第10話


 そして。

「ねえ、なんでこうなってるのかな」

 ぼそりと呟いたユナの、それこそ髪の毛が触れるほどの至近で。

「床では寝かせられないって言ったのはそっちでしょ」

 答えるノアの、その吐息がユナの髪を微かに揺らす。

「いや確かに言ったけど」

「私だって、流石に人の部屋に来て家主を床に追いやれるほど太い神経はしてはない」

 既に照明を落とした部屋。当然、街明かりなんてものは無い。

 窓から差す月影に照らされた部屋の中、暗闇に慣れた視界に映るのは剥き出しの蛍光灯。

 そして、顔を横に向ければ何故かこちらを向いたノアの顔。

 一人用の、狭い寝台の上。

 揺らいでいた天秤を無理やり傾けた結果、どこか壊してしまったか。

「せまくないの」

「その分あったかいって」

「別に寒いような季節じゃなくない」

「暑いような季節でもないでしょ」

「ほら、疲れてるでしょ。やっぱり一人で使っていいよ」

「なら私も床で寝る」

 ノアが身じろぎしたその振動が、スプリングさええない粗末な簡易ベッドを介して横で寝るユナにも直に伝わる。

「……あのね、」

 そんなに遠慮しなくてもいいよ、とそう続けようとした言葉は遮られた。

「おねがい」

 袖が引き留めるように掴まれる。ユナの髪の毛ごと掴んでしまってから、慌てて掴み直したのが引かれる感覚から分かった。

 なぜか、脳裏にユナのズボンを小さな手で掴んでいたフィーニの姿が去来する。

「…………わかった」

「ありがと」

 きっと脳裏に浮かんだもののせいだろう。

 ゆっくりと掴んでいた袖を離したノアの手に、気付けば無意識に左手を伸ばしていた。

 手と手が触れたところでノアの手がびくりと小さく跳ね、ユナはそれで自分が手を伸ばしている事に気が付く。ほんの少しだけ迷って、そっと手を重ねた。

 航空団規模の壊滅は、ユナも未経験だ。

 だだ、王立地上軍の師団規模の部隊が壊滅するのは先日見たばかり。

 想像できる、とは口が裂けても言えないが、欠片も想像がつかないという訳でも無い。

「……ぁ」

「ん?」

「っ、いや、なんでも」

 引っ込めようとするかのようなノアの手の強張り。それが手のひらから伝わる。

 迷うような間。

「こうやって寝るのも何年振りかな」

 結局、ふたつの手は重なったままだった。

「……はじめて、だと思うけど」

「同じ部屋でって事だよ」

 第十七航空団に配属される前、ノアと一緒だった防空隊時代は個室なんて与えられなかった。二段の寝台が置かれた相部屋。同性の相方という事もあり、基本的にずっと同室。

「ああ、うん、それもそうだ」

 小さく笑うような声と共に、ノアが答える。

 窓から聞こえるのは、夜間の警戒に上がっている観測艇の微かなエンジン音。揚力やスラスタが無ければ滞空出来ない戦闘艇などの半飛行船と違い、浮揚ガスのみで滞空でき騒音の小さい飛行船なので、本来は着弾観測用の軽武装艇ながらこのためだけに配備された機体だ。

 そのプロペラが空気を叩く規則正しい音が、子守歌のように部屋に響く。

 そして、隣のノアの規則正しい吐息も微かに。

「……ノア」

 今なら。先程は教えてもらえなかったことも、今ならば答えてくれそうな気がして。

「なに、ユナ」

「…………そのさ、」

 結局自分は臆病なんだな、とユナは思う。

「無事でよかったよ」

 けれど、これはこれで正解だったのだろう。

 本当はノアたちに何があったのかとか、軍籍記録の事をノア自身は知っているのかとか、聞きたいことは残ったまま。よかったなんて言ってはいても、安心できる訳も無い。

 ただ、それを口にした途端何か引っかかっていたものがすっと溶けたような感覚を覚えた。

 そういえばまだ言っていなかったと、気づいたのはその後の事。気がついたことで、ノアが無事だった事への安堵がどっと押し寄せる。

 そのまま感情に任せて続けようとしたところで、遮ったのはノアだった。

「それは逆」

 静かに、けれどはっきりと。

「逆って」

「この前会うまで何回も、正直もう戦死してるかもと思った」

 視界の端に映っていたはずのノアの顔は、しかしユナの枕に遮られてよく見えない。

 咄嗟には、何も言えなかった。その非対称性に気付いていなかった。

 ユナからすれば、少なくとも昨日の報道を目にするまでは予備軍勤務のノアはほぼ間違いなく生きてるものと思っていて、それを疑ってすらいなかった。

 ただ、それはこちらから見た場合だけの話だ。ノアから見れば、戦死率がお世辞にも低いとは言えない王立空軍に残ったユナは、いわば生死不明だ。芸の無い例えをするのなら、シュレディンガーの猫。ユナが報道を見てから抱いていたような不安に、もしかするとこの三年ずっと晒されていたのかもしれない。

「予備軍じゃ、基地でも戦死発表は流れてないから。何年も経って、もうどこかでって」

 別に、だからユナが悪いというような話ではない。ただ、心のどこかで前線には出ない予備軍なのだからと、どこか「自分の方が」と思っていなかったか。

 自問し、軽い自己嫌悪。それを誤魔化すように、明るく答えた。

「相方の腕をもうちょっと信じてくれてもいいんじゃない」

 なんとも嘘くさい言葉だし、きっとそれはノアも気付いている。ノアだってユナと共に、戦死発表で見知った名前を何度も見ているのだから。

 腕だけで、自分の力だけで、死を拒絶できるほど戦場は良く出来てはいない。が。

「なら、これからはそうしよう」

 ふっ、と小さく笑ってノアは付け加える。

「だから、頼んだよ。ユナにいなくなられると、いろいろと困っちゃうからさ」

 さすがに「私も」とは言えなかった。

 少し考えて、代わりにではないが重ねた手を軽く握る。

 何か少し違うような気もしたけれど、きっとまたノアとフィーニを重ねてしまっていたせいだ。年端もいかない少女の相手なんて慣れない事をしたせいで、感覚がずれたのだ。

 なぜか、また驚いたように小さくぴくりと震えるノアの手。一息置いてから、それがユナの掌の下でもぞもぞと動く。

 今度は、ユナの方が少しだけ驚いた。

 しっかりと握り返された手、そこから驚きが漏れたのか。ノアは悪戯が成功した子供のように、ふふっ、と小さく笑うともう一度軽く握り返して。

 そして、ユナが何かを言う前に囁いた。

「おやすみ」

 吐息と、掌を介して伝わる微かな鼓動だけが残される。

「うん、おやすみ」

 昔のように答えて、そのままユナは目を閉じた。

 予想に反して、すぐに眠りに落ちたらしい。

 きっと、昨日と今日とで疲れていたのだろう。狭い寝台と、髪を揺らす吐息と、それと掌から伝わる体温が気にならない程度には。もしくは、人間は他人の体温や寝息があった方がよく眠れるという俗説が本当だったのか。

 翌朝。聞き慣れた戦闘艇のエンジン音で目が覚めると、既に隣にノアの姿は無かった。狭い部屋の中にも。布団に籠る体温がユナの物なのかノアの物なのかは、分からなかった。

 置き手紙、なんてものは無かった。忘れ物も。

 管理科に尋ねると、ひとまずの扱いが決まったので第28予備航空団の残存部隊はつい先程この飛行場を離れた、と昨日の小動物系の管理科員が眠たそうな目を擦りながら教えてくれた。

 行き先は、教えてもらえなかった。

 管理科員が知らなかったのか、航空予備軍の機密だったのかは分からない。

 結果だけ見れば、結局逃げられたことに変わりはないのかもしれない。尋ねたかったことも、何一つ尋ねられないまま。

 ただ今度は、後悔は無かった。また会える、という訳ではないが、もし次会ったらまた今回の再会のように笑っていられる。そういう気がしていた。

 残ったままの疑問も飲み込むことにした。ノアが言わなかったのだから、きっとユナたちの安全という点では大したことではないのだ、と。

 そして、ひとまずはいつも通りの。正確には旧共和国基地なのでいつも通りではないが、とにかくそれまでのような日常が戻って来た。

 たった、一週間ほどの間だけ。

 

 ***

 

 それは、昼過ぎの事だった。

 早朝からの哨戒任務を終えて食事も済ませ、レンツ戦闘飛行隊はいつもの四人部屋で夕方からの任務に備えて休みを取っていた。喋っている者、眠っている者、本を読んでいる者。その部屋に自分のベッドが無いユナは、廃棄予定の旧共和国軍備品の置いてある倉庫から拾ってきたパイプ椅子に腰かけてうとうとと舟を漕いでいて。

 だから、きっとこれが初めてと言えば初めてだっただろう。

 廊下や部屋にむき出しで置かれたスピーカー。そこから、鼓膜を破かんばかりの爆音で聴神経を逆撫でするようなサイレンが鳴り響く。

 訓練では知っている、ただ実際に聞いたことは無かった警報音。

 人間に生理的は不快感を抱かせるよう設計されたその音にユナは思わず飛び起き、同じく身を起こした隊員と顔を見合わせる。

 まさか、という思いが皆顔に出ていた。ちょっとした放送ミスではなかろうか、同じように心地よい午後の空気に微睡んだ担当者が舟を漕いだ拍子に押してしまったのではなかろうか。

 しかし、その祈りにも近い楽観視は続く放送で否定される。

「待機中の全部隊に告ぐ。第一種緊急事態を発令。繰り返す、待機中の全部隊へ、第一種緊急事態を発令」

 ざらついた放送越しでも分かるうわずった声。

「頭数未確認の竜種大規模集団が接近中。出動中の飛行隊は通信途絶」

 任務中の部隊の喪失、それはこの飛行場が完全な無防備になったことを意味する。

 想定され得る、そして本来は陥らないように入念な計算が為されているはずの、最悪の事態。

 薄い壁や天井越しに、どたばたとにわかに慌ただしくなる足音。

「敵集団の到達予想時刻、十分後。全機直ちに出撃し、基地の防空に当たれ」

 無理やり抑えたその声が、余計に事態の深刻さを強調する。

「王立空軍は第192戦域地区の防空を放棄する。稼働可能な機体は全機、全力を以て当飛行場の防衛に当たれ」

 

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