悪魔の囁き
葵 悠静
本編
「やあ、随分と楽しそうな顔をしているね」
私の前に現れたのは礼服のような服をまとった黒い悪魔。
全身も黒いのに黒い服を着ているから、より黒さが目立ってしまっている。
楽しそうも何も私はさっき産声をあげたばかりで、楽しいことなんて何もない。
また人に産まれてしまった。
そのことに落胆しているのに、楽しそうな顔なんてできるはずもない。
「安心しなよ。君が持っている前世の記憶はどうせあと49日もすれば忘れるはずさ。ごくまれに記憶を持ったまま成長する人間もいるみたいだけど。かわいそうなことにね」
そんなことはどうでもいい。
前世を覚えているか忘れているかなんて私には何の意味もない。
前世が何かしてくれるわけじゃないし。
「しかし香ばしい絶望の匂いがするから来てみたらまさか人間とはね。しかもさっき生を受けたばかり。これは将来有望だね。つばでもつけておこうか」
ケタケタと笑う目の前の悪魔は実に楽しげだ。
きっと悩みなんてないんだろう。そんな風に思えるほどに悪魔は能天気な顔をしていた。
「まあ君が香ばしい香りを漂わせている時は遊びに来てあげるよ。これほどの極上品を他の連中に横取りされたくはないからね」
そういった悪魔は自分の舌の先に人差し指を当てるとその指をそのまま私の口の中に突っ込んできた。
私は抵抗なんてできるはずがない。手足もろくに動かないのだから。
そもそも抵抗する気もそんなにないのだけれど。
そんな私の様子を見て悪魔は満足したのか目の前から消えた。
「やあ、調子はどうだい?」
「……何?」
調子がどうかなんて私にとってはどうでもいい。
目の前にいる悪魔は物心がつくころから私に付きまとっていた。
何かあると必ずこいつは現れる。誰にも会いたくない時に限って現れる。
「しかし君はずいぶんと簡単に絶望するね。そんなに人として生きるのが嫌なのかい」
「……めんどくさいもの」
無視をしても目の前の悪魔はいつも私の様子なんて気にすることなくぺらぺらと好きなだけ話すから、最低限の返事はする。その方が早く帰ってくれるから。
「絶望っていうのはね、そんなに簡単にできるものじゃないんだよ。よく街中をこの世の終わりだ。みたいな顔で歩いている人間を見るだろ? でも本当に絶望しているのはその中でも一割にも満たない。皆誰かに気づいてほしいだけで、僕は今しんどいですよーってアピールしたいだけなのさ。実に人間らしい愛すべき行動だね。僕にとっては食事のノイズにしかならないから勘弁してほしいけどさ」
今日も本当によくしゃべる。
内容は中身のないものだけど。
私にとっては他人の事情なんてどうでもいい。自分のことで精いっぱいなのだから他の人を気にする余裕なんてない。
「でも君は違う。普通の何の変哲もない一般家庭に生まれ、何不自由なく日常を過ごしているというのにどうしてそんな簡単に絶望ができるのか。実に興味深いね。君が死ぬときには極上のごちそうが出来上がりそうだ」
確かに私は普通だ。
私の周りもいたって普通。特別なことなんて何もない。
でも私には生きている意味が分からない。
「また君が絶望したら来るよ。それまで元気に絶望を育ててくれ」
もう来なくていいのに。
「やあやあ、今日はずいぶんと楽しそうなことをしようとしているじゃないか」
「……あなたも飽きないのね」
私は右手に持ったカッターをそのままに目の前に現れケタケタと笑っている悪魔を見る。
「死ぬのかい?」
悪魔は私が右手に持ったカッターをじっと見つめながら短く問いかけてくる。
「……無理よ」
確かにこのカッターで自分の身を傷つけようとした。あわよくば死ねるかもしれない。
そんなことを考えていたかもしれない。
でもしょせん私には無理。自分を傷つける痛みを想像してそれに耐えがたくなって、結局実行できないまま。
私にはそんな勇気すらない。
「それは安心したよ」
「あなた的には死んでくれた方が助かるんじゃないの?」
前だって死ぬときが一番のごちそうだとか何とか言ってた気もするし。
目の前の悪魔が私の何かを食べるつもりなら、さっさと死んでくれた方が食材的にはいいんじゃないだろうか。
むしろ殺してくれるならそっちの方がいいかもしれない。
「とんでもない。自殺なんて一番愚かな行為だよ、悪魔にとってもね。なんせどれだけ深い絶望をしている上質な魂でも自ら命の線を切ってしまった魂は食べられたものじゃない」
悪魔たちは魂を食べているんだ。
それならどうしてこいつは生きている私のところによく現れるんだろう。
ただの暇つぶし?
「それに期待しているようだけど、無理だよ? 僕が君を殺すことは絶対にない。僕たちは絶望しながら天寿を全うしてほしいんだよ」
なんて理不尽なことを言うんだろう。
絶望しながら生きるくらいならさっさと死んでしまった方がましに思えるのに。
「でも君に一ついいことを教えてあげよう。自殺なんてしなくても大丈夫だよ。君は普通の人間の三分の一も生きることができないんだからさ」
「……そう」
「君は本当に面白いね。今の内容で希望を抱いてしまうんだから」
長生きしなくて済むってだけでそれは希望だろう。
どうせすぐ死ぬんだったらもう少し生きててもいいかという気すらしてくる。
悪魔はそんな私の様子に呆れたのか、それとも面白がっているのかふっと笑うとなぜかカッターを私の手から抜き取り、それを丸ごと食べてしまった。
そして恍惚な表情を浮かべながら消えていった。
「やあ、景気のいい顔をしてるじゃないか」
この悪魔は天邪鬼なのだろうか。
そう思うほどに私が思っていることと、悪魔の言っていることが合致しない。
「最近男ができたらしいね! いいことのはずなのに君はまたしても絶望している。ちっとも希望を抱かない。ここまでくると滑稽だね」
ケタケタと笑いながらもその言葉に嫌味たらしさはない。
純粋に真っ直ぐに私のことを貶しているのだろう。
確かに告白されたから付き合っている彼氏はいる。
でもそれだけ。私の心境、環境には何の関係もない事だった。
何も変わらなかった。
「まぁそんなことはどうだっていいさ。今日は君にプレゼントを持ってきたんだよ」
そういいながら悪魔が胸ポケットが取り出し差し出してきたのは、真っ白な彼岸花だった。
明らかに胸ポケットに収まるサイズではないのに、その花びらは一切折れ曲がることなく綺麗な形を保っている。
「……どうして?」
「ただの悪魔の風習さ。交流を持った人間には彼岸花を渡すんだよ。まぁ君に渡したのは特別に白色だけどね」
「……どうして?」
「言っただろう? 君が特別だからさ」
そう言いながらウインクするその姿は実に胡散臭い。
一瞬返そうかとも思ったが、その白い彼岸花に目をやりそれをやめる。
「まぁ……いいけど」
「その彼岸花は特別でね。枯れることがない。せいぜい大切にするといいさ」
そういってまたニヤリと笑みを浮かべた悪魔はそのまま消えていった。
私は白い彼岸花を見つめ、その茎の根を加えてみたけど、特に何も起こらなかった。
……花瓶にでも差しておこう。
「さて……と」
絶望の香りがしないからあの人間の元にたどり着くのはいつもより困難だろう。
だからこそまさにその瞬間を迎える時に万が一にも見失わないように、唾をつけておいた。
まさかこんなに早くその行いが功を奏すとは思わなかったけど、これはうれしい誤算だ。
マーキングした場所に向かう。
「やあ、調子はどうだい?」
「……最悪」
「そうだろうとも」
白いベッドに横になりたくさんのチューブに繋がれた人間。
いつも絶望しながら生きていた人間。
でも自死することすらできない弱い人間。
僕にとっては極上のごちそうだ。
「死ぬの?」
「死ぬね」
「……そう」
やっぱりこの人間はおかしくて狂ってる。
今から死ぬっていうのに、今だって意識がもうろうとしているはずなのに絶望しないんだから。
むしろ笑ってすらいる。
目の前の人間ともそれなりに長い付き合いだが、こんな風に笑ったところなんて一度たりとも見たことがない。
「今の君はいうなれば最期に与えられた現世との別れの時間だね。周りには誰もいないみたいだけど」
死ぬ間際に天命であればどんな人間にでも訪れる限られた時間。
まあ人間がそんなことを知る由もないから大抵の人間は一人でその時間を味わって死んでいくんだけど。
目の前の人間も例にもれず一人で死んでいくのだろう。
「あなたがいるじゃない」
「うれしいことを言ってくれるじゃないか。まあ僕は現世の人間じゃないんだけど」
「どうでもいいわ」
人間はもう目を閉じている。今まで簡単に絶望していたのにその表情は安らかだ。
でもそのまま死なれると僕が困る。
僕は極上の味を堪能するためにここまで待ったんだ。
「僕は君に一つ謝らなければならないことがある」
「……何?」
「僕は君をだましたんだよ。君は今から死ぬけど、本当の意味で死ぬことなんてできない」
「どういうこと?」
「僕は君が死んだあと、君の魂を食べる」
「知ってる」
「うん。だから君は僕と一緒に生き続けるわけさ」
「……あなたの中で生き続けるっていうこと? そこに私の意思がないのならそんなことどうでもいいわ」
ううむ、どうやらこの人間にとってはパンチが少なかったようだ。
全然絶望してくれない。
「ああ、やっと……」
そしてそのまま死んでしまった。
本当に見たことないくらい安らかな表情をしている。
「さてと……」
死んでしまったものは仕方がない。
ここまで待ったのだ。これ以上のお預けはごめんだ。ありがたく頂戴するとしよう。
思えば彼女とは長い付き合いだ。
生まれた時にはこの世に生を受けたことに絶望していた。
何かあれば、何もないふとした時ですら絶望していた。
人間として生まれるにはあまりに現世との相性が悪い魂。思考。
何の因果か、それともそのことに彼女の障害の運をすべてささげたのか、早々に天寿を全うすることだけが唯一の救いだったか。
恵まれているのに絶望する。
そんな彼女のことが大嫌いだった。
でもだからこそ、僕はそんな彼女のことを。
「……愛しているよ」
途端に口の中いっぱいに広がる絶望の味。
口からあふれ出しそうになるそれを一滴もこぼさないように取り込む。
やはり目をつけていた通り、むしろ想像以上に甘美な味わいだった。
至高の味に舌鼓を打ちつつも、一つ気がかりなことがあった。
もし絶望しながら死んだなら、彼女の魂はどれほどの味になるのだろうか。
「……ふむ」
これ以上の味があるなんて想像しがたいが、今の絶望ですら想像していなかったのだ。
それなら彼女が僕の想像をはるかに超えた絶望を抱えることだって可能かもしれない。
それならこのまま完食してしまうのはもったいないか。
それにもとより半分はそのつもりだったのだ。
「僕と一緒に生きようじゃないか」
僕は僕自身の身体を撫でながら彼女にそう話しかけた。
「……聞いてた話と違う気がするのだけど」
「僕はちゃんと謝ったよ?」
隣でとぼけたような顔をして浮いている礼服のような服をまとった黒い悪魔。
全身も黒いのに黒い服を着ているから、より黒さが目立ってしまっている。
「君が僕に食べられたら僕の一部になって、君自身の意思が消えると勘違いしていただけさ」
悪魔に対する私も黒いドレスをまとい胸に白い彼岸花の花弁を携え、彼の隣に浮かんでいる。
彼と違う点は私の肌は真っ白だから、黒いドレスが映えて目立っていることだろう。
「せっかく解放されると思ったのに」
「僕の一部にはならないけど、君には僕の手足となって働いてもらうつもりだよ」
私は死んだ。てっきり無に帰すものだと思っていた。
でも現実は甘くないらしい。私はこうして実体を持ち悪魔と会話をしている。
「でも思った以上に絶望していないみたいだね」
「……そうね」
「顕現した瞬間深い絶望を表すようなら、その瞬間にいただいてしまおうと思っていたのに。これはあてが外れたかな?」
「それがあなたの目的?」
「そうとも言えるし単純な人員補充でもあるさ。まあ20余年も待ったんだ。もう少しくらい我慢できる」
「……そう」
人として生きるよりはましなのかもしれない。
私はそんな希望を持ちながら悪魔とともに絶望を探す。
悪魔は私が絶望することに期待しながら。
私は人よりもましである旅路になることを期待しながら。
そんないびつな関係は今に始まったことではなかった。
悪魔の囁き 葵 悠静 @goryu36
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