5

 彼が次に目を覚ました時、いつも以上に真っ白な天井が見えた。


——違う、そうじゃなくて。


 彼はまだ、本当の意味で目を覚ませていない。

 ただ意識だけが、漂白された空間に浮いている。

 頭痛を催す程純然たる白を、眼窩から流し込まれ、

 口の中から喉も肺も、たっぷり充溢して叫ぶことすらできない。

 全身を狂おしく襲う痒み。

 だけどそれは内側から来る疼き、

 もどかしくとも取り除く事は出来ない。

 耳元で、子守唄のように優しく囁かれる。


——これから、幸せになるの。

——余計な事を、考えなくてよくなるの。

——死ぬも壊れるも怖くなくなる。

——春の日の下で微睡むような、自由な人生。

——だから、捨てようね?


 彼の中で、核を覆っていたあれやこれやが取り払われていく。

 まだ少なかった思い出達が、少しずつ、ちょっとずつ、削り取られる。

 痛い。

 痛い痛いイタイ。

 生皮を薄く、何度も剥がされるような。それを感じる度、痛みから自由になろうと、柔らかな方へと流される。

 削られる箇所を捨てれば、その分だけ痛みが引く。

 だから少しずつ、ちょっとずつ、切り離す。

 大切な何かを失くしたような気がして、だけどそれが何かももう分からない。


——あの人は無事だろうか?

——『あの人』って誰だっけ?

——彼女を助けなきゃ。

——『彼女』ってなんだっけ?


 閉じる目蓋が無いから、白昼白夜のストロボが絶えない。

 無音と苛虐かぎゃく眩閃げんせんが、鼓膜を甲高く鳴り響かせる。

 自分が立つ土台は取り払われ、深海に一人浮かぶような恐慌だけが残り、

 彼が救いを求める先に、何も残されてはいない。


 すぐ後ろに寄り添う、偉大で優しい絶望以外は。


 そしてそれは、そのまま“核”にも手を掛けて、

 割ると中身がドロリと零れる。

 それを同じように洗浄していく。

 自分の幸せと思い出とを、差し出すことで楽になれる。

 止まらぬ痛痒に、抉り取れるまで掻き毟り、筋繊維ごと、垢を落とさせる。

 自分が何者であったのか、それすら思い出せないように、

 隅から隅まで徹底的に——



——?



 その存在は、手応えに疑問を抱いた。

 汚れが思ったより強く、へばり付いている?

 

 違う、

 

 浄めた後から滾滾こんこんと無際限かのように湧き出でてくる。


 これは、一体——


「ふざけるな」


 声。

 自らの意思で、

 この肉体は声を発した?

 だが、そんな筈がない。

 出来る筈が、無いのだ。

 まるで、

 これではまるで——


——私達の故郷に、魂の座標を持っている?


 そんな馬鹿な。

 それでは、神格である。

 こんな場所に居る筈が、


「ふざけるな」


 ゴボリ。


 黒く粘つく流体が湧き出でる勢いを増していく。


 ゴボゴボ。


 沸騰するように気泡が暴れ、


「ふざけるな!」


 ゴボーッ!!


 弾けとんだ飛沫はマグマのように破壊的な豪熱!


「僕達に考えさせず、決めさせず、言わせず、聞かせず、そして遂には踏み込んではいけない場所を土足で荒らした!」


 燃える、否、融ける!


 その核に触れていた側が逆に、その熱によって形を奪われる!


「許さない!ふざけるなふざけるなふざけるな!お前が王などと認めるものか!お前が神などと認められるものか!今からお前に見せてやる!お前なんかでは吞み込み切れない——」



——僕たちの、怨々えんえん憎悪ぞうおを!!



 大きく揺れ跳ねる白一色の構造物!

 グノトを含む住民達は何事かと跳ね起きて、

 配置された魔物達は異変を排除しようと集結し、

 全てを受け入れ身を清めてその時を待っていた少女が、

 不安と希望の両方を胸に、外に出て灰色の空を見上げた。


 そこには、色があった。

 茶色の幹と、

 緑の葉っぱ、

 

 そして、花。


 淡く爽やかな青色の数輪が集まって、大きな一輪となっているように見えるそれ。

 それがあちこちで開花している不思議な大樹が、地の底から白の空間を真っ二つに裂き天井まで貫いている!


 その上に、人影一つ。

 燃えるような赤い血でその服を染め、頭巾を脱ぎ捨て金髪碧眼の端正な顔を顕にした少年が、

 ただ無言で、しかし背中越しの景色が歪む程の灼炎しゃくえんを漲らせ、

 しかと、立っていた。


「あれは何だ?」

「あそこに居るのは誰だ?」

「あの木は一体?」

 人は集って思い思いの声を交わし、

 異形共は本能に従い蹂躙せんと構える。


 今にも地上を焼き払わんという意気軒昂な少年は、

 彼らが右往左往する様を見て、


 


 ただ立っているだけ。

 漏れ出る意識の強さと、何一つ事を起こさないという事実の隔たりに、見ている者は不協和を抱いて解消を欲する。

 未だ類を見ない存在へ対処しようと構えた魔物達は、その不動が逆に不気味で、動きを決められず二の足を踏む。


 そうして、

 全ての視線と関心が、

 その一身に集中したその時、


「悪は滅びる」

 

 初めて、その口を開いた。


「命ある限り悪は生まれ、生きる者ある限り、悪は必ず打ち倒される」

 「これは、絶対のことわりだ」、そう言う彼に返って来たのは、


「はあ?」

 呆れと落胆。


「おいお前、なんだか凄い事してるけど、言ってることは幼稚だな?」

「幼稚?ああ、確かに子どもでも分かるような理屈ではあるね」

「そうじゃねえ!」

「悪い奴は滅びるなんて誰が決めた!」

「そんなの綺麗事だ!」

「そういう事信じれる時期は過ぎたんだよ!」

 グノトは、形勢の不利を察し始めていた。

 彼らは、圧倒的な力を見せつけられた者か、最初から白の中で生まれた者か、そのどちらかだ。

 反抗心など、もう砕け散った者達である。

 その彼らを動かす論理としては、根拠薄弱で求心力に欠ける。

「僕は言った。『生きる者ある限り』、と」

「だから何だ!それは何時になるんだ!?」

「そんなに言うなら今すぐ魔王を倒してみやがれ!」

 そこでフローダは、「不思議でならない」という顔をして、


「え?出来ないよ?」


 そう言い放った。

「はあ!?」

「何しに来たんだお前!」

「言ってること無茶苦茶だよアンタ!」

「口先だけの詐欺師め!」

「俺達を騙そうっていうなら——」



「じゃあここに『生きる者』は居るのか!?」



 パタリと、野次が静まり返る。


「お前達は、胸を張って、『生きている』とそう言えるのか!?」


 怒りは魔王にではなく、

 まず人に向いた。


「いや、だって、俺達こうして…」

「そ、そうだよ、居るじゃないか」

「自らの意思で、寝て、起きて、食べて、学んで、駆けて、考えて、戦って、また寝て。それが『生きる』ということだ!卑しい鼠も汚い豚も厭らしい虫ケラだってやっていることだ!」

 それは、彼らが見ないようにして来た現実を見せる鏡。

 誰もが言って欲しくない、だが誰かが言わなければならないことを言い放つ深淵。


「お前達はどうだ!?ずっと誰かの言われるがまま、何かにされるがまま、流されて、吹かれて、捨ててしまう!部屋の隅に積もる埃と、何が違うと言うんだよ!?」


 思い知らされる。

 自分たちの堕落を。

 醜い現状を。

 恥じるべき姿を。


「だ、だけど、どうすりゃ良かったんだよ…」

 彼らはそれでも、自己正当化を諦めきれない。

「相手は、あの魔王だぞ?」

「誰にも勝てない奴だぞ?」

「勇者だって、最強の人間だって負けたんじゃないか」

「仕方ない、ことだったんだよう…」

 道理を説く人々に対して、

「勇者が敗けたのは、何故か?」

 しかしフローダは、逃走など決してさせない。

「勇者とは、全ての願いと、希望と、想いを背負った、人類の代表!言うなれば君達全体の総意だった!それが敗けたのは、何故か!?」

 簡単な話だ。


——君達が!敗けていたからだ!

 

「君達は期待した!勇者が全て片をつけて、自分達は危険も痛みも感じずと暮らせる!今日も明日も明後日も、何ら変わりなく続いていく!そうやって、努力も思考も祈りも丸ごと、勇者一人に放り投げた!目指すものがあるのでもなく!叶えたい欲も見て見ぬふりして!何ということはない!君達は、魔王に平らげられるまでもなく——」


——死んでいたんだ!

——だから敗けたんだ!


「勇者を殺したのはお前達だ!他の何者でもありはしない!」


 目を逸らして沈黙した事が答え。

 気まずそうな曇り顔が全て。


 その中で、一人別の反応を示す者。

 少女が、

 泣いていた。

 嗚咽を堪えてと、

 透明な涙を静かに流す。


「だが君達は、まだ戦える」


 フローダは、そこで優しげな声音を示す。

 迷える亡者に目的を与える。


「君達はこうしてここに居る」

 再び顔を上げた彼らの瞳に、慈愛で包み込む笑顔が映る。

「君達は生き返れる」

 教えてやる。無力感と後悔から抜け出る方法があるのだと。

「立ち上がり、考え、武器を取り、声を上げる。『生きる者』となることが出来る」

 

 「それこそが君達、今ここに居る者だけの特権じゃあないか!」、彼はそう言って、受け止めるように両手を広げる。


「だ、だけど、いきなりそんなこと言われても…」

「そ、そうだよ、武器なんてどこにも…」


「いいや、君達は既に持っている」


 そうして仕上げに胸を叩いて、具体的な提案をする。


「僕達に植えられた“種”。これは、僕らの怒りを吸い上げて成長する魔法存在だ。だからこそ、これはまつろわぬ者を探す装置となる」

 だが、逆に言えば、


「つまり魔王は、僕らの怒りが怖いんじゃないか?」


 それは、

 考えてもみなかったことで、

「僕らの怒りが持つ力が、可能性が、予測不可能で恐れてるんじゃあないか?」

 しかし納得してしまえる理屈で、

「現に今、僕に植えられた種は、僕の怒りを吸い切れず自らを切り離し、こうして外側に実体化した!」

「なんじゃと?」

 グノトは戦慄する。

 あの種の許容量一杯吸われて、そこから更にあれ程の怒りを沸き上がらせる。

 それは一体、どれ程まで強い念なのか?

「君達が出来る事は、単純で、しかし維持することは困難だ。それでも僕は、君達がやってくれると、本当は出来るのだと信じている!」

 彼らは、もうフローダの一語一句を聞き逃すまいとかぶりついている。

 二度とこの人を失望させまいと、こんな青二才に生意気を言わせまいと、なけなしの意地を総動員して。

 そんな彼らに求めるのは、


「怒れ!怒り続けろ!」


 火をつけていく。

 延焼させていく。

 自分の炎を分け、他者の魂を熱して震わせる。


 悪意をぶつけられ、

 殺意で脅かされようと、

 それ以上の激流となりて、

「『戦う』と叫べ!『勝つ』と轟け!『生きる』と——」


——怒れ!!


「立て!今こそ甦れ!」

 フローダが右手を振るい、その先で幾本もの大樹がそそり立っていく。

「生きろ!生き続け、生き抜け!」

 彼が左手を薙ぎ、呼応するように満開の花びらが飛び交っていく。

「君達が通った場所が道だ!君達が言った事が正義だ!そうやって君達が体現する在り方こそが——」


——命だ!


 喊声!雄叫び!鬨の声!

 次々と天井を穿つ大木が現れ象も昆虫も大男も押し寄せる物量にただ押し潰される!

 誰にも止められない!

 決壊した鉄砲水は瞬く間に潔癖な白を黒々と踏み染めて行く!

 魔王を倒せたかもしれない機を逃した不甲斐なさ、

 取り返しのつかない怠惰で沢山の人が死んだという遣る瀬無さ、

 自分達が今置かれている境遇への不平不満。

 それらが魔王に狙いを絞られ、

 一度に爆発し噴射された!


 その中でフローダは太枝を器用に操り、一人の少女をすくい上げる。


 潤む視野の中で、

 笑顔輝く彼は、


「やあ、助けに来たよ」


 そう言って右手を差し伸べた。

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