縮める。


「ありがとうございます」


 鈴のような美しい声だった。さっと入店してくれた先方に、戸を開けたまま頭を深々と下げる。ぶんぶんと首を振るも、頭がぐらぐらするだけだった。深呼吸をして、どうにか姿勢を繕うと、わずかに残った香りと共に入店した。


「いらっしゃい」


 店主、枝松の穏やかな声に導かれて店内へと足を進めながら先の女性を探すと、カウンターの奥に腰掛けていた。少しためらったあと、いつも通りカウンターの真ん中に陣取って、キリマンジャロを注文した。

 コーヒーの香りが店内をただよい、椅子が静かな音を立てた。


「いただきます」


 再び鈴のような美しい声が、耳の中で心地よく転がった。






 コーヒーを堪能しながら、今日はとっとと惣菜でも買って、寝てしまおうか、と算段をつける。


「おわっ!!」


 スマホが滑り落ち、なんとか落下を阻止したものの、ごとん、と机にぶつかった。上質な木製の机は、店内へと音を響かせていった。


「ご迷惑でなければ」


 バリトンボイスが届けられ、顔を上げた先には、枝松が穏やかに微笑んでいた。


「おぞまし、をみまして」


 思い切って口を開いた言葉は、脈絡もなく、俺だけがわかる名称だ。枝松が片眉をあげ、俺が弁明しようとした時のことだった。


「やはり、おぞましは確かにいるのよ」


「えっ?」


 鈴のような美しい声が割り込んできた。麗人はこちらに向き直ると、やや淡い赤い口紅て彩られた唇を震わせた。


「やはり、おぞましは確かにいるのよ」


 窓から射し込む光が、後光のように見えた。西洋の彫像のように整った顔に、渾身のドヤ顔が浮かんでいて、そのアンバランスさも様になっていた。


「あ、あなたもおぞまし、いや彼をみたことがあるんですか?」


「おぞまし、でいいわよ。ふふ、わたし以外にもそう呼ぶ人に、初めて会ったわ」


 まさかの共感者の出現に戸惑ううちに、ヒールの音が近づいてくる。


「お話しをする時間はありますか?」


 差し出された名刺には、国際弁護士・冴島涼子とあった。




「もしよろしければ、冴島さんもいかがですか?」


 枝松が試作のコーヒーをすすめた。思わず、冴島を軽く睨んだ。


「枝松さん、ありがとうございます。是非、いただきたいです」


 語尾に音符をつけて喜ぶ姿を見ていたら、自然と目元が緩んだ。


「いただきます」


 試作を飲む。酸味が強すぎて口に残る、今回は残念。冴島も酸味強めと告げていて、我が意を得たりとニヤついていたら、目があった。


「ごめんなさい。盗み聞きとなったことを、まずはお詫びします」


 装いを改め、こちらに頭を下げる。


「いえ、全く気にしていませんから」


 丁寧な対応に面食らう。


「ありがとうございます」


「冴島さんも、おぞましと呼んでいるとのことでしたが」


「えぇ。知人がバトルしているのをみていました」


「そうなんですね」


「えぇ」


「って、バトル?! ですか」


「凄まじいものだったわ」


 そういうと、冴島はあごに手を当て、目を閉じる。いよいよ、ドヤ顔族の本領を発揮するのだろうか。平然と非日常を語る彼女に、戦々恐々としてきた。


「一ノ瀬さんも、おぞましとバトルを」


 そう言ってこちら見る黒瞳は輝いているけど、俺には深淵にしか見えませんよー。


「いやいや、バトルしてませんから! ここに来る途中で、バッタリと遭遇はしましたけど」


 言葉に出した瞬間に、おぞましとの遭遇がフラッシュバックして、喉がひしゃげる。どうにか視線を上げていって、長年の樹で組まれた天井にたどり着いたあと、肩が震えた。


「そうですか」


 声に目を向けると、しおれた花のような表情の中で口元だけが舌打ちしそうに見えた。


「確かに、情けない姿でしょうね。それにしても、おぞましは悪人とも思えない気もしていて」


 去り際にほほを緩めたイケメン顔は、まるでこの世に導のない、幽霊のような儚さがあったから。


「一ノ瀬さん」


 穏やかに微笑む冴島の後光が、4割増しだ。


「わたしも同感です」


 そのまま彼女は、あごに人差し指を添えると、少し間を置いた。自然と視線は固定される。国際弁護士に相応しい、いや、彼女が何者であれ、美人ではある。


「わたしが彼と遭遇したのは、スクランブル交差点の前でした。白昼に堂々と佇む彼とのやりとりは、夢に出るほど怖かった」


 言葉を区切り、長いまつ毛を揺らした。


「それでも、確かに悪人には見えなかった。助太刀してくださった方も、あいつは訳ありなんだろう、と」


 バトルというと、肉弾戦を想像する年代だ。戦ったからこそ、見えたものがあるのかもしれない。むろん、現実に命のやりとりをしたのなら、それだけではないだろう。


「一ノ瀬さん」


 呼びかけておきながら、静かに目を閉じた。この時の時間は、何秒だったか。やけに長く感じたのを覚えている。


「おぞましに遭遇した、あなたには知る権利があります。そして、このまま忘れることもできます」


 目を開くと穏やかな声音で言葉を届けてくれた。


「冴島さんは、忘れてほしいのですね」


 彼女の瞳が揺れた。俺はまぶたを落として問答した。彼女が、おぞましについて調査をしていることは間違いないだろう。そして、きっと難航しているんじゃないか。おぞましとこぼした俺に食いついてきたぐらいだ。本当は、協力してほしいはず。


 このまま忘れてしまったほうがいい。人に関わることなんて、今の時代、どれほどの人が進んでやろうと思うのか。


「おぞましについて知りたいです」


 真っ直ぐに目を見て告げると、冴島は目を丸くした後に、嬉しそうに微笑んだ。

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