この想いになんと名付けようか
@hayasi_kouji
第1話 残暑みまい
10月になっても、真夏日が続いていた。
「少し暑いな」
ぼやきながら、胸元の汗をタオルで拭ったあと、ひらひらと風を送った。気温は真夏だけれど、木陰から見上げる空の色は秋らしく感じられた。
「焼石に水、ってやつかな」
一呼吸はついたものの、まだしばらくこの太陽の下をいく予定だ。いつまでも立ち止まってはいられない。
「せいっ」と一声かけて、木陰から出ると散歩を再開した。いつも通りの歩幅で、適当に歩いて公園を通ったあと、喫茶店で休んで帰路に着く。これが休日のささやかなルーティーンだ。
突然、そんな日常が終わった。
「くぅ」
急激な冷えに声がもれる。さきほどまで体中にまとわりついていた暑さが吹き飛んでいた。身が縮めながら原因を探ったけれど、目の届く限りにあるのは、レンガに固定された車両の侵入を防ぐ柵だった。
草花の匂いが鼻に届いたとき、肺から黒煙が溢れ出すような感覚に襲われる。声にならないえずきをあげながら、綺麗に敷き詰められたレンガの境界線がじわじわと涙で滲んでいった。
ーー願わくは、どうかこの願いがあなたの心に届きますようにーー
脳内に直接、届けられたその声に脳をかきまわされたような気持ち悪さを覚えながら、それでも美しい声だとの印象が残った。非日常が続いて疲れたのか、体はレンガへと一直線に進み、無様に顔面ダイブを決め込んだ。
「……うっ」
痛みを引き金に、しばらく俺は泣いてしまった。こんなに泣いたのは、いつぶりだっけ? あぁ、幼い頃に無邪気に強がったあと、ひと知れずこんな風に泣いていたっけ。
ゆっくりと身を起こすと、軽く服をはたいた。額に手を当てると、じんじんと疼きを訴えている。ジーンズのポケットからハンカチを取り出して、しばらくやわらかな世界にひたる。
「せっかく来たのだから見ていくか」
落ち着きを取り戻した俺は、どうせ入り込んだのだから、といつもと違う公園の散策に乗り出した。今では、このとき帰らなかったのは、予感めいたものがあったからだと感じている。
のんびりと色とりどりの花を見ながら進んでいくと、やがて広場にたどり着いた。わずかな水音が耳に届いた。目をやると、銀髪の男が静かに噴水の中で佇んでいた。
その光景を認識した途端に、全身から汗が噴き出した。
(……なんという悍ましさだ、怪物、おぞまし、怪物、おぞまし?)
脳を駆け巡る言葉の中から、おぞましと命名。経験したことのない感覚は、恐怖へと転換され、思考回路もショート寸前だ。公園に入ってきてから感じていた肌寒さも、おぞましがもたらしたものに違いない。
ついに緊張の糸が切れた。だらしなく緩んだ体は、今度は膝でレンガを叩いた。その音を聞き咎めたのか、ぐるりと首を回したおぞましは赤い目を鋭く細めると、空が落ちてきたような圧力がぶちかまされた。
「こほっ」
無様に肺から酸素をこぼれさせながら、これが殺気というものなのだと理解させられていた。
どれほど経ったんだろうか、俺という存在そのものが消し飛ばされそうになった頃だった。
「テッキ」
おぞましから、不意に一言が放たれた。
「?」
鉄器って南部鉄器とかで有名なやつですか? いや違う、なにか初めて聞いた言語を脳が無理になれた言葉に当てはめていった感じがする。もうどこにも力は残ってはいないはずなのに、奥歯がぎりり、と音を立てる。焦げた匂いが想起されるほどに思考を回転させていった。
「ーーーー」
おぞましは何かを発したあと、頬を緩めると、静かに去っていった。
レンガ模様が近づいて、額に衝撃が走った。ようやく解放された肺が暴れて顔が熱くなっていった。うめきながら思い出すおぞましは、細マッチョで切長の赤い瞳を持つ、やけにいい男だった。
よろよろと身を起こすと、額から流れる温かな血に気づいた。ハンカチを押し当てても、なかなか止まらない。頭の固さには、自信があったんだけどなぁ。
ハンカチが色を変えてしまった頃、ようやく血は止まった。顔を上げると、夏日とは隔絶された秋の空が広がっていた。首筋の汗を手で弾いたあと、俺は立ち上がった。
「とんだ残暑みまいだ」
先ほどの奇妙な体験を振り切るように、力強く地面を蹴った。
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