第16話


 ***

 

「なるほど」

 腕を組んだまま、その中年の男は頷いた。視線は、卓上の報告書に落としたまま。

「要救助者は確認できず。特記事項は道中で確認した小型種による大規模な捕食現象のみ、と」

 眼だけ動かして向けられた視線に、ユナは黙って首肯する。

「……本当にそれだけかね」

「はい」

「……そうか」

 そう言ってサインしたペンを傍らに置くと、その男、第十七航空団司令フォルカー・アルノルトはサインした報告書をファイルに納め、背もたれに体重を預ける。

「今回のことに付いては不測の事態で、司令部も大混乱の真っ只中だ。今後のことに付いては、後日改めて発表がある。それまではここで待機だ。暫くは任務も入らんだろうし、好きに過ごして疲れを癒すといい」

 そして微かに何かを言おうとするかのような素振りをして、しかし結局手元の資料に視線を落としてこう告げた。

「ご苦労だった、行っていいぞ」

「失礼します」

 王立軍式の敬礼をし、退出した。

 

 

 つい一週間と少し前に来た時は何ともなかった無機質な内装。それが、今はまるでこちらの事を拒絶しているかのように思えた。 

 剥き出しの配管に蛍光灯、打ちっぱなしのコンクリート。前にも増して人気のない廊下。ドアの開け放たれた部屋の中は、どれもこれもがもぬけの殻。薄暗く静まり返った建物の中に、雨音が静かに響く。

 紙切れに掛かれた数字と同じ札のかかった部屋だけが、扉が閉じていた。

 こんこん、とノックをする。

 返事は無かった。少し待ってから、ドアノブを捻ると扉は抵抗なく開いた。

 果たして、彼女はそこにいた。

 カーテンの引かれた部屋の中。寝台に横たわる人影の手にした黒いものが、扉から差した蛍光灯の明滅する光を受けて鈍く輝く。

 こちらを向いた彼女が、小さく声を漏らした。

「え……」

 淀んだ空気が、微かに動くのが伝わる。

「えっと……」

「なんで」

 絞り出すようにそう言った顔は、なにか酷く傷ついたような表情で。

「管理科の人に聞いた」

「……ああ」

 天井に向け片手で構えていた拳銃を下ろし、寝台からノアが身を起こす。

 ユナがカーテンを開けると、部屋の中を窓越しのくすんだ光が微かに映し出す。

 寝台のノアの隣に腰掛けようとしたところで、制止があった。

「来ないで」

 露骨な拒絶の言葉。

 静まり返った部屋の中で、その声が反響する。

「……その、」

 途中で遮られたのは幸いだったのかもしれない。

 ユナ自身が、何と言えばいいのか分かっていなかったのだから。

「貴女は、こっち側には来なくていいんだよ」

 足元に落された視線。前髪に隠され、表情はうかがえない。

「見えない所で輝いていてくれればよかったんだ」

 彼女の視界に入るであろう、周囲一メートルほど。そこに不可視の円が存在する。ユナが立ち入ることを拒む、立ち入ってくれるなと主張する領域が。

「貴女がどこかで光っていられるように、私はここで戦ってきた。戦ってこられた」

 独白するように、何かに縋るように。堰が切れたかのように、彼女は続ける。

「カタリナほど強くはなれないし、割り切れもしない。私たちの手が血で濡れているのは事実だから。軍人を気取ったって、結局は人間同士、仲間内で意味も無く殺し合ってるだけ」

「貴女の為なら、やってこれた。そういう事にすれば、私は戦えた。どこか遠くで貴女は昔みたいに飛んでいて。その空をこうやって守るのが、私たちの役目だって」

「そのために死ぬのなら、馬鹿みたいな身内同士の殺し合いでも構わないって」

「なのに」

 顔を伏せたその姿は、まるで途方に暮れた子供のようだった。

「私が、貴女を夜空から引きずり下ろした」

「貴女は、どこか見えない所で高く飛んでいてくれればよかった」

「飛んでいるはず、それだけで十分だったのに」

 寝台の上に放り投げられた拳銃が、壁にぶつかって小さな音を立てる。

「いっそ、あれが一生の別れだったらよかったのに」

 土を打つ雨音が、雨樋を伝う水音が、その静寂を際立たせる。

「なんで来ちゃったの」

「貴女が要るべき場所じゃないはずなのに」

「自分勝手なのは分かってる。けど」

 小さく息を吐く力ない音。

「自業自得なのかな。こんなくせして、また会えてよかったなんて思ったから」

 腰掛けていた寝台から立ち上がった彼女の視線は、しかし床に落とされたまま。

 小さな手が、立ちつくすユナの背を力無く押す。開いたままの扉の方へ。

 言うべき言葉も分からぬまま口を動かすが、出てくるのは当然声にならない掠れた音だけ。

 それが音を紡ぐより先に、彼女が言う。

「何も言わないで」

 今度は、しっかりと意思を感じさせる力で背中が押された。

「頼むから、忘れて。貴女は今までのままで」

 お願いだから、と。

「私の生き方を否定しないで」

 薄い扉が閉まる音が、背後でした。

「さようなら」

 自分の部屋に戻った後、基地内での護身用に支給されている拳銃を、数か月ぶりに引き出しに仕舞ってあったホルスターから取り出した。

 訓練でしか撃った事のない無骨な軍用拳銃は、傷一つなく輝いていた。

 

 

 レンツ戦闘飛行隊に通常の業務が戻って来たのは、その二日後だった。

 配置変更は無し。モンスターの手に落ちた新設戦域地区。その奪還の用意が整うまで、第十七航空団の各飛行隊は現在所属する基地を拠点として防衛線の維持に当たれ、と。

 要するに、現状維持という事だ。進駐、もとい、侵攻が行われる前と同じ所まで後退した防衛線。現状戦力では、それを維持するのが精一杯と。

 ただ、それがありがたかった。

 考える猶予を与えられたようで。

 朝起きて、朝食を摂取し、格納庫へ。入隊時から繰り返してきた警戒任務。竜種と遭遇するのは三回に一回程度。小さな群れを機械的に処理して帰投すれば、安全な食堂で温かい食事が待っている。

 基地に日用品を卸す民間人とすれ違えば、任務お疲れ様ですと笑顔で礼をされる。

 その笑顔の裏にある物に思い至ってしまうと、今迄のように会釈で返すことは出来なかった。

 そんなもの、本当は無いのかもしれないけれど。

 毎日の戦死発表は、変わらず聞き覚えの無い名前を大量に垂れ流していた。

 国営放送のキャスターの後ろに飾られた王室旗は、妙に安っぽく見えた。

 格納庫に停められていた二機だけの土色迷彩は、何日経ってもそのままだった。

 一日が過ぎ、二日が過ぎ、何日かもよく分からなくなり。

 これからどうするべきなのか。当ても無く思索を巡らせるも、答えは一向に手繰り寄せられない。そもそもあるのかですら、分からない。

 中核州に住む臣民が王立軍として武器を取り、戦域州の人民を守る。権利と責務。

 相も変わらず報道や同僚の唱えるそれが、つい先日まではユナも信じていたはずのそれが、今となっては聖書の唱える博愛のように薄っぺらく聞こえる。

 ノブレス・オブリジュ。高貴なる物の義務。そんなもの、ここには存在しない。例え王立軍兵の一人一人はそれを信じていたとしても、現実にあるのはは力ある者が力無きものを使い潰す、単純な階層支配の構図。

 攻めるときは敵の防衛線を崩し、人民にモンスターという刃を突き付けることで敵に流血を強いる。攻められたときも早々に兵を引き、或いは全滅前提の戦力だけを残し、同様に敵軍に流血を強いる。人民の存在自体がある種の人質とすら言える。攻めるのならば、明け渡さぬなら、この者たちの安全は保障しない、と。

 疑問に思いはしなかったか。

 ユナの両親のように、中核州から戦域州へ移住する「入植民」は政府によって大体的に募集されていた。臣民としての身分はそのままに、拡大し続ける戦域州の発展へ寄与する為として。だが、戦域州から中核州へ移住したという話は滅多に聞かない。

 王立軍における軍務と臣民としての権利が同義なら、なぜ王立軍に配属されたノアは依然として臣民の身分を得ていなかったのか。もっと言うのなら、臣民の身分を得るために、中核州に住むために、王立軍へ入隊する戦域州出身者が存在しないのか。戦域州の限りのある雇用から溢れた人口は、なぜ王立軍でも中核州でもなく予備軍に流れるのか。

 恐らく、そう言う風にできているのだろう。公にはなっていなくとも、戦域州の出身者は王立軍には入れない。臣民にはなれない。権利があれば、責務は負う。ただ、責務を負うから権利を寄越せという道理は、認められないと。

 ノアの時だって、現に人員不足による特例という風に発表されていた。臣民の権利は与えられず、単座のヴェスペの導入で人員不足が解消するや否や、邪魔者を排除するかのように戦域州の出身者は予備軍に転属となった。

 確証性バイアス。人間は自分の正しいと思うものに従い、根拠となる事実を集める。なので、自らの知るこの国の「構造」が正しいと信じる臣民たちは、何ら疑う事をしない。

 これだけの情報がありながら、疑問を持ちすらしなかったユナのように。

 ユナたちの気付いたあの報道以外にも、そうやって歪められた、薄められた「被害報道」はきっと日常的に流れている。それに気づかない、気付こうとしないだけで。

 恣意的に作り上げられたのだとしたら、反吐が出るほどよく出来た仕組みだ。

 或いは、厳格な封建制を敷いた旧王国の系譜を継ぐ連邦王国。その必然の帰着なのか。

 知らなかった、であったらどれだけよかったか。事実を隠し悪政を敷く政府による被害者、そんな立場に収まれたらどれだけ気が楽だったか。

 ただ、事実は違う。知ろうとしなかった。ユナも、あらゆる王国臣民も、等しく共犯者だ。

 そして、そんなことを考えるのも、結局は一番の問題からの逃避なのだろう。

 あれ以降、ノアとは一度も会っていなかった。

 機体は残っているので、恐らく基地にはまだいるはず。

 会おうと思えば会えるのかもしれなかったけれど、それを行動に移す勇気は無かった。

 このままにするわけには、なんて漠然と思うのはただの自分への言い訳なのかもしれない。

 そうやって、結論を出さずにいるふりをすれば、時間が勝手に結果だけを与えてくれるから。

 ノアが言ったように、カタリナが告げたように、全て忘れて無かった事にするという結果を。

 変わらず予備軍の犠牲の上に、中核州と戦域州の歪んだ関係の上に、虚飾で彩った責任感で胡坐をかきつづける。そういう、あまりにも厚顔無恥で、無責任で、けれど簡単で楽な結果を。

 しかし、かといって何か出来ることがあるのか、というのも分からない。

 何をしても、ユナの上には王立軍人という肩書が、臣民という身分が存在する。今までは胸を張っていたその肩書も、今となってはのしかかる十字架。

 下手に再び近づけば、その背負った十字架がノアを傷付ける結果になりかねない。その恐怖が、何をしようにもユナの足をすくませる。

 いっそ予備軍への転属願を書いてみようかとも思ってもみて、その自己満足っぷりに吐き気を覚えたりもした。それがノアの望む事ではないだろうというのは何となく分かったけれど、ではどうすればいいのかというのはいくら考えても分からなかった。

 だからだろうか。

 その日、いつものように警戒任務を終えた後の滑走路脇で見かけた人影に、思わず声をかけてしまった。カタリナ・ミュンヒ。あの日いた、もう一人の予備軍人。ノアと違いユナたちに対応してくれていたカタリナなら、話しかけてもいいような気がして。

「ちょっといいですか」

 なんです、と面倒くさそうに振り返るカタリナ。胡乱な目が、ユナへと向けられる。

 お世辞にも愛想がいいとは言えないその視線に、何か当たり障りのない話題をと探して、けれど結局共通の話題と言えばあの時の事しかなかった。

 まさか、いい天気ですねという訳にもいかないし。

「あの後、どうなったんですか」

「私、忘れてくださいって言いませんでしたっけ」

 予想はしていた答え。

「何か処罰があったのなら、原因は私たちにあります。あれが間違っていたとは思いませんが、せめて謝罪くらいは」

 ユナたちの護衛をするという、命令違反の言い訳。それは、カタリナたちが言っていた通りレンツ戦闘飛行隊の事を報告していないのなら使えない。

 カタリナは眉を顰めると、小さくため息をついて答える。

「まあ、あなた達も関わった話ですし事の顛末くらいはお話ししましょう。敵前逃亡、命令違反。これについては処分保留です。ひとまず使える戦力は有効活用したいんでしょう。この戦いが終わるまでは。敵を食い止める必要もありますし」

「戦線の方は大丈夫なんですか」

「今は戦線なんてありませんよ。今は流れ込んだモンスターが、敵の進軍を妨害してくれているはずです。安泰ではありませんが、ひとまず三日は持ちそうなので大丈夫でしょう」

「あ、……そうですか」

 迂闊な発言を悔いつつ、どう本題を切り出したものか逡巡し。

「まあ何にしろ、あなた達の心配する話ではありません」

 しかし、そう言って背を向けたカタリナに、結局は単刀直入に尋ねる事しかできない。

「あの、ノ……テラ少尉の事なんですけど」

 なにか。彼女が何をどう思っているのか。どうすれば、不本意に傷つけずに済むか。カタリナの話から、その手掛かりだけでも得られないかと思って。

 帰って来たのは、初めて見る睨むような視線だった。今までユナの見たどの瞬間よりも、荒々しい感情の乗せられた。

「事の顛末は話しました。これで、この件は一件落着です」

 だから、と。

「忘れろ、関わるな。どこまで行っても貴女は王立軍人です。何度でも言いますが、同情めいた憐みは不要です。或いは、お節介も」

 飛行服の胸倉が、荒々しく掴まれる。

 大きさを抑えた声が、かえってそこに含まれる怒気を強調する。

「隊長から聞きました。あなた、入植民だそうですね。戦域州育ちだからって私たちと同じなつもりなのかもしれませんが、違う。その王立軍の紋章が、何よりの証拠です」

 鼻同士が触れようかという距離。

 生暖かい吐息と、むせるような感情が、ユナの肌に纏わりつく。

「どうせみっともなくうだうだと悩んでるんでしょう。でしたら、とっておきの免罪符を差し上げますよ。予備軍人の口から、直々に」

 いいですか、と。乱暴な視線が、至近距離からユナを突き刺す。

「隊長の元バディだか何だか知りませんが、隊長の事を思うならこれ以上関わらないでください。予備軍は、私たちの場所です。隊長の僚機は、この私です。それを外野の臣民様に、どうこう言われる筋合いは無い。まして、憐れんだり心配したりされる筋合いも」

 ユナに一切の口答えを許さぬ勢い、そして気迫。

「だから、綺麗さっぱり忘れろ。私たちの為と言うのなら」

 ぐっ、と。なにか硬いものが腹に押し付けられる感覚。

「私たちの生き方は―死に方は、私たちが決める。自分の、最後くらいは」

 飛行服のジャケットと二人の身体で巧妙に隠されたそれは、ユナからは視認できない。

「次、のうのうと顔を見せたのなら、撃ちますよ」

 突き付けられたそれが、飛行服越しにねじ込むように内臓を圧迫する。

「きっとあなたの名前が戦死発表に乗れば隊長は悲しむでしょう。ですが、仕事柄その手の処分には慣れてます。隊長を悲しませることにはなりません」

 冗談じゃありませんよ、と。

「今更一人や二人、誤差の範疇です」

 突き放すように胸倉をつかんだ手が離される。ぱちりと、ホルスターを閉める音。

「休暇を取って実家にでも帰って、ご両親と食卓でも囲んで、それでとっとと忘れてください。あなたは臣民だ。私たち戦域州の人間じゃない」

「……何を囲えって」

 吐き捨てるように言われたその言葉も、普段なら聞き流していただろう。

 ただ今回は、思わず反駁してしまった。

 一方的に捲し立てられ、少し腹が立っていたのかもしれない。

「どこに帰れって?実家なんかない。親なんかいない。二人ともモンスターに殺された。防衛線が崩壊しましたって言われて、避難する暇も無く。戸籍上の後見人だって、証明写真でしか知らない。声も、姿も、家がどこにあるかすら知らない」

 だから何ですか、と言われればそれまでだっただろう。

 カタリナの告げた事とは何一つとして噛み合っていない。些細な言葉尻に噛みついただけ。

 しかし、カタリナは意外にもその言葉に少しだけ、ばつの悪そうな顔をした。

 ふっ、と視線がそらされる。

「……明後日付けで私たちは第一八四前線基地に移動になります。それまでにお別れでも済ませて、それでとっとと忘れてください。……これが、最後ですよ」

 腰の拳銃に手を添えたまま、睨むように一瞥して。

「最後に一つだけ聞かせてください」

 これを逃せば次の機会は無い気がして、向けられた背中に尋ねた。

 一つ、未だに残っていた謎を。

「テラ少尉は、王立空軍の軍籍記録では三年前に戦死したことになっています。これについて何か知っていますか」

 答えは、驚くほどあっさりと与えられた。

「へえ、そんなことになってるんですか」

 知りませんでしたけど、想像の範疇です、と。

「単純な話でしょう。どうせ死ぬんなら、予め死んだことにしておいた方が楽ですから」

 その翌日。連邦王国軍総司令部より、新設戦域地区奪還大規模作戦、通称「ウィントホーゼ」が発表された。

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