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 空が寂しく赤らんで来る。

 帰路の美しさはそのまま、彼の心境に頓着しない、時の流れの残酷さを表している。

 

 温かな風が吹き、女性の手のように頬を撫でる。

 その朗らかさが、命の芽吹きを呼ぶのだろう。

 彼は、春という季節が嫌いだった。

 濃密な生誕の気配に包まれると、いつも以上に彼の罪業が加算されている気になって来る。



 名戯達悉にとって外が怯えの対象になったのは、小学生時代のことだった。

 教師からある話を聞いたことが、切っ掛けだったように思う。

 生物というのは、とても細かい生物の集まりである。

 空気の中は見えない命で溢れていて、人の一挙手一投足でそれら微細な生き物達は大量に死んでしまう。

 そして生きとし生ける物は、他者から何かを奪わなければ生き続けられない。

 命を頂き、生育空間を陣取り、そうやって自分の生きるだけのスペースを、もともとそこにあったものを喰らうことで確保する。


 それ以前からも母に、「命を大切にする良い子」として育てられた彼にとって、何の命も奪わないことがアイデンティティーだった。

 それが、粉々に砕け散った。

 彼は歩いて、息をするだけで殺している。

 明日生きる為に、今日何かを口に入れ犠牲にする。

 彼の「優しさ」とは、大いに反目する行動。

 それが、「生きる」ということだった。

 ここで本当に優しいのなら、自らの命を絶ち誰か何かの糧として捧げるべきだ。

 だが、彼は死にたくなかった。

 母親の為とか、自殺は良くないとか言ってみたところで、本音はシンプルに「死ぬのがこわい」。

 歩くだけで罪悪を感じ、常に業苦を背負っているような顔をして、それを解消する覚悟は持たない。

 最低最悪の半端野郎が完成した。


 ある日彼は、小学校の友達に誘われて花火大会に行った。

 いや、あれもいじめられていたのだったか。それももう定かではない。

 皆が夜空で開花する光の燦爛さんらんを見上げていた時、彼は離れたところでポツンと土を見ていた。

 そこに転がる、上ばかり見る者達に踏みつけにされた、蟻や蝶の死骸を見ていた。

 乱反射する光を浴びて、時節浮き出るその様に、涙を流しながら感じ入り、その感情の呼び名が分からぬまま、飽きもせず離れず見続けていた。

 なんだか酷く隔絶したような気分になり、誰も隣に居ないものだと諦めていたその時、


 不意に、傍に彼女が立った。


 杏はその時、紺色の地に花火柄の綺麗な浴衣を着て、達悉と同じように地面を見ていた。

「気付いたの?可哀そうだよね」

 彼女はそう言った。

「気付いた。ここで一杯生きてたんだね」

 彼はそう返した。

 それだけで、通じ合った。

 あの夜、

 皆が空ばかり気を取られていた日、

 二人は、隠れた小さな死を見つけ、

 その憐れを共有した。


 あれから、

 達悉は学校に来る度に酷い目に遭うようになって、

 それを心配そうに見る杏が居て、

 だから、あの日の彼女の優しさはまだ生きているのだと、

 彼は一人ぼっちにだけはなっていないのだと、


 そう、思っていたのに。


 なんてことはない、

 彼女は、見ないように上を見上げる事を選んでいたのだ。

 それが、きっと正常な進歩なのだろうと、彼は思った。




 母親は命は繋いだが、予断を許さぬ状況である。

 過労とストレスによるクモ膜下出血。

 意識は未だ戻らず、回復の見込みは立たない。

 母方の両親は他界済み、兄弟は居ない。

 父は婚姻関係を結んでいた時でもお構いなしに他の女性に手を出すような男で、家族からは縁を切られていた。父の実家は彼に関わりたくないらしく、彼の家族である達悉達のことも知らぬ振りである。

 入院費どころか、生活費すら危うい。

 足の裏には、変わらずベタリと無数の死骸が貼り付いている。

 違う、そういう強迫観念だ。

 感じ取れる筈が無い。

 噓っ八の博愛精神。


 親のお荷物、

 猫の仇、

 学校の問題児、

 クラスメイトの敵、

 彼女の不快、

——ああ、僕は本当に、

 誰も、

 誰一人幸せに出来ない。

 生きる事で価値を示せない。

 自分から死ぬ積極性も無い。

 じゃあ、お前は何だ?

 何の為に、ここに——


——?

 

 ふと、視界の端にちらつく甘美。

 輝ける粉塵。

 抱きしめられるような誘惑。

 睡魔と昂奮が同時に絡みついた虚脱感。

 喉が干上がり飢えが加速し、

 花火の下の夜が、

 積み上がった死が瞬いて消え、

 消えては生えて、

 

 答えが、そこに在る気がして、


 そちらに通り過ぎた美しいものを追って視界を——




——————————————————————————————————————




 カラオケからの帰り道、彼女と一緒に歩いていた彼は、なんだか人だかりが出来ている一角を見つけた。

「何やってんだ?」

 野次馬共の声を聞いてみると、どうやら事故らしい。

 減速無しにトラックが壁に突っ込んで、高校生が一人巻き込まれた。

 直前まで車両側に、止めよう・避けようという意志が見られなかったことから、居眠り運転ではと囁かれていた。

「死んだの?」

「さあな」

 隣の彼女がSNSで確認してみれば、死亡したのは彼が通う高校の生徒らしい。

「えぇー、コワー…」

「ふぅん?」

 が、彼にとっては他人事だった。


 この世には、自分かそれ以外。

 面白いか面白くないか。

 たった今見えて触れるものか。

 シンプルな認識基準。

 どんな痛みも喉元を過ぎれば忘れ、如何な不安も今の退屈には敵わない。

 過去も未来も、見えていないし触れない。

 無いのと一緒だ。

 視界の外で何が起こってもどうでもいい。

 幽霊だとか妖怪だとか、そういったものも現れなければ無意味。

 そこで起こった現象が全てだ。

 そこにある実在が全部だ。

 付き合っているこの女だって、肉欲処理装置とステータス以上の価値など無い。

 加えて最近反応が悪くなってきた玩具に、新たな表情を出させる為の手段となれば御の字である。


 他にも例えば最近数十か所同時に起こったという陥没も、

 例えば先週から来日している何とか言う有名な化石も、

 例えば彼がそのうち所有するらしい権力も、

 彼にとってはそこらの雑草と変わらない。

 そんなものは無い、そう思っていてもなんら支障がない。

 

 見えないところで起こっている、誰かがそう言っているだけの幻の一種。


 


 握って開いて、染み付いた習癖が、意識なく彼の体を動かす。

 無感動に群集を横目に過ぎたすぐ先に、


 蝶が一羽、

 潰れ堕ちていた。


 事故現場に走り寄った人間の波に、巻き込まれたのだろう。

 陽が沈んだ今も、どうしてか明然と視認できる。

 見た事のない模様。

 絶えず脈動し変化する虹色の体色。

 道路工事の時に流される、液体に浮いたプリズムのように。


 その無惨で汚らしい様を見ていると、

 不意に欲情に似た粘つく念が、

 とぷり、とぷりと染み出してくる。


「キレー…!でも、なんだか眠い…」

 彼女の呟きに反応するような振りすら惜しみ、

 渇きに衝き動かされるように、

 ゆっくりと歩み寄り

 震える手で拾い上げ、

 

 その羽を、

                             左右に毟り取った。




——ああ、まだ生きているんだ。




 ヒクヒクと痙攣する胴体を掌に載せているのは、


 何だかとっても


 気持ちが良かった。




——————————————————————————————————————




 三日後、

 名戯真理愛まりあは病院のベッドの上で息を引き取った。

 息子の訃報を聞く事もなく。


 すめらぎなおはその後父親の事業を受け継ぎ、それを拡大させ有数の富豪へと大成。

 政財界の最上部の一員、且つ情に篤い慈善事業家として、

 その名を歴史に残す事になる。



 彼の本性は、

 今はもう知られることはない。




                   (蝶々効果~ある少年の純心と受難~ 了)

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